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「医療」に何をさせるか

立岩 真也 1997/05/31 『家族問題研究』22:2-14(家族問題研究会)

立岩 真也(社会学) 1996年8月17日
信州大学医療技術短期大学部公開講座


 様々に医療をめぐる問題が語られ,その中で医療者がもっとよい医療者になることの期待が語られます。しかしそれには明らかな限界があり,その理由があります。
 A:一つは,提供者と利用者の関係。そもそも提供者(売り手)と利用者(買い手)の利害は一致しない――双方出し惜しみする――と考えるのが自然です。市場では,このそもそも一致しない利害が価格メカニズムによって調停され,利用者の利害も反映されます。たとえば買い手に気にいるものを売り手は提供しようとします。しかしこのメカニズムは,公的保険制度の下で価格が統制されている医療の場では不十分にしか働きません。しかも,だったら当節はやりの「自由化」をすればよい,自由競争にゆだねればよいとも言えません。お金のあるなしで,生死が左右されてしまうということにもなりうるからです。
 一つは,ここで提供されるものがかなり特殊なものだということです。たとえば野菜だったら見ただけである程度よしあしがわかるかもしれませんが,薬をいくら眺めてもそれがよいかどうかはわかりません。使ってみないとわからない,しかもわかってからでは遅いということも多々あります(薬害エイズのことを思い起こしてみてください)。しかも,医療過誤をめぐる現実をみてもわかるように,利用者にわからない方が提供者としては都合のよい場合があることにも注意した方がよいと思います。
 B:病があってそれを医療行為によって直すことは,生きて死ぬことの一部でしかありません。病に関わるのと別の生活がありますし,病に関わる部分に限っても,医療は病にどう対するかということの中の一部分です。そして直らないことがあるという否定しようのない事実があります。ここから,医療者がこのような私達の生そして死の全体に対応できるようにあるべきだと主張されることがあります。たしかに,病を病んでいるのは一人一人の人なのですし,医療という仕事も接客業ですから,最低限の接客態度は身につけてもらわないと困りますし,知識も必要だし,そのための教育も必要でしょう。しかし,医療者に限らず,人はたいてい一つのことの専門家にしかなれません。まずは技術者であると見限った方がよいのではないでしょうか。
 こうして,医療者の良心に期待する,これも医療者にやってもらう,という主張の仕方に限界がある,少なくともそれだけでは足りないとして,ではどうするか。
 Aについて:たしかに政府には大きな責任があります。しかし,まず何をさせるかを考えるのは私達です。また上に見たように,通常の取引だったら効く利用者の側のコントロールが十分に効かないことが問題なら,政治的な統制力の発揮も求めながら,利用者サイドが直接コントロールできる方法を編み出していくという方向が考えられるはずです。
 Bについて:従来やってきた仕事の拡張を医療の供給サイドに期待するのではなく,医療を全体の一部と位置づけ,医療によって覆えないし覆うべきでもない部分の多様な支援のあり方を作っていく方がうまくいきそうです。具体的な試みを紹介したいと思います。

REV: 20161031
信州大学医療技術短期大学部
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