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村上靖彦『自閉症の現象学』7・8章レジュメ(由井秀樹)


last update: 20110923


第7章 「クレーン現象は誰の行為か?――内面とカテゴリー的人格」
1 定型発達における人格
定型発達の場合、情動的な愛着と安心感の構造が発生的な起源となっていると考えられる。
→自他認識が可能であるという前提!!

2 クレーン現象――行為主体の不在
@ 矛盾する二つの主体概念
クレーン現象・・・1、2歳の自閉症児は欲しい者があるとき、指差しをせずに、他の人の手をつかんで取ろうとする。
クレーン現象の主体は誰か?
(1)手をつかんだ相手を人として認識しているかどうかわからない。
(2)自他認識ができていない可能性+自分の身体も「自分の身体」として認識していない可能性(=自分の身体も道具)。
(3)なぜ他人の手を使うのか?自分の手はものをつかむのに適していないのか?

矛盾する二つの解釈
(1)自閉症児は「自己身体+他人の身体」というロボットのコックピットに座ってこれを操縦し、世界と関わる。身体と自我の分離。
(2)自我、他者、世界の区別はない。それゆえ行為主体もない。自己感を持たない非人称的欲求がそのまま世界の中で実現する。
自閉症児はこの二つが両立可能な構造を生きている。それはどのような状況か?or、どちらかが間違いなのか?
(1)は行為主体としての能動性が確立していることを前提とするが、クレーン遊びを行う子どもは、まだ愛着が弱く、普通はごっこ遊びもしない。したがって、コックピットに乗るような自我は存在しない。→(2)が妥当な解釈。

A 現象学的な独我論から考える
クレーン現象を行う自閉症児の場合には、超越論的主観性はあるが、行為主体にも想定されるはずの純粋自我はない。→あたかも自我が傍観しているかのような一見矛盾した状態が生起。しかも、視線触発のない状態が生じるため、独我論が経験的に現出。

3 知らない人を「ママ」と呼ぶ??人称代名詞について
欧米の自閉症児・・・しばしば自分のことを「you」、相手のことを「I」と呼ぶ。
日本の自閉症児・・・「僕」「私」「俺」の使い分け困難。母親以外の女性、あるいは父親も「ママ」と呼ぶ。
→クレーン現象の段階では行為主体も人称代名詞も存在しない。

「ママ」という人格は、愛着という取り替えのきかない唯一の対人関係の構造と情動に支えられる言語的文節。But、自閉症児は愛着形成が困難であるため、「ママ」という単語も使いこなせない。

4 サリー=アン課題と内面性
定型発達の場合は3,4歳で通過するものの、アスペルガーの子どもでは7,8歳、場合によっては10歳でも通過しない。
内面性はいかにして生まれるのか?
@ 身体表面と内面性
身体表面が自分の境界として成立することが内面性成立条件の一つ。→自閉症児にとっては難しい。
内と外の境界は物理的な皮膚ではなく、表情という現象の実態化。本来知覚空間・客観空間には位置付けられない情動性という現象が知覚空間上で図式化するのが感情表現であり、この図式化を実体化するのが表面である。

A ドナ・ウィリアムズの身体表面
定型発達の場合は表面と内面は対人関係の中で生成する。自閉症の人の場合、視線触発に後天的に開かれるため、いったん別の仕方で作り上げた身体のまとまりを、後から対人関係の中で作り直すことがある。
ドナ・ウィリアムズの身体表面と自己感を新たに作り出す作業をしたプロセス。
(1)鏡を使った身体の知覚像で擬似的に身体表面を作る。自己感が希薄。
(2)恋人との関係、自身の成長の中で初めて自分の運動感覚と情動性に気づき、コントロールするようになる。行為主体を作り上げることに成功。
(3)感情への気付き。
恋人との間で成立した移行領域が、常同行動の代わりに安心感を作り、多元性を確保した。

5 他者という謎と人称代名詞
@ 得体の知れない他者に気づく
人格間の相互的対人関係は、感情表現より、もう一段階複雑な仕組み。
サリー・アン課題を通過する高機能自閉症の人の場合は、他者の心・思考という単位は形成されている。
十代のアスペルガー障害の人は感情を持った他者の存在に気づいているが、「他者の思考や感情は最終的には計り知れない謎である」ということには気づいていないこともある。あるいは逆に、他者の心が極端な謎、何か恐ろしいものになっているように観察できる人もいる。

A 人格の志向性構造
高機能自閉症の場合、人格として私を鼎立する段階で大きな困難を抱えることがある。→運動感覚と情動性の図式化がうまくいかないことがある+「相手からどう思われているのか」という不可能な地に由来する図式かについても、視線触発をめぐる相手の感情の図式化が弱いので困難。

B アスペルガー障害における人格構造
(1)過敏タイプ(世界と他者に曝されすぎている私)
(2)独我論的人格+世界からの解離(世界から離脱した私)
(3)独我論的人格+万能感的世界(世界を操る私)
(4)誤解の問題・・・他の人の内面は知り得ないものだ、ということがわからないので、相手は自分のことをわかってくれていると思い込む。相手の言葉を文字通りの仕方で真に受ける。
(5)仮面をかぶる・・・所謂「多重人格」ではなく、「疑似多重人格」。意思の力で仮面を棄てることはできる。


第8章 自閉症児の脆弱性と経験の限界値
1 常同行動と現実
常同行動はトラウマではない。本質は同じ感覚刺激・運動感覚を反復し続けること。
未知・未決定な現象を避けるため、既知の環境を作るために常同行動が起こっている。
常同行動に没頭する段階の子どもは、視覚触発が弱く、対人関係が未発達、言語的にも未熟な場合が多い。

常同行動をとる自閉症児にとっての二つの外傷。
(1)侵襲・・・組織化できない感覚が侵襲的に働く。i感覚過敏、ii視線触発。
(2)変化・・・感性野が変化すること自体が外傷的に働く。未知の未来という地平を自閉症児は持たないから。

2 折れ線型と小児崩壊性障害における退行
感性野の回復不可能な全面的変化(引っ越しや入院など)や、自己組織化(構想力)が不可能なカオスの経験、回避することのできなかった突然の苦痛・恐怖(嘔吐・下痢、扁桃腺の手術など)が退行を引き起こした外傷と考えられる。定型発達の目からは捉えにくい。
一歳代で退行する折れ線型と二歳代で退行する小児崩壊性障害との違いは、常同行動の有無、言語獲得の差。ある程度成長してからの退行の方が自分の身を守る手段と世界への回路を残せたということを意味する。常同行動は、通常考えられているのとは異なり、自閉度の指標ではない。折れ線型の子どもが常同行動も持たず、無秩序な体験を生きているときには、世界へのとっかかりも対人関係へのとっかかりも持っていないことになる。

3 アスペルガー障害および高機能自閉症における現実
@ 了解可能な社会習慣
アスペルガー障害の人は、異文化に住んでいるが、自分の文化は理解してもらえず、文化が違うということすら知られていない、場合によっては自分でも異なる文化を生きていることに気づかないまま、ズレから来るトラブルに苦しんでいるかもしれない。

A 本当の私
「普通」からの違和感としての自己を生きている。何が「普通」なのかもわからない。

B 間主観的独我論
高機能自閉症児の場合、言語的思考よりイメージ思考が優位であるため、表象不可能な現実はあまりにも不可能な謎にとどまり続け、受容に繋がらないことも多い。
コミュニケーション能力があり、対人関係を築けたとしても独我論が成立し得る。この状態が間主観的独我論。

C 法則の自己創設
自然法則は論理的に理解可能であるが,法やルールはわかりにくいことがある。
二つの解決策
(1)所与のルールを絶対視。
(2)そもそも他者は存在しないので、ルールという発想が無い。自分自身でルールを設定する
(1)(2)併せ持ったタイプそ存在する。

D 法則の外側
ルールには包摂できない現象が現実を構成し直す。
(1)「ひま」
ひまになると常同行動をはじめたり、パニックに陥ったりする子ども。ひまとは恐ろしいブラックホールである。
(2)偶然(不足の事態)と運
自閉症の人はルール・法則に包摂できない現象を苦手とすることがある。



*作成:由井 秀樹
UP: 20110822 REV: 20110923
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