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自己決定を巡る言説 障害者運動・障害者福祉




〇仲村優一 1970
〇堀正嗣 [1994:104-105]
〇砂原茂一 1980 『リハビリテーション』

【自己決定】

●1970

◆新田絹子
 「私は別にこれ以上(髪を)伸ばそうという気はない。が,言うことをきいて切ろうとは思わない。<切る時は自分の意志で切ると決めている。>自分の意志なくして切った時ほど悲しいことはない。」(新田絹子「府中療育センターからの手紙」,『青い芝』七九号,一九七〇年八月)

◆仲村優一 1970
 仲村優一が依頼に応じて「自己決定ということ」という文章を1970年の『青い芝』に寄せている。
 「社会事業の世界,特にケースワークの領域で二言目には「クライエントの自己決定を尊重せよ」ということを言います。このことばは,自明のことのように見えてその意味内容が決して明らかになってはいません。
 …「他人の権利を侵害しない限り」,「規則に違反しない限り」,「秩序を乱さない限り」,「定められた一定の枠組みの中で」,「市民法の制限のもとで」,「道徳法の制限のもとで」,「機関の機能の制限の枠の中で」等々,前提条件をガンジガラメに縛っておいて,その上ではじめて「クライエントの自己決定を尊重しなければならない」という。何のことはない,自己決定ができない条件をまず作っておいて,あなたは自己決定の権利があるのですよ,と言うようなもので,自己矛盾も甚しいと言わなければなりません。
 今の社会事業には,このような事業がまだ多すぎるように思います。もっと卒直に,人間に固有の尊い属性として,何ものにも制約されることなく,その人なりの生き方,行動の仕方を選択し決定する権利が受け入れられるような社会事業,それを生み出すための協力が必要だと思います。」
(『青い芝』79号p.16,1970年8月10日)

●1983

◆『季刊福祉労働』21号 優生保護法改「正」と私たちの立場
 19831225
 「自己決定」という語は見当たらない
 「産む産まないは女の権利」という主張への言及はある

●1984

◆仲村優一・板山賢治 編 19841215 『自立生活への道――全身性障害者の挑戦』,
 全国社会福祉協議会,334p.,1500
 太田修平 「生活施設」
 「施設で暮らしている多くの障害者は、施設の世話になっているという受け身の姿勢と意識で毎日を送っています。それを自分自身の生活の場において、主体的、創造的な生活をおくるという姿勢に変えていくためにも、施設で暮らす障害者の自己決定権の保障はぜひとも必要なことなのです。」(p.112)

●1988

◆三ツ木任一 編 1988 『続自立生活への道――障害者福祉の新しい展開』,
 全国社会福祉協議会,449p.,2000
 仲村優一「自立生活の基本理念」
 「真の自立とは、人が主体的・自己決定的に生きることを意味する。」(p.5)
 丸山一郎「自立生活を支える福祉制度」
 「重度な障害をもつ人たちの地域社会における「自立生活」を実現し、それを維持してゆくためには、障害をもつ人自身の意志決定と、その自己決定を支える様々な社会資源や制度、そして環境の改善を含めた社会の協力が必要です。」(p.14)

●1990

◆「障害者問題を考える場合,一つには,意志を起点とする立場があろう。そして他者との関係はそれ以後のこととされる。これは,他者の介入を受け入れないための有効な戦略である。だがこれで十分だろうか。そしてこの原則が通用しないと考えられる時なされること,直接に言葉を通じ合わすことのできない人に対して普通行われることは,一般的に人間を尊重すべしという原理を立てるか,あるいはもっと積極的に彼らの幸福を措定する,措定してあげることである。それが無意味なことだとは言わない。けれどもまず為すべきは,その人をどのように認識しているのか,その人に与えられるものがどういうものなのかを知ることではないか。その時には,彼らに与えた幸福もまた反省に付されることになるだろう。だからここでは,意志決定という砦を残すことが一番重要なことなのではない。むしろ,彼らに加えられる諸力を認識し,ある場合には振り払い,存在を肯定することである。この書の対象であった人達はこの作業を行ってきた。このことを確認すれば,私達がみてきたものが,自立生活の理念との接合がむずかしいと言われた重度重複の障害者を含めてのものであることが理解できる。」(安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也『生の技法・・家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店,1990年,pp.290-291(終章))
●1991

◆ラツカ『スウェーデンにおける自立生活とパーソナル・アシスタンス
   ――当事者管理の論理』(現代書館,1991)
「被雇用者が、間違いを犯す危険を避けるために、自分自身が決定を下す範囲を制限することもあるからである。集合住宅という概念は職員に依存しているので、サービス付き居住者住宅が改善できる程度には明確な限界がある。
 ……施設が共通してもつと思われるもう一つの特性は、限られた選択肢しかないこと、特に、当事者が自分自身の選択肢を作り出す機会が欠如しているということである。」
 (中西正司19920625 「当事者主体のサービスとJIL結成の意味」
  『福祉労働』55:032-040 pp.33-34に引用)

●1992

◆『季刊福祉労働』55号 挑戦――もう一つの供給主体、もう一つの場
 中西正司19920625 「当事者主体のサービスとJIL結成の意味」
  『福祉労働』55:032-040 pp.33-34に引用)
 「自立生活センターの目指すものは当事者管理の福祉サービスである。」(p.34)
◆柴田 洋弥・尾添 和子 19920720
 『知的障害をもつ人の自己決定を支える
 ――スウェーデン・ノーマリゼーションのあゆみ』
 大揚社,184p. 2000 ※ 以下がp.95に訳出
 「さらに、援護活動は、個人の自己決定の権利と個人の尊厳を尊重して行なわれなければならないとも述べられている。」
 グルネヴァルド(社会庁前部長)「スウェーデンの新援護法」
 『知的発達障害』2号(1986年),北欧知的障害者協会発行
◆ノーマライゼーションの現在シンポ実行委員会 編 19920831
 『ノーマライゼーションの現在――当事者決定の論理』,現代書館,158p.,1545円
 1 イギリスにおける精神医療のユーザー運動
  ――私たちは勇気と強さと自己決定権をもっている
 ルイーズ・ペンブロークさんの講演
 「私たちは、勇気と強さと決定権をもっています。私の友人の何人かは、自己決定の中で命を落としました。しかし、それがあったからこそ、私たちはいま立ち上がり、主張することができるのです。人が発言する力を獲得するときはいつも、すべてが勝利します。人が拘禁されるときはいつも、社会の規範によってであり、精神の状態によってではないのです。」(p.34)
 3 スウェーデンにおける自立生活運動
  ――当事者による自己決定のみが個人的・政治的力をもたらす
 アドルフ・ラツカさんの講演

●1993

◆定藤 丈弘・岡本 栄一・北野 誠一 編 19931030
 『自立生活の思想と展望――福祉のまちづくりと新しい地域福祉の創造をめざして』,
 ミネルヴァ書房,338p.,2800円  「…従来の伝統的な自立観では,経済的職業的自活や身辺自立を重視する考え方が支配的であった。その結果,身辺自立の困難な重度障害者,職業的自立が容易でない障害者は自立困難な存在として取り扱われ,隔離的,被保護者的な生活を余儀なくされてきたのである。
 これに対して障害者のIL運動の理念は,これらの伝統的な自立観の問題性を鋭く指摘し,身辺自立や経済的自活の如何にかかわりなく自立生活は成り立つ,という新たな自立観を提起したのである。…
 この新しい自立観の鍵となったのが自己決定権の行使を自立ととらえる考え方である。具体的にはそれは,障害者がたとえ日常生活で介助者のケアを必要とするとしても,自らの人生や生活のあり方を自らの責任において決定し,また自らが望む生活目標や生活様式を選択して生きる行為を自立とする考え方であり,これは端的には,一回限りの自らの人生を障害者自らが主役となって生きること,すなわち生活主体者として生きる行為を自立生活とする理念である。」(定藤丈弘[1993:8])

●1994

●立岩 1994e 「自己決定がなんぼのもんか」,
 『ノーマライゼーション研究年報』1994:86-101

●1996

◆『季刊福祉労働』71号 権利擁護−−障害者・高齢者・子ども  19960625
 東俊裕「日本の福祉立法と自立生活運動における障害当事者による権利擁護」
 pp.31-37
 「自立生活運動の視点、すなわち当事者性とか自己決定権などの視点からこの個別的な権利擁護活動を見ると、まず権利擁護活動の主体性といった問題が浮かび上がってくる。」(p.36)

●1997

◆川内 美彦 19970809 「自己決定とは?」
 『ノーマライゼーション研究』1997:134-140 ※


★ 【自己決定の限界】

◇砂原茂一は『リハビリテーション』で限界を指摘している。

 「IL運動は「訓練による成功」に眩惑されがちであった障害者のリハビリテーションを出発点に引き戻して,訓練の軌道に乗らない重度障害者にも,そのままの状態で社会参加する道を開こうとする。
 しかしさらに障害の原点に立ち戻ると,どれほど環境条件を手厚く整えても,社会参加はおろか,社会と接触することさえ困難な最重度の障害者の層の存在を見逃すわけにはいかない。障害者のスペクトラムのその一端を占めるのは植物状態の人であるが,それに近い状態の人も少なくない。」(砂原[1980→:22])

 セミナーでなされた質問に現われている。
 「介護人を雇う能力,自己管理能力を問われると思う。…自分の場合CPであるが,精薄,肢体の重複障害の人が増えており,自己管理能力を持たない人もいる,また考える力はあっても声を出せない人がいる。その人たちは生き方を自分で決定することができずほとんどが親や,教師,ケースワーカーによって決められていってしまう。自立生活を訴えるとき2つの反省がある。「あなたは考えることができ話すことができるが,私の子どもは考えることや話すことができない。また考えているかどうかわからない。だから私たちが決めなければならない」(という)。自分の意志を訴えることができずにいる人がいいる。この点についてどう考えるか。」(山之内の発言 p.11)

 これに対して,エド・ロングは次のように答える。(この種の答え方はそれ以後もたびたびなされる)

 「私たちのクライエントの中にも,身体的な障害をもち知能が遅れている,あるいは車イスにのっていてしかも知恵おくれの人もいる。重い言語障害をもつ者もいる。基本的には介護人に対して,障害者本人が訓練を行なうが,時ちは訓練のために他の人がなかだちになる場合もある。……
 病院に長いこといて自己表現がはっきりできないために知恵おくれだとみなされているが,実際にはそうでないこともある。」

 「主体的人間観は近代市民社会において極限的にあらわれ人間の主体性こそが人間の尊厳のあかしだと,これまでいわれきました。しかし,ひるがえって考えれば,主体的人間はあくなき自己実現を追求するために,自然や他者を徹底的に支配し,そこから収奪しようとするものであり,それ自体として攻撃的,破壊的性格をもつものであり,それこそが人間の疎外態です。むしろ人間は単に能動的・主体的な存在でなく受動的・受苦的存在であり,ティピカルな「精神病」者は受動的・受苦的存在としての人間なのです。」
(吉田おさみ『「精神障害者」の解放と連帯』,新泉社,1983年,pp.95-96)
(堀正嗣[1994:105]に引用)

 「「障害者の「自立」は「自己決定」を重視するあまり,自己決定の困難な「障害者」を対象外としてしまう。…新しい(アメリカよりわが国に導入された)自立概念は自己決定という考え方を持ち込むことで,その対象を拡大することに成功したが,同時に自己決定できない「障害者」を排除してしまったのである。」(横須賀[90,94])

 「…「自己決定の権利」の主張は,それが皮相的に行われるときには,逆に重度の知的障害者や精神障害者にとって抑圧的なものになります。重度の知的障害や精神障害を持つ人びとの場合,能動的・主体的に生活や人との関係をつくっていくことが困難な人たちがいることも確かなのです。狭い意味での「自己決定」にこだわるのでは,こうした人々には自立生活は無理だという結論になりかねません。 いや,もっと言えば,「自己決定」にもとづいて能動的・主体的に生きていくことだけが人間にとって望ましい生き方なのかどうか疑問です。こうした問題に気づかさせてくれたのは,「精神病」当事者で,優れた理論家であった吉田おさみさんでした。彼は次のように言いました。」(堀正嗣[1994:104-105])

 「問題の所在を端的に示すならば,自己決定権論は結果として「決定する自己」,「決定しなければならない自己」,さらに「決定すべき自己」という「存在者」を私たちの時代の中に浮上させたということであり,それはとりわけ,自己決定を必要としている人たちに向けられているということである。それは「決定する自己たれ」という要請を引き出すものともなっており,「決定者」にあらたな脅迫的心性の源泉を生み出すものになっているという見方を可能にするものです。
 自己決定論はたしかに,そのことによって近代の人権保障の限界を越えて,自由な精神と生き方のはばを広げていく可能性をめざすものでしょうが,他方では,「決定能力」の有無によって,あらたな人と人を区分けし分節していく方向を避け難くするとはいかないでしょうか。権利は人を結びつけるだけでなく,人を引き離すものでもあるということが,ここでも例外ではないということです。
 いずれにしても,こうした両義的なものとしてとらえていくことが,とりあえず大切に思われます。」(岡村達雄[1994:13-14])

 「知的障害者の自己決定について考えてみよう。
 知的障害があっても「好き,嫌い」(イエス,ノー)は比較的はっきり表明できる人が多い。ただ,その意思表示が言葉でない場合や言葉であってもなかなか伝わらない場合もある。受け取る側に工夫と忍耐があればかなりカバーできる。…… ……イエス・ノーの意思表示を自己決定につなげていく方法もある。まず今,何について決めようとしているのかをはっきりさせる(やさしい言葉でわかるまで説明する)。それから選択肢を同じようにできるだけわかりやすくていねいに説明する。そして,選択肢の中からどれを取るか聞く。
 つまり,肢体不自由者に体を動かす上での介助者が必要なように,知的障害者には判断や決定を援助する人がいればいいのである。自己決定ができない,あるいは困難という烙印を押して自立生活から除外する理由は何もない。……
 もちろん,意思表示や自己決定ができない人はいない,と言い切る気持ちはない。しかし一定の障害種別を対象外ということは自立生活ではありえない。ADA(アメリカ障害者法)をめぐる議論のときも「資格のある障害者」とは知的障害者を除外するものだ,という説が出たが,その説が誤りであることは,あるマスコミがADAの実情に関する報道で「ADAができたので私は知的障害者を雇いました」という雇用主を登場させていたことからもうかがわれる。ちなみにその雇用主は「雇ってみて自分に偏見があったことがわかった」と言っていた。」(斎藤[29])



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