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カルヴィニズム Calvinism・二重予定説 Double predestination


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■カルヴィニズム Calvinism・二重予定説 Double predestination

 https://en.wikipedia.org/wiki/Predestination_in_Calvinism

 「周知のように,Calvin(1509〜64)の教義は、Lutherのそれとは――もちろん多くの部分で共通点を持つのではあるが――大きく異なっている。★17
 Calvinは、神と人との直接的な関係、神の意図を直接に知りうることを信じない★18。救いは既に神によって予定されており、人はそれを決して知ることができない(二重予定説)。ここで人は救われていること、「救いの確かさ(certitudo salutis)」を知りたいと願う。彼によれば、あらゆる存在は「ただ神の栄光(Solir、Deo gloria)」のために在り、この究極目的の実現のために奉仕すべく選ばれた神の道具として自らを認識することが、その「確証」と考えられる。具体的には、職業労働がその奉仕にあたる。そしてその労働による利益は自らのために消費されてはならず、より大きな神への奉仕の実現のために、すなわち生産の拡大のために用いられ、その結果資本の蓄積、増大が推進される。
ここでLutherにおいて専ら内面を巡っていた動きは、外面的な行為に及んでいる。なされていることは、一見応報の観念におけるそれと近いように見えるが、実は全く異なったものである。応報の観念においては、外的な行為は主体の内面を通過することなく、その結果に達するものとされる。だが、カルヴィニズムの教義では、外的な行為(善行)は、主体の特性のあらわれ、精確には主体に刻まれた救いという特性の外的な表出、証拠、「救いの表象」(Weber[1904/05=1955/62:(下)56])である。これを逆に辿れば行為にによって主体の性質が知られるのである。

 「……カルヴァン派の信徒は自分で自分の救いを――正確には救いの確信を、と いわねばなるまい――「造り出す」のであり、しかもそれはカトリックのように 個々の功績を徐々に積み上げることによっでではありえず、どんな瞬間にも撰ば れているか、捨てられているか、という二者択一のまえにたつ組織的な自己審査 によって造り出すのである。」(Weber[1904/05=1955/62:(下)56])

行為は、自らの行為として、自らの価値を示す行為として、自らによって把握され、反省される。とともに他者の行為も、他者の行為、他者の価値を示す行為として把握されるだろう。しかもそれは常に「どんな瞬間にも」反省され、「自己審査」される。これらのことは、Weber が述べたように、カトリックにも、またLutherの教義にも起こらないことである。『マルコ伝』の検討の終わりのところで、外的な行為が個々人の内面に、内部に分かち難く繋げられること、繋げられることの可能性を述べたが、カルヴィニズムにおいて、この構制は、予定説の教義のなかで救いの確証をうるという意図のもとに、もっとも強力に、社会における行為の積み重ねという積極的な形で、実現される。ここで行為が回付される場所は、意志や意識といったものではないが、個々の主体、主体の有する規定、性質なのであり、その外の、その他の何かではない。確かにこの規定・性質を与えたのは神であるけれども、この神は人間達から隔絶した超越神であって、神の定めたことを知ることも、定めに対して何かを言うことも、まして何かを為すことも出来ぬ以上、「自発的」に――行為は神に定められてある以上、本来の意味で自発的ではありえないが、おのずと湧き出てくるような行為こそが、神が私を救いに定めたことの証しである――行為を為し、その「自発的」な行為を常に反省し、新たな行為へと投企していく、そういう主体の構制がここに現れる。」

「★17 Calvin、というよりカルヴィニズムについては、M. Weberにより、ここで述べられるべきことの多くが詳細に語られているから、ここでの記述は最小限のものである。以下で依拠するのももちろんWeber[1904/05=1955/62] である。その他上掲書への批判についての反批判の論文としてWeber[1910=1980]、またE. Troeltsch[1925=1959]、大塚久雄[1969]――以上はむろんCalvin、カルヴィニズムだけを扱っているいるわけではない。
 この他Calvinの思想について橋本・春名(編)[1978]、Calvinがジュネーブで行った多くの施策についてE. M. Monter[1967=1978]、両者について久米あつみ[1979]。」
「★18 「改革派では、人間の霊魂の中に直接に神性が入り込むというようなことは、全被造物に対する神の絶対的超越性からしてありうべからざることとされた。すなわち》finitum- non est capax infini《(有限は無限を包容せず)である。」(Weber[1904/05=1955/62:(下)54])」

 ※立岩『主体の系譜』第2章より

◆Weber, Max 1904/1905 Die protestantische Ethik und der 》Geist《 des Kapitalismus=梶山力・大塚久雄訳、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、岩波文庫

REV:..20160531
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