『喪失と生存の社会学――大震災のライフ・ヒストリー』
樽川 典子 編 20070318 有信堂高文社,325p.
■樽川 典子 編 20070318 『喪失と生存の社会学――大震災のライフ・ヒストリー』,有信堂高文社,325p. ISBN-10: 4842065702 ISBN-13: 978-4842065700 [amazon]/[kinokuniya] ※ e01
■引用
◆樽川典子「死別体験の受容と死者の存在」
「本稿では、死別体験の受容を、死者との一体感を媒介としつつ、大震災で生き残った人と死者の関係を維持、変容させる営みとして考察していく。」「ここでいう一体感とは、肉体的あるいは精神的に、死に遭遇して生き残った人たちが、その接死体験ゆえに死や死者と自己同一化する傾向である。」(p.3)
「死別に順応できずに過度な悲嘆や長期の悲嘆を死に別れ症候群とよび、つぎのように整理する。被災後に、ごく普通にみられる症候「悲嘆の抑制」は、精神麻痺、過剰な自己抑制そして災害と死についての感情が閉塞する状態が合体したものである。悲嘆の感情を表出することに乏しく、むしろ生活再建に奔走する被災者が多い。災害後によくみられるパターンのもう一つは、激しい怒りの衝動がともなう「悲嘆の歪曲」で、対人関係ではしばしば敵意が表出されやすい。遺族は、怒りに固執して、死別という事実の最終的な受け入れや悲しみを回避する。これが「極度の罪責感」のかたちをとると、怒りが自身に向けられ、自責の思いをくり返す」(p.8)
■副田義也「震災体験の癒しの過程における「重要な他者」と「一般的他者」」
「震災遺児家庭の成員が体験した死別体験からの癒しの過程を、社会化過程の一つとみなす。その過程において、死んだ配偶者や子どもは「重要な他者」としてしばしば重要な影響をおよぼし、癒しを促進する。いっぽう「一般的な他者」としては宗教団体、教会のほかに、震災後も変わらない自然も出現するという指摘」(p.ⅲ)
社会化:個人が他者との相互作用を通して、諸資質を獲得し、その社会(集団)に適合的な行動のパターンを発達させる過程、つまり、人間形成の社会的な過程(socialization)。『社会学小辞典』有斐閣
「従来の理論では、「重要な他者」は、子どもの成長という現在から将来への時間の流れのなかに位置づけられていた。これにたいして、成人の回想という現在から過去への流れのなかに位置づけられる「重要な他者」があるのではないか」(p.39)
◆波内知津「<震災遺児>という自己」
「こころの傷」の回復に向けたさまざまなケア・プログラムの実施は、「それは彼らからすれば、震災で親を亡くしたという一点で、たとえ新しい遊びの最中であっても、絵を描く際の色の選択にいたるまで自分のあらゆる行動が「こころの傷」に関連づけて解釈されるプロセスにほかならない。加えて、遺児たちはなかなか「回復した・治った」とは認められない。「こころの傷」のケアの文脈では、あらゆる対応策は論じられるものの、何をもって「回復した・治った」とみなすのかは曖昧なままで、明確に提示されることは少ないのである。そして、「こころの傷」はみえにくく潜在していることになっているので、遺児たちはつねに大人たちの警戒の視線がからみつくことになる。このようにして、「(こころを)病んだ子ども」としての「震災遺児」像は、彼らを一種の閉塞状況に取り込んでいくものとなる。」(p.138)
◆阿部俊彦「阪神大震災遺児と心のケア」
「ケアの場面に焦点をあて、震災遺児たちの会話分析をおこなう。そこでは、心の傷を語るべきケアの場をさりげなく無効化する彼らの戦略を析出し、震災遺児というカテゴリーで規定しきれない、「多元的な生を生きている若者たち」という視点の必要性が指摘されている」(p.ⅳ)
「小西聖子は、トラウマを「個人の対処能力を超えるような大きな打撃を受けたときに出来る精神的な傷」と定義」しているが、そこには二つの意味が込められている。「一つは精神(心)は身体と同様に傷を負う存在なのだから、体の傷と同じように癒す、回復することが可能であるということ。二つ目は、精神的な傷は、治療可能であるのだから、癒されるべき、回復すべきという治癒への期待が込められているということ」である。「そうすると、精神的な傷、心の傷は、何らかの治療過程を経ることで回復に至るという医学モデルに基づいたものと言える」(p.155)
「心のケアを必要としたのは、心の傷を呈した被災当事者自身よりも、心の傷をマス・レベルで捉え、その存在を社会的害悪とみなした心の専門家、行政、メディアなどの社会だったのではなかったろうか。心の傷の排除と心のケアへの期待は社会的要請の一つであったように思われる。」(p.156)
「現在の震災遺児を「親との死別」=心の傷ばかりで認識しては、彼らの歩みの多くを見失ってしまい、「今・ここ」の彼らのあり様を排除してしまう。」「彼らは彼らだけのグループタイムを契機とし、彼ら独自のグループタイムを経て、震災という辛い体験を「一人の人間の苦悩」の一つとしようとしているように思われる。」「われわれは、心の傷、それ自体にばかり目を向けるのではなく、当事者個々の生との関係の中で、傷を改めて問い直す必要があるのではないだろうか。」(p.176)