『背後にある思考』
野田 正彰 20030805 『背後にある思考』,みすず書房,281p.
■野田 正彰 20030805 『背後にある思考』,みすず書房,281p. ISBN-10: 4622070529 ISBN-13: 978-4622070528 2600+ [amazon]/4622070529[kinokuniya] ※ m.
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出版社からのコメント
国家と戦争、教育や医療の問題、そして少年犯罪――本書は、その背景としてある社会と文化を冷静に見つめ直した同時代批評集である。
三年半にわたって書き綴られた「信濃毎日新聞」連載の〈今日の視角〉が一冊にまとめられた。戦争について――日本人の侵略戦争否認や無知、中東戦争、チェチェン戦争等――、北朝鮮、台湾、インドシナについて、犯罪事件(とりわけ少年犯罪)、教育問題――教師への抑圧、心の教育と愛国心の強制――、精神科医療の問題などについて、一般にはよく知られていない重要なことが語られている。また、自然との共生やシンプルな文化についての考察などがある。
大きく論議されてきたトピックから、巷では見過ごされてしまった重要な事件まで、昨今の時事問題に関して才気に満ちた批判的精神で辛口に論じ、小さきものへ優しい眼差しを向けたエッセイ集だ。まさに「今日への視角」を呈示する、〈現在〉を考えるに好個の書。随所に鋭い指摘があり、深い思索が心を打つ。
内容(「BOOK」データベースより)
国家と戦争、教育や医療の問題、そして少年犯罪―その背景としてある社会と文化を冷静に見つめなおし、さまざまな解決方法を導く鋭利な思索を呈示する。
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■目次
飢餓難民たちの叫び
無差別殺人とアモック
ヒマラヤのリンドウ
台湾大震災と民主化
社会の断層
オウムと近代日本文化
薬害エイズ被害者との一夜
先端医療と悲哀
王清峰さん、希望を運ぶ女性
国民党残党の村
〔ほか〕
■引用
「少年犯罪、マッチ・ポンプ
青少年の凶悪犯罪は減少しているという論文に、感心する人がいる。東海道新幹線のグリーン車輛座席に置かれている雑誌『WEDGE』五月号で、長谷川眞理子・早大教授が年齢別殺殺人率を一〇年ごとに計算し、殺人で検挙される青少年の割合は戦後一貫して低下していると主張している。この論文に「目から鱗」の思いを抱いた学者や評論家が、同様の主張を各地で語っている。本紙(信濃毎日新聞)も小此木啓吾・慶応大教授の同種の文章を、今年五月に載せている。
今また朝日新聞(八月二四日夕刊)が広田照幸・東大助教授の同種の文章を掲載し、一部の人びとの話題となっている。私のところにも「どう思いますか」と問うてくるジヤーナリストや教育関係者がいる。彼らは文章を批判的に読むカがまったくないのだろうか。この種の文章を解説もなく掲載する新聞についても、その無見識に言葉を失ってしまう。九七年以降、何度となく青少年の凶悪犯罪の増加を報じ、社説でもその対応を述べておきながら、それを全面否定する見解に何の論評も加えていない。
広田氏は「メディアと「青少年凶悪化一幻想」と題する文章で、少年の粗暴犯の発生率は三十<0081<数年前に比べると半減していると主張する。だが彼の掲げる警察庁発表のデータは、九七年からの急増をはっきり示している。ここ三年は無視して、三〇年単位で考えようという主張なのだろう。これでは近年の不況は、戦後半世紀のタイムスパンでみると経済成長しているので無視できると言うようなものである。さらに彼は、「ごくまれにしか起きない事件」に対して、「他者には簡単にはわからない『心』の部分を『事件発生のカギ』とみなすようになったから、どんなに周辺情報を集めてみても、『解決』するわけがない」と断言する。事例研究の意味をまったく理解していない。簡単にわからないから分析を深めようとするのであって、周辺事情によってわかろうとしているのではない。
このような、時代のなかに潜行している現蒙、あるいは新しく起きている現象を無視すれば、社会を見る目が鈍くなるだけだ。
(〔二〇〇〇年〕九月二九日)(野田正彰[20030805:81-82])
「もたれあう科学と司法
年末、愛知県豊川市で主婦を刺殺した一七歳の少年についての名古屋家裁の決定を知り、唖然とした。近年、精神病とはまったく異なる概念の「行為障害」なるラべルが横行したり、「犯行動機の解明」を求める精神鑑定が行われたりするので、この国は法治社会でないと思うことしきりだったが、犯行少年の精神鑑定が「アスぺルガー症候群」とされるに至って、絶句した。
「アスべルガー症候群」はウイーンの小児科医が提起した「自閉的精神病質」にもとづくもので、世界保健機関(WHO)の国際疾病分類でも、疾病分類学上の妥当性は不明とただし書きされている。言語の発達や認知の発達の障害を伴わない小児自閉症といわれる。<0101<
アスべルカーの記述によると、
容貌や表情が大人びて子どもらしさがない。まなざしは他者と合うことがなく、他者の視線と無関係に外のことを見ているか、他者の視線とたまたま合っても避けるかのように逃げていく。言語は発達しているが、抑揚は単調であり、情緒を伴わない。身振りや表情は乏しい。特定の対象について異常な興味を向けることがあっても、普通の児童が興味をもつ対象に関心をしめさず、他児と一緒に遊ぶこともない。家庭でのしつけは困難であり、家族のいやがることを平気で行う。衝動的な行動が多く、思いつけば他人の考えや迷惑をおもんぱかることなく行動する……。
要するに少年非行と関係のない、小児の像であることが分かるだろう。よくしつけられ、成績もよく、テニス部の活動も続けてきた高校生が、小児自閉症のアスぺルガー型とは。これではドストエフスキーの『罪と罰』の主人公もアスべルガー症候群となる。もしアスぺルガー症候群による計画殺人という精神鑑定が確立されれば、犯罪精神医学は書き替えられなければならなくなる。
こんな精神鑑定書をそのまま写して、心理的発達の障害とされるものまで心神耗弱と決定する裁判官がいる。医師と裁判官、科学と司法がもたれあい、法は恣意的に利用されている。
(ニ〇〇一年一月五日)
(野田正彰[20030805:101-102])
「奈良は日本のまほろばか
昨年一一月より、奈良県立医大の教授たちによる汚職の報道が続いている。一一月一日、大阪地検特捜部が同医大名誉教授(救急医学講座の前任者)を収賄容疑で逮捕した。彼は医師派遣の謝<0111<礼として一一七〇万円の収賄罪で起訴された。続いて付属病院長(外科教授)が家宅捜索を受け、彼も三〇〇万円の収賄罪で起訴された。
事件発覚後、医師派遣による汚職を防止する委員会がつくられたが、その八人の委員の一人であり、次期学長候補といわれる内科教授が、一月二三日、多額の賄賂を受けとっていた疑いで逮捕された。この教授は、一一月に同僚教授が逮捕された後、急遽、贈賄側の病院に週一回顔を出し、診療を装っていたものの、実際は診療をしていなかったという。奈良県は一月一一日、同医大の願い出により病院長を懲戒免職、民間病院から金品を受けとっていたとされる別の現職教授二人を停職とするなど、同医大の教授全員と県の関係者計五〇人を処分していた。汚職防止に当たった委員の逮捕で、今後どう防止していくのだろうか。
同医大は七七年一一月、一九五八年から実に一一年間、県知事ぐるみで不正人学をさせていたことが明るみに出た。公立大学でありながら、全国最多の八選をとげた奥田良三知事らによって、入試成績が最低近くの者まで裏ガネを取って入学させており、そのため成績のよかった者の多くは不合格になり、人試は意味をなしていなかった。やがて不正入学者のうち四七人が、助教授を最高として教官になるにおよび、当時の堀学長らが自浄を求めたのだった。だが県衛生部長は「氏名公表は地方公務員法にふれ、刑事事件の対象となり得る」旨の文書を教官に送りつけ、不正入試隠しを行い、学長を辞職に追い込んだ、それからニニ年、不正に入学した者ののうち何十人が同大学の教官になっていることか。<0112<
明らかに構造的腐敗である。県も、奈良医大にも自浄のカはない。こんなとき、日本の地方自冶はまったく機能しない。奈良は日本のまほろばか。
(〔ニ〇〇一年〕二月一六日)」(野田正彰[20030805:111-113])
「病院精神医学
大学内科学とか、大学外科学という学問もなけれぱ、それと対になった病院内科学とか、病院<0176<外科学という分野もない。ところが精神医学には、「病院精神医学」という分野がある。一九世紀以降、ヨーロッパの国公立精神病院で行われてきた慢性患者の治療、処遇についての知識に始まる。郊外の広大な敷地、点在する病棟、そこでの五、六〇〇人、あるいは一〇〇〇人をこえる患者の処遇について、研究してきた。歴史的には大学での臨床精神医学より、病院精神医学が本流であった。
日本には国公立の大精神病院はきわめて少なかったので、小さな分野に留まり、医学教育で触れられることもなかった。だが病院精神医学を病院という環境そのものを治療的に創っていく学問と定義すれば、最も重要な分野であったはずだ。
中央道・伊那インターチェンジを下りてすぐ、上伊那郡南箕輪村に南信病院という一〇〇床ほどの精神病院がある。院長の近藤廉治先生は病院精神医学の真髄に生きている。開放病棟の廊下は広く三メートルもあり、楢の木の床が快い。各病室の扉もやわらかい無垢の板造り。
そんな病棟にテレビがない。かわりに新聞四紙、月刊雑誌もそろえている。近藤先生は、「漫然とテレビを見ていると、患者同士の会話は生まれない。それは同じ風景を眺めていながら会話のない列車の乗客のようなもの」という。病院は人間関係に疲れた人がやってくるところ。だが、固く自分に閉じ込もっていても癒されない。一歩引いた、静かでほどよい会話に立ち戻ることから、再び他者との交流の喜びが湧いてくくる。ここではべッドのデザイン、階段の数、病室の広さ、看護詰所の位置、ホールの機能、そして守患者と看護者・医師、患者と患者の関係すべてが、治癒<0177<をうながす環境として組み立てられている。
テレビがなければ病院精神医学というわけではない。入院と同時に、そこにやすらぎ、自分を取り戻す、そんな病院を組織化するのが病院精神医学である。
(〔ニ〇〇一年〕一二月一二日)
地域の精神科医療
「病院精神医学」について触れたので、「地域精神医学」についても述ぺておこう。
病棟を開放にし社会復帰を促進していけば、さらにコミュニテイーのなかに受け皿をつくろうということになる。この動きは一九五〇年代のイギリスに始まり、六〇年代後半のアメリカ、北欧へと拡がっていった。
私は琵琶湖の北、長浜赤十字病院精神科(一五〇病床)での病院精神医学の臨床が軌道に乗るとすぐ、七三年夏より、地域での精神科医療の啓発講義と医療相談に着手した。小学校区単位で民生委員、学校教師、事業主、役場職員に集まってもらい、公民館や役場で講義と相談を行った。二年間、ほとんど毎週二回、集中的に出かけて行って語った。
各市町村長と教員委員会や校長を説得しての会合だったが、その効果はすばらしかった。自分<0178<の役割を、困り果てた家族のために患者を病院へ送る者としてしか認識していなかった民生委員たちは、その後、病院への電話による相談、入院させた患者への面会、連れ立っての外出、家族援助、退院時の職さがしなどを行ってくれるようになった。遠くにあった精神科医の地域の人々への「顔づけ」が成功したのである。
のちに婦人会や中学、高校の先生の依頼で講義する機会もふえたが、やはり地域に出かけ小集団(一〇〜ニ〇人)で話しあい、自分たちでできることを考えてもらった会合が最も効果があつつた。こうして外の人を日常的に病棟へ入れ、精神科医や看護者は外へ出て行くようになった。
地域精神医学は在宅患者の通院医療づくりと考えられがちだが、私は必ずしもそうではなく、地域全体を、精神的に問題をもったとしても生きやすい社会へ組織化していく試みだと思っている。精神障害の早期治療、慢性化させない働きかけ、アルコール中毒、自殺、子どもたちのいじめ、老人性痴呆など取り組む課題は多い。精神科病棟の風通しと地域の精神科医療の充実は、共に進んでいく。
(〔ニ〇〇一年〕一二月六日)」(野田正彰[20030805:176-179])
精神医療の不備と政治の不作為
ちょうどニ〇年前の一九八ニ年七月六日、各新聞の社論は期せずして同一の主張を載せた。一日前の日曜日に起きた、東京で英文学者が精神病の孫に殺された事件と佐賀県で幼女ら三人が制殺された通り魔事を受けた論説である。
毎日新聞は「精神医療体制の充実を急げ」、朝日新聞も「精神医療体制の充実を急げ」、読売新聞は「精神医療の現実を見つめよ」、産経新聞は「精神障害者犯罪 適切な治療で防げ」との見出しで、いずれも精神医療の不備を指摘した。そのうえで毎日新聞は「保安処分の是非にしばられるのではなく、精神障害者の救急医療体制の整備を強く訴えたい」と述べ、朝日新聞は「病者のクライシス・コール(危機の訴え)にこたえ、これを国として組織的におこなえるようにする施策が、社会福祉、社会防衛の両面から必要である」と述べていた。ほぼ同一の見出しの社論が載り、多くの市民は精神医療の改善を求めていたが、政冶家も政府も動かなかった。
保安処分の是非の論議から、精神科救急を軸とする精神医療の充実へ、マスコミの論点が移った背景には、その年の三月、法務省と日本弁護士連合会による第六回刑法問題意見交換会に提出<0217<された、私の論文「精神病による犯罪の実証的研究」がある。この論文は同年秋、『クライシス・コール――精神病者の事件は突発するか』(毎日新聞社)として出版され、ジャーナリスト、法学者、精神医療関係者などに読まれてきた。そしてニ〇年をへて、『犯罪と精神医療』の題で岩波現代文庫の一冊として再版されている。ニ〇年前の論文が、そのまま現状への批判として通じるとは、どういうことか。何も改善されていないのである。
おそらく今国会で成立することはないだろうが、今、保安処分の名称を変えた「心神喪失者医療観察法案」が衆議院に上程されている。このニ〇年間、あるいはこの半世紀、どれだけ多くの不幸に政治が不作為であったか、責任を問われることなく、八ニ年七月以前の認識にもどろうとしている。
(〔ニ〇〇二年〕六月一二日)」(野田正彰[20030805:217-218])
「あとがき
信濃毎日新聞社の猪股征一編集局長から「今日の視角」と題する短いエッセイを書かないか、と誘いがあったのは一九九九年九月初めだった。信濃毎日新聞との付き合いは古く、時どき文化部の記者の方が遠い京都の私の家まで訪ねてこられた。私も長野を旅行したおり、編集局を訪ねたこともあった。当時、文化部におられた森本丘利さんの運転で、山里を旅したこともあった。なつかしく、知的で、個性のある新聞社。私は喜んで連載をお受けした。
[…]<0278<
毎金曜日の夕刊の連載。水曜日か木曜日に原稿用紙二枚のエッセイを書いてきた。これまで毎週の連載を、読売新聞、朝日新聞、日本経済新聞、産経新聞などで、何度か行ったことがあった。ただし、こんなに長期に連載させてもらったことはない。[…]
本書は一九九九年一〇月一日からニ〇〇三年三月末まで、三年半にわたる「今日の視角」一七〇回分をまとめた第一冊である。(なお、ほば隔週で京都新聞にも「折々の記」として連載されている。)[…]<0279<
この間、私的には、ニ〇〇〇年四月、九年間勤めた京都造形芸術大学から、京都女子大学に新設された現代社会学部へ移った。これまで研究してきた比較文化精神医学の視点から、現代社会の研究を行うつもりであったが、この新学部はカリキュラム、教員人事ともにあまりにも問題が多かった。開設二年目の秋、学生が「先生方は私たちを騒した」と言うのを聞き、私はゼミの学多を卒業させた後に辞めることに決めた。しかし、浄土真宗本願寺派の伝統ある宗門女子大学へ赴任したため、日本の仏教改革者である親鷺の教えに生きる、全国の素晴らしい僧侶を知ることができた。こうしてこの三年、日本仏教と戦争責任の問題を考えることができたのは幸いであった。
また、エッセイの連載という関係だけでなく、信州との繋がりも深まった。作家の田中康夫さ<0280<んが、ニ〇〇一年一〇月、長野県知事になったからである。私は彼と親交があったわけではない。一度、ある音楽会で会い、彼の処女作『なんとなく、クリスタル』を高く評価していたので、挨拶をかわしたぐらいだった。その後、彼は阪神淡路大震災への怒りのなかで、私の災害救援への発言や論文に関心を持っていてくれたのであろう。知事になると顧問になるように言われ、次に県保健医療策定委員会の委員を命じられた。こうして私は、京都に住みながら長野県全体の医療計画にたずさわってきた。私は保健医療策定委員長として、長期入院精神病者の退院プログラム、老人の自殺予防、精神病の急性期対応、精神科医療と学校対応のプロジェクトを作った。これは今、全国で最も進んだ精神科医療改革計画だと思っている。
この医療計画を作るための長野通いによっても、菅谷昭さん、色平哲郎さんら魅力的な医師と親交を結ぶことができた。どんな時代であれ、美しい生き方をしている人間は沢山いる。この社会について恩索し、考えたことを出会った人に語り、その方の考え方を知る。それが、生きていることの喜びだと思う。本書は島原裕司さんが編集してくださった。記して感謝する。
二〇〇三年六月二六日 洛北にて 著者」(野田正彰[20030805:278-281])