盗聴と移民の時代に無条件の歓待は可能か。歓待の正義とその倒錯を、ソポクレス、プラトン、クロソフスキーを通して語る。アンヌ・デュフールマンテルによる序論「招待」も併せて収録する。
■目次絶対的な歓待の掟は、法的な=権利上の歓待、つまり権利としての掟や正義から手を切ることを命じます。正義の歓待は、法的な=権利上の歓待と手を切るのです。といっても、それは法的な=権利上の歓待を非難したり、それと対立するものではなく、反対にそれを絶えまない進歩の運動の仲に置き、そこにとどまらせることができるのです。絶対的な歓待は法的な=権利上の歓待と奇妙にも異質なのです。それは,正義が法=権利に対して異質であるのと同様です。正義派法=権利とごく近くにあり、実は不可分だというのに(p. 64)。
到来者にはウィ (oui) と言おうではありませんか、あらゆる限定以前に、あらゆる先取り以前に、あらゆるアイデンティフィケーション同定以前に。到来者が異邦人であろうとなかろうと、移民、招待客、不意の訪問者であろうとなかろうと、人間、動物あるいは神的存在であろうとなかろうと、聖者であろうと死者であろうと、男であろうと女であろうと、ウィと言おうではありませんか(p. 98)。
一方には歓待の唯一無二の掟 (La loi) があります。すなわち、限りない歓待の無条件な掟(中略)があります。他方には、歓待のもろもろの掟、つねに条件づけられ、条件的な権利や義務があります(p. 98)。
歓待の無条件な唯一無二の掟は、歓待の掟の上にありありながら、もろもろの掟を必要とし、それを要請します(p. 99)。
唯一無二の掟は、それがあるところのものであるためには、もろもろの掟を必要としますが、もろもろの掟は唯一無二の掟を否定し、少なくともおびやかし、時にはそれを堕落させ、悪化させます (p. 100)。■書評・紹介