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『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』

Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes
=20000325 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』,筑摩書房,487p.


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Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes =20000325 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』,筑摩書房,487p. ISBN-10:448079025X ISBN-13:978-4480790255 \6195 [amazon][kinokuniya] ※

■目次

1974
132 人間的本性について一正義対権力 石田英敬・小野正嗣訳
133 『中国の第二の革命』について 嘉戸一将訳
134 『中国の第二の革命』について 嘉戸一将訳
135 D・ビザンティオスについて 嘉戸一将訳
136 権力のメカニズムにおける監獄と収容所 嘉戸一将訳
137 アッティカ刑務所について 嘉戸一将訳
138 セクシュアリテと政治 嘉戸一将訳
139 真理と裁判形態 西谷修訳
140 反懐古趣味 高桑和巳訳
141 狂気、権力の一問題 高桑和巳訳
142 精神鑑定に関する座談会 高桑和巳訳
143 精神医学の権力 高桑和巳訳
1975
144 序文一B・ジャクスン『彼らの監獄 アメリカの囚人たちによる自伝』に寄せる 高桑和己訳
145 手紙一M・クラヴェルに宛てる 高桑和己訳
146 狂人の家 高桑和巳訳
147 消防士が裏を明かす 高桑和巳訳
148 政治とは別の方法による戦争の継続である 高桑和己訳
149 哲学者たちは何を夢想しているのか? 高桑和己訳
150 フォトジェニックな絵画 小林康夫訳
151 拷問から官房へ 中澤信一訳
152 尋問の椅子で 中澤信一訳
153 あるフランス人哲学者の見た監獄 中澤信一訳
154 エクリチュールの祭典 中澤信一訳
155 父の死 中澤信一訳
156 監獄についての対談一本とその方法 中澤信一訳
157 権力と身体 中澤信一訳
158 マドリード行き 中澤信一訳
159 『マルグリット・デュラスについて』 中澤信一訳
160 精神病院、性、監獄 中澤信一訳
161 ラジオスコピー 石田久仁子訳
162 狂人を装う 中澤信一訳
163 ミシェル・フーコー一哲学者の回答 中澤新一訳
164 サド、性の法務官 中澤信一訳
165 異常者一コレージュ・ド・フランス一九七四?一九七五年度講義要旨 中澤信一訳
日本語版編者解説(西谷修)

■内容

1974

◆132 人間的本性について一正義対権力 石田英敬・小野正嗣訳
 (N・チョムスキー、F・エルダースとの討議、アイントホーヘン、一九七一年九月。翻訳A・ラビノヴィッチ)、F・エルダース編『返り水-人類の基本的関心』ロンドン、スーヴェニア・プレス、135-197ページ(オランダのテレビによる、フランス語と英語による討議。一九七一年九月にアイントホーヘン高等技術学校にて収録)。

「フーコー一(…)スピノザの言葉を使ってあなたにお答えしましょう。私があなたに申し上げたいのは、プロレタリアートは、自分たちの闘いが正しいと考えているから支配階級と闘っているわけではない、ということです。プロレタリアートが支配階級と闘うのは、歴史においてはじめて、彼らが権力を奪取したいと望んだからなのです。そして、支配階級の権力を転覆させたいがゆえに、この闘いが正しいのだと考えるのです。
チョムスキー一同意しかねますね。
フーコー一人は勝つために闘うのであって、それが正当だからなのではありません。」(本文より)

◆133 『中国の第二の革命』について 嘉戸一将訳
 (K.S・カロールと「リベラシオン」紙の記者とのインタビュー)の前半。「リベラシオン」紙一五七号、一九七四年一月三十一日、10ページ(K.S・カロール著『中国の第二の革命』、パリ、ロベール・ラフォン社、一九七三年刊について)。

「ええ、しかし神聖化されている部分もありますね。毛沢東と彼の言うことです。あなたの本によると、彼は決して誰も糾弾したことがない。彼はただ単に右派である者と左派である者とを区別するための基準を与えたに過ぎない。その基準は概して非常に曖昧でした。」(本文より)

◆134 『中国の第二の革命』について 嘉戸一将訳
 (K.S・カロールと「リベラシオン」紙の記者とのインタビュー)の後半。「リベラシオン」紙一五八号、一九七四年二月一日、10ページ、上記一三三号参照(K.S・カロール著『中国の第二の革命』、パリ、ロベール・ラフォン社、一九七三年刊について)。

「そこで二つ質問したいのですが、一つは矛盾の深化がそれとは別のもの、つまり分裂をもたらすとはどういうことなのか。もう一つは、イデオロギーが統一性を再び確立することができないと気づいたのだとしたら、イデオロギーの重要性を評価し直さなければならないのか、ということです。」(本文より)

◆135 D・ビザンティオスについて 嘉戸一将訳
 ギャルリー・カール・フランケ、パリ、一九七四年二月十五日(D・ビザンティオス《三十枚のデッサン》の展覧会のプレゼンテーション)。

「全ての要素が肯定的なものになっているこれらの薄暗いデッサン一色のないこれらの絵画一の逆説とは、明暗法を想わせるものが何もない、ということである。ここでは黒は夜ではない。黒は戦闘の激しさである。」(本文より)

◆136 権力のメカニズムにおける監獄と収容所 嘉戸一将訳
 M・デラモによるインタビュー。仏訳、A・ギザルディ。「アヴァンチ」誌、七八年次-五三号、一九七四年三月三日。

「プラトンとともにはっきりと確立された形而上学的結晶化というかたちをとるこの種の歴史は、フランスではデリダによって再び取り上げられてもいますが、私には嘆かわしく思われる。嘆かわしいというのは、ギリシア以降に、おもしろい事象、興味深い事象が数多く起こってきたからで、それで私自身のポレミックな目標の一つとして近接した時代の考古学を作り上げてみたいのです。」
「結局、少々単純なマルクス主義で言われがちなほど、政治権力はただイデオロギーばかりに作用するものではない、ということに気づきました。政治権力は、イデオロギーや人々の意識に作用する以前に、人々の身体に対してずっとはるかに物理的に行使されているのです。」(本文より)

◆137 アッティカ刑務所について 嘉戸一将訳
 (J.K・サイモンによるインタビュー。仏訳F・デュラン=ボジャール)、「テロス」誌一九号、一九七四年春季号、154-161ページ(掲載されたインタビューは翻訳〔英語から仏語〕されたものであり、また一九七二年四月にアッティカ刑務所を訪問した後でテープに録音された会話に基づいて活字化された)。

「そこで、問題は、資本主義社会は刑罰システムにどのような役割を演じさせているのか、どのような目的が追求されているのか、こうしたあらゆる懲罰と排除の手続きがどのような効果を生んでいるのか、そうしたことを明らかにすることになります。そうした手続きは経済プロセスにおいて、どのような位置を占めているのか。それらは権力の行使や維持において、そのような重要性を持っているのか。それらは階級間の紛争において、どのような役割を演じているのか。」
「戦時中、ジュネはラ・サンテ監獄の囚人でした。ある日、彼は判決を受けるために裁判所に移送されなければなりませんでした。ところで、当時の慣習では、囚人二人を手錠でつないで裁判所まで連れて行っていました。ジュネを別の拘留者につなごうとした時、その拘留者は尋ねたのです。「俺とつながれるこいつは何者だ」、と。看守は「泥棒だ」と答えた。すると、その拘留者が硬直して言うには、「お断りだ。俺は政治犯なんだ。共産主義者なんだ。泥棒とつながれるなんてお断りだ」、と。ジュネは、その日以来、フランスで組織されたあらゆる形態の運動や政治行動を、単に警戒するばかりでなく、軽蔑すらしている……、と私に打ち明けていました。」(本文より)

◆138 セクシュアリテと政治 嘉戸一将訳
 「コンバ」誌、九二七四号、一九七四年四月二十七-二十八日、16ページ(「ルシェルシュ」誌、一二号「同性愛大百科事典-三〇億の倒錯者たち」、一九七三年三月、の起訴について)。
 一九七四年五月二十五日、アラン・デュピュイ裁判長によるパリ軽罪裁判所第一七法廷は、「ルシェルシュ」誌の編集長で、精神分析学者であるフェリックス・ガタリに、「『同性愛大百科事典-三〇億の倒錯者たち』と題された一九七三年三月号に見出される良俗の侮辱」について、有罪判決を宣告した。(…)

「この身体のための闘争がセクシュアリテを政治的な問題とするのだ。いわゆる正常な、つまり労働力を再生産するセクシュアリテが一そのことから予想される、他のセクシュアリテの拒絶や、女性の隷属など全てととものに一規範的なものたらんとしていることは、こうした状況においては明白である。そして、身体を取り戻そうとする政治的な運動においては、女性解放のための運動同様男性あるいは女性の同性愛のための運動が見出されるのはもっともなことなのである。」(本文より)

◆139 真理と裁判形態 西谷修訳
 J.W・プラド訳、「PUC通信」、一六号、一九七四年六月、5-133ページ(M.T・アマラル、R.O・クルツ、C・カッツ、L.G・リマ、R・マシャド、R・ムラロ、H・ペレグリーノ、M.J・ピント、A.R・ド・サンタナとの討論)(一九七三年五月二十一-二十五日、リオ・デ・ジャネイロ・カトリック司教大学での講演)。

5回の講演があり(ⅠからⅤまで)、そして討論という流れになっている。
Ⅰ:問題設定と方法論(主にニーチェを参照)
Ⅱ:ギリシア文明の司法決済の分析(『オイディプス』などを参照)
Ⅲ:中世における刑事裁判の国家統合のメカニズムとその効果
Ⅳ:規律社会の形成と一望監視装置の定義
Ⅴ:一望監視装置から人間科学とその対象としての人間の出現

「私のねらいは、社会的慣行がいかにして知の諸領域を生み出すにいたるのか、それも、新しい対象や新しい概念、新しい技法を出現させるばかりでなく、主体のまったく新しい形態と認識の主体とを誕生させるような知の諸領域を生み出すのか、ということを皆さんに示すことです。認識の主体にはそれ自身歴史があり、主体と客体との関係にも、もっとはっきり言うなら真理にもまた歴史があるのです。」(本文より)

◆140 反懐古趣味 高桑和巳訳
 (パスカル・ボニツェール、セルジュ・トゥービアナとの対話)、「カイエ・デュ・シネマ」誌、二五一-二五二号、一九七四年七-八月、6-15ページ。

映画と「懐古趣味の流行」と言われている現象についての対話。

「ところが、この民衆の記憶の運動を堰止めるべく、一連の装置が配備されました(「民衆文学」、安物文学、いや学校教育もです)。この企ての収めた成功はかなり大きかったと言えます。労働者階級が自分についてもっている歴史的な知は縮小していくばかりです。(…)ただ、小さくはなっていくものの、消え失せはしませんが。」(本文より)

◆141 狂気、権力の一問題 高桑和巳訳
 (S.H.V・ロドリゲスによるインタヴュー)、「ジョルナル・ド・ブラジル」紙、一九七四年十一月十二日、8ページ。

「今日では個性は権力によって完全に制御されており、我々はつまるところ権力によって個性づけられている、そう私は思います。言い換えれば、個性化が権力に対抗するものであるとは私はまったく思わない、ということです。その反対に、我々の個性、各自の義務的な同一性は、権力の効果であり道具なのです。権力が最も恐れているのは、集団の力、集団の暴力です。権力は集団の力を個性化という技術で中和しようとします。この技術はすでに十七世紀、学校における階層化を通じて用いられています。」(本文より)

◆142 精神鑑定に関する座談会 高桑和巳訳
 [出席者:A・ボンパール(精神科医、精神分析家)、L・コサール(「アクト」誌、弁護士)、ディードリクス(精神鑑定家)、F・ドムナック(心理学者)、H・デュポン=モノー(「アクト」誌、弁護士)、P・ゲイ(精神科医)、J・アスーン(「ガルド=フー」誌(「闘う精神患者の雑誌」)主幹)、J・ラフォン(サン=タンヌ病院医長、精神鑑定家)、M・ラヴァル(「アクト」誌の同号に論文「黒魔術と白衣」を寄稿)、H・マス=デサン(弁護士)、P・ティルロック(医師、精神科医)]、「アクト」誌、五-六号、一九七四年十二月-一九七五年一月、46-52ページ。

「つまるところ、危険性、処罰を受ける能力、治癒可能性といった観念はどこから来たものなのでしょうか?これらは、法学にも医学にもありません。これらは、法的な観念でも、精神医学的な観念でも、医学的な観念でもなく、規律的な観念なのです。学校や兵舎や軽罪犯刑務所や工場のあれら些細な規律のすべてが、徐々に膨れ上がってきているのです。」(本文より)

◆143 精神医学の権力 高桑和巳訳
 「コレージュ・ド・フランス年報 七四年度、思考諸体系の歴史、一九七三-一九七四年」一九七四年、293-300ページ。

「狂気の脱医学化は、反精神医学の実践における権力の本源的な問いただしと相関的なものである。ここにおいて、反精神医学の実践が、精神薬学と同程度に精神分析を特徴づけていると思われる「脱精神医学化」に対して示す対立を測り知ることができる。精神薬学と精神分析はともに、むしろ狂気の過度の医学化に属している。したがってこの、認識という、知としての権力の特異な形式に対する狂気のありうべき乗り越えの問題は開かれているのだ。」(本文より)

◆1975
◆144 序文一B・ジャクスン『彼らの監獄 アメリカの囚人たちによる自伝』に寄せる 高桑和己訳
 パリ、プロン社、一九七五年、Ⅰ-Ⅵページ。

「我々は、自分で思っているよりテクサス人なのかもしれない。クロード・モーリアックは言っていた。あそこでは政治と警察と暗黒街はひとつだ、と。彼の控えめな皮肉のポイントがその「あそこ」というところにあるのは明らかである。」(本文より)

◆145 手紙一M・クラヴェルに宛てる 高桑和己訳
 モーリス・クラヴェル『私の思うこと』、パリ、グラッセ、一九七五年、138-139ページ。
 一九六七年十一月、モーリス・クラヴェルは『言葉と物』を、『純粋理性批判』に等価なものとして称賛する。しかしフーコーは本当にカントのように、知を制限して信仰に場を明け渡すことを望んだのか?最初の三五〇ページの批判的な解体は、方と欲望と死の前、第一〇章で止まっているのではないというわけか?(…)クラヴェルは『私の思うこと』で、実はこの断言はフーコーへの質問であったと述べている。そこで、彼は自分の本にフーコーの回答を載せいている。

「いずれにせよ、これまでしばしばされてきたように「いったいあなたはどこから話しているのですか?」と聞かれれば、今なら私はこう言います。私は今自分が黙りこんでいるこの地点から、つまり、クラヴェルがあれほど重要なことを語った日に、ことのついでに私のために語ってくれたあの地点から語ってきたのだ、と。」(本文より)

◆146 狂人の家 高桑和巳訳
 フランコ・バザリア、フランカ・バザリア=オンガロ『平和の犯罪』、トリノ、エイナウディ、一九七五年、151-169ページ(このテクストは、コレージュ・ド・フランスでの一九七四年講義の梗概にいくつかの発展を付加して再録したものである。n°143を見よ)。

「試練としての真理から認証としての真理への移行はおそらく、真理の歴史における最重要の過程の一つだろう。さらに言えば、「移行」というのも適切な語ではない。というのも、ここで問題になっているのは、互いに対立する、一方が他方を打ち負かす、互いに異質な二つの形式ではないからだ。」(本文より)

◆147 消防士が裏を明かす 高桑和巳訳
 「ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」誌、五三一号、一九七五年一月十三-十九日、56-57ページ(ジャン=ジャック・リュブリナ『消防士地獄』パリ、シロス、一九七四年、の書評)。

「人は消防士に何をしてくれと「頼む」のではない。ただ呼びつけるのだ。消防士は言説なしに介入する。彼は死者を「現場で」捉える。彼は物事を、敢えて言えば、熱いうちに掴むのだ。消防士という職は素晴らしい監視所である。街について、地区、住民、慣習、規則、混乱について、消防士は驚異的な知を蓄積している。」(本文より)

◆148 政治とは別の方法による戦争の継続である 高桑和己訳
 (ベルナール=アンリ・レヴィとの対話)、「ランプレヴュ」誌、一号、一九七五年一月二十七日、16ページ。

「一危機、というのは考えさせられる語ですか?
一その語は、知識人たちが自分たちの現在を掴んだりそこに攀じ登ったりすることができずにいる、その無能力を示す言葉でしかありません。それだけのことです。
一これはあなたを不安にする語ではありませんか?
一全然!依然としてこの語を使っている人たちがいるということには笑わされます。(…)」(本文より)

◆149 哲学者たちは何を夢想しているのか? 高桑和己訳
 (E・ロソウスキとの対話)、「ランプレヴュ」誌、二号、一九七五年一月二十八日、13ページ。

「「ル・モンド」の記事は、情報は常にきちんとしていますが、二箇月先に書かれても四年後に書かれてもよさそうな記事です。」(本文より)

◆150 フォトジェニックな絵画 小林康夫訳
 『欲望はそこらじゅうにある一フロマンジェ』、パリ、ギャルリー・ジャンヌ・ビュシェ、一九七五年二月、1-11ページ。

「アングルの言葉だが、「要約してしまえば、写真は、一続きの手の操作になることを考慮すると……」。ならば、もしこの一続きの操作を、またそれと併せて絵画が要約されるような一続きの手の操作というものを考えてみるとしたらどうだろう?つまり二つの操作の系列を突き合わせてみたら?それらを交互に用い、また重ね合わせ、一方によって他方を消したり、強調したりしたらどうだろう?」(本文より)

◆151 拷問から官房へ 中澤信一訳
 (R=P・ドロワとの対談)「ル・モンド」紙、九三六三号、一九七五年二月二十一日、16ページ(「監獄と処罰」の発刊によせて)。

「一(…)極言すれば、法とはある種の行為を阻止するためではなく、法そのものの網をかいくぐる方法を区分するために作られている、とも言えます。
一例えば?
一麻薬取り締まり法がそうです。アメリカ・トルコ間の軍事基地協定(これはある点で阿片の栽培許可と関係しています)から、サン・タンドレ・デ・ザール通りでの警察の警戒網に至るまで、麻薬密売はチェス盤のような駆け引きの場で、つまり取り締まりのある升目と無い升目、禁止の升目と黙認の升目、或る者には許可され或る者には禁じられた升目があるような場で行われています。危険な升目にいつも置かれるのは下っぱの歩だけ。巨利は大手を振ってまかり通るわけです。」(本文より)

◆152 尋問の椅子で 中澤信一訳
 (J=L・エジーヌとの対談)、「レ・ヌーヴェル・リテレール」紙、二四七七号、一九七五年三月十七-二十三日、3ページ。

「確かに政治的グループは昔からこの体制側による丸め込みと言う悪夢にとり憑かれてきた。言った事はすべて、それがまさに告発しようとしている寄稿の内に組み込まれてしまうんじゃないか?でも、私は逆に是非ともそうあるべきだと思っているんです。言説が丸め込まれ得るというのは、それが本質的に無効だということじゃなくて、ある闘争のプロセスに組み込まれるということですよ。」(本文より)

◆153 あるフランス人哲学者の見た監獄 中澤信一訳
 (F・シアンナとの対談、仏訳A・ギッザルディ)、「エウロペオ」誌、一五一五号、一九七五年四月三日、63-65ページ。

「権力側の新たな理想となったのは、刑罰制度の行き届いた都市としての「ペストに冒された都市」でした。ペストのあるところには検疫体制が敷かれる。一人残らず統制され、マークされ、閉じ込められ、規制に従わせられる。共同体の生活と安全を守るため、許可なく出歩く者は誰かれを問わず殺してかまわない。(…)技術的な面でそういった要請にこたえる建築構造を提供したのが、一七九一年に出版されたベンサムの「パノプティコン」でした。」(本文より)

◆154 エクリチュールの祭典 中澤信一訳
 (J・アルミラ、J・ル・マルシャンとの対談)、「ル・コティディヤン・ドゥ・パリ」紙、三二八号、一九七五年四月二十五日、13ページ(アルミラ著、『ノークラチスへの旅』、パリ、ガリマール出版、一九七五年、をめぐっての座談会)。

「この小説で気に入ったのは、作家風の美文を敢えて書き連ねるときでさえ、作者がエクリチュールの中に淡々と生きている点です、フローベールとその「ボヴァリー夫人」を引き合いに出している箇所も、恐らくこうした意味合いを持つんでしょう。これぞまさしく文学の祭典、いや、文豪たちのカーニバルですよ。」(本文より)

◆155 父の死 中澤信一訳
 (P・デー、P・ギャヴィ、J・ランシエール、I・ヤナカキスとの対談)、「リベラシオン」紙、四二一号、一九七五年四月三十日、10-11ページ。

「諸制度の綿密な分析をふまえた歴史学としての「共産主義学」とでも呼べる学問があってしかるべきなんだ。言ってみればマルクス理論もそういうところから科学として、教義として発展したわけだが、今のところまだこの「共産主義学」は未知なる領域でしかない。」(本文より)

◆156 監獄についての対談一本とその方法 中澤信一訳
 (J=J・ブロシエとの対談)、「マガジーヌ・リテレール」誌、一〇一号、一九七五年六月、27-33ページ。

「ところが資本化が進み、原料や機器や工作機械といった形で投資した富を庶民階級の手に委ねた時点から、この富を絶対に保護する必要が生じてきた、つまり工業社会では、富はその所有者の手元にあるわけではなく、実際にそれを活用して利潤を引き出してくれる者の手に直接委ねられていることが必要不可欠だからです。この富をどうやって守るかといえば、もちろん厳格な道徳によってでしょう。(…)人民をどうしても品行方正な輩に仕立てあげなければならない。それには彼らを犯罪者と区別する、逆に言えば犯罪者グループを明確に分離して、それが金持ちだけでなく貧乏人にとっても非常に危険であり、悪という悪に染まった禍いの元凶だということを示す必要があったわけです。」(本文より)

◆157 権力と身体 中澤信一訳
 「ケル・コール?」誌第二号、一九七五年九-十月、2-5ページ、(一九七五年六月の対談)。

「大いなる幻想は、思うに、意志の普遍性によって社会体が成り立っているという考えでしょうね。ところが実際に社会体を出現させるのはコンセンサスではなく、各個人のまさに身体そのものに及ぼされる権力の有形性なんです。」
「一身体の政治に携わる人たちの活動を統括しているのは何者なんでしょう?
一それは極めて複雑な総合体なんですよ。その全体を誰かが構想したなんて代物じゃありません。それよりむしろ、その役割配分、機構、相互統制、調整などがどうしてこれほど巧緻なものになっているかを考えてみることが必要です。(…)だから、これら一切をつかさどった計画なんぞを探ってみてもしょうがないんで、重要なのは、戦略という観点からそれら一つ一つの木片がどのように配置されたかを見極めることでしょうね。」(本文より)

◆158 マドリード行き 中澤信一訳
 (P・ブノワが収録した談話内容)、「リベラシオン」紙、三五八号、一九七五年九月二十四日、7ページ。
 一九七五年九月二二日、コスタ=ガヴラス、レジス・ドゥブレ、ミシェル・フーコー、ジャン・ラクテュール、神父ロードゥーズ師、クロード・モーリヤック、イヴ・モンタンの各氏は、フランコ政権の特別法廷が最近下した妊婦二人を含む計十一名の政治活動家に対する鉄の首枷による絞首刑判決に抗議する旨の記者会見を終えた直後、マドリードからの強制退去を命じられた。(…)下記の談話は、一行の帰国時にロワシー空港で行われた記者会見の折に収録されたものである。

「我々が向こうで見たものは、人がよく勝手な意味で「そりゃファシズムだ」などと言っているのとは桁違いのものでした。我々が実際に目にしたのは、極めて洗練されかつ極めて暴力的な卓越したファシズムの姿でした。」(本文より)

◆159 『マルグリット・デュラスについて』 中澤信一訳
 (H・シクススとの対談)、「カイエ・ルノー=バロー」、八九号、一九七五年十月、8-22ページ。

「デュラスのことを話すのかと思うと、今朝からずっと落ち着かない気分だったんだよね。これまで読んだ本や映画から受けた印象は、昔も今も変わらずにすごく強烈に心に残ってるんだ。作品を読んだのはもう随分前のことなのに、ありありと心に焼きついている。ところがいざこうして話をする段になると、そういったものが全てどこかに消え去ってしまうような気がするんだ。」(本文より)

◆160 精神病院、性、監獄 中澤信一訳
 (M・アルメイダ、R・クナイデルマン、M・フェルマン、R・モレノ、M・タファレル=フェルマンとの対談。サン・パウロでの対談内容をC・ボジュンガが収録したもので、仏語訳は、P.W・プラドJr)、「レヴィスタ・ヴェルスス」誌、第一号、一九七五年十月、30-33ページ(当時、フーコーはサン・パウロ大学で「精神医学的解釈と反精神医学」と題する一連の講義を行っていた)。

「一個別的な闘いと全般的な闘いという二つの闘いを、どう両立させていくことができるとお考えですか?
一そこが難しいところです。もし個別的な闘いがカモフラージュされてしまうと、そこに出現するのは社会主義社会特有の権力システム一官僚主義、階級制、独裁主義、伝統的な家族構造など一への転換でしょう。スターリニズムがまさにそれでした。」
「一知識人の役割が限られてしまったということは、まさに全体的な哲学的展望の危機と結び付いているとは言えないでしょうか?実は付随的な状況だ、と。
一私は総論の欠如はなにも欠陥だと言ったんではなく、一つの闘いの成果として語ったつもりです。要するに、我々は総括とか全体性といったものからも解放されるべきだということです。」(本文より)

◆161 ラジオスコピー 石田久仁子訳
 (ラジオ番組、ジャック・シャンセルとの対談、一九七五年三月十日放送)

「一フーコーさんは教職に就いておられる。
一教師ですが、最低限の教師です、ご存じのように、私は教えていますが、講義していますが、その場所が……
一きわめて特殊な場所。
一ええ、きわめて特殊な、まさに教育することを目的とはしていない機関ですから。
一コレージュ・ド・フランスですね。
一はい。ここが私によっていいのは、教えているという印象、つまり受講者に対し力関係を行使しているという印象を持たないことです。」
「一お子さんがおありだったとして、もし娘さんか息子さんが傷つけられたり、殺されたとしたら、フーコーさんはそれに対しどんな反応を示されるでしょうか?この本をお書きになりながら、そういうことをお考えになりましたか?きわめて重要なことだと思いますが。
一ええ、そのことを考えたとは言えませんが……」(本文より)

◆162 狂人を装う 中澤信一訳
 「ル・モンド」紙、九五五九号、一九七五年十月十六日、17ページ(ルネ・フェレ監督一九七五年制作の映画「ポールの物語」について)。

「謝肉祭の日、狂人たちは仮装をし、仮面を被って街頭にくりだす。戸惑いと多少怯えの入り交じった野次馬たちの好奇の目。狂人たちに外出が許される唯一の日、それはふざけて、狂人さながら浮かれ騒ぐための機会でもあった。その祭りをルネ・フェレはこの実験的作品の中でみごとに裏返した。狂人でない人間を狂気の檻に入れ、なるがままに任せろ、事の成り行きと幽閉の必然の流れに思いっきり身を委ねて狂人を装え、と命じた。するとそこから、硬直したようなあの反復的で儀礼的な狂気の姿がまさに現実となって生まれ出たのだ。この世で最も厳格な規律に支配されるあの狂気の姿が。」(本文より)

◆163 ミシェル・フーコー一哲学者の回答 中澤新一訳
 (C・ボジュンガ、R・ロボとの対談、P.W・プラドJr仏語訳)、「ジョルナル・ダ・タルデ」紙、一九七五年十一月一日、12-13ページ。

「一第三世界の国々がこうした緊急の課題一国家独立や脱・低開発に向けての闘い一を優先させること自体、「小さな権力」(学校、精神病院、監獄)や他の漠たる支配形態(白人対黒人、男性対女性)に対する闘いの芽を摘んでしまうことにはならないのでしょうか?それともそれら二つの闘いは並行して進められ得るものなんでしょうか?
一我々が頭を悩ましているのもその問題なんです。それら様々のタイプの問題を重要性という点から格付けできるものかどうか?後先の順をつけられるものかどうか?まあ結局は堂々巡りになってしまいます。仮に従来の大闘争一国家独立、圧制反対など一を犠牲にする形で、社会体の末端組織の次元での闘いを優先させた場合、ともすればそれは「牽制」工作になってしまいかねない。逆に、そういう問題を棚上げにした場合、最も急進的なグループ内部においてさえ、旧態依然とした階級、権威、従属、支配の関係がそのまま踏襲されるはめになりかねない。これは我々の世代に課された大問題ですよ。」(本文より)

◆164 サド、性の法務官 中澤信一訳
 (G・デュポンとの対談)、「シネマトグラフ」誌、一六号、一九七五年十二月-一九七六年一月、3-5ページ。

「そんなもの、つまりサドのエロチシズムなんかからはもう卒業すべきだと言いたいんです。身体やその構成要素、その表面や体積や厚みから、規律とは無縁のエロチシズムを創造することが必要なんです。偶然の出会いとか下心なしの快楽を伴った、今にも蒸散して消えかねないような身体のエロチシズムをね。」(本文より)

◆165 異常者一コレージュ・ド・フランス一九七四-一九七五年度講義要旨 中澤信一訳
 「コレージュ・ド・フランス年鑑」、七五年度版、「思考システムの歴史」講座、一九七四-一九七五年度、一九七五年、335-339ページ。

「しかし、これらの学問(発生学、精神生理学、性の理論)がいくら三者三様であるからといって、その特殊性を半ば帳消しにしてしまうような三つの重要な事項が存在したことを忘れてはなるまい。一つは「変質」の一般論の成立であり、モレルの論文(一八五七年)によって打ち出されたこの理論が、その後一世紀半にもわたり、異常者の判定、分類、処置など一切の方法に対する理論的基盤となったばかりか、その社会的および倫理的正当性の根拠でもあり続けたこと。第二は、新たに配備された複雑な制度網であり、医学と司法との境目に位置するそれが、一方では異常者の「受け入れ」機構としての役割を果たしながらも、他方で社会の「防衛」のための道具ともなってきたこと。第三は、最も遅れて歴史に登場した異常のタイプ(子供の性の問題)が他の二つを徐々に包含していった動きであり、二十世紀においてはそれがあらゆる異常を説明するための最も強力な原理となるに至ったことである。」(本文より)

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*作成:橋口 昌治 
UP:20031114 REV:20100407
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