『「弱者」の哲学』
竹内 章郎 19930618 大月書店,206p.
■竹内 章郎 19930618 『「弱者」の哲学』,大月書店,206p. 1600 ISBN-10: 4272401599 ISBN-13: 978-4272401598 [amazon]/[kinokuniya] ※
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内容(「BOOK」データベースより)
「弱者」という存在が社会と文化の在り方へ向けて投げかける問題の省察を通じて、人間存在の意味に新しい光をあてる。
内容(「MARC」データベースより)
能力主義と効率万能主義は、その基準からはずれたものを「弱者」としてはじきとばす。貧困な福祉行政の下では、老人は「弱者」として社会の片隅に追いやられる。著者は、「弱者」という存在が社会と文化の在り方へ向けて投げかける問題を考え抜く。
■目次
1 現状に抗して―能力主義を批判するということ
「能力に応ずる」の意味
「能力にかかわらず」の射程
「生命の質」とプライヴァシー
ほか
2 現状の中から―能力主義にたじろがなければ
「障害者」として?「人間」として?
「障害」は邪魔物?
「能力」も所有物?
ほか
3 現状を越えて―能力主義を越えたところにみえるもの
「障害」概念の多様性
共同性の深化拡大
相互関係自体としての能力
ほか
■引用
「…どんな理論でもよいわけではない。しかし、たとえば、脳性麻痺に対するボイタ法などが、損傷の克服につながらないにせよ、ある時期における四肢麻痺の程度を一定軽減しはするように、さまざまな理論は、たとえ一面的にせよ、一定の成果をあげる。」(p.116)
「「弱者」排除を克服するための原理的な思想を成立させるには、能力というレヴェルにまで、共同性概念を深化拡大することが必要ではないか。これまでの社会と文化の在り方では、共同性を営みうる「能力」も含めて、「能力」自体を、皮膚一枚で区切られた諸個人の内部の事柄としてのみとらえる傾向、つまり、個人還元主義的な「能力」把握、あるいは、個体能力観があまりにも強かった。その結果、共同性も、皮膚一枚で外界から遮断された諸(p.144)個人の外側に、したがって、諸個人と諸個人との間に成立する事柄としてのみとらえられた。しかし、こうした共同性の把握では、「能力に応じた」差別を真に克服した新たな社会や文化の創造には至らない。」(pp.144-145)
「「能力」不全が相互関係自体である、というのは、一つには、環境要因が、当の諸個人の生物学的存在に、マイナスに作用してダメージを与え……その結果、「能力」不全が生じる、ということであった。……今一つ……環境要因が、損傷を受けた生物学的存在の働きにうまくマッチできないことから、示された。…(p.147)…この協同→共同がうまく営まれれば、「能力」不全は生じない。」(pp.147-148)
「工夫にみちた取り組みによって、ほほ笑みが生まれるということには、周囲の人間たちの在り方が微笑という能力を生む側面の重要性が現れている」(p.155)