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『米国軍隊は解体する――米国反戦・反軍運動の展開』

清水 和久・古山 洋三・和田 春樹 編著 197006 三一書房,270p.

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■清水 和久・古山 洋三・和田 春樹 編著 197006 『米国軍隊は解体する――米国反戦・反軍運動の展開』 三一書房,270p. sm02 1vie beh

■出版社/著者からの内容紹介

1968年から米国において活発化してきた兵役拒否運動、脱走、反戦・反軍新聞の発行、兵士組合の活動、基地内および前線での抗命、基地や営倉での反乱等の総体は、米国軍隊解体の開始と考えられる。本書は、この世界最強の帝国主義軍隊である米軍の解体過程を叙述したものである。

執筆者たちは、米国の反戦・反軍運動に大きな影響を与えたイントレピッドの4水兵の脱走援助以来、日本において反戦米兵への支援・連帯活動を続けてきた「イントレピッド4人の会」「ジャテック」「ベ平連」「大泉市民の集い」、また「海外アメリカ抵抗者運動」などに従事している在日米人の反戦活動家たちである。

かれらは、米軍解体の運動をさらにおしすすめ、小西三曹の行動をきっかけにはじまり今や反戦新聞『整列ヤスメ』を創刊するにいたった対自衛隊=日本国軍隊に対する工作を前進させるために、本書をまとめたものである……。
※裏表紙より。


■目次

まえがき―――米軍解体とわれわれ

T米国における兵役拒否運動の展開
 兵役拒否運動の歴史
 選抜徴兵制度とは何か
 ドラフト・カウンセリング運動の展開
 兵役拒否―――ある反戦活動家の個人的記録

U 米国軍隊における反戦・反軍運動の展開
 軍隊の生活
 脱走
 GIコーヒー・ハウス
 GIカウンセリング
 反戦GI新聞―――兵士の、兵士による、兵士のための紙の弾丸―――
 アメリカの兵士組合の活動
 米軍兵士は反乱する

V討論 反戦米軍兵士との連帯を求めて

付録1 「兵士の異議申し立て」に関するアメリカ合衆国陸軍省の通達
  2 岩国基地における黒人兵士による大衆団交の記録

あとがき


■引用

■まえがき―――米軍解体とわれわれ(清水和久、和田春樹)
・1965年ころから組織的な抵抗運動への発展。1969年の夏までの1年間で約6万人が兵役拒否、カナダへ逃亡。
◆米軍解体=反戦運動であるとともに、戦争を生み出す社会の解体でもある。ブラックパワー、ヒッピーなどの中産階級的生活様式からの若者の脱落・離反・朝鮮、麻薬、同性愛の自己主張、・・・アメリカの道徳、価値体系、生活様式のゆらぎ。
「一九六八年を画期に顕著になった、兵役拒否、脱走、反戦・反軍新聞発行、兵士組合活動、基地内および前線での抗命、営倉や基地での反乱その他―――これら相互に結びついた諸事実を、われわれは「米軍解体」の開始とみなす。本書の全体が指摘する米軍解体過程の進行は、ベトナム人民を先頭とし、アメリカ人民を位置構成要素とする国際的な反戦・解放運動の一環をなすものであるとともに、米本土における社会的解体の一環でもあって、米軍解体は両者の交叉する位置にあるといえるだろう。」(清水・和田、1970:11)


■T米国における兵役拒否運動の展開
■兵役拒否運動の歴史

◆内国植民地としての黒人身体。非植民地化としての米国社会への働きかけ(公民権運動)と焦点としての反戦(兵役拒否、脱走、抗命)。
「黒人が兵役に反対するのは、道徳的なものが含まれてはいるが、第一義的には誠意的な理由であった。六〇年代末にはバークレーの兵役拒否運動の指導者、ジェフ・ジェイコブズの語ったことは、おそらくマルコム・X、ストークリー・カーマイケル、ラップ・ブラウンなどの黒人公民権運動の指導者たちが、“体制からはみでよう”と語りかけた時と同じ気持ちであったろう。ジェフ・ジェイコブズは、次のようにいっている。
  兵役拒否の運動は“選抜徴兵法”の表現している精神的・肉体的搾取から人民を解放する非植民地化運動である。非協力運動は、参加する人びとを急進化し、中産階級の価値体系の伝統から解放し、より急進的な行動へ捲きこんでいく。その結果、われわれは他の抑圧された階級と直接に連帯し、一層革命的な潜勢力と展望を獲得することができる。」(清水・古山・和田、1970:21)
・ドラフト・カウンセリング運動、徴兵カード焼き捨て運動(1967年3500枚のカードが返却または焼かれる)
・アメリカの中都市ならどこでも無料のドラフト・カウンセリング・センターがある。
・SDS(民主社会のための学生同盟):脱走・兵役拒否から「カナダへ逃亡するということも、制度そのものの変革には何の役にも立たないと感じはじめた。こうして、当時のSDSの政策すべてに共通しているやや漠然とした政策、徴兵に応じ、軍隊のなかで抵抗を組織するという政策が打ち出された。」(清水・古山・和田、1970:27)

「カナダで兵役拒否者や脱走兵を援助している人たちの推計では、一九六九年夏までに、女友達や家族を含めて六万名の市民がカナダに移民したということである。
 この移民の第一波は、一九六五年ベトナム戦争の激化のすぐあとに移住した大学卒業生たちで、かれらの大部分は中産階級の出身であった。[…]ベトナム戦争と兵役拒否運動がはげしくなると移民の性質がかわりはじめ、とくに南部の州から貧しい白人たちが流れこみはじめた。こうした非熟練労働者が流れこむことは、カナダ国内に失業問題をひきおこすことになるのだが、この圧力にもかかわらずカナダ国境は依然として開かれており、毎年数千の若者が北へ逃れていくのである。」(清水・古山・和田、1970:26)

◆植民地化(?)=レイプされる兵士という隠喩。
「海外アメリカ抵抗者運動(American-in-Exile Program)が設立され、軍体内での兵士の活動を直接に支援するため、兵役拒否運動の組織者がアジアに送りこまれた。かれらは兵役拒否者=亡命者としてアジアの各地にとどまり、軍隊内の反戦運動を支援するために現在活動をつづけている。」(清水・古山・和田、1970:28)

「われわれ自身が犯されていることに気ずく前にベトナム人が犯されねばならず、グアテマラ人やペルー人、そして比喩的ないい方をすればわれわれの頭脳がナパームで焼かれていることに気ずく前にベトナム人がナパーム弾の犠牲とならねばならなかった。」(清水・古山・和田、1970:29)


■選抜徴兵制度とは何か(古山洋三)
・18歳に達すると、すべての男子は選抜徴兵制度に登録。「兵役登録証」の発行、18分類のなかの一つに分類通知される。兵役登録章と分類通知カードが「徴兵カード」(Draft Card)と呼ばれている。徴兵カードは常時携帯義務がある。
・18の兵役登録分類
I−A 兵役適格者
I−A−C 非戦闘業務のみに適する良心的兵役拒否者
I−C 合衆国軍人、資源保護官、公衆衛生機関職員
I−D 予備役、予備士官訓練団、空軍士官候補生、志願を含む軍事訓練を受けている学生。
I−O 民間公共奉仕にのみに適する良心的兵役拒否者
I−S 高等学校卒業まで、もしくは大学の最終学年まで徴兵猶予を認められている学生
I−W 民間公共サービスに従事し、あるいはその仕事を終えた良心的兵役拒否者
I−Y 戦時もしくは非常事態のさいのみ戦闘業務に服するもの(身体条件による)
U―A 徴兵猶予を認められた産業従事者(国家の安全に必要と認められた業務=原子力、ロケット、宇宙計画など。)
U―C 徴兵猶予を認められた農業従事者
U―S 徴兵猶予を認められた学生(I−Sとの違いがさだかではない。)
V―A 徴兵猶予を認められた、生活困窮者、あるいは子供のあるもの
W―A 現役として軍務を果たした者、一人息子
W―B 法によって徴兵猶予を認められた公務員
W―C 現在のところ兵役に適さない外国人(国籍と兵役業務は関係なく、しかるべき手続きをしないと一時の滞在者でも徴兵される)
W―D 聖職者あるいは神学生(キリスト教以外の聖職者については問題が起こっている)
W―F いかなる軍務にも適さないもの(身体条件による)
X―A 兵役適令を超えたもの(通常26歳を超えると徴兵されない)
・26歳まで徴兵猶予の申請をする、かけひきが必要となってくる。
・登録済みの兵役適格者(I−A)の中から国防省の割当てにしたがって徴兵命令が下され、徴兵センターに出頭、入隊ということになる。
・5つの選択をしなければいけない。
@軍に入る。
A徴兵猶予を求める。
B良心的兵役拒否者となる(軍隊内の非戦闘業務もしくは民間の公共奉仕に従事する)。
C選抜徴兵法関係の法の一つを犯して入獄。
D外国への亡命。


■ドラフト・カウンセリング運動の展開
・初期は宗教的色彩と道徳主義が濃厚で白人の大学上級生に対しておこなわれていた。

■兵役拒否―――ある反戦活動家の個人的記録(ジム・パッカード)
◆白人の若者の拒否=経済的、社会的な脱落なのか解放なのか、という自問自答。
「“君、徴兵の方はどうなってる?”とか、“今度の試験を落とすと召集されそうだ”とか、あるいは“化学の単位をムシリとるか、ベトナムで人を射ち殺すことを習うか、二つに一つだ”とかいう言葉で話を始める周囲の連中」(パッカード、1970:52)

「この生活問題の観点から考えると、兵役拒否者は、もはや観念的ラディカルもしくは同乗者の位置にとどまりえない。軍隊に入るか、拒否するかをえらぶことは、アメリカの操作される地位にとどまって、経済的自由の流動性を保持しようとするか、あるいは、しばりつけられた肉体にとどまる精神的自由の神聖な苦痛のために犠牲となるか、そのいずれかをえらぶことになる。[…]社会的制約は、経済的制約と平行している。」(パッカード、1970:63)

「これが追放であるのか、あるいは解放であるのかははっきりいえない。」(パッカード、1970:64)

「新しいモラルが徴兵拒否をつくりだしたのではない。自己保存の古いモラルをもった個人個人の相互作用と継続、それこそが兵役拒否なのであり、この関係のダイナミックスのなかでそれが新しいモラルを創造してきたのだ。」(パッカード、1970:66)

「兵役拒否の経験はアメリカに平等への大きな貢献をし、またアメリカの白人の若者をラディカルにした。それは、白人の若者を少数民族の若者と連帯させ、同じ戦線に立たせつつある―――かれらの良心と国家権力に対決する側に。」(パッカード、1970:66−67)


U 米国軍隊における反戦・反軍運動の展開
■軍隊の生活(清水和久)
◆軍隊の現実を知ることからの違和感と抵抗
「志願した若者も「兵士が死んでいくのに、上官たちはいい思いをしている(ザ・ブラス・リヴズ・ハイ・ホワイル・ザ・コーアイズ・ダイ)」ことに気づく。個人的な屈辱感・劣等感・敗北感はやがて上官への憎悪に変わり、仲間をえて、ベトナム戦争の実態を知り、軍隊機構そのものへの問いが生まれる。米軍の精神の中核といわれる「義務と名誉と祖国」が自分とは縁遠いものであること、自分がそうした言葉で飾られた「檻」にいることを悟っていく。何のための軍隊か、誰のために人殺しの訓練をしているのか。ベトナム行きの命令がでたらどうするか、反戦デモの鎮圧命令がでたらどうするか、兵士は岐路に立たされることになる。」(清水、1970:80)

「黒人、プエルト・リコ系、インディアン系兵士を筆頭に、一般兵士の多くは貧しい、抑圧された階級の出身者である。衣食住がひとまず保証されているとはいえ、月額四、五万の現金収入をプラスしても、アメリカの生活水準でいえば、貧困階級もしくは準貧困階級に属する。」(清水、1970:81)

・除隊制度(清水、1970:86)
不名誉除隊、好ましからざる除隊:1967年末に50万人に達した。一般社会から「第二級市民」扱いをうけ、就職の門戸は狭められ、家族も肩身の狭い思いをする。「不名誉除隊」は投票権を剥奪され、保険に加入することができず、自動車の運転が禁止され、パスポートも入手不可能になるのが通常。


◆人種対立。米兵とベトナム人の関係と、白人兵と黒人兵の関係とが類似していると感じてしまう状況。植民地主義的人種主義。
「人種対立が激化しているという話題が必ず出てくる[…]各基地のスポークスマンも、黒人と白人の対立が激化していつかは大爆発がおこることを認めざるをえないでいる。一九六九年の後半には、米本土の各基地で、ハワイで、沖縄で、ベトナムで黒人兵と白人兵の衝突が頻発した。[…]なぜこうした衝突がおこるのか。理由はいくつもあるが、単純化すれば、軍隊においても人種差別が貫徹しているからである。[…]黒人将校の数が像化したことは事実だが、黒人将校がもっとも多い陸軍でも、五%に達しない」(清水、1970:87−88)
「ベトナムに行けば、白人兵の多くがベトナム人を「ディンク」とか「グック」とかいってばかにしている。「黒ん坊」とよぶのとすこしも変わりはしないのである。黒人兵士が反戦・反軍を人種差別撤廃と結びつけるのも、きわめて自然のことなのである。」(清水、1970:88)

■脱走(古山洋三)

・アメリカ統一軍法第85条
○脱走罪の条件:「許可なく、永久に帰隊しない意図をもって所属する隊もしくは勤務地を離れて戻らないとき。危険な、あるいは重大な任務を回避する意図をもって所属する隊あるいは勤務地を離れたとき」(古山、1970:96)
○「帰隊しない意図」の証明判例(古山、1970:96)
・無許可離隊(AWOL)の期間が長期に及んだ場合
・軍服、その他の軍支給品を処分した場合
・遠隔地への切符を購入した場合、あるいは遠隔地で自首した場合
・所属部隊、勤務内容等に不満をもち、その旨を表明した場合
・脱走を意図した旨表明した場合
・告訴または勾留中逃亡した場合
・離隊直前、金銭、衣服など逃亡に役立つ物品を盗んだ場合
○帰隊しない意図がなかったとみなされる例(古山、1970:96−97)
・長期にわたり任務に忠実であった場合
・個人用ロッカーから私物が紛失していない場合
・離隊の際、酒類あるいは薬品の影響下にあり、その影響が一定期間続いた場合
・軍発行の身分証明書(IDカード)あるいは制服などの軍支給品を所持していた場合
・所属部隊駐屯地までの片道切符を所持していた場合
・政治声明を表明せず、脱走兵援助機関の助けをかりなかった場合
・信頼しうる証人が、本人に帰隊の意志があったと証言した場合
○危険・重大な任務を回避する意図(古山、1970:97)
・戦闘地帯における任務
・海外派兵、あるいは米国国境外での任務、海上勤務
・前項のための出発港への移動
・戦時、侵略の危機の発生、その他の騒乱の勃発等にあたって、国境あるいは海岸線の任務につくための移動
・ストライキあるいは暴動鎮圧の任務
・財産保護あるいは重大なる国家的災害にあたっての騒乱鎮圧又は予防を目的とする民間警察援助の任務
○「帰隊しない意図」が証明できない場合はAWOL(無許可離隊)扱いとなる。

○戦時における脱走・脱走未遂の刑(古山、1970:99)
・最高刑は死刑。第二次世界大戦中でも死刑は1名のみ。ベトナム戦争における脱走兵が死刑になるということも可能性としては小さい。
・ベトナム戦争を「戦時」とみなすかどうかについて議論が割れている。
・よって、刑としては、不名誉除隊、全給与の没収、五年以下の禁固および重労働。自首した場合は二年以下に軽減

○AWOLの刑(古山、1970:99
・指定の場所に出頭しなかった場合=1ヶ月の禁固および重労働
・所属部隊、基地等より許可なく外出した場合
 あ)3日以内=1ヶ月以内の禁固および重労働。月額給与の三分の二没収、一か月分まで
 い)3日以上、30日以内=6ヶ月以内の禁固及び重労働。月額給与三分の二没収、六か月分まで。
 う)30日以上=不名誉除隊:全給与の没収、一年以下の禁固および重労働
・あまり重大でないAWOLの場合には裁判に付されず、上官の個人的判断などで営倉入りなどの処罰。上級士官にとってAWOLなどの兵士が出ることは不名誉なことであるため、統計上にも載りにくい。

○脱走兵の処分(古山、1970:100−101)
・ジェラルド・メイヤーズ:1968年11月釧路で逮捕。ハワイと区別軍法会議でAWOL罪が適用、軽い刑を受け、除隊。
・クラレンス・アームステッド:1968年12月大阪で逮捕。座間の即決裁判で正規の法手続きによらず軽い刑を言い渡された翌日にベトナムの前線におくられる。
・ダニエル・デニス:1969年5月京都で逮捕。AWOL罪が適用、6ヶ月の重労働と不名誉除隊。
・ピーター・ジョンソン:1969年6月大阪で逮捕。AWOL罪が適用、6ヶ月間の重労働と不名誉除隊。
・スウェーデンに亡命した脱走兵のうち、エドウィン・アーネットとフィリップ・キャリコートはアメリカへ帰国。脱走罪で四年の判決。

○世界各地での脱走兵支援運動:
・カナダの「アメリカ反戦者援助委員会」(ヴァンクーバー、トロント、オタワ、モントリオール。「経済的な援助、住居の斡旋、移民申請についての法律的な相談・援助をおこなっている。移民申請の許可がおりない場合[…]適当な仕事をみつけてかくまうのもこの委員会である。」(古山、1970:102))。
・スウェーデンの「スウェーデン・ベトナム委員会」
 政府は人道的亡命者として脱走兵の入国を許可。1週間120クローネ(約8400円)の社会保障が付与、スウェーデン語をマスターすれば外国人パスポートを支給され、自由に仕事に就ける。脱走兵たちによる「アメリカ脱走兵委員会」がある。


■GIコーヒー・ハウス(清水和久)
・1968年1月サウス・カロライナ州のジャクソン陸軍基地付近、フレッド・ガードナーというGIが最初のGIコーヒーハウス「UFO(空飛ぶ円盤)」を開店。
「自己の兵士としての体験にもとづいて、軍隊が反戦運動に有利な可能性をもっていると考えた。兵士を個人に立ち帰らせること、そのためには、かれらが集い、語り合う場を設けねばならない―――これがコーヒー・ハウス創立の動機であった。」(清水、1970:105)

「この運動は一口にいって、兵士たちに、軍隊生活とは反対の生活の場を提供することである。服従の代りに自由を、虐待の代りに愛情を、命令の代りに援助を、白痴化の代りに真の教育を、等々である。どんなGIだって、軍隊が個人の自由を奪う非常な機械だということを、入隊第一日目に感じるだろう。[…]ある種の監獄にぶちこまれたことに気がつく。」(清水、1970:106)

「GI新聞の増加、兵士組合の結成、各種のGIデモ等に、コーヒー・ハウス運動は献身的に参加してきた。」(清水、1970:108)

・1970年時点で米国内に9箇所が確認されている(清水、1970:111−112)

■GIカウンセリング(アニー・イークス)
・徴兵される以前の若者へのカウンセリング、徴兵された兵士への合法的除隊方法、良心的兵役拒否のカウンセリングなど。

■反戦GI新聞―――兵士の、兵士による、兵士のための紙の弾丸―――(藤枝澪子)
・1967年〜68年にかけて発行され始める。『The Bond』(青森県三沢空軍基地の兵士からの投稿も)『Vietnam GI』(編集委員の一人ジェフリー・シャーレットは1968年「反戦と変革のための国際会議」に出席)『The Ally』。「戦争の現状を教え、ベトナム戦争の本質を暴露し、国の戦争政策を批判し、あるいは兵士に市民としての権利を自覚させ、軍隊そのものの意味を問う」(藤枝、1970:118)。除隊兵士による編集。
・ローカルGI誌。日本では『We Got the Brass』アジア版、『Kill for Peace』、『Hair』(三沢基地)、『Semper Fi』(岩国基地)。
「発行の景気はいろいろだ。全国紙に触発されて、出しはじめる[…]ばあいもあれば、基地内の抵抗が発行のきっかけになるばあいものある[…]。また、コーヒー・ハウスや学生などの地域反戦グループ、アングラ新聞が渦の中心となるばあいもある。しかし、さまざまの動機が結合して新聞発行にいたるケースがもっとも多いだろう。
 一旦新聞が発行されると基地内の抵抗はいっそう促進され、これに軍当局が襲いかかる、抵抗の輪がひろがる、外部の反戦・平和勢力との共闘が形づくられるというように発展していく。」(藤枝、1970:120)

「GIたちの抵抗、続出するGI新聞は、帝国主義軍隊そのものが生みだす鬼子なのだ。」(藤枝、1970:121)

◆軍隊内と外部との支持・支援・理解・連携の重要性。外部とのコミュニケーションツール・場としてのGI新聞
「さまざまのGI新聞が与えている教訓は、外部からの支持、支援の重要さである。GIたちの抵抗が外部の反戦勢力によって支えられているばあいには、組織的抵抗となって大きなインパクトをもちうる。この支えがないと、個々の抵抗がいかに英雄的なものであっても、しばしば軍の手で闇から闇へ葬りさられ、絶望的な戦いになることが多い。」(藤枝、1970:122−123)


■アメリカの兵士組合の活動(清水和久)
・アメリカ兵士組合(American Servicemens’ Union):1968年から正式な活動の開始。1969年頃には5000名の組合員、150の基地にまたがる。米国、ベトナム、フィリピン、日本(三沢、岩国)など。ブラックパンサーへの連帯の表明。
10項目要求:(1)上官への敬礼・敬語(サー)の廃止、(2)将校選挙制、(3)人種差別の撤廃、(4)一般兵士による軍法会議の管理、(5)連邦最低賃金制の確立、(6)政治結社の自由、(7)団体交渉権の確立、(8)不法命令―――たとえばベトナム行き―――に対する不服従の権利、(9)反戦デモへの軍隊出動反対、(10)ストライキへの軍隊出動反対。
◆兵士=労働者、抑圧された主体としての捉え返しによる連帯可能性。
「アメリカ兵氏組合は、兵士を労働者として、しかも自由を奪われた労働者と把える。いいかえれば、軍隊を工場としえ、しかも強制労働の工場としてつかまえている。したがって労働者としての当然の権利を要求するのだが、もう一方では、たとえば将校選挙制の要求が代表するように、革命的な要求をもっている。」(清水:1970:142−143)


■米軍兵士は反乱する(清水和久)
・1966年6月30日フォート・フッドの三兵士、ベトナム出征命令拒否
・1967年11月13日 イントレピッドの四水兵、反戦の脱走:日米での記者会見。
 「「脱走」という行動を通して行われた公然たるベトナム戦争に反対する抗議の行動」(清水、1970:157)
・1968年8月ダナン、ロンビン営倉内での反乱、ベトナム営倉内抵抗
 AWOLの結果、営倉に入れられる兵士数の増加、定員オーバー。
・1968年8月フォート・フッド四三兵士の治安出動拒否。「われわれは、民間人の騒乱やわが黒人の兄弟の反乱を鎮圧するためにシカゴにであれ、合衆国の他のいかなる地にであれ、行くつもりはない。」(清水、1970:165)
・1969年フォート・ディックスの三八兵士、本土営倉内抵抗
 フィート・ディックス陸軍基地、32000名の兵士、68年から反戦GI・コーヒー・ハウス、それを母体としたGI新聞『シェイクダウン』。営倉内での暴動、放火。鎮圧される。38名の兵士を告発する⇒釈放要求の運動、1969年10月7500名によるディックス基地へのデモ。基地へのデモを禁止した命令の無視。ブラックパンサー、SDS、カトリック平和友の会etc。

■V討論 反戦米軍兵士との連帯を求めて(小山良夫、木下順子、倉石正次、清水和久、鈴木良忠、ジェイムズ・原田、安川健三、横浜光雄、和田春樹、古川洋三(司会))

原田「アメリカの反戦運動の質の変化と対応しているといえます。ベトナム反戦運動ははじめパシフィスト(平和主義者)の志向で行われていましたが、この二、三年、その限界が見えて来ました。パシフィストは兵士を敵視するのですが、最近は左翼の運動家たちが運動の核を作りはじめ、運動を兵士の側に立ってはじめた効果が非常に大きくなってきたのです。」(清水・古山・和田、1970:198)

◆朝霞反戦放送(1969年6月1日〜)。大泉市民の集い:67年7月結成、基地見学会、反戦ビラまき、デモ。兵士を人間・個人として見る。「人間であることをとりもどす」という呼びかけによる主体の変容の喚起。ブラックパンサーとの共振の場。
清水「こうした訴えをかさねていくなかで、これはいっそ放送という形でまとめてしまった方がより協力になるのではないか、というのではじめることにしたいのです。[…]なんといっても、基地撤去を目的としている運動の対象になる米軍兵士に声と音で直接に訴え、兵士の気持ちをゆさぶり、考え行動するキッカケをかれらのなかに作りだしていこうというのが単純にいえば最初に考えたこと」(清水・古山・和田、1970:198−199)
「平和と解放のために団結せよ」というスローガン。

清水「“兵士が生きている”ということが毎週の行動をとおして実感されます。兵士の反応がその時時によって違うわけですね。[…]武力をかたちづくっている兵士一人一人はわれわれと同じ人間である、つまり、兵士を人間として見る、その兵士にできるかぎりの正義を訴えていきたい。私はよく“個人としての行動”“人間であることをとりもどして欲しい”と訴えるのですが、そのことが、やってみるとたんなる空論ではなく実感できる。」(清水・古山・和田、1970:199−200)

◆日米の運動の連帯が在日米兵の闘いを盛り上げうる。
清水「アメリカの全体としての反戦運動が私たちにとっても不可欠であるということ。昨年一〇月のようなアメリカの運動の大きな盛り上りがあると兵士の行動も大胆になるわけですね。一〇月の場合には垣根をへだててですが兵士と直接の接触ができ、しかも、兵士の大部分はベトナム戦争反対はもちろんだけれど、“日本における革命の情勢は同だ”とか“自分もアメリカに帰ったら革命運動を始める”とかいう兵士も現れた。それがアメリカの運動が一定の停滞期に入っているので兵士の行動もある程度消極的になり、われわれに対する反応も弱くなる。この点では、すこしおおげさにいうと、日米両国人民の連帯ということの重要性を痛感します。」(清水・古山・和田、1970:200)

和田「「黒人の子供が飢えて死んでいる時に、アポロがあがりました」という訴えを読みましたら、黒人兵が拍手したのです。これが僕にとって二度目の強い印象で、八月末のコザの黒人兵の抵抗のニュースなども伝わり、黒人兵向けの特別なビラを準備して一〇月にそなえたわけです。一〇月には、来日したブラック・パンサー党代表のメッセージや、アメリカの反戦活動家のカウンセリングのテープなどを入れてやったのですが、これまでとはまったくちがった兵隊の反応がありました。アメリカ軍の解体はここまでいっているのだなということがハッキリわかり非常にうれしかった。一〇月一五日のモラトリアム・デーのときには数人の兵士が“君たちの放送は真実を伝えている”と帰りに話しかけてきて、一九日に朝霞で準備されていた反戦派労学市民の集会のためにメッセージを吹きこんでくれた。」(清水・古山・和田、1970:201)

◆岸根反戦放送局:朝霞からの技術移転。ブラック・パンサーとの交流、機関紙のやりとり。脱走兵の声をフィードバックする。米兵の日本人の個の変革のための放送と国際連帯、そして軍隊解体。ビラを投げ込みあう。
倉石「二回目の放送の時に、すでにブラック・パンサーの機関紙が投げかえされてきたというような反応はスゴクあるわけなのです。」(清水・古山・和田、1970:203)

倉石「ずっとブラック・パンサーと連絡がとれまして、藪の中で会ったり、喫茶店で話したりしていました。今年のなって一月一七日に岸根からの脱走兵[…]からのメッセージが手に入り、[…]放送したのですが、その時の反響はものすごくて、ぼくらがどうしていいのか困るようなものでした。病棟の半分以上の人が出て来て、他の人は窓から身を乗り出しているということで、次の回にもう一度くりかえしたときも同じでした。

倉石「最初の段階は放送自体が目的になっていたがそうではないということを確認したのです。目的が二つ出て来たのですが、一つは反戦兵士と連帯するということが国際連帯の第一歩になっていくということ。もう一つは、帝国主義軍隊解体の目標で、当然、放送以外の形態もでてくるわけです。[…]それ[官憲の弾圧]に対抗していくためには、放送が兵士の一人一人に訴えかけて個を変革していくと同時に、放送しているぼくらも個を変革していかなければならないということになるのです。」(清水・古山・和田、1970:204)

◆内外の交錯を通じてフェンス/有刺鉄線が分断のためのラインだけでなく自分自身の封鎖・隔離・抑圧のラインとして意識される。
安川「外から内、内から外という視点の交錯があるわけで、これは一人の脱走兵のいっていた“あなた方を取り囲んでいる有刺鉄線は、ただ反戦デモ隊を排除するためにだけあるのではなく、あなた方を閉じこめておくためにもあるのだ”という言葉にもっともよくあらわされています。」(清水・古山・和田、1970:205)

清水「GI新聞が不可欠の材料です。軍隊内各基地の米軍内の動向を具体的に知らせるわけです。とくにアメリカ兵士組合の活動を知らせることに力を入れてきました。平和のために団結して起き上がれという「団結」に力点を置いています。」(清水・古山・和田、1970:207)

◆ピースサイン、ブラック・パワー・フィストなどの身振りでの意志交換。

◆反戦新聞。
・『WE GOT THE BRASS』アジア版。もとはヨーロッパのアメリカの脱走兵組織・国際第二戦線(Second Front International)によるGI向けの新聞。第二戦線とベ平連の関係は長い。国際的な発行の広がり。発行・編集が日本人、外国人のベ平連、そしてGIとの共同作業。日本国内外の運動経験を集め発信する。
安川「日本において、日本人、外国人の協力のもとに出されているものです。この新聞は非常に速いスピードで日本全国に普及したようで」(清水・古山・和田、1970:211)、「沖縄だけでなく、韓国・ベトナム・タイなどにもたぶん日本に来た帰休兵の手を通じて持ちかえられ、その反響も編集部には寄せられているようです。その点、名実ともにアジア版になりつつあるといえると思います。[…]日本における反戦兵士が中心となり、それに日本人・外国人の協力者を加えて編集発行されています。内容は、英字新聞からの抜萃やジャテックによって保護されている脱走兵がテレビに出て訴えたこと、米本国のさまざまな兵士の反抗の実例、とくに兵士組合の活動の紹介など、またこれはアジア版にふさわしいと思いますが、ベトナムの米軍放送の解説者が、“真実の報道がおさえられている”といって軍法会議にかけられた事件の詳しい報告などがのせられています。」(清水・古山・和田、1970:211−212)

◆『Kill for Peace』:『WE GOT THE BRASS』を配る日本人が媒介となって生まれる。刺激を受けて新たな力が生まれる。
和田「『WE GOT THE BRASS』が出ましたので兵士に撒いていたところ、それを読んだ一人の兵士が感激して、突然話しかけて来たのです。“自分たちもこのような新聞を是非出したい”というのです。[…]神楽坂のベ平連と相談して、兵士たちが原稿をそろえ、漫画まで書いて持って来たものを受けとって印刷する。でき上ったものをかれらに渡すとともに、ベ平連を通じて各地にも配って貰うことをはじめたわけです。昨年一一月末に第一号、一二月末に第二号が出ています。」(清水・古山・和田、1970:212−213)

和田「私たちのやっているのは印刷すること、そのためのお金を作ることです。」(清水・古山・和田、1970:214)

◆自己表現(=自己回復)の場としての新聞。その機械を日本人がアシストする。
和田「軍隊生活のなかでは兵士たちは抑圧され馬鹿にされていますから、人間的な気分を持つことができないのですね、とにかく、自分の考えていることを文章に表現する。そのこと自体が非常な喜びなのです。」(清水・古山・和田、1970:214)

◆岩国基地:日本人が媒介者となる。米兵が運動しやすい環境をつくる(日本人への働きかけ)。
安川「岩国ベ平連、広島ベ平連などを中心として、米兵と連帯する活動がはじめられ、三月二一日には反戦放送もはじめられ、各種のGI新聞が、日本人の手でも米軍兵士にどんどん配られはじめました。「GIを殺すな」という題のビラを岩国ベ平連は市民に向ってまき、基地内の実情(ママ)をバクロしています。[…]日本人の役目は大きくなってきますね。」(清水・古山・和田、1970:220)

◆軍隊解体闘争:米国反戦運動支援と日本の反戦運動との両面。あるいはそれらの接点・コンタクトゾーンとして。
原田「この運動を考えると、アメリカの反戦運動に協力していくという面と、この運動が日本人の運動になっていくという面と、二つの面があると思います。そこで効果の面も、アメリカの反戦運動としての効果と、日本の反戦運動としての効果と、日本の反戦運動としての効果と二重になると思います。」(清水・古山・和田、1970:221)

◆ベトナム戦争のリアルな実感と「私とは?」という問い。
鈴木「あるジャテックの人がいっていたけれど“ベトナム戦争がおれの家に来て住んでいる”という気がするわけです。そうするとなぜこの男が脱走兵であって、おれはいったい何なのだろう、ということが突きつめられるわけですね。」(清水・古山・和田、1970:221)

◆カウンセリング=相談と組織化
安川「カウンセリングは、具体的なGIの日常的な悩みを解決するという面と同時にそれをつうじてGIを組織するという面が切り離せないものとしてある。」(清水・古山・和田、1970:226)

◆出会い語る場を創る。常設でない瞬間の場。
和田「おたがいに材料を持ちよってお金をかけずにパーティーをやろうということになり、朝霞駅前のビルディングを借りてやりました。全部で、日本人も、兵隊でないアメリカ人も加わって百人位で音楽をガンガンかけて踊ったり食べたり飲んだりしました。兵隊の方はかなり熱心で、この次はいつやるかとか、自分の下宿にレコードをとりに行くのもいました。壁に、メイク・ラヴ・ノット・ウォー(戦争やめて恋をしよう)と書く黒人兵もいました。ちょっとさだかに評価しかねますが、とにかく自由な気分でのびのびしたいという気持はかなり兵隊のなかにあることはわかったわけです。岩国では、四月四日と一二日に錦帯橋のたもとで、ピース・マークをかかげて“ラブ・イン”というのをやっているそうです。」(清水・古山・和田、1970:226)

・自衛隊に対する働きかけ

◆ベトナム=南京=沖縄:抑圧の歴史とそれを支える国家・軍隊。根底的に抗う視点。ベトナム反戦が沖縄と自衛隊の問題を捉える。ベトナム経由自衛隊&沖縄。
和田「戦争と抑圧をすすめている体制と、人間らしく生きたいという願望の対決のなかで国家を超えていくということが必要なのではないか。[…]日本の自衛隊についても隊員にもっともっとベトナム戦争に直面させていかねばならない。過去の南京虐殺、未来の沖縄の民衆に対する抑圧とつながるものとしてベトナム戦争をとらえさせ、米軍解体という状態を自分たちの問題として考えさせていかなければ自衛隊の解体ということはありえないと思う。」(清水・古山・和田、1970:232−234)

◆暴力装置を実感として理解する。自らを含め抑圧された主体としての国民・兵隊。暴力装置の弱味。一対一の具体的な運動。呼びかけ、会話し、変容する。相互の解放闘争としての具体的な活動。
安川「軍隊というものは権力の暴力装置であるととらえられるのですが、[…]今まで活動しているうちに具体的なとらえ方に移っていったと思うのです。つまり、ぼく自身も権力に抑圧されている一人の人間なのだけれど、もっと直接的に、暴力装置に組みこまれ、それだけにもっとも抑圧されている人間がおり、だからこそ権力というのは非常に弱味をもっている。抑圧装置が人間によって支えられていることに権力の弱味があるということを具体的に、実感として理解していったと思います。」
安川「ぼくらの運動の特徴というのは何よりも、あらゆる意味で具体的だということですね。肉体を持っている自分が肉体を持っている相手に働きかけていくという点で具体的だし、一対一の話しのなかで、のっぴきならない具体的な問題を解決していかねばならない。[…]一対一の話しのなかで、権力を堀りくずしていき、かれらを解放していくと同時にぼくらを解放していく。ぼくらの運動はこうした性質のものだと思う。」(清水・古山・和田、1970:235)



■書評・紹介


■言及


*作成:大野 光明
UP: 20110626 REV: 20180225
社会運動/社会運動史  ◇ベトナムベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)BOOK
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