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『ベ平連――巨大な反戦の渦を!』

小田 実 編 19690930 三一書房,258p.

last update:20110626

■小田 実 編 19690930 『ベ平連――巨大な反戦の渦を!』三一書房,258p. sm02 1vie beh

■出版社/著者からの内容紹介
「現在、日本の地にあって200を越す「自立」した諸組織が、相互に遠心・求心運動をくりかえしながら1つの大きな反戦の渦巻を形成しつつある。この巨大な人間の渦巻が、北爆反対を契機に65年4月に「組織体」としてではなく「自立」した個人の「行動体」として出発した《ベトナムに平和を!市民連合》である。既成平和運動の低迷と分裂の中にあって“ベトナムに平和を! ベトナムはベトナム人の手に! 日本政府はベトナム戦争に加担するな!”のスローガンをかかげ、フォーク・ゲリラの「西口」解放闘争をはじめ、69年反戦万博開催と、やつぎばやにその巨大なエネルギーを発揮している。いままた、70年安保を前にして『週刊アンポ』を発刊し、その内部に貪欲にエネルギーを吸収しようとしている。
本書は、ベ平連みずからが5年間の活動を点検し、今後の展望を明らかにした中間総括の書である。
※裏表紙より引用。

■目次

第一部 六・一五から七〇年へ
 Ⅰ ベ平連とは何か―――既成の枠組みでは理解できぬもの
 Ⅱ 何かが始まっている―――六月一五日からの人間の渦巻
 Ⅲ 一九七〇年とベ平連―――統一についての私的覚書
第二部 討論・われわれにとっての“ベトナム”とは
 Ⅰ “ベトナム”とはわれわれにとって何であったのか
 Ⅱ 七〇年代へ向けてのベ平連
第三部 渦巻を!巨大な人間の渦巻を!
 Ⅰ あらゆる空間に反戦の渦巻を―――ベ平連運動はひろがる
  1 大村収容所の壁の中へ
  2 脱走兵ポール・サイモンに何が起ったか
  3 「市民」は海、「ゲリラ」は魚―――京都ベ平連
  4 未来社会を現在に媒介するもの・姫路行動委員会
  5 ゲリラの群・王子の若者たち
  6 八紘一宇の塔に反戦旗を―――宮崎ベ平連
  7 フォーク・ゲリラは、あらゆる空間を解放する―――東京フォーク・ゲリラ
  8 反戦キャラバン北海道を行く―――北海道キャラバンの記録
 Ⅱ あらゆる人間を反戦の渦巻に―――ベ平連運動・参加の原理
  1 若者は走る、オチボはゆっくりと歩く
  2 戦無派――― 一〇・八ショック組闘争宣言
  3 ある大学ベ平連の内から―――立教大学ベ平連
  4 「不良品」高校生
  5 国境を超えて―――外国人ベ平連
  6 キャットは反逆する
  7 地上に一粒の種を―――カトリックの立場から
  8 私は妻であり、母であり、人間であり
  9 こらむ・ベ平連的人間
あとがきにかえて
付録・ベ平連年譜・所在地・参考文献


■引用


第一部 六・一五から七〇年へ
■Ⅰ ベ平連とは何か―――既成の枠組みでは理解できぬもの―――(吉川勇一)
「このようにつくりあげられ、強制されていた市民運動像というものは、極端にいえばこんなものだろう。デモがある。そこには全学連はいない。いや、いてはならない。労組もいない。高校生はいてもいい。しかしその高校生は「反帝高協」とか「反戦高協」などというゲバ高校生ではなく、ノンセクト・モデレート、若さと明るさと純真さとをこねあげたような[…]純粋培養無菌型高校生でなければならず、そのほかにいていいものは、主婦であり、大学教授であり、作曲家であり、評論家であり、医者であり、そして庶民を代表するものとしての薬屋の若旦那とか八百屋の亭主ぐらい加わればなお結構、お婆さんなら大歓迎といった構成である。この集団は赤旗を決してもたず、インターを歌わず、歌ってもいいのは、せいぜい「ウィーシャル・オーバーカム」という英語の歌ぐらいで、機動隊との対決などはもってのほか、緑色の腕章をまいた交通整理の巡査とニコニコ話しあいながら、ビルの谷間を自動車ラッシュにもまれながら整然と歩く―――まず、こんなものである。
 こうした反戦市民運動なら、害がないどころか、政府にとってもマスコミにとっても、日本に平和憲法が存在し、言論・結社の自由があり、民主主義が保障されていることの証左としてむしろ必要なものだったのだろう。だが、現実の市民運動も、ベ平連もそういうものではなかった。[…]ベ平連は、国家、そしてそれの不可欠の要素である軍隊に公然と反逆して脱走兵の援助を開始した。全共闘などという「気狂い集団」とまで友達づきあいをはじめた。[…]権力とマスコミの共同作業によってつくりだそうとした市民運動像の枠から現実の運動はどんどんはみ出していったのである。
 現在の市民運動は一九六〇年の安保闘争のときにもりあがった市民運動とかなり違った質をもっている。六〇年の市民が受益者心理を基礎とし、日ごろ享受してきた市民としてのささやかな幸福、日常の生活が、あの強行採決に象徴される議会民主主義の破壊―――ファシズムの出現によって奪われる危険性を感じとり、その日常の生活の平穏を支配層の暴挙から守ろうとするところからそのエネルギーを発揮したとすれば、現在のそれは、六〇年の時に守ろうとした日常の生活そのものが、実はベトナム戦争への日本の加担を可能にし、沖縄を本土から切り離し、安保体制を支えているのだ、という認識をもつにいたっている。
 「憲法を守れ、議会民主主義を守れ」と六〇年の市民は叫んだ。だが、ベ平連など今の市民運動は、その憲法が沖縄には適用されていないこと、いや沖縄を適用地域から除外したからこそ、第九条を含む「平和」憲法として成立しえたのだということを、痛みをもって感じている。」(吉川、1969:11-13)

「今の市民運動は、その楽しいお買物の散歩道が、同時に恐ろしいベイタンの通り道―――ベトナムへ飛ぶ米軍機用のジェット燃料を積んだタンクローリー車が毎日何十輌も定期的に通過している路線になっている、ということを知っている。一見、楽しく平穏な街が、実は戦争の通り道にもなっていることを拒否しようとしてデモをする。」(吉川、1969:13)

「ベ平連には会員などというものは存在していない。綱領がなく、規約がなく、したがって入会手続きもなく、会費もない。会員がいないのだから、会員総会などがなく、役員選挙がなく、したがって役員はいない。」(吉川、1969:17)

「ベ平連であるかないかの客観的区別の基準は非常にアイマイである。ただ○○ベ平連を名乗る以上、何らかの共通点があるのだろうが、それは如上の組織形態をもつことと、「ベトナムに平和を!」「ベトナムはベトナム人の手に!」「日本政府はベトナム戦争に協力するな!」の三つのスローガンぐらいであろう。」(吉川、1969:18)

「今のようなベ平連運動がそのままの形で永く存続するとは思えないし、また存続させようなどということは、ベ平連のだれ一人として考えてもいないだろう。そういう意味では、ベ平連も市民運動も現在の状況に規定された過渡的存在なのだと私は思う。」(吉川、1969:21)

「権力は、それ[運動の発展]を阻止しようとして、なおもさまざまな手をうってくるだろう。マスコミを使っていろいろな分類や範疇をつくりあげるだろう。[…]捜査を行ない、押収し、盗聴し、訊問しても、おそらくや、警察や為政者には、ベ平連とは何かということが最後まで判らないのだろうと思う。ベ平連にせよ、全共闘にせよ、反戦青年委員会にせよ、今生まれ、拡がりつつある新しい運動は、規制の枠組みでは理解できぬ新しい質をもったものなのである。そしてそのことを理解するためには、いっしょに集まり、いっしょにデモをし、みずからがベ平連の運動をはじめてみなければならないのである。」(吉川、1969:20-21)

◇分類すること、理解すること=鎮圧し、管理すること。それに抗う流動的ネットワーク型、「ヌエ」(おだ)としての運動の新しさと潜勢力。


■Ⅱ 何かが始まっている―――六月一五日からの人間の渦巻―――(おだまこと)
「安保をつぶそうとする、沖縄を私たちの手にとり戻そうとする、そして、日本を私たちの手にとり戻そうとする(その三つが、私たちの今度の「反戦・反安保キャラバン」のスローガンだった)人びとの意志―――私はどこへ行ってもそれを感じとることができた。」(おだ、1969:25)※キャラバンは1969年6月。

「昨年には、どこで集会を開いても、主催者は人の集めかたに苦心していた。今年になって、どの運動がどのようなかたちで集会を開いても、若者たちがむれをなして来るようになったのは、大学闘争についての集会があちこちで開かれるようになってからのことだった。そのうち、その現象は反安保、沖縄の集会、デモ行進に移って、そして、やがて、それは、若者たちばかりでなく、もっと上の世代の人たちをふくむものになり始めてきた。」(おだ、1969:27)

「おそらく、現在、運動にとって必要なのは、流動的なヌエ的状態なのだろう。あるいは、すでにつくられつつあるヌエ的状態に徹底することではないのか。」(おだ、1969:41)

◇「とりもどす」=主権の確立、権利の擁護と再構成。自分たちの生活を変えることで、「沖縄」をなくしていく?


■Ⅲ 一九七〇年とベ平連―――統一についての私的覚書―――(鶴見良行)
「ベ平連が[1969年]六・一五の統一行動に中心的役割りを果たしえたのは、その発言権が量的に増大したからではなく、むしろ、その運動のスタイルが、現在進行しつつある地すべり的な政治現象の“質”をもっとも集約的に代弁しているからなのである。[…]現在進行しつつある地すべり的な政治現象とは何か。それは、戦後二四年をへて完成しつつある戦後民主主義制度と独占資本主義管理社会で起こりつつある究極的な人間解放の欲求の噴出である。[…]人間解放の欲求は、直接的・即時的なもので、それは一種の文化革命の相をさえ帯びつつある(と同時にそれは一種の風俗現象として体制に吸収される危険性ももっているが、それについては後にふれよう)。」(鶴見、1969:49-50)

「なぜ、日本の戦後体制に深い亀裂を入れつつある政治的社会現象の普遍的質を代弁しうるようになったのか。ひとつの解釈は、ベトナム人民にたいする人間的同情から出発し、そのかぎりでは、戦後民主主義や基本的人権の擁護でたたかった六〇年安保闘争の延長上に位置したベトナム反戦運動が、沖縄問題、ベトナム特需、各地の基地闘争、日本の中の脱走兵と、運動を深めてゆく過程で、ベトナム―沖縄―安保―アメリカという、日米を基軸とするアジアの基本的政治構造にゆきつき、いわゆる「わが内なるベトナム」認識が生じたということがある。
 ベトナム戦争は、もはや遠い河の向うの戦争ではなく、この日本ですべての日本人を何がしかそれにかかわらせる戦争であった。六〇年当時には、守られるべきものだった日常的な市民生活が今では否定されるべきものとなった。」(鶴見、1969:51)

「第一に反戦運動、反体制運動の核となるような個人の自発的行動がなぜ現代の普遍的質となりうるのか[…]おそらく、個人の即時的、直接的な抵抗の行動が時代の普遍的質を獲得しうるのは、現代の抑圧の性格に対応しているのだろう。現代の先進工業社会における抑圧は、社会的機能によって文化されはいず、相対的なものとなってしまっているのだろう。フォークを歌いバリケードでたたかう若者たちが、かならずしも貧困を口にしないのは、彼らが昔の学生や労働者に比べてそれだけ豊かになったからではなく、抑圧が貧困という突出した形をとらないだけのことだ。つまり私たちは、生活の全領域で、全人間的な抑圧をうけていて、それだからこそ逆に、突出した自発的な抵抗行動に、全人間的な解放感を燃焼させずにはいられないのではないか。」(鶴見、1969:64-65)
「『脱走兵の思想』の中で、JATEC(反戦アメリカ軍脱走兵援助日本技術委員会)の一員[…]が、次のように語っているのは象徴的である。「[…]脱走兵援助の運動者は、自分自身が脱走している、つまりそのときは、現世的秩序から時間的・空間的・あるいは政治的に出ているんだ。そのとき、非常に孤独感と勝利感と猜疑感とがないまぜになるけど、歴史というものはこういうふうな現実秩序からの脱走者が作ってきたにちがいないと思うのです。」(鶴見、1969:65)

◇日常生活擁護から日常生活の否定と変革へ。政治構造の自覚化。「わが内なるベトナム」。
◇全面的な抑圧=戦争体制。そこからの脱走と書き換え。


第三部 討論・われわれにとっての“ベトナム”とは
■Ⅰ “ベトナム”とはわれわれにとって何であったのか
「われわれが日常生活の中から出発しているということは、どうしてもそこにいろんな種類の自己欺瞞を含んでそこから出発せざるをえないということで、それをまじめに見据えていけば、やがてはそのなかで本格的なものにぶつかる。結局われわれは朝鮮の問題にもぶつかるところまで道を掘り抜いてきたわけだ。脱走兵とか徴兵忌避といった問題でも、はじめはアメリカから始まったけれど、金東希の問題が出て来たでしょう。結局は、ベトナム反戦運動をやっていても、朝鮮問題がセリ上ってくるような仕組みになっていったでしょう。真実というものはわれわれの後から追っかけてくるものなんだな。」(小田、1969:74)鶴見俊輔の発言

「「敵が誰かわからない」というのが全面的抑圧の特徴だと思う。」(小田、1969:78)鶴見良行の発言

「現代の戦争というのは、戦争であることと平和であることとの見さかいがハッキリとつかないという状況になってきていると思う。これは軍人と文官(シビリアン)との区別がなくなっていることと対応しているのですがね、そうした種類の戦争として最初にあらわれてきたのはベトナム戦争ではないか。そういう状況が、逆に管理社会のなかでのわれわれの抵抗の姿勢というのを新しく生み出しているのではないだろうか。」(小田、1969:82-83)鶴見良行の発言

「たとえばデモに出るのも、最初は深い考えがあるわけでなく、楽しいから出る。すると機動隊が出て、そこからベトナム戦争におけるアメリカ帝国主義というのが見えてくる。自由の壁といったものが見えてくる。そうすると今まで自由であったものが自由でなくなり、平和だと思っていたものが平和でなくなる。」(小田、1969:84)吉岡忍の発言

「そのへんがベ平連のアイマイなところで、「この平和が有難い」という部分と「この平和はインチキだ」という部分が共存しているわけでしょう。それがつながって行くので、それをつなげていく、あるいは認識の方法として行動というものがあった。それを生み出していったことがベ平連を大きくしていく契機となった、といっているのです。」(小田、1969:84)鶴見良行の発言

◇デモに出ることで実感し、自覚化される戦争と管理の日常化。生み出される抵抗。一方で「平和が有難い」とも感じてしまう市民性がない交ぜになる。絶えず意識化し、問いをつなぐ場としてのベ平連。

「一種のニュー・レフト運動だと思う。[…]脱・体制か体制内かということにあるのではなく、政治のとらえ方、おおげさにいえば革命のとらえ方、組織方針といったところにあると思う。その意味で切ってみると東大全共闘などのある側面などとは非常に似ている。組織方針なども「俺は闘うぞ」といえばそれで全共闘だというのはベ平連運動と全く同じでしょう。反戦青年委員会も、そのかぎりでは非常に近い」(小田、1969:96-97)武藤一羊の発言

「反安保の問題に話をのばしていきますとね、反安保というのは日本の革命の問題という形でとらえることもできるし、もう一つの方向としては、日本民族を中心とした国際的な平和運動という方向が考えられる。安保と憲法第九条との関連で考えるのだけれど、完全な主権否定の運動、国家消滅の運動だな。日本が兵器体系の一切を放棄したとすれば、古典的な意味での国家とはいえないかもしれない。そういう形をひっさげて全世界に訴えていくという方向もあると僕は考えています。」(小田、1969:101)鶴見良行の発言


第三部 渦巻を!巨大な人間の渦巻を!
Ⅰ あらゆる空間に反戦の渦巻を―――ベ平連運動はひろがる―――
■3 「市民」は海、「ゲリラ」は魚―――京都ベ平連―――(飯沼二郎)
「市民運動に、たえずつきまとう不安は、支配階級によって作られた法律のワク内にとどまる運動によって、果たして支配階級に決定的な打撃をあたえることができるのかという不安であり、私たち京都ベ平連では、くり返しくり返し、この点が問題とされた。「私たちの運動は、たんなる自己満足にすぎないのではないか」こういって、私たちの運動から去っていった人たちも、すくなくなかった。たしかに、合法的のワク内にとどまる運動によって、支配階級に決定的な打撃をあたえうるといったら、それはウソになるだろう。
 しかし、私たちは、現在、こう考えている。市民運動は合法のワク内にとどまらなければならないが、決して非合法活動を否定するものであってはならない、と。たとえば、京都ベ平連という集団の行動としては、あくまでも合法のワク内にとどまらなければならないが、京都ベ平連にぞくする個人の行動としては、必要とあれば非合法活動をも辞してはならない。[…]日本の過去の社会運動において[…]目的を同じくするものが、たがいの運動方針、運動形態の正しさを認めあわず、ただ自分の運動方針、運動形態のみが正しいとしてほかのそれを否定し、限りなく分裂し、抗争しあいつつ、遂に消滅していった不幸な歴史をもっているが、現在の私たちは、そのような愚を再びくり返してはならない。」(飯沼、1969:130-131)

「市民運動は、あくまでも合法のワク内にとどまるとはいえ、社会変革を支持する人民の底辺を積極的に拡大していく努力において、決してゲリラの運動に劣る意義をもつものではない。正しい市民運動は、非合法活動を是認し包みこんだ合法活動でなければならない。」(飯沼、1969:132)

「自他の人権を尊重する市民感覚から、市民運動は出発する。市民感覚とは、デモや集会をするときにも、まず、道行く市民の迷惑にならぬことを考えるということである。」(飯沼、1969:133)

◇市民運動=合法=迷惑をかけない。迷惑をかけることと変革とのつながりを見れていないのではないか。すでにこのような定義から運動ははみ出している。

■5 ゲリラの群・王子の若者たち(鈴木一郎)
「この春[1968年]、王子では、米陸軍野戦病院=ベトナム侵略加担の“人間兵器修理工場”の開設をめぐって、全学連、反戦委と機動隊の間で、連日激しい街頭戦がくりかえされた。やがてマスコミが、佐世保の市民と対比して「王子型市民」「投石する群集」と名づける王子の住民も、初めのうちは、ヘルメットをつけ角材と投石で機動隊と渡り合う学生たちを、遠巻きにした野次馬として、あるいは、御上のお達しで締めた雨戸のすきまから、こわごわ覗いていたものだった。が、たび重なる激突を目のあたりにして、王子の住民たちは変化していった。「機動隊は何も、あすこまでやらなくてもいいじゃないか!」東京のどまん中に、野戦病院の開設を強行する政府の姿勢の中に、彼らが「これが安保だ」と気づくまで、そう時間はかからなかった。[…]激しく闘う学生たちの姿につき動かされ、いわば彼らに呼び出される形で、やがて王子の市民運動は始まった。」(鈴木、1969:144-145)

「“われわれは野戦闘争に骨を埋めるんだ”。そして、十三年間闘いつづけた砂川の人たちのことが、尊敬の念をこめて語られた。」(鈴木、1969:147)

「私たちの住んでいる王子、十条、赤羽は、戦前、戦後、ベトナム戦争下の現在、ずっと基地の街だった。野戦病院のできる前、そこは米軍極東地図局だったし、戦前この辺一帯は陸軍兵器廠、被服廠、そして火薬庫だった。野戦病院が開設されようとした際、伝染病やヘリコプターの騒音など基地公害に反対する立場から運動が拡がりを見せたが、そのとき、私たちは被害者である前に中国、朝鮮、そしてベトナムの民衆にたいして、ずっと加害者でありつづけたのだという自覚を、どれだけ実感としてもっていただろうか?」

◇目の前に広がる米軍施設、基地。東京においてさえ、そうであった。ある意味で沖縄の状態と似ていた。否応なしにうずく反米ナショナリズム。「日本をとりもどす」や「沖縄をとりもどす」というのは米軍の撤去による「真の独立」という意味でもあった。市民運動に胎動しているナショナリズム。ナショナリズムは反権力、反国家と両立しうる。その捩れ(?)を沖縄問題はどう受け止めるのか。何が見えないのか?


■6 八紘一宇の塔に反戦旗を―――宮崎ベ平連―――(山下孝忠)
「一九六七年十月八日の羽田闘争に始まり、佐世保、成田、王子と続く一連の反戦闘争は、「わが内なるベトナム」「われわれにとって沖縄とは何か」という問いを、まったくいや応なしに私たちに鋭くつきつけて来た」(山下、1969:152)


■7 フォーク・ゲリラは、あらゆる空間を解放する―――東京フォーク・ゲリラ(フォーク・ゴリラ)
「ベ平連の運動をやっていて、たまたまギターが弾ける人間が母体となり、ベ平連の一つの運動形態として登場したのが反戦と反体制の歌をうたう「東京フォーク・ゲリラ」なのだ。」(フォーク・ゴリラ、1969:162)

「歌には、フォークには、不思議な力がある。人びとの心に、すきま風のようにソッと入りこみ、何かを置いてくる。どんな内気な人びとにも、俺にもできると思わせる不思議な力をもっている。七〇年を目の前にして、運動に必要なのは青白きインテリではなく、行動するゴリラ、行動する市民、行動する学生、労働者なのだ。[…]現在、重層的な社会構造内において、さまざまな運動形態が必要であろう。」(フォーク・ゴリラ、1969:169)


8 反戦キャラバン北海道を行く―――北海道キャラバンの記録―――(花崎皋平)
「六月二二日の札幌集会は、千二百人ぐらいの人びとが集まり、反戦フォーク・ゲリラの歌、講師たちの話のあと、街頭へあふれでてデモに移った。「安保をつぶせ。日本を、沖縄を私たちの手に」と大書した横断幕を先頭に、フランスデモ。「安保粉砕・闘争勝利」の呼応しあうシュプレヒコールは、ほとんど全工程間断なく続き、街は久しぶりの解放感にみたされた。」(花崎、1969:171)


Ⅱ あらゆる人間を反戦の渦巻に―――ベ平連運動・参加の原理―――
■3 ある大学ベ平連の内から―――立教大学ベ平連―――(岩永正敏)
「一度、デモに参加した人は次回には必ず、自分の友人たちをさそって来ることがわかる。この「他人を参加させる」までのひとりの人の活動が、ベ平連の日常活動なのだ。[…]なぜ「この私が」参加するのか、を語るゆえに、それは強い吸引力をもつのだ。日常的な会話―――学生食堂で、芝生の上で―――それは行なわれている。もしかすると―――いや、きっと―――それは親兄弟にたいしてもなされているだろう。
 このように、人は、日常をひきつれて、非日常的な闘いに入るのだ。それはもちろん、日常とは紙一重のギリギリの場所かもしれない。しかし、だからこそわれわれは闘いの場を拡大し日常のスペースを非日常の闘いの場へと変更してゆかねばならないのだと思う。
 日常と非日常との接点、これをわれわれは見つけだした。そしてそこから闘いを開始した。これは、学生ベ平連のみならずあらゆるベ平連、反戦グループ、個人に共通のことと思う。」(岩永、1969:194-195)


■4 「不良品」高校生(山下達彦)
「これ[高一、高二]は、「生徒の魂をぬきとってしまう期間」といえるのではないだろうか。ワー、ワー騒ぐのは生徒の反作用である。そして高三になるまでにはほとんど完全に魂を抜き取ってしまい、いよいよ高三になると「楽しく、活発な」予備校同様の授業が始まる。」(山下、1969:202)

「「不良品」が造反を起せば「優秀品」の工場である学校の管理者が黙っているはずはもちろんない。」(山下、1969:203)

◇魂をぬきとられる前の反作用。

■6 キャットは反逆する(中原真喜子)
「山谷は、日本中、いたるところにある。そして山谷的労働者もまた、日本中にいる。このことは重要な問題だ。安保、沖縄問題と決して切り離して考えるべきものではない。だが、現実はどうだ。既成の左翼はもちろんのこと、いわゆる新左翼の間ですら忘れさられ、いや無視されている。
 資本主義社会であるかぎり、山谷は存在する。」(中原、1969:220-221)


■8 私は妻であり、母であり、人間であり(古屋能子)
「人間同士が話し合っては困るからだ。平和への願いを歌っては困るからだ。話してはいけない、歌ってもいけない。人間としての基本的自由は全部奪ってしまう。私たちのいっさいの意思を無視して戦争にひきずってゆくもの。軍靴の音が聞こえてくるようだ!!機動隊の靴音とおなじだ。私はそれに抵抗し、抗議するのだ。ごくあたりまえのことなのだ。
 広場ではない、通路だという。通路かも知れないなとわたしは思ったりする。たしかに新宿は米軍タンク・ローリー車の通路である。一昨年の八月八日の朝、新宿駅構内で起こった大爆発事故、米軍用ジェット燃料の鉄道輸送用タンク貨車が突然爆発したのだ。現在、この新宿駅を通って、日に四本の米タンク貨車が極東最大の空輸基地、横田・立川にジェット燃料を運んでいる。[…]日常性のなかの“基地新宿”、私はこれに断固反対する。抗議デモもする。ごくあたりまえのことなのだ。」(古屋、1969:225-226)

「やっぱり沖縄は遠いのだ。彼が生まれた、そのときから沖縄人であるということによって、私は常に彼に告発され続けているのだ。
 嘉手納基地でのすわりこみ、基地を飛びたつB52、カービン銃をもった米兵、逮捕、あれ以来、私の身体のなかにどっかり腰をすえて動かないかたまり、しこりのようなもの、おきなわ。両手で掻きむしりたいのだが……何とかはきだしてしまいたいのだが……。これが、私をゆさぶるのだ。
 けれども、私はそこでまた、とまどうのだ。沖縄はやっぱり私には遠いのだろうか!?」(古屋、1969:228)

「“連帯”そんなおこがましいことはもう考えまい、いうまい。“支援”そんなことも考えまい、いうまい。私は彼ら[沖縄デーで逮捕された沖縄出身の学生たち]の後から歩いて行こう、追い越すために休まずに歩いて行こう。矛盾だらけの私の変革をするために……。
 私の沖縄闘争はつづくだろう。
 沖縄の解放の日まで、その日はわたしの解放の日となるであろうから。」(古屋、1969:230-231)

◇日常性としての基地・戦争への抵抗。立ち止まる、話す、集まることの肯定、権力の弾圧。⇒米兵へビラを渡す、話す、という当たり前のことがフェンスやMPによって断絶されることとの類似。つまり新しい関係性(秩序への危機)の発生を取り除こうとすることへの抵抗。

■あとがきにかえて(古山洋三)
「「自発性」と「管理」=組織化の矛盾は今後、ますます大きくなっていくだろう。誰もこの問題を理論的に解決した人はいないし、解決した実例も手許に見出されるわけではない。ただ運動者として日々この緊張に耐えていくだけである。
 一つだけ、確実にいえることがある。それは、この緊張のなかで、運動者自身がたえず「変革」されなければならず、運動自身が「変革」されなければならないということである。それはわれわれ一人一人が「ふつう市民」であることをやめることではない。「ふつう市民」+「α(アルファー)」となる。その「α(アルファー)」を積みかさねていくことなのだろう。」(古山、1969:243)


■書評・紹介

■言及



*作成:大野 光明
UP: 20110626 REV:  
社会運動/社会運動史  ◇ベトナムベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)BOOK
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