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男性障害者のセクシュアリティを考える

横須賀 俊司 2003/03/15
障害学研究会(関東)第 31回研究会



Date: Sun, 1 Jun 2003 22:36:56 +0900
Subject: [jsds:8101] 障害学研究会(関東)第31回研究会報告

障害学mlのみなさま、

せやま@障害者研究会関東部会世話人 です。
以下、長文になりますが、3月に東京で行いました研究会の報告をお送りしま
す。この報告は、当日の要約筆記記録をもとに、まとめました。

長くなりますので、質疑応答部分は、別便でお送りします。

++(以下、記録)+++

障害学研究会関東部会 第31回研究会 
日時:2003年3月15日(土)午後1時半ー4時半

テーマ「男性障害者のセクシュアリティを考える」
話題提供者:横須賀俊司(鳥取大学教育地域科学部→現在は広島県立女子大)
司会:旭洋一郎

▼横須賀さんのお話し
▽頸随損傷者の身体状況
見てのとおり、私は障害者です。中学2年のとき、プールで首の骨を折り、
脳の命令を伝達する脊髄を損傷してしまったので、足が動かない、というよ
うな状況になりました。私の身体的なことを話すだけで30〜40分かかるの
で、割愛しますが、簡単に言うと、手足が不自由になり、体温のコントロー
ルができなくなり、首から下の知覚がマヒした状態になりました。首から下
は、触られても切れてもわかりません。以前、大学の後輩に介護を受けてい
たとき、足をひねり骨折したことがありました。通常骨折すると痛いと思い
ますが、私は全然痛くなく、平気で日常生活をしていまいた。しかし、時間
がたつと足が腫れ上がってきたので、これはおかしいということで病院に駆
け込んだら、骨折していました。それぐらい感覚がありません。頸椎損傷者
というのは、一般的に、そういう身体状況だといえると思います。

▽性機能障害をもつ障害者のセクシュアリティを考えたい
そもそも、私が障害とセクシャリティのことを何で考えるようになったかと
いうと、話は学部時代に遡ります。1983年に私が大学に入学した頃、『ラ
ブ』(河野秀忠・牧口一二編著、長征社、1983)という本が出ました。その
本は、『そよかぜのように街に出よう』(りぼん社)という雑誌で扱われた
性に関する特集記事をまとめたものでした。それまで、おおっぴらに障害者
と性に関する話題が活字媒体で出ることはほとんどありませんでした。映画
「さよならCP」でも、障害者のセクシャリティが話題になっていますが、あ
れは映像であり、活字ではありません。私は、その本を読みました。登場す
る障害者は、関西の障害者運動をやっている人々でが主でした。私は、そこ
で語られていることを読み、疑問に思い始めました。そこに登場している障
害者には、性機能障害はないということに、違和感をもったのです。我々の
ように脊髄を損傷すると、大なり小なり、性機能障害が伴います。ただ、そ
の本は、性機能障害がない人たちが語った本だったため、そこには決定的な
違いがあると感じたのです。少なくとも、自分なりに思ってきたこととは、
若干違うという思いがありました。そこで、自分としては、性機能の障害を
もつ人を含めた障害者とセクシュアリティに関わる問題をライフワークにし
よう、と、えらいことを考えてしまったわけです。

▽私の出発点
私は、学部の時に「障害者解放研究部」という団体に所属していたのです
が、卒業を期に、文集作ることになりました。はじめ、私に与えられたの
は、「介護者とのこと」というテーマでした。しかし、私は、介護よりも"
性"に興味があったので「Y君のちょっとHな話」という文章を書いたので
す。当時は、障害学の存在も知らなかったですが、今考えてみると、その文
章は、ある意味、障害の文化という視点をいれて考えていたということがあ
ります。つまり、性機能障害がある人は、それがない人と同じようなセック
スライフをおくる必要はないのであって、性機能障害のある人のセックスラ
イフを送ればいいということを当時書いていました。我ながら驚きますが、
私は、すでに17、8年前にそんなことを考えていたのです。基本的に、その
発想は今でも思っています。
ただ、結論を先に言うと、その後、自分なりに考えてきた結果、それを言っ
ただけではよくわからないだろう、というところに思い至っています。理念
としては新しい障害独自の「文化」、つまり、ライフスタイルや解釈、思考
枠組み、価値観といったものを作ればよいと思うのですが、現実は、それほ
ど甘いものではないということを考えるようになってきたのです。つまり、
我々は常に支配的な考え方に引っ張られていくということを、強く意識する
ようになったのです。そのなかでの現実の中での苦悩というのが、私の次の
解くべき疑問になりました。

今の世の中は、ジェンダーの問題等々があり、特に男性障害者は「男らし
さ」を生きる事を強いられている局面があります。セクシャリティに関連し
て言えば、性行為をする上で女性を満足させるとか、性器結合を前提とした
性交をしなければならないといったことを思いこまされている。そういう社
会の中で生きる頸椎損傷・脊髄損傷者は、そうした考えに絡め取られてい
る。こうした自分の仮説は、私が見聞きした学生時代の友人の悩みなどとも
一致していたので、当たっているだろうと考えてきました。
男性は、例えば、中学、高校時代の男性トイレを想像してもらいたいのです
が、そこにはついたてがないので、隣を見ると、隣の人が見えるわけです。
そうすると、あいつのオチンチンは大きいとか、小さいとかいったことで話
題沸騰になります。修学旅行で風呂に入っても、そうしたことがまず話題に
なるわけです。そうすると、かなり幼いときから、オチンチンは大きい方が
いいといったような支配的な思想にこだわりができてしまい、頸椎損傷・脊
髄損傷者は、自分のものがコントロールできないといったことで苦悩してい
ると思っていたのです。

▽一昨年からの調査のこと
こうした仮説をベースに、一昨年から聞き取り調査を始めました。しかし、
この調査を通して、頸椎損傷・脊髄損傷者は、性機能の障害と現行のジェン
ダーの問題によって悩み苦しんでいるであろうという私の予想を見事に裏切
る語りがつぎつぎと出てきました。深く聞いていけば、「やっぱり」という
部分もありますが、表面的には、非常にアクティブで、いわゆる男らしい行
動をしていたり、考え方を持っていたりする人が出てきたのです。
 また、一般的に脊髄損傷をすると、男性は勃起不全を起こしますが、実は
人によっていろいろで、全然勃起しない人もいれば、逆に勃起し続ける人が
いたり、射精しない人がいたりすることもわかりました。医学書を読んでも
よくわからないのですが、一説では、射精しない変わりに、精子が膀胱に逆
流しているという説があったり、睾丸自体が精子を製造してない、というよ
うな説もあったりで、実のところ機能的なことについてはよくわからない状
態なのです。
ちなみに、女性の脊髄損傷は、男性ほど機能障害は起こりません。それはな
ぜかというと、男性の性機能というのは、陰部神経によって支配されていて
神経がコントロールをしていて、女性の場合は、女性ホルモンが支配してい
るということからくる違いだということです。そのため、神経にダメージが
あっても、女性の場合は、直接的なものではないので、男性ほど、性機能障
害は起きないということになるそうです。
たとえば、脊髄損傷でも、女性の場合、出産はできます。

話を戻すと、今のところ、調査で聞いた人全て(5〜6人)が、性機能障害
に関しては少なくとも、当初、私が想定していたほどには苦悩しているわけ
ではないということがわかってきました。果ては、私は驚いたのですが、例
えば「女性と性的な体験があるか?」というと、「あります」というので、
「障害者になってから、どれぐらい、何人と関係をもったことあります
か?」といったことを聞くと、そんなに多くはないだろうと思っている私の
予想に反して「20人ぐらいかな」などと言った回答が帰ってくる。その時
は、目が点になりました。「はっ?」という感じでした。はじめはその人だ
けが特殊なのかと思ったのですが、あともう一人、二人、そうした経験を
語っている人がいるのです。そして、20人もの人と、どこでどうやって知り
合って、そういう関係にもっていくのかということを聞いていくと、飲み屋
に行って、隣に座って盛り上がったからそのままホテルに行った、という答
えが返ってきたりしたわけです。私は、「それでは健常者と同じやない
か??」と思って愕然と(…)しました。

我々は、日常生活に介護が必要なので、当然、自分からベッドに移ったり、
服を脱いだりできません。初めて会ったその日から、その人に介護をしても
らうわけです。我々の場合は、首から下は麻痺していますので、汚い話で恐
縮ですが、おしっこ、うんこのコントロールはできません。そうすると、お
しめなどをしていて、オシッコが少しでているとやや汚れぎみになります。
そんな状況であることは変わりないはずの人々が、えらくアクティブな語り
を展開したので、「聞いてみな、わからんな」と思ったわけです。
私は、この調査を始めるときに、この主題は、いきなり見ず知らずの人に聞け
る主題でもないと考えたので、知り合いや知り合いの知り合いといった伝手を
使って話し手を見つけました。私の知り合いというのは、障害者運動をしてい
たり、支援費制度に対する運動でも座込みをしたりとか、自律生活センター働
いていたり、という人たちで、いわゆる、社会参加をしている障害者ばかりな
のです。そういう、社会参加をしているということと、性的な行動がアクティ
ブというのは、ある程度、相関関係があるのではないかというのが今のところ
考えられることです。在宅の障害者などに話を聞くと、別の話を聞くことにな
るのではないかということも考えていましたが、今のところ、調査自体は、ス
トップしています。そこで、このある意味特殊ともいえるかも知れない調査の
ことは一旦脇に置いて、もう少し障害者とセクシュアリティということについ
て、考えを進めてみたいと思います。

▽わたしの障害者福祉論
私は、大学で障害者福祉論という授業をもっていて、そこでも、セクシャリ
ティについて一コマくらい話しています。その時に、まず、はじめに話すの
は、私の身体的状況、つまり、首から下の感覚がないということについて話
をします。そこで、学生に「私に性的欲求はあると思いますか?」と聞くわけ
です。そうすると、最近はだいぶ少なくなりましたが、それでも1割くらいの
学生は、横須賀には性的欲求がないだろうと言います。なぜないと思うの
か、と聞くと一様に「首から下の感覚がないから」という理由を述べます。
私は、「そうか、人々は首から下が麻痺していると、性的欲求はないと考え
るのか」、とあらためて思ったりするわけです。そこで、アメリカの性教育
協会では、セックスは足と足の間でやるものではない。耳と耳の間でやるも
のだと言っているということを話します。そうすると、アホな学生は「え??
鼻でやるのか?」などと言ったりするのですが、それは違って、つまり「脳」
でやるということです。セックスは、ファンタジーやイメージでやるものだと
いうことです。つまり、身体的に感覚が麻痺しても、性的欲求がないとは限ら
ないのだということです。いや、性的欲求ということに限って言えば、障害者
は健常者以上に、欲求があるといえるのではないでしょうか。

▽障害者男性の性的欲望
私は、以前から、一般的にいって特に男性の場合、障害者の方が、性的欲求
が強いのではなかと考えてきました。なぜかというと、障害者は性的な機会
から、シャットアウトされる傾向にあるからです。私もそうでした。中高生
の頃、私は、親父と一緒に、夜9時からの「土曜ワイド劇場」を見ていまし
た。すると、いつも9時55分くらいになるとベッドシーンになるのですが、
(なぜかというと、10時になると他局の番組が始まるのでチャンネルを変え
させない為に、わざとその時間帯にベッドシーンがでてくるようにしている
とのことでした)私の親父は、その55分のベッドシーンになると、リモコン
で、ピッとチャンネルを変えてしまうのです。はじめのうちは、10時が近い
し、違う番組を見るのかなと思っていました。しかし、10時を過ぎると、ま
た、土曜ワイド劇場にチャンネルを戻すわけです。毎週それをやるわけで
す。そこで、私が、なんぼものを考えへん人間でも親父はあやしいと気づく
わけです。俺にこれを見せないようにしているのかと、思うわけです。障害
児の親は、特に知的障害の子どもを持つ親は、そういう傾向にあるのです
が、子どもに性に目覚めてほしくない、と願うという傾向があるのです。う
ちの親父も多分そう思っていたのでしょう。なぜ、そういう傾向があるのか
ということはあらためて考えないといけないわけですが、ここではひとま
ず、そういう状況があるということを押さえておきたいと思います。障害者
は、性に関する情報や機会に接するチャンスが、シャットアウトされるわけ
です。

しかし、完全に無菌状態のままでいられるのならまだしも、今の世の中は性
に関しての情報があふれ返っています。中をみることはできないけれども、
表紙を見ることはできる。それは障害者でも同じです。
コンビニにいけば、その手の雑誌やマンガなどがあふれかえっているわけで
す。えらく性的描写が過激なものもあったりします。そうしたメディアに
よって、人々は性的欲望や欲求をかりたてられるわけです。しかし、頸椎損
傷者の場合は握力がないために、指がひらかないので中味は見られない。
「これが見たい」と思って手を伸ばしても、取れないのです。運良くつかんで
引っかかってボトンと落としでもしたら、知らん顔をしてその場を逃げなけ
ればアカンことになるわけです。「拾ってください」というのには、ちょっ
と勇気がいります。また、AVについても同じ状況です。レンタルビデオ屋ま
で行けたとしても、アダルトビデオのコーナーで、そのビデオを取ってくれ
ますか、というのは恥ずかしいし勇気のいることです。表紙は見ることがで
きても、中身の情報が100%遮断されてしまう。ちらちらと表面的な情報だ
けを見ていて、中味が見られないというのは、とてもストレスがたまること
です。

お腹すいたときにご飯を出されて、お預けされたら、余計食べたくなる。障
害者は、性に関することでいうと、そういう状況に置かれているのではない
かと考えてきたわけです。現在の日本で、二十歳を超えた男性で、AVを見
たことない人は、ほとんどいないというくらい性に関する情報は広まってい
ますが、障害者に限ってみると、そういう男性がたくさんいます。その意味
で、そういう人たちが「AVを見たい」というのは、結構切実な問題だった
りするのです。飲み屋に行っても、無意味に女性の水着のポスターが貼って
あったりするというのが今の現実です。ただ、考えてみれば、これほどまで
に巷に性情報が氾濫しているということ自体が問題なのかもしれませんが。

▽障害者は社会性がない??
これは、情報の問題に限った話ではありません。ここでは、同性愛の話を織
りまぜると、複雑になりますので、カットしますが、多くの人は自分と生物
学的には違う性の人に興味、関心を持ちます。もちろん、そうでない人もい
ますが。しかし、そもそも、そういう人間関係を持てない障害者はかなりい
るわけです。「障害者は社会性がない」とよく言われますが、これはホンマ
のことだと思います。しかし、それは障害があるからという理由ではなく、
社会性を身に着ける機会が与えられてこなかったから、というその人の置か
れた社会的な状況を反映しているのです。障害者でない人でも、施設といっ
た場所に管理され、自分で決定する場面がほとんど与えられない環境で生活
を送れば、そういう場所で生きてこざるを得なかった障害者のように、社会
性がなくなるわけです。くり返しますが、障害者は社会性がないというのは
本当だけれども、それは、障害があるから社会性がないのでなく、社会から
隔離されて生活を送らされた結果、そうなってしまった場合があるというこ
とです。  

そして、障害者は、社会性がないので人間関係をつくることがへたな人が多
い。いちばん典型的なのがボランティアをしてくれる人は自分に気があると
勘違いしてしまうという例です。ボランティアの人は妙に親切です。あれも
やってくれ、これもやってくれる。そうすると、社会性のない障害者はどう
思うかというと、「こんなに親切にくれるのは、オレに気があるからだ」と
思ってしまう。私は、そんなことは思いませんが。そういう人がとても多い
と言うことです。それで、気持が盛り上がり、ボランティアを大好きになっ
てしまうのです。
そんなふうに思ってしまうことの背景には、障害者が、ほかにやることがな
い、つまり勉強するわけでもなし、飲みに行くわけでもなし、カラオケに
行って発散するわけでもない、という状況があると思います。好きな人がで
きると、それだけになってしまう。そして、障害者はボランティアに告白し
ます。ボランティアはびっくりするわけです。ボランティアは恋愛感情で親
切に接しているわけではないのですが、障害者は自信満々で「好きだ、好き
だ」と、言うわけです。それで、相手から「おまえ、何言うてんねん」と言
われることになって、気まずい関係になり、ボランティアもそこには行けな
くなり、障害者とは関係がキレル、という、よくある話になるわけです。
つまり、障害者は社会性を獲得する機会がなかったため、人と接する機会が
あっても、その関係性をうまくコントロールできなかったり、自分と相手の
関係を把握できなかったりすると思うのです。そのために、勘違いが起こり
やすいという傾向があると思います。

▽中途障害という問題
また、脊椎損傷や頸椎損傷に限って考えていくと、身体機能の喪失という問
題が浮かび上がります。それは、先天性の障害者とは違う経験です。それま
であった身体的な機能、それは性機能も含みますが、それらが失われるとい
う経験です。それまで、自分で歩き、服を着ることができていた人が、ある
一瞬を境に、それができなくなるという喪失経験は中途障害者に大きな影響
を与える経験です。
中途障害者は、もとは健常者だったため、自分のボディイメージや、自己イ
メージは、健常者だったときのものがそのまま引き継がれるわけです。それ
も、徐々に身体が変化していくのではなく、劇的に変化してしまうわけで
す。私は、プールに飛び込んで頭をぶつけたというその瞬間に、100%自分
の身体が変わってしまったわけです。自分の身体の変容を受け入れる期間や
時間がないのです。そのため、今までの自分から、何かがなくなった自分と
いうイメージで自分自身を捉えがちです。健常者だったときの自分がいて、
それから比べて、あれができなくなった、これが失われたといったマイナス
のイメージが重ねられていきます。そして、失われたものを取り戻したいと
いう欲求が強くなるのだと思います。

一般的に言って、中途障害者は、リハビリが大好きだという人がたくさんい
ます。頸椎損傷になったことで有名な俳優のクリストファー・リーブもその一
人です。彼は、映画スーパーマンに主演していた俳優ですが、乗馬中に首の
骨を折って、頸椎損傷になりました。そして、彼は、その後、自分の財力を
使って脊髄の移植などを支援する財団を作りました。彼は、自分が実験材料
になってまで、元の身体に戻ろうとするわけです。日本の脊髄損傷、頸椎損
傷の一部の人たちも、そうした「脊髄再生」や医療の進歩をスローガンに掲
げて運動をしていたりします。
私は、自分の身体を治したいと願う人々の欲求を否定はしません。しかし、
それではしんどい生き方になるだろうと思っています。100%治るというので
あれば話は違いますが、今のところ、やはり、元通りにはならないと思うの
です。もし30%くらいしか回復しないのであれば、そうした努力を続けるこ
とは、治るための努力をあきらめる以上にしんどい結果をもたらすと思って
います。

▽帰属集団の変更
男性の障害者のなかでも、我々のような脊髄損傷者の多くは、頸椎損傷にな
る以前は健常者の男性で、例えば、働き盛りの男性であった場合は、今の社
会でいうところの特権階級に属していた人たちなわけです。そうした差別を
受けにくいところにいる人が、いきなり差別されるような状況に置かれるこ
とになる。そこで、帰属集団が変わってしまうわけです。それで、多くの人
は、やはり、自分が配属されてしまった帰属集団が受け入れられず、下を見
て暮らすようになるということが起こっています。以前、よく耳にしたの
は、「僕ら、体動かへんけど、頭しっかりしているから、まだマシや」とい
うような言葉でした。そうした言葉を発する人たちは、自分たちは、人間と
しては劣っていないということを言いたいのだと思いますが、そんなふうに
下を見て暮らさなければならないのも、しんどいなと思います。

▽象徴としての男
さらに、性機能障害を持つことは、象徴として男性を喪失することにつなが
ると考えられます。今の社会の中では、オチンチンは男性の象徴になってい
るわけです。それが、自分でコントロールできなくなるということは、男と
してダメになったということを意味するわけです。   
先日、深作欣二監督が亡くなりました。彼は前立腺ガンだったのですが、抗
ガン剤を飲まなかった。そのために、死期が早まったと報道されました。で
は、彼は、なぜ、抗ガン剤を飲まなかったのかというと、当時つき合ってい
た女優さんと「セックス」ができなくなるからというのがその理由だったそ
うです。彼は、「セックスすること」「勃起すること」と、死ぬことを天秤
にかけて、「セックスすること」に価値を見いだしたというわけです。それ
は、一つの生き方ではあると思います。
ただ、私は、そうまでして早く死にたいか、と考えさせられました。私は、
どんな形でも長生きすることをとると思います。私は、その報道を見なが
ら、象徴としての男性を喪失することに対する抵抗が、深作監督のなかに強
くあったのではないかと思いました。

▽独自の文化の創出と支配文化への引き戻し
私は、性機能障害をもつことだけを考えても人生が暗くなっていくと思うの
です。オチンチンを使わなくてもセックスはできます。我々は、いわゆる健
常者の男性がやるようなセックスライフは送りにくいわけです。そうである
ならば、違うセックスライフ、つまり自分たちの新しいセックスライフを作
り出してもいいわけです。そもそも、そこで、セックスってなんや、と立ち
止まって考えてみるわけです。例えば、自分のファンタジーにふけるやり方
もいいと思う。そういう別な方向に行った方が、私はラクだと思います。た
だ、こういう考え方は、人々に強制できるわけではありません。
ところが、世の中は甘くありません。医療も含めたさまざまなテクノロジー
が発達してくるのにともなって、我々はいつも翻弄されます。
バイアグラが出現したときは、頚損関係のMLでその話題が飛び交っていまし
た。あれは血圧が下がりすぎてよろしくない、とか、どこそこで手に入れる
ことができるとか、MLの話題はそれ一色でした。

こうしたテクノロジーの開発によって、我々は、ある意味で、自分の今の状
態に留まることができなくさせられているのだと思うのです。
つまり、頸椎損傷者というのは、性機能障害をベースにおいた、独自のセッ
クスライフを作り出せる立場にあるのにも関わらず、テクノロジーの開発に
よって、独自のセックスライフをはじめとした新しい文化を作ろうとすると
ころから、常に、引き戻されるわけです。健常者のセックスライフという支
配的な文化に引き戻されてしまうのです。
 「頚椎損傷を治しましょう」というスローガンを掲げている団体が出して
いる資料の中に、結婚を機に、バイアグラを使うことにしたという人の話が
出てきます。そこでは、その頸椎損傷者にとって、第一に勃起することが、
満足するセックスの前提だ、ということが言われています。それは、自分自
身の喜びだというのです。勃起することが、彼の歓びだと書かれるのです。
「彼女を満足させて喜びを得たい」と。本来であれば、相手が満足している
かどうかは、当の女性に聞いてみなければ、わからないことだと思います。
セックスというのは、相手との関係のうえに成り立っているものだからで
す。しかし、バイアグラを使う人の話に出てくるのは、相手との関係という
よりも自分がうれしいかどうか、という発想なわけです。例えば、「身体を
通しての交流が、私たち夫婦の理想です」という言葉がでてきたりするので
すが、ここで言われている交流というのは、つまり、オチンチンを通しての
一方的な交流でしかない、ということなのです。

くり返しますが、我々脊髄損傷者は、神経がマヒしている、つまり身体の感
覚がマヒしているのです。マヒの度合いは、人それぞれですが、おそらく何
らかの形でマヒがあるはずです。つまり、頸椎損傷者は、オチンチンにも、
当然、マヒがあるわけです。バイアグラで勃起しても、勃起したことが感覚
としてわからない可能性もあるわけです。そして、結果、バイアグラを使っ
てみての感想はどうかというと、期待したほどの成果はなかった、といった
ことが出てきます。しかし、存在はありがたいので、これからも継続して
使っていきたいなどと言った感想が書かれたりするわけです。期待していた
ほどではなかったのであれば、もう、使わなければいいじゃないか、と思い
ますが、それでも使うというのです。私は、こうした話を見聞きするたび
に、しんどいなと感じてきました。

最後に、結論的なことを言えば、私は、脊髄損傷者の苦悩とは、そうしたバ
イアグラとか、注射とか、その他、さまざまなテクノロジーがあるために、
支配文化に引き戻されてしまうというところにあるのではないかと感じてき
たということになります。今日途中まで話した調査を含めた、現状の分析に
ついては、さらに後々の課題にしていきたいと思っています。

(お話しはここまで)

このメールは以上です。

Date: Sun, 1 Jun 2003 22:37:05 +0900
Subject: [jsds:8100] 障害学研究会研究会報告(続)


ひきつづき、せやまです。
長文になりますが、報告の後半をお届けします。

++(以下、記録)+++

障害学研究会関東部会 第31回研究会2003年3月15日(土)
テーマ「男性障害者のセクシュアリティを考える」
話題提供者:横須賀俊司

**後半(質疑応答)

参加者/私の活動経験からしても、知的障害をもつ子の親は、性に関して「寝た
子を起こすな」という発想を持っていると感じます。以前、私は、知的障害を
持っている子どもや大人に対する性に関わる支援をやりたいと思い、そのための
支援団体などをつくったらどうかという提案を親の会でしたことがありますが、
他の支援者が全然この問題についてはのってこないというのが現状でした。

参加者/やさしいボランティアということについて質問です。お話の中で、ボラ
ンティアのやさしさを恋愛感情のあらわれだと勘違いしてしまう障害者がよくい
るという話がありましたが、一方で、ボランティアのほうが、そういう勘違いを
おこさせるような行為をしてしまっているということがあると思うのです。障害
者がかわいそうだから、ここまでならしてあげようと、通常の範囲を超えてやさ
しく振る舞うといったことが行われているのではないかと。そうしたボランティ
アの側の問題については、どう考えますか。
横須賀/ボランティアの人は、おおくの場合、捉え違いをしていると個人的には
思っています。妙な「やさしさ」では片づけられないはずだと思うのです。ほん
とに一緒に生きていこうとしたら、人間関係は、なあなあでは済まないところが
でてきます。健常者と障害者も争いごとやぶつかり合いがあるのが当たり前で
す。それに、目をそむけ蓋をするのは、良い方向には進まないと私は思います。
青い芝の会の横田弘さんが書かれた本の中に、健全者と障害者の関係は闘争だ、
というくだりがあるのですが、その「闘争」という言葉に、「ふれあい」という
ルビがつけられていたということを思い出しました。今の福祉は「人にやさしい
街作り」という言葉に代表されるように、とても保護的なものであったり、恩恵
的であったり、慈恵的だったりすると思うのですが、私は、ほんとうの共生関係
というのは、シビアなもので、横田さんが書いたように「闘争」であったり、ぶ
つかり合いであったりするのだと思います。ただ、ぶつかってパンとはじけた
り、切れてしまうのではなく、ぶつかり合いながら、近づこうとするしんどい作
業が共生ということだと思うのです。

参加者/調査をされたなかで、今の人たちは非常にアクティブなセックスライフ
を送っているということに驚かれたという話がありましたが、そのアクティブな
セックスのなかみについては聞き取りの中で聞かれていますか?それは、最後に
話されていた脊椎損傷・頸椎損傷者独自のセックスライフということとどう関わ
るかということが聞きたいと思いました。
横須賀/一つには、いわゆる「男らしさ」を「アクティブ」という言葉で表現し
ました。ただ、僕は、アクティブといいましたが、それは必ずしも肯定的という
のではなく、多くの人は結局のところ「男らしさ」を背負っているということだ
と思います。結局は、それではしんどいのではないか、というのがあります。
「アクティブ」という言葉の選び方が、自分の中で、まだまだセクシズムが残っ
ているので、そういうものが一旦表れてしまったのかもしれません。繰り返しま
すが、私は、必ずしもアクティブであるということを手放しで喜んでいるわけで
はありません。
頸椎損傷者独自のセックスライフがあるハズ、というのは具体的に提示するとな
ると、私も正直なところそれが何を意味するのかはわからない。障害の文化とは
何か、ということは、例えば手話などは文化といえるので文化だと表明しやすい
と思うのですが、肢体不自由に関しては、なかなか「これが文化だ」といえるも
のが見当たらないというか、はっきりとは出てこない。まして中途障害は、もと
もと健常者文化にいたので、具体的に文化とは何かと言われると、いまはまだわ
からないので、「あるだろう」と希望し、探している、というのが正直なところ
です。


参加者/楽しく話を聞かせてもらいました。先ほどの話の中で、セックスの機会
がないのではないかと思われていた人たちが、実は、20人を超える人と関わりを
もっていたという話がありました。単純に羨ましいとも思いました。聞き取りを
していて、その人がそういう機会に恵まれたり、そうした機会を獲得できたりし
ているのは、なんらかの特別な魅力というか、もてる原因のようなものがあるか
らだということを感じましたか?例えば、一般的に言って顔がかっこよかったと
か。
横須賀/それは特には感じませんでした。特に、運動のリーダーとして活躍して
いるという人でもありません。だから、彼らがそれだけ多くの人と関係を持てた
というのが何でなのかということは、もっと深く現在の社会状況などを考えなけ
ればわからないだろうと思っています。

参加者/お話しの中で、男性の勃起原理主義とでもいうべきものと、結合原理主
義というものをイコールと考えた上で批判されていたと思います。ただ、実際に
は、勃起しても「やれない」という状況などもあったりするわけで、その意味で
は、現実的に言うと勃起と結合というのは常につながっているわけではないだろ
うと思っています。また、勃起しても「やれない」といった場合のそのレベルの
違いが実際にはあるだろうと思うのです。つまり、健常者のセックスに対して別
の方法、オルタナティブな方法があるとしても、それは一つの方法ではないだろ
うという気がします。
質問として聞きたかったのは、オナニーの問題です。オナニーは、物質的なバリ
アとはある程度切り離して考えることができると思います。それは、イメージ情
報で獲得できるものだと思うのです。このオナニーということについては、どん
な考えを持っていますか。

横須賀/オナニー、つまり、マスターベーションの問題ですが。まず、我々のよ
うな脊髄・頸随損傷者は、身体感覚がマヒしているということを言いました。つ
まり、そもそも、いわゆるマスターベーションができるのかという問題がはじめ
からあるわけです。感覚・知覚が麻痺している状況なので、性器をいじってマス
ターベーションをするという選択肢は、我々、脊椎損傷・頸椎損傷者にはない選
択肢です。さらに、手にちからが入らない状態なのでで、自分でズボンを脱ぐこ
ともできません。また、集尿器を使っている人もいます。そうなるとそれを外す
のも大変です。触ってもわからない上に、そもそも触れることが困難というのが
我々の状況です。但し、我々とは違う障害に関しては、物理的な障壁が低いオナ
ニーという選択肢は、十分使えるものだと思います。
私も、基本的に、勃起をすることと性交することは、関係はあるが、イコールで
はないと考えています。共通して聞き取りから出てきたのは、「セックスは奉
仕」であるとか、「相手に尽くすことに意義がある」とか、「相手が喜んでくれ
たら自分も満足」とか言ったことです。それは、一般的な男性のセックスに対す
る考え方とは重なる部分もあると思いますが、自分が「やれる」ということ以上
に、「相手に満足してもらう」ということを重視しているという点でややズレが
あるのではないかと感じました。相手が喜んでくれさえしたら、腕が折れるくら
いでもがんばるとか、そんな感じのことを言う人もいました。
そこで、私は、もし我々、独自のセックスの形というものがあるとするなら、そ
れはセックスの捉え方というところに表れてくるのではないかと現時点では感じ
ています。

参加者/聞き取り調査の対象者が居住している地域について教えてください。都
市なのか、農村部なのか、ということでも違いがあるのではないかと思ったので
す。私がいる地域は、活発に動いている障害者が多い地域ではありますが、性的
な課題になると途端にトーンダウンをする人が結構いるというところです。私な
りに考えてみると、それは、ある意味で、私のいる地域が、都会のように匿名性
が成り立つ関係ではなく、常に、みんなが「どこどこの誰々」と見知っている範
囲で成り立っている地域社会だからだということに関係があると思うのです。そ
こでは、性に関わる本音は言えない、性に関する話題は語りにくいとなるのでは
ないかと。
横須賀/私が聞き取りをした人たちの居住地は、全て都市部に含まれます。その
意味で、聞き取り結果に、彼らが都市に暮らしているという意味での地域性は表
れていると思います。また、関西というある意味で特別な地域での調査だったと
いうこともあるのかも知れないと感じています。

参加者/調査の話しについて、引き続き質問です。回答者の一人が、20人の女性
と性関係をもったということでしたが、それには、買春ということも含まれてい
るのでしょうか。その場合、デリバリー(派遣)型のものですか。
それと、そうした性関係が持たれた場所は、ホテルなのか、自宅なのかというこ
とについても、聞かれましたか。例えば、車いすだと場所によっては使えないホ
テル等もあると思うのですが。
横須賀/回答者のなかには、買春の経験がある人もいました。ただ、それがデリ
バリー型であるかどうかということについては確認していません。
関係をもった場所については、様々でした。ホテルの場合もあれば、自宅の場合
もありました。彼らは、例えば、車いすでも使えるホテルの場所の情報などをイ
ンフォーマルな情報として押さえているのです。また、もし、自分ではその情報
をもっていない場合でも、そうした情報を持っている元締めのような情報源が存
在しています。

参加者/頸椎損傷・脊髄損傷者の間だでは、いわゆる「性風俗」に関する情報
は、盛んに飛び交っているのでしょうか。
横須賀/頸椎損傷・脊髄損傷者に限らず、障害者の「性風俗」に関する話題は、
ある程度盛んだと思っていますが。私は、それは、そもそも人と接する機会がな
い状況に置かれている障害者が、手っ取り早く男女の人間関係を手に入れたいと
いう発想を持っていることの現れだと思っています。但し、たとえソープランド
などに行けたとしても、「いわゆる性交」はできにくいという事実は残ると思い
ます。そこから、その人が、「「いわゆる性交」ができない」ということをどう
考えるか、どう捉えるかということが、大切な問題だと思います。

参加者/頸椎損傷・脊髄損傷者の間だで、今日のお話しにあったような、オルタ
ナティブなセックス、オルタナティブな関係についての提案が、今後、どこまで
理解されるか、ということが次の問題になると思うのですが。そうした提案がど
う受けとめられているかという感触についての考えを聞かせてもらえますか。
横須賀/僕はオルタナティブな関係についての啓発活動をしようとはしていませ
ん。私は、まずは研究のレベルで、事実を説明するということが必要だと感じて
います。事実、人々が何を経験しているのかということを、説明し、その事象を
社会的な背景のなかに位置づけて、解き明かしてみるということをやっていけれ
ばと思っています。私の感触としては、オルタナティブを提案するというより
は、すでに人々の実践の中に、オルタナティブと呼べるようなものがあるのでは
ないかということです。

参加者/例えば、『障害学の主張』で「男性のセクシュアリティ」について関わ
れている倉本智明さんなどもそうしたオルタナティブについての提案をしている
人の一人だと思います。私は、障害の違いということによって、この問題につい
ても、いろいろな提案ができるのではないかと思っていますが、特に横須賀さん
の研究のなかでのこだわりがどこにあるのかということを教えてもらえますか。
私は、今日の話には出てこなかった問題の一つとして、「生殖」ということをど
う考えていくかということがあると思っています。
横須賀/私は、今はノイズを発生させることが大切だと思っています。だから、
異分子、あるいは逸脱といった、「主流じゃない何か」を発生させることや、す
でにある関係の中に発見することが大切だと思っています。そうしたことの積み
重ねでしか、大きな枠組は変革できないと思っています。ただ、結果的にどうな
るか、社会構造自体が変わるか、というと、それはなかなか難しい話ですね。多
くの場合は、現行の社会構造を補足するものとして、社会制度の中に回収されて
しまうという落ちがついているわけです。
性交とは、性器結合によるセックスだという考えが主流であるが故に勃起が問題
になる。そして「勃起不全」ということが問題になるのだと思います。本来は、
倉本氏も言っているように、それぞれ皆が、変態になれば、問題なくなるという
ことなのだと思っていますが。
生殖の問題ということですが、私は、性の問題は、生殖の問題と切り離したがゆ
えに、意義があったと考えています。その意味では、もう一度それを生殖とドッ
キングさせるのは逆行するのではないかと思っています。

参加者/調査について話をもう一度確認したいのですが。先ほどから上がってい
る20人と性関係を持ったという話しですが、頸椎損傷・脊髄損傷者は、普通の
意味での性行為ができないという話しと合わせて考えると、ある意味で、関係を
持った人をカウントする人が、何を持って「性行為をした」と考えているのかと
いうことが問題になってくると思うのですが。それは常に同じ基準でのカウント
であるとは限らないと思うのです。
横須賀/これは、「あなたは何人の人とセックスをしましたか?」という質問に
対する回答として得られた回答です。その回答として、20人とか5人という回答
がありました。その意味では、回答者が自分がセックスをしたと思っている人の
人数が回答としてあげられたわけです。
例えば「手をつなぐだけでもセックス」と思っていればその人にとって、それは
セックスということになるのかも知れません。おそらくは何らかの、その人なり
の解釈枠組みがあっての判断だと思います。

参加者/以前、この研究会で、「異常性欲」という言葉がでてきて、驚いたこと
がありましたが、障害者には障害者のセックススタイルがあるというのであれ
ば、そこでは異常・正常ということは、棚上げしたほうが良いのではないかとい
うのが私の意見です。このテーマは、うっかりすると、異常・正常という基準が
持ち込まれるテーマだと思うので、そうした規範は持ち込まないで考えたいとい
うことです。横須賀/確かに、異常・正常という価値は、誰が、どういう基準で
判断するのかという問題があると思います。『障害学の主張』の倉本氏の論文で
は、「アブノーマライゼーション」という言葉、つまり「変態になりましょう」
というスローガンが掲げてありました。それも一つの方法です。何が正常で何が
異常か、正常というのが実はフィクションではないかと、ということを明らかに
するという作業も同時に必要だと思っています。


参加者/例えば、オルタナティブなセックスということをいった場合、同性愛の
人たちの場合はどうなのか、障害者のオルタナティブと関係があるのか、という
ことについて何か考えていることがあれば、教えてください。
横須賀/僕は、今のところ、直接ゲイの人たちとセクシュアリティに関して深い
話をした経験がないので、わからないというのが正直な回答です。ただ、「障害
者のオルタナティブなセクシュアリティ」と、特にレズビアンの人たちのセック
スというのは、共通点があるのではないかと直感的に感じています。つながると
ころがあるような気がします。レズビアンの人から、教えてもらえるものがある
かも知れないと感じているということです。

参加者/頸椎・脊椎損傷者のMLで、バイアグラに関する話題や、新しいテクノロ
ジーに関する話題が飛び交っていたということですが、そういうものを使わない
で、つまり勃起中心のセックスではない、違うかたちの方法で、「この方法はよ
かったよ」とか、「これはよかったよ」といった情報がMLで流されることはない
のでしょうか。
横須賀/それはありません。やっぱり、そのためには、深く、自分のことをさら
けださないといけない部分があるために「恥ずかしい」ということがあるのだと
思います。バイアグラに関する情報でも、それを使ってどう感じたかといった深
い話までは出てきません。

参加者/先日、あるイベントで、AV男優の方が、「頑張らなくていいセック
ス」というのを提案していました。今日の話しを聞いて、そのことと共通するも
のがあると思いました。
聞き取りの中では、例えば、性的な快楽を促すための器具の使用といったことに
ついては聞かれましたか。また、そうしたことを含めた情報を集めている団体の
ようなところはあるのでしょうか。他の生活用品については、使い勝手も含めた
いろいろなことが話題になったり、考えられたりしていると思うのですが、性的
なものについてはどうなのだろうかというのが質問です。

横須賀/器具のことは、我々頸椎損傷は、手が利かない場合が多いために、持て
ない、扱えないということがあります。なので、私のなかに、「使っている奴は
おらへんやろ」という勝手な思いこみがあったということもあるのですが、聞き
取りの中では、そのことにはふれませんでした。ただ、確かに、頑張って使おう
としている人はいるし、僕自身、頑張って使おうとした経験がありました。一般
論としては、余りいないという頭がありましたが。
それと、器具も含めた情報を集めている団体があるか、ということですが。日本
ではないと思います。オランダなどにはあると聞いていますが。そこでは、例え
ば、障害者用のバイブレーターといったものを集めたり作ったりしていると思い
ました。
自分の経験や友達とのやりとりでの感覚からすると、私などは、まずは、器具で
はなく、自分の身体の一部を使いたいという欲求があると思います。おちんちん
がだめなら、せめて違うところで快楽を得ようとするわけです。
参加者/日本で使われている器具では、例えば、バキューム系の器具で、おちん
ちんを勃起させる機械というのがあります。スウェーデンなどでは、そうした器
具は簡単に手に入る事になっているようです。

参加者/テクノロジーとの関係をどのように考えるか、ということは重要な課題
だと思います。お話しの中で、テクノロジーが、いかに発達したとしても、現段
階では、完全には治らないということを考えておかなければいけないということ
を提起されていたと思います。ただ、その論理は、常に、「では100%治るなら
それでいいのか」という問を抱えてしまうことになると思うのです。そのとき
に、あくまでも「障害の文化」に留まるべきか、という問題が出てくると思うの
ですが。私は、「命懸けの自己欺瞞」ということも含めて、あくまでの「障害文
化」の価値を守るということも一つの生き方だとは思いますが、「治らないから
文化だ」となると、それは、次善策という感じが否めず、文化としての価値が低
くなるということが考えられると思います。

横須賀/私は、言語戦略上、一番、受け入れられやすい言い方として、「現段階
では100%は治らない」だから、「治す」ことにのみ専心するのはしんどいとい
うことを言いました。障害学でも、テクノロジーと障害文化の問題は、石川准さ
んも提起されていますが、まだ決着がついている問題、というわけではないと思
います。石川准さんが言われる「命懸けの自己欺瞞」というのも、やはりしんど
いのだろうと思うし、私個人は、はやり「治るのであれば、治す」という考え方
は、否定はできない部分があると思っていたりします。その意味では、テクノロ
ジーということが出されるたびに、障害者はどっちつかずの宙ぶらりんな状態に
されているということが私の主張です。なので、私としては、そのテクノロジー
と現実とオルタナ
ティブに引き裂かれているような宙ぶらりん状況からどう抜け出るのか、という
ことを考えています。

参加者/先ほどの話の中で、調査をされていて、聞いた話から得られた知見か
ら、頸椎損傷者は、セックスのとらえ方に独自性があるのかも知れないというこ
とを言われていました。私は、お話しを聞いた限りでは、そのようには捉えられ
ませんでした。お話しの中では、頸椎損傷の男性が、相手の女性をいかに喜ばせ
るか、ということに主眼を置いているという点が、頸椎損傷男性独自な視点では
ないかということを話されていたと思いますが、前半の話にあったように、相手
が本当に喜んでいるのかということはわからないということがあると思います。
結局は、その話しというのは、例えば、征服欲とかいったものに代表されるよう
な、いわゆる男性性というものと同じ線上にあるのではないかと感じました。
それと、オルタナティブということについてですが、先ほどの質問のなかにもあ
りましたが、例えば、個々の人が「自分は20人の女性とセックスをした」といっ
た時、そこで具体的にはどんな「セックス」をしているのかということが、オル
タナティブの在り方を知る上で、重要な聞きどころではないかと思いました。勃
起する、しないということを含めて、なんらかの身体的な違いを持っている人
が、経験しているセックスが現実にあるわけで、それは通常のセックスとは、も
しかしたら違ったかたちのセックスかも知れないと思いました。
横須賀/調査については、これからもう少し前に進めていきたいと思っていま
す。

(質疑応答ここまで)
+++

このメールは以上です。


UP:20030702
横須賀 俊司  ◇障害学  ◇障害学研究会関東部会  ◇全文掲載
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