HOME > 全文掲載 >

「知的障害」概念の変遷

寺本 晃久 20001111 『現代社会理論研究』10


0.impairment・disability・handicap

 「障害」とは何か? たとえば1980年に世界保健機構(WHO)が提案した国際障害分類(ICIDH)は、障害を、機能障害impairment、能力障害disability、社会的不利handicapの3つの階層にわけた。こうした分類は、それまで「障害」が個人の病理学的な要因においてのみ考えられていたことに対して、社会的な障壁(barrier)によっても「障害=handicap」が生産されるという思想へ道を開いた。しかし一方では、handicapの原因として身体的な機能損傷であるimpairmentと個人の動作能力であるdisabilityを設定し、依然として比重は個人の身体的要素に置かれていた。そこでオリバーらによって唱道される障害学などにおいて、こうした考え方が障害の原因を個人に求めその解決を医学的治療に帰属させる「個人=医学モデル(individual or medical model)」だと批判され、handicapの考え方をさらに進めて、「障害」の本体は端的に社会的差別や障壁だとする「社会モデル(social model)」がうち立てられた(Oliver1990)(1)。彼らは、社会的障害つまりWHOのhandicapにあたるものをdisabilityとし、impairment/disabilityとの区分において捉え、impairmentとは独立してdisabilityが生じることを主張した。だが、他方社会モデルでは説明できないもの、仮に社会的障壁が取り除かれたとしてもなお存在し続けるもの、つまりimpairmentは残るのではないか、そしてimpairmentによって痛みを経験したり活動に影響を与えられたりするのではないかといった議論もなされた。実際、オリバーらは、社会的障害はimpairmentと独立して存在しうるものの、同時にimpairmentを障害の定義に含めている。また、こうした意見を受けて、オリバーもその後impairmentそれ自体を否定していないと説明したり(Oliver1996:35-41)、障害学の中にimpairmentによって起こる身体的経験をも含めて考えるべきだといった議論がなされた。impairmentがあることによって差別・否定されることに抗し、impairmentをもったままで(“ありのまま”で)社会参加する権利が奪われているという主張は、いわゆる障害学においてだけでなく、さまざまな障害者運動の中で語られてきたことでもある。
 しかし、こうした議論が起こるのは、いかに障害問題において身体(身体に関わる障害impairment)に対して目を向けることが困難なのかということを表してもいる。一方でimpairmentの肯定があり、他方で否定される。われわれは、いかにimpairmentについて語ることができるのだろうか。それでも、たとえば肢体におけるimpairmentであれば、impairmentそれ自体の存在は誰の目にも明かであるのかもしれない。しかし、知的障害は、物理的に認知が困難な障害でもあり、まただからこそ障害の認識が時代によって変化していることを見いだすことができる。本稿では、明治・大正期(1870〜1920年頃)における知的障害の認識の変遷を例にとり、impairmentの内実がどのように認識されてきたのかを検討することによって、障害の社会的構成について手がかりを得たい(2)。

1.「瘋癲・白痴」  −混在・曖昧・欠格条項−   〜1900年

【1】「知的障害」は、当初から現在のような形で認識されていたわけではない。もちろん、「障害」そのものがまったく認識されていないかったわけでもない。しかし、しばしば他のカテゴリー(不良、犯罪者、孤児、狂人、浮浪者など)とともに存在しうずもれていたか、認識されていたとしてもその内実は非常に曖昧なものであったと考えられる。
 日本の近代における社会事業の先駆けのひとつとして、1872(明治5)年10月、ロシア皇太子アレクセイ来日にあわせて、乞食・浮浪者を約240名収容したことをきっかけに設立された東京市養育院(東京都養育院1974:28)には、設立の初期から収容者の中に障害をもつ人々が含まれていた。1873年6月、不具者で生活困窮者も養育院に収容した。そして同年、入院資格を定め、「一、病者は病宅に置き、廃疾者盲人風癲人等各室を異にして、各室に看護人を付し、療養を尽くさしむ……」と規定した(ibid:37)。また1875(明8)年に、盲人室を改修して狂人室を設け、癲狂者5名収容したことがわかっている(ibid:35)。しかし、おおよそ知的障害を示す「白痴」という語が入院規定に表れるのは1886(明19)年であり、それまで知的障害に相当する語を見出すことはできない。
【2】ところが、次第に、知的障害が社会的な関連の中で「問題」として認識されるようになってくる。
 石島(1979)は、地方議会における被選挙権の欠格条項のひとつとして「白痴」が問題になったことを明らかにしている。1877(明10)年、岡山県町村会仮規則改正において、初めて「白痴癲狂廃篤疾老衰の者」を被選挙権の対象から除外する規定が設けられ、同年の福島県民会規則でも同様に「瘋癲白痴の者」が除外規定となった。こうした規定は、翌年の三新法(郡区町村編成法・府県会規則・地方税規則)および1880(明13)年の町村会規則に引き継がれ、全国的に波及するようになった。この法律によって、市民による選挙によって府県議会・町村議会が全国的に開かれるようになったが、同時に議員の条件として知的能力が問題となり、能力のない者を立候補の段階であらかじめ除外したのでる。
 また、経済制度や家制度の形成における問題として知的障害が立ち現れる。1888(明21)年公布、1899年に施行された民法において、意思能力に障害がある人に後見人を付与し、本人に代わってすべての財産行為・契約行為を行わせる(あるいは許可を下させる)規定が盛り込まれた(禁治産制度)。この制度は第一に、安定した取引社会を形成するために、取引能力の劣る者をあらかじめ排除した。第二に家産を守ることによって、扶養家族の生命と生活を保証することを目的としていた。能力の欠如によって直接・間接的に他者へ危害を加える可能性がここで認識された。このとき制度の対象となったのは「心神喪失」「心身耗弱」であるが、その他に聾唖者、盲者、浪費者、妻が対象とされた。
 そして、教育において。しかし、1872(明5)年の学制発布から1879(明12)年の教育令(翌年の同令改正)の時期までは、知的障害はほとんど問題として表れていない。就学不可能の事由として、すでに1877(明10)年に埼玉県で「白痴」が報告されているが、多くは経済的な事情などによりそもそも就学すること自体が通常のことではなかったため、能力を理由にした就学猶予・免除は問題にならなかった。1886(明19)年の小学校令で就学義務が規定されて以後、逆に就学しない理由として「瘋癲白痴」が報告されるようになった。1900(明33)年の小学校令(第三次)において、就学猶予事由として「病弱又は発育不完全」、免除事由として「瘋癲白痴又は不具廃疾」が初めて規定された。
 こうして、諸制度が確立していく中で知的能力が問題となり、その欠格条項として「白痴」が認識されていった。しかし、注目すべきはimpairmentに由来するものとしての知的障害だけが問題となったのではない。こうした欠格条項において女性や身体障害者や精神病も、知的能力を欠くものとして扱われたのである。知的障害に相当する「白痴」は精神障害一般を表す「瘋癲」や身体障害である「不具廃疾」などの諸カテゴリーの中にしばしば混在するか、認識されてはいても知的障害としての「白痴」の定義は曖昧であった。「白痴」の認識は、むしろ西洋の「白痴院」などの断片的な紹介によることがほとんどであった(たとえば近藤鎮三(1885))。
【3】しかし、この国で初めての知的障害児施設とされる滝乃川学園を創始した石井亮一(3)は、1896・97(明29・30)年の二度の渡米により得た海外の知見をもとに、「白痴」をくわしく身体的要因から説明を試みるようになる。1904(明37)年の『白痴児其研究及教育』(石井1904)で石井は、白痴の特徴として、身体面については発育異常、運動の異常、感覚の障害(普通感覚、視覚、聴覚、味覚、嗅覚)をあげ、精神面については記憶力・注意力の欠如、活動の頑迷さ、愛情深さ、言語障害などをあげた。そして記憶や注意力の遅れは、言語(発声)や感覚器官の異常に多く由来するものであり、「白痴」教育は第一に感覚機能の訓練を行うことを重視した。また、原因に基づいて、生来の白痴、小頭性白痴、水頭性白痴、急癇性白痴、癲癇性白痴、外傷性白痴、ソ衡性白痴、脳硬化性白痴、梅毒性白痴、クレチニズム、覚官欠乏に基く白痴、と分類した。すなわち、脳における発育異常や外傷に多くの原因を求めたのである。そして石井は、ここで初めて「瘋癲」と、知能における障害としての「白痴」を分離する。「白痴と瘋癲とは、往々混同せらるること」があるが、「瘋癲」は「最初、普通の才知を有し、後次第に消失する」ものであり、「白痴」は「其初、意識界全く貧弱にして、精神殆んど欠乏せるが如く見ゆるも、後徐々に発達し、遂に或程度の進歩をなすものなり」と述べている(石井1904:3)。それまで「白痴」は教育不可能だとされていたが、ここでは、石井はある程度の教化可能性を見出している。
 こうして、「白痴」は、知能それ自体における障害だけではなく、外見に現れる行動や感覚によって判断される、半ば肉体上の障害として認識されていたと考えられる。知的能力の低下は肉体的・物理的な部位におけるimpairmentに由来するものであった。精神及び身体の発達が止まった「発育制止症」であり、「白痴」は「盲唖」や「病児」などのように「誰が見ても変態たる事を認め得る」ものであった(脇田1912:23)。たとえば次のように言い表されていた。「愚者若しくは狂者として生れ、数二十以上を算する能はず、又七曜日も、自己の両親をも知らざるもの」(石井1904:2)。「顔貌は茫然として涎を流し、表情に乏しく何となく落ち附かず、アチコチと歩き、物を珍しさうに見るなどの様子やら、身体中に麻痺痙縮などがあり、又著名なる頭蓋の形状の異常、言語発育の不十分などがあるので、直ちにそれと判然する」(富士川・呉・三宅1910:239)。
 そして、社会的な制度の変化に伴って、たとえば民主的な制度を導入するとき、制度にのれる者とのれない者とを選別するための基準として能力が注目され、他のカテゴリーとともに知的能力のない「白痴」が認識され、制度から除外されていったのである。しかし、禁治産制度において「妻」や「盲聾唖」が問題にされたように、必ずしも知能におけるimpairmentによって知的障害が規定されたのではなかった。

2.「低能児・劣等児」 −中間層・教育・肉体・外見−  1900〜1910年

【1】ところが1900年前後を境にして、「知的障害」への認識が急激に増加・拡大し、多様な言説が生み出されていく中で、徐々にimpairmentとしての知的障害が取り出されるようになる。
 すでに教育が困難な児童の中でも、肉体的にも障害のより重度なものが「白痴」として認識され、就学免除によって公教育から「白痴」が排除された。しかし、公教育の普及に従って、教育という行いの中で、教室の集団に対して一律に教授するという通常のスタイルに適応しない子供の存在が改めて発見され、「成績不良児」「劣等児」「低能児」などと呼ばれた学業成績の低い児童が問題となっていった。だが、「白痴」のようには必ずしも明らかな身体的徴候が表れない「劣等」や「低能」についての認識は一様ではなかった。
 当初、「劣等」「低能」は、impairmentとしての知的障害として認識されていなかった。1890(明23)年に松本尋常小学校で設けられた「落第生学級」をはじめとして、その後一部の動きとして成績不良児のための学級を設置するといった活動が模索されてきていたが、これらは学力別学級編成を行うときの最下位として位置づけられ、単に学業成績の劣る児童を対象としたのであって、成績不良の原因を必ずしもimpairmentに求めたのではなかった。
 大村仁太郎(学習院教授)の著した教育書『児童矯弊論』(大村1900)では、impairmentとしての知的障害を独立して取り出す視点は薄く、通常児における能力の優劣の差異の中に含めて扱われている。能力が欠如しているのは単なる個人の「瑕疵」であり、「児童の性格上に多少の瑕疵ありとて之を指して直ちに病者なりとは称へざるべし」(ibid:24)と述べている。また、瑕疵の内容についても単に性格や倫理観念や行動、しかも外見的に認識可能な要素に注目したものであった。大村は大きく次の3類型に瑕疵を分類した。すなわち、1)感情及感覚の範囲に属する児童の瑕疵(恣意・放縦、高慢・自負、強情・執拗、虚飾、無遠慮・不作法、憂愁、神経過敏、気儘、臆病・怯懦など)。2)観念の範囲に属する児童の瑕疵(痴愚、放心・思想散逸、軽躁、怠惰、嫌壓、早熟・老成、空想・妄想、不潔)。3)意思及行為の範囲に属する児童の瑕疵(多弁、不器用、滑稽、偏食、収集癖、盗癖、無愛想、嫉妬、悪意、残忍、卑猥、破壊癖、虚偽など)。
 大村にとって「低能」「劣等」は必ずしも「病」として認識されるものではなかったが、その要因を個人の内部に求めていた点で、ある種のimpairmentを設定していたとも言えよう。しかし、それは今日ではimpairmentとして認識されにくいであろう性格上の問題であり、身体に固着したものではなかった。
【2】だが次第に、学業成績不良の原因を、肉体・物理的要因/精神・知能的要因、あるいは先天・身体的な要因/後天・環境的な要因の、それぞれ二側面から探るようになった。知能あるいは身体にはimpairmentはないものの怠惰や家庭環境によりたまたま成績が低いだけの者と、impairmentによって能力が低い者とを区別することによって、前者であれば教育による改善が可能だと考えられたのである。
 1906(明39)年の織田勝馬・白土千秋『小学児童劣等生救済の原理及び方法』(4)では、「劣等」は、impairmentとしての障害をもたないものとされた。「劣等」とは、成績の標準の取り方−−たとえば一教室における標準をとるのか、全校の同学年の標準を採るのか−−によって変化しうる概念であった。したがって、「劣等生としてある児童も標準の採り様に依っては普通程度の児童として見ることも出来るので、劣等生と云ふことを以て、直ちに一種の病的児童、精神異常的の児童の如く、即ち劣等生とは身体上或は精神上に於ける疾病的児童の別名の如く解するは甚だしき誤謬である」としたのであった(織田・白土1906:15)。
 しかし、「劣等」を必ずしもimpairmentによらないものとしたときに、その対比において逆にimpairmentが位置づけられた。impairmentを〈A〉精神的要因と〈B〉生理的要因に分類、さらにそれぞれ先天的/後天的のものの分類に細分化した(表1)。彼らは第一に、〈A〉精神的要因のa:先天的のものとして、さらに重篤で先天的に障害をもつ者「瘋癲白痴=痴愚」を見いだし、その中でも性格や行動によって「愚慢性の痴愚」「畏縮性の痴愚」「偏性のもの」と分類した。一方、b:後天的のものにも二種あり、(1)性行的のもの…怠惰、恣意放縦、強情・執拗・不従順、沈鬱、臆病とし、(2)病的のもの…ヒステリー、癲癇、強迫観念、とした。〈B〉生理的原因のc:先天的のものには、感覚器官の先天的欠損と、不器用があり、d:後天的のものには、神経過敏、腺病、言語障碍、慢性脳水腫がある。この中で「瘋癲白痴」は、知的能力のみに照準した精神的要因つまり肉体的・物理的な部位によらない障害に含まれており、他方、感覚器の障害といった肉体的・物理的要因や、性格的な要因もいわゆる「劣等」を構成する要素として扱われている。
 一方、impairmentによらない要因、つまり環境による要因にも注目している。〈C〉家庭に於ける原因としては、家庭の習慣によって悪習慣がついたり、経済的事情によって子供が労役を強いられることによって家庭での予習復習や精神的発達が阻害されることを挙げた。〈D〉学校に於ける原因としては、(1)学校そのものの原因:一定共同の規律下に置かれ、狭い教室、不良の空気、運動の自由の束縛など、(2)教師による原因:拙い教授法、教師の知識不足など、を指摘した。こうした外的環境や教育者側の問題については、もちろん環境や教授法を改善すればよいとされた。けれども、「白痴」を始めとしたimpairmentによる「劣等」についても、教育による成績向上の可能性を否定したわけではなかった。また、ここで問題とされたのは学業成績であり(したがって学科毎に「劣等児」が生まれる)、どのような原因であっても、たとえば集団的な教授ではなく児童の学科ごとの成績の優劣に応じた個別的な教授を行うことが「劣等児」の改善に求められたのである。

      表1

 また、この頃の「劣等」「低能」に関する代表的な著作である『低能児教育法』(乙竹1908)などを著した教育学者、乙竹岩造(5)は、「劣等児」と「低能児」とを「普通」から「白痴」へと連なる序列の中でより明確に整理し直した。乙竹は「世間で動もすると劣等生即ち低能児だといふやうな人かある、これは空漠な且つ誤れる議論てある、劣等生優等生という区別は比較的の言葉であつて、標準の異るに従つて成績は変して来る、低能児といふのはそうてはない一定の標準に照らして鑑定せらるるものてある」と述べ、「劣等児」はimpairmentはなく単に学業成績不振児を指し、「低能児」はimpairmentとしての障害をもった者とした。だが、「病人として病院へ送ることは出来ない、白痴として白痴院へ入れる程でも無いけれ共通常の児童として認むることの出来ないやうな者、之れを称して茲に低能児と申すのでございます」と、白痴ほど能力が劣っていない者とした。つまり、普通−劣等−低能−白痴といった、能力による序列を想定していたのである。そして「普通」と「白痴」の間にある程度の幅をもった中間的な層があり、さらにその中でも後天的・環境的な要因によって単に成績が劣っているだけの者と、そうではなく先天的・身体的に能力の低い者とを区別したのである。だが、低能児の鑑定においては、遺伝的・肉体的要因(遺伝、誕生前の生活及び誕生、身体の状況、神経系統の状況、心理上の状態)、精神的要因(道徳上の状態)、環境要因(環境、教育)を複合的に観察することを勧めている。低能児は身体的・器質的に劣るものではあるものの、同時に教育が不十分であったり反対につめこみ教育による精神的疲労のために「低能」に陥ってしまうのだとも述べており、ここに教育や環境を改善する可能性を見いだしている。
 1909(明42)年、日本で初めての低能児教育施設「白川学園」を開いた脇田良吉も『低能児教育の実際的研究』(脇田1912)などで、児童を「普通児」・「低能児(中間児)」・「変態児」に分類した(表2)。「変態児」は「白痴盲唖病児又は悖徳児の如く」明らかに身体的・精神的に障害があると認められるものであるが、彼は、「変態児」と「普通児」との間に、「心身の発達普通児に劣」るものの「変態児」のように「目立たる欠陥を有せざるもので中間状態にある児童」、つまり「低能児=中間児」を見いだした。そして、さらに「中間児」を、能力遅鈍性、精神異常性、身体虚弱性、機関障碍性、心性不良児、の5つに分類した。「普通児」は普通教育、「中間児」と「変態児」は特殊教育の範疇で扱われるべきであるが、「普通児」よりもやや学業成績の劣る者、しかし普通教育にて対応の可能な者は「成績不良児(劣等児)」とした。一般に総称される「低能児」の中には「成績不良児」も含まれているが、「低能児」と「成績不良児」は区別されるべきだと述べた。

    表2


 こうして、第一に、中間層との対比において、「白痴」が身体的・器質的な障害つまりimpairmentによる障害を負い、病院に送られるべきより重度な障害をもつものとして位置づけられ、社会的生活から除外されてきていた。第二に、中間層のうちにもimpairmentによるものとそうでないものが区別されていった。しかし、ここまでの議論では学業成績における優劣が問題とされたのであり、知能そのものの優劣について議論されたのではなかった。またimpairmentは、知能そのものではなく、主に感覚器官や体格などの身体機能における障害、あるいは性格や道徳心が注目されたのである。知的な障害の実態・原因はいまだ曖昧なままで、知能の低下は、何が先天的・器質的な原因によるものであり、何が環境要因によるのかについては不可知であった。特に「劣等」「低能」といった中間領域にあるカテゴリーについては、認識はされるようになってきたものの、必ずしも肉体的・物理的に明かな徴候が表れないために、impairmentとしての障害という概念として定まってはいなかった。だからこそ、一方で環境に原因を探ろうとし、教育者たちは教育の果たす役割を主張したのである。
【3】しかし他方、教育などの外部環境を改善することで解決しない個人のimpairmentの解決において医学が求められた。こうした教育と医学との結合が「教育病理学」である。けれども、知的能力そのものを扱うことは容易ではなかったこともあり、まずは外部から観察・測定が可能な身体に着目することが試みられた。たとえば、富士川游(6)は、「不常性の児童の心理学を攻究することは、医家の一大責任なり」(富士川[1904a:12])と述べ、医学の必要性を説いた。しかし、この時点では「斯般の問題は、多岐に渉り、一概に記述し難きを以て、今回は身長のみに就いて論じ」る、と身長の発育という最も計測の容易な部分に着目することしかできなかった(ibid:14)。
 ところが1908年に開催された日本児童研究会講習会における、富士川游・呉秀三・三宅鑛一の講演をまとめた『教育病理学』(富士川・呉・三宅1910)では、精神的な要因が分析された。コッホの分類に習い、知的障害を「精神低格」と「精神薄弱」とに分けた。「精神低格」とは「児童の身体に、何か精神病的の原因があつて、その精神生活が、異常の有様を呈するもの」で、「主に感情と意思の方面、ひつくるて、簡略にいへば、性格の異常といふものが主に顕はれる」ものだとした。「精神薄弱」とは「児童の身体に何等かの原因があつて、その精神の発達が抑制せられたものであつて、主に智力の障碍が顕はれる」ものである(ibid:15-6)。ここで知的障害は、前者においては知的能力に限らず性格一般に表れるimpairmentと、主に知的能力に表れるimpairmentに注目した後者とに分類される。後者は、さらに先天的のものと後天的のものとに分けられる。「精神薄弱」とは主に前者であり、そのうち能力の低い方から「白痴」「痴愚」「魯鈍」がある。ここでいう「白痴」とは、「精神発育の程度は生れた計りの赤児、又はたかだか二三歳位の小児の智力位に止るもの」。「痴愚」とは「普通日常の用を足すに足るだけの言語、並に動作は発育して居りますが、只その発育の程度が、普通の人の如く十分」ではなく「或種の観念、特に色、時、数、その他の抽象的観念」の発育の劣るものである。「白痴」と「痴愚」は「発育制止者」である(ibid:153-4)。「白痴」には、その教育可能性によって被教化不能白痴(白痴院なり、又家庭に於て保育さるべきもの)と、被教化性白痴(特殊の白痴院、又は其他の場所に於て、教育せらるべきもの)とに分けられる(ibid:154)。そして、「痴愚」の上にさらに「魯鈍」が加わる。しかし「魯鈍」は「普通の人の愚かなるものと、これを区別することが困難でありまして、病気の魯鈍と常人の魯鈍との境は殆んどない位」だと述べているように、三宅は「健常」と「痴愚」との間にある種の、impairmentとしての知的障害を見出したものの、その内実についてはほとんど把握できていなかった(ibid:154)。

3.「白痴・痴愚・魯鈍」 −共通の指標・心理学・身体内部への視線−  1910年〜

【1】以上において、知的能力それ自体における測定や分類ではなく、身体的特徴、しかも外形の特徴において「知的障害」をとらえようとしていた。しかし、一定の経験的・外見的な観点からの分類はあったものの、観察者の主観に従う曖昧な分類であり、外部に明かな障害が認められない者についてはいまだ曖昧な認識でしかなかった。
 ところが知能検査の登場によって、それまで接近の困難だった「知能」そのものへまなざしを向けることが可能となったため、それまでとは明確に異なる規準による測定・分類が生み出されていった。そしてこの運動に大きく関わったのは心理学者たちであった。
 1905年にフランスで知能検査(ビネー・シモン法)が開発され、その3年後に三宅鑛一と池田隆徳が日本で初めて紹介した(三宅・池田1908)。ビネー・シモン法は、設問を増やすなどによって1908年版、1911年版と改訂され精緻化をめざした。その後この国では市川源三(1911)らによって紹介され、その後、久保良英(1918、1922など)や鈴木治太郎(1930)らによって日本の児童に関する調査に基づいた改訂が行われていった。
 知能検査に基づく分類には幾通りかの見解があるものの、大筋では、知能検査によって実年齢と精神年齢の差(偏差値)を計ることによって得られた指数にしたがって、知的障害を白痴・痴愚・魯鈍(軽愚)に分類される。たとえば久保(1922)は、指数100を実年齢と精神年齢とが一致する地点とし、その前後120〜90までを「普通」とした。そしてそれより指数が上の者を「優良」、90〜75を「劣等」、75以下を「低能」とした。また、青木誠四郎(7)は、指数0〜20を「白痴」、21〜40を「痴愚」、41〜70を「軽愚」とし、これらを総称して「精神薄弱」または「低能」とした。また、70〜90を「劣等」あるいは「魯鈍」とした(青木1922:80-1)。
【2】青木は、また、社会経済的概念、教育的概念、医学的概念などのそれまでの知的障害の概念把握について批判的に検討し、心理学的標準=知能検査の優位性を説いた。まず「近世以前に行はれた標準」においては、中世の英国などで法学的、医学的、教会的解釈がなされてきたが、「いづれも常識的に低能と云ふものについて、一つ二つの特徴をとらへたものであつて、これをもつて、その概念を作ることなどはできない」(ibid:59)。「社会的経済的標準」では、経済活動や責任能力を問うために古くから心神耗弱という概念が使われてきたが、どのような基準によって定義するかは定められず、「おそらくは裁判官の裁量によるか、精神鑑定家の鑑定によるのであらう。併し、精神耗弱と云ふが如き、漠然たる語でよくこの内容が、あらはれるか、推定や裁量に遺憾なきかは疑問である」(ibid:60)。また、「不完全で時や場所によつて異つて来るようではならない。即境遇の如何を問はず、性の異同を問はず、すべてに一様に適用されるものでなくてはならない」(ibid:64)と指摘する。「教育上の概念」については、従来学業成績などによって定義されてきたが「教師の主観的な判断によつて、児童の知能を定めて或は低能と云ひ、或は正常と云ふこと」(ibid:66)が行われているとし、「真の知能について、達観し得ることは少ない」と述べる。「医学上の概念」については、「医師が低能について考へることの誤りは、第一はこれが全く特殊の疾病と考へて、その徴候を求めるためと、第二はこの徴候が存在しないために、次には主観的の判断をすること」(ibid:70)とする。知的障害には必ずしも身体的な徴候があるわけではなく、栄養不良によって低能と判断されているものでも、知能検査をしてみると正常であって、それは低能なのではなく単に栄養不良であるというだけだと述べた。こうしたさまざまな概念把握が行われてきたが、青木は、それらは主観的だったり、一部の身体的徴候を拡大解釈したり、社会環境の影響を受けやすかったと述べる。しかし、「心理学的標準」においては、「知能」そのものの状態によって判断するものであり、精神薄弱とは、「心理的の事実のみ」の問題であるとした(ibid:76)。
 知能検査では、扱われるimpairmentを認識する視線が変化している。第一に、それまでimpairmentのうちに物理的・身体的要因と知的・精神的要因とが混在してあったものが、前者から後者が分離され、後者をimpairmentとして認識することが可能となった。そして、そこで問題となる能力は、たとえば学業成績や作業遂行能力という特定の分野における具体的な形としてではなく、「一般知能」として表れる。
 第二に、教育者や医者による個別的・主観的な視線から、集合的あるいは普遍的な視線への変化である。知能検査において障害を定義するためには、その前に「標準」という値が設定されなければならない。「標準」が設定された上で、そこからの偏差によって上位に位置づけられるもの「天才・優良」と、下位にある者「劣等・精神薄弱」が設定される。そしてその「標準」は、教育者や医者といった特定の個人によって定義されるのではなく、同年齢を代表する一定数の児童について試験を行った結果として獲得される。仮想的には同年齢の人々の全数に対する調査が求められるのである。こうして得られた集合的・普遍的な「知識」による視線が、判定しようとする者に注がれる。
 第三に、外部から観察可能な身体的徴候や行動様式や言語能力などによって知的能力を推定する視線から、内面に対する視線への変化である。視線が注がれる対象は、具体的な器官のような形をもたない。観察者が、特定の仕方をもって対象の影を読みとるような視線である。
 こうして、個々人の主観によらない共通の尺度に従った測定が可能になった。そして、このことがより大規模な調査を可能にした。そこで、知的障害が数として初めて認識されるようになる。1912(明45)年、『児童研究』誌上に、大阪市、新潟市、広島県、群馬県などにおける就学児童中の白痴児や低能児の数があいついで報告された。それまでにも盲児や聾児の数は文部省の統計にも表れてきたが、ここで初めて知的障害児の数が認識されたのである。また、医学者たちは、感化院などにおいて犯罪者・不良少年の知能検査を実施し、知的障害と犯罪との関係を検証しようとした(三宅・池田1909、三宅・杉江1914ab、富士川1922、内務省社会局1925など)。さらに後の大規模で継続的な調査の例としては、滝乃川学園が東京府の委託を受けて設置した児童研究所が1921(大正10)年10月から1932(昭和7)年12月にかけて、東京府下の3〜20歳の児童4328名を対象に実施した調査があげられる(東京府児童研究所1933、石井1933)。このような調査で用いられた知能検査の精度がどのようなものであったかはともかく(8)、impairmentとしての障害とそうでないものとが数値の上で明確に分割・認識され、障害者が数や量としてわれわれの前に現れることが重要であった。
【3】精神に注目した心理学的定義が急速に広まったが、同時に、肉体への注目も深まった。だが、それまでのような体重や頭部の大きさや感覚といった外見の観察によって容易に計測できるものだけでなく、さらに体内の脳や神経系統それ自体の状態に対してもまなざしが向けられた。
 医学者たちは、脳のレントゲン撮影や解剖を数多く試し、脳水腫に白痴の原因を探ろうとした(呉1915、樫田1915、佐藤1918など)。
 三宅鑛一は、1914(大3)年の『白痴及低能児』で、より身体内的原因による分類を行った。すなわち小顱症、胼胝体欠損、先天性脳水腫、炎症性脳疾患、穿孔脳、脳性小児麻痺、遺伝徴毒、幼年性麻痺性痴呆、家族性黒内障性白痴、生来性皮質外中軸発育制止症、結節性硬化、くれちにすむす、胸腺性白痴、もんごりすむす、いんふぁんちりすむす、などである。また、こうした内外の医学・教育学的知見を用いて、分類を精緻化していった。すなわち、最劣等白痴、軽性白痴、遅鈍性白痴、興奮性白痴、低能(痴愚)に分類し、さらに低能の中に、虚談症、悖徳病、軽躁病、ひすてりー性、躁鬱病、強迫観念症、神経衰弱症、をもつ者が存在することを示した。
 医学における分析は、基本的には以前から行われてきた身体的徴候に基づいたものであった。けれども、知能検査を始めとした心理学的分析も同時に採用し、心理学において一旦は分離された精神的な要因と肉体的な要因とが、医学において相互に補完しあい関係づけられていき、精神(知能)が肉体に影響を及ぼし、また肉体が精神(知能)に影響を及ぼすという枠組みにおいて認識が展開されていった。

4.個別性を問うことの反転

 ともかくここまで見てきた「知的障害」概念の変遷は、曖昧で十分に認識されていなかったその定義を明確にしていこうとするものであった。たとえば、知能におけるimpairmentはもともと存在していたのだが、知能検査が開発される前は肉体や外見による判断、教育者や医者による主観的な判断であったものが、知能検査によって客観的に、正確に知能のimpairmentを認識することができ、個々の子どもの能力に応じた教育・治療が行われるようになった、というものである(佐藤1997)。当時の教育者・医者・心理学者なども、いかに個別的に障害をもつ人の状態や原因を追求し、改善していけるかということを目指していた。
 しかし、その結果さしあたってたどりついたのは、共通化、規格化、普遍化、固定化であった。たとえば「白痴」であるとされれば、もはやそれ以上さかのぼれないような共通化・規格化した定義からしか語ることができず、その定義自体が問われることはない。
 もちろん、当時においても、認識は必ずしも一様ではなかった。知能検査は導入されたばかりで、日本の人々にあわせた設問の改訂や精度の向上は発展段階にあり、いくつかの試験法が用いられた。医学者は、知能検査のみを診断に用いるのではなく、肉体に現れる障害へも注目することを説いた(三宅・丸木1923)。けれども、肉体を診断する際に知能検査の結果を同時に用いる時点で、すでにその結果が前提とされ、知能の低い者は肉体的にも障害を負っているという転倒のもと、医学者たちは知能と肉体との相関関係を探ることに血眼になっていった。
 また後年、フランスでビネが最初に考えた思想や検査は、ビネの継承者たち(ターマン、ゴダードら)に歪められたのだという批判がなされる(Gould1996=1998:224-228、重田2000)。批判者によれば、知能検査の設問自体に文化的階級的な偏りが含まれており、そのような検査の結果だけがその者のすべてを指し示そうとするのではなく、知能検査の中にもさまざまな側面を測る要素がなければならないし、その他の学力や身体状況や個性・多様性などを同時に詳細に考慮に入れる必要があるのだという。
 けれどもこうした批判においては、測定の方法や測定結果の使用方法が誤っていたのだといい、測定することを否定するものではなく、impairmentの存在は測定する以前からあるものとして認識される。しかし、「白痴」や「魯鈍」という実体がもともと存在したのではなく、むしろその認識が形成されてきたことによってその定義がかたどられてきた。見てきたように、健常と白痴との間に認識された「痴愚」や「魯鈍」という中間的な領域は、「白痴」の位置づけの変遷に伴って、教育や心理学や医学の場の中で「見いだされ」、そして見いだしたことによって多様に原因や徴候が分類・記述された。それは、単に過去にはそれぞれの観察者による主観的・恣意的な認識であったところが、認識の発展とともにそれらから解放されたのではない。impairmentは、人々の認識や分類が深まることによって、逆にimpairmentがつくられていったのであって、あらかじめ所与のものとしてあったのではない。ある部分を身体的な障害として取り出すということ、それ自体がすでに他者の規定なのであり、身体のうちのある特徴をimpairmentと名指すこと、ある部分の能力を能力として取り出すこと自体がすでに社会的不利disability(handicap)の一部である。われわれはその都度impairmentとして何かを選び取ってきたのであり、impairmentの変化は、他者の視点による障害の規定の様式が移り変わったということである。その時々の障害に対する認識は(認識しないことを含めて)存在しており、対象となる個人の何に注目し(体格、環境、性格、知能、行動、器官、学業成績…)、どのような分類を行うか(劣等、低能、白痴、成績不良…しかも1880年と1920年における「白痴」は同一ではない)ということだけが問題として扱うことができる。だが、主観性の消去という操作がなされることによって、impairmentは普遍的に流通し、また個人に定位した障害として刻印されることによって、その操作は不問に伏される。
 さて、ようやく冒頭で述べた問題にさしあたって結論づけることができる。これは社会モデルとして語られてきたことの延長にある。しかしimpairmentを肯定する立場/否定する(価値を与えない)立場の双方とも、impairmentを論理の前提としてすでに実体化したもの、「単なる物体」としての位置を与えている。また、たとえばクロウは、肯定/否定の二分法を乗り越えて、社会モデルの中にimpairmentを取り入れることを試みている(Crow1996)。そこでは、社会的要因がimpairmentの発生に大きく関わっており、社会的要因あるいは主観的な位置づけによるimpairmentの可変性を明らかにしているものの、しかし障害をimpairment/disability(handicap)に定義づける二分法は依然として残されているのではないか。そのようにimpairmentを扱うとき、すでにある部分をimpairmentとして取り出しており、たとえば能力を問う前にすでに能力は置かれる。しかしこのことはimpairmentが存在しないことを意味しない。ただ、disability(handicap)の効果のひとつとして生み出され、impairmentは無漂白な、それ以上さかのぼれない個人の肉体に帰属する徴候として置かれる。impairmentは、身体経験のひとつとして当人にとっても経験されるが、すでにdisability(handicap)を含みこんだ形で経験される。ここに「身体」を語る際の困難がある。

                  【注】

(1)ICIDHとその批判は、他に佐藤(1992)を参照。2000年現在、改訂版(ICIDH-2)の作成作業が進んでいる。
(2)特殊教育史研究において、茂木・高橋・平田(1992)などの蓄積があり、本稿の資料収集にあたっても参照した。したがって、もちろん一次的資料に基づいてはいるものの、個々の記述そのものはそれらと大きく異なるものではない。しかし、本稿はそれらとは別の概念史として再構成しようとするものである。
(3)滝乃川学園は、当初から知的障害施設だったのではなく、1891年の濃尾地震で困窮した孤女の教育から始まっている。石井は、脇田良吉(白川学園)や川田貞治郎(藤倉学園)らその後の施設創立にあたって大きな影響を与え、1934(昭9)年の日本精神薄弱児愛護協会の結成にも加わり、初代会長に就任した。
(4)この書は、大村(1900)、石井(1904)とともにこの当時における数少ないしかし広く教育関係者に読まれた文献のひとつである。出版後2年弱で6版を重ねたという(茂木・高橋・平田1992:117)。
(5)乙竹は、1907年の欧米留学からの帰国後、ドイツを中心とした「低能児」に対する教育(補助学校など)を数多くの著作や講演を通じて紹介した。その成果のひとつが乙竹(1908)である。東京高等師範学校に勤め、1908年には付属小学校の特殊学級設置に関わっている。また「低能児」教育にとどまらず第二次大戦前の教育学一般や教育史研究に大きな貢献を果たした。乙竹の思想については高木(1990)などを参照。
(6)1865(慶応1)年生。医学史家でもあった。富士川がその中心的役割を果たした日本児童研究会およびその機関誌『児童研究』は1898(明31)年創立以来第二次大戦中まで続き、教育・医学・社会事業などさまざまな分野からの知的障害に関連する論文や海外情報を多数掲載した。精神医学者の呉秀三や三宅鑛一などとともに「教育病理学」の研究・啓蒙を行った。
(7)教育心理学者として青年心理や低能児教育などに関わる研究や著作を行う。小学校教員だったが、1916(大5)年から東京帝国大学で心理学を学ぶ。卒業後、東京府立第五高等女学校教諭をへて1924(大13)年より東京帝国大学教員。
(8)H・H・ゴダードが米国の移民を知能検査を実施したところ、ユダヤ人の83%、ハンガリア人の80%、イタリア人の79%、ロシア人の87%が精神薄弱ということがわかった。R・M・ヤーキーズらは、1917年に米国陸軍の175万人の新兵に対して知能検査を実施した。その結果、彼らの平均精神年齢は約13歳、つまり魯鈍のレベルよりもわずかに上でしかないことがわかった。こうした検査の結果は、後に検査の実施条件や内容に問題があったとして妥当性が問われたが、少なくとも当時、数として把握され社会的な動きを作り出した(たとえば移民制限)ということに着目すべきである。

                  【文献】

青木誠四郎 1922 『低能児及劣等児の心理と其教育』,中文館書店
Barnes,Colin & Mercer,Geof eds. 1996 Exploring the Divide: Illness and Disability,Disability Press
Crow, Liz 1996 "Including All of Our Lives:Renewing the social Model of Disability",Barnes & Mercer eds.[1996:55-73]
富士川游・呉秀三・三宅鑛一 1910 『教育病理学』,同文館
富士川游 1922 「異常児童調査」1-10,『児童研究』26巻
Gould, Stephen Jay 1996 The Mismeasure of Man, Revised and ex-panded, with a new introductions,W.W.Norton=1998 鈴木善次・森脇靖子訳 『人間の測りまちがい 差別の科学史(増補改訂版)』,河出書房新社
市川源三 1911 『智能測定及び個性之観察』光風館書店
石井亮一全集刊行会監修 1992 『増補 石井亮一全集』(1−4巻),大空社
石井亮一 1904 『白痴児其研究及教育』(全集1巻:1-169)
――――― 1933 「一般児童・不良児・精神薄弱児に関する統計的調査」,全集2:261-454
石島晴子 1979 「わが国における「就学猶予・免除規定」の成立に関する一考察」,『精神薄弱問題史研究紀要』24:13-37
樫田五郎 1915 「白痴の一例  臨床的観察竝に剖検所見」,『神経学雑誌』14巻3号:1-7、4号:16-22、5号:9-22
近藤鎮三 1885 「白痴教育説」,『大日本教育会雑誌』17:59-72
久保良英 1922 「増訂智能査定法 −大正十一年法−」,『児童研究所紀要』5:1-50
呉秀三 1915 「白痴−水頭(脳水腫)」,『神経学雑誌』14巻1号:25-32
三宅鑛一 1914 『白痴及低能児』(日本小児科叢書第10篇),吐鳳堂書店
三宅鑛一・池田隆徳 1908 「智力測定法」,『医学中央雑誌』第6巻1−3号
――――― 1909 「不良少年調査報告」,『児童研究』12:313-318
三宅鑛一・杉江薫 1914 「在姫路陸軍懲治隊懲治卒の精神状態視察報告書」,『児童研究』17:241-253、351-364
三宅鑛一・丸木清 1923 「低格者の智能検査に就て」,『児童研究所紀要』7:215-260
茂木俊彦・高橋智・平田勝政 1992 『わが国における「精神薄弱」概念の歴史的研究』,多賀出版
内務省社会局 1925 「感化院収容児童鑑別調査報告・同附表」,社会福祉調査研究会編1990:97-136
織田勝馬・白土千秋 1906 『小学児童劣等生救済の原理及び方法』,弘道館
Oliver 1990 The Politics of Disablement,St.Martin Press
――――― 1996 Understanding Disability,St.Martin Press
重田園江 2000 「正しく測るとはどういうことか?」,『現代思想』28,10:221-241
大村仁太郎 1900 『児童矯弊論』,精華書院
乙竹岩造 1908 『低能児教育法』,目黒書店
佐藤惇一 1918 「白痴及び二三精神病の頭顱特に頭蓋底の「レントゲン」像的所見」,『神経学雑誌』17巻4号:4-26
佐藤久夫 1992 『障害構造論入門』,青木書店
佐藤達哉 1997 『知能指数』,講談社現代新書
杉江薫 1912 「痴愚の責任能力について」,『児童研究』15巻11号:371-2
鈴木治太郎 1930 『実際的智能測定法 初版』,東洋図書
社会福祉調査研究会編 1990 『戦前日本社会事業調査資料集成5』,勁草書房
高木雅史 1990 「1900年代〜1920年代の日本における「低能児・優秀児」教育の思想」,『名古屋大学教育学部紀要(教育学科)』37:115-125
東京都養育院 1974 『養育院百年史』,東京都
東京府(代用)児童研究所 1933 「精神薄弱児に関する調査」,社会福祉調査研究会編1992:362-406
津曲裕次・清水寛・松矢勝宏・北沢清司編著 1985 『障害者教育史』,川島書店
脇田良吉 1912 『低能児教育の実際的研究』,厳松堂書店



 表1
 原因分類               
   固着的原因(内部的)A精神的 a先天的  
                  b後天的 ・性行的のもの
                      ・病的のもの
             B器質的 c先天的  
                  d後天的 ・急性的のもの
                      ・慢性的のもの
   随伴的原因(外部的)C家庭に於ける原因
                             
             D学校に於ける原因 ・学校そのもの
                       ・教師


  表2
│普通児        │中間児         │変態児       │
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
│     成     │能力遅鈍性       │白痴児       │
│     績     │精神異常性       │病児        │
│普通児  不     │身体虚弱性       │病児        │
│     良     │機関障碍性       │盲児、唖児     │
│           │心性不良児       │不良児       │
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


UP:2000 REV:20081127
寺本 晃久  ◇Archives
TOP HOME (http://www.arsvi.com)