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「障害者ドラマ、あるいはマイノリティの視点」


last update: 20151221


障害者ドラマ、あるいはマイノリティの視点
『福祉文化学会誌』掲載予定

                             小林 英樹(学苑社)
1 はじめに
 このところ、障害者を主役にしたテレビドラマがゴールデンタイムに登場し、軒並
み高い視聴率を上げている。障害者ドラマが、道徳の延長線上にあるようなヒューマ
ン・ドラマとしてではなく、通常のドラマ枠で人気を博したことをまず評価したい。
 筆者は、このブームが、バブルで踊らされた後の日本に清涼な一陣の風を送り込ん
だものと解釈している。きっと欲望世界の対極にある彼らの純粋無垢なイメージが、
多くの人々の共感を呼んだのではあるまいか。しかし、それだけでは、今回のブーム
のすべてを語り尽くすことはできないであろう。
 知的障害者を天使的存在と見なすイメージは、19世紀初頭、勃興する産業社会に対
する危機が叫ばれる中、英国の詩人ワーズワースなどロマン派の人々によってに美し
く謳い上げられた。しかし、そのようなロマンチックな障害者像は、20世紀初頭の優
生思想に対する防波堤とはなりえず、優生思想が席巻する中、多くの障害をもつ人々
は断種されたり、ガス室に送り込まれたりした。これは、ナチス・ドイツだけの話で
はなく、アメリカでも同様の事態が、より先行して生じていたのである。すなわち、
産業社会に汚濁されぬ純粋無垢な障害者像は、産業社会における無用な存在としての
障害者像に取って代わられてしまったのである。
 障害者ドラマ・ブームがバブルの終焉によってもたらされたものであるとすれば、
その中で語られるイメージは、19世紀のロマン派のものとそれほど異なったものとは
言えないであろう。しかし今日、このイメージは、文化の観点からも、人権の観点か
らも、そのまま首肯しうるものではなくなっている。そして、このような状況は、ド
ラマの世界にもストレートに反映されるのである。
2 異人譚
 このブームの要因として、もう一つここで取り上げておかなければならないことが
ある。それは、障害者の持つストレンジャー性であり、この起源は、上述の天使的障
害者像よりもさらに遡る。天使的障害者像が近代社会固有のイメージであるとすれ
ば、ストレンジャーとしての障害者像は、前近代的な民話や昔話にその起源をもつ。
共同体の中で語り継がれてきたストレンジャーに対するイメージは、差別や偏見を助
長する面も含んでいたので、この古い物語の構造からの脱却を、本論における一つの
評価軸に据えようと考える。しかし、この古いタイプに属するドラマもこのブームに
あずかっているので、まず、それらの作品の紹介から話を進めてみたい。
 (1) 星の金貨
 「星の金貨」(主演 : 酒井法子・大沢たかお、1995年4〜6月放送)では、同名のグ
リム童話の一篇の朗読シーンが随所に登場し、それによって、ドラマ全体のイメージ
づくりがなされている。グリム童話の「星の金貨」とは、「貧しい少女が自分の持っ
ているものをもっと貧しい子どもたちにすべて分け与え、裸同然になって歩いている
と、満点の空の星が金貨となってパラパラと彼女のところに降り注いでくる」、と
いった内容の話である。
 しかし、ドラマの方の「星の金貨」は、むしろアンデルセンの「人魚姫」と似てい
る。すなわち、北海道に住む主人公の聴覚障害の女性・倉本彩(酒井法子)が、故郷で
結婚を誓い合った医師・永井秀一(大沢たかお)を追いかけて上京するのだが、結局は
悲恋に終わり、失意のまま故郷に帰っていく。その中で、秀一の弟・拓巳(竹野内豊)
との関係等を織りまぜて、物語に少し膨らみを持たせているが、基本線は、やはり悲
劇と言えるだろう。そして、人魚姫と聴覚障害の女性、王子と医師を入れ替えれば、
いくつもの類似点が見出されるのである。すなわち、主人公が故郷を捨てた点、恋人
が主人公のことを全く覚えていない点(秀一は、事故で記憶喪失となっている)、主人
公は声が出ず自分とのかつての関係を告げることができない点、最終的には恋人は別
の女性と結ばれてしまう点、などである。
 これらが単なる偶然なのかは知らぬが、この現代のドラマが、その基本構造におい
て、昔話と通底する部分があるということだけは確かだと思う。
異界からやってきた者が里の者と恋に陥ったり、事件を引き起こしたりし、再び異界
へと立ち去っていくという基本パターンは、かぐや姫や夕鶴にも見られるが、ここで
はこれを「異人譚」と呼ぶことにしよう。
 「星の金貨」では、グリム童話の一篇をタイトルに用いていることからも、脚本家
の龍居由佳里は、ドラマ全体に童話的なイメージを散りばめようとしていたに違いな
い。しかし、童話的イメージを追い求めることによって、逆に、異人譚の世界に埋没
してしまったのだと、筆者は推測する。龍居はその後、「ピュア」の脚本も担当し、
表面的には、この障害者ドラマブームを支えた中心人物のように見られがちである。
しかし、彼女が脚本を書いた作品には、異人譚が色濃く影を落としてしまう傾向があ
る。異人譚がなぜ問題なのかについては、次の「フォレスト・ガンプ」の項で、より
具体的に説明してゆきたい、
 (2) フォレスト・ガンプ
 「フォレスト・ガンプ 一期一会」は、1995年度アカデミー賞6部門に輝き、日本
でも大変な評判を呼んだ。この映画は、知的障害者の青年、フォレスト・ガンプ(ト
ム・ハンクス)のサクセス・ストーリーであるが、彼は成功し大金持ちになったにも
かかわらず、最後のシーンはあまりにも孤独である。筆者は、このラストに、ストレ
ンジャーが共同体を去らなければならないのと類似した悲劇の構造を感じる。
 この映画の監督のロバート・ゼメキスは、スピルバーグの弟子だけあって、「フォ
レスト・ガンプ」にもファンタジックな要素が随所に盛り込まれている。例えば、子
どもの頃、足が悪く補装具を使用していたガンプは、いじめっこの石つぶてから逃れ
るため、猛スピードで走り出していく。そして、それ以来ガンプは歩けるようにな
り、それどころか人一倍早く走れることが彼の特技となり、後年、その俊足を買わ
れ、大学のフットボールチームの選手に選ばれる。また、幼なじみのジェニーに失恋
したときも、その痛手を癒すために、やはり黙々と走っていると、それに多くの者た
ちがつき従っていき、いつの間にか教祖に祭り上げられてしまう。
 このようなファンタジックなストーリーが許されるのだから、アップル・コン
ピュータをフルーツの会社だと思いこんでいるようなガンプでも、若社長としてビジ
ネス界で華々しく活躍させることも十分可能だったはずである。ところが、そのよう
な展開は一切なく、彼はいつのまにかビジネスの世界から足を洗い、故郷に帰り、広
い庭を芝刈しながらの静かな毎日を送っている。しかも、その経過に関して、ほとん
ど説明がなされていない。しかし、彼が引退した理由は、この映画を見た人は、おお
よその見当がついていたに違いない。すなわちそれは、知的障害者であるガンプに
とって大きな会社の経営は無理であった、ということである。そして、さらに悪意に
読みとれば、ベトナム戦争で身体障害者となった共同経営者のダンが、いつのまにか
会社の実権を握ってしまい、実質的にはガンプを追放したのである。富裕になったガ
ンプが暮らすこぎれいな郊外の別荘は、社会から隔絶された衛生環境の整った郊外の
施設を連想させる。
 このように「フォレスト・ガンプ」は、冷ややかな現実感を漂わせている作品であ
る。例は他にもある。例えば、ダンは、アジア系のあまり美しくない女性と結婚する
が、これなども、身体障害者であり経営者であるダンとの釣り合いという現実的側面
をいやでも想像させられるシーンである。ダンが結婚するという話は原作にはなく、
この映画でも、二人のなれそめや関係についてはほとんどふれていないにもかかわら
ず、唐突に結婚式のシーンだけが現れる。そして、アメリカ社会において低い地位に
あるアジア系の花嫁と身体障害者の花婿というカップルから発せられるのは、酷薄な
メッセージに他ならないのである。
 また、金持ちになったガンプの前に、ヒッピーに運動に参加して疲れ切ったジェ
ニーが現れるが、この二人の関係も、彼女がガンプのことを食い物にしているとしか
思えないのだが、美しいラブロマンスとして描かれている。
 ガンプと一期一会の出会いをする友人は、貧しい家庭で育ち幼児期に父親から虐待
されたジェニー、黒人兵のババ、傷病兵のダンである。しかし、その友情は、戦死し
たババとの場合を除きどこか屈折しており、弱い者がより弱い者を踏みつけにすると
いう悲しい構造が見え隠れする。そして、この映画では、この悲しい構造が自覚的に
対象化されるどころか、美化されてしまっているのである。
 また、ガンプに対して侮辱的な言葉を吐く人々が登場するが、このような設定は、
それにもめげずにがんばったガンプを賞賛するためにのみ存在し、そういった言葉を
放った人々に対する告発的視点はない。
 (3) 冷たいリアリズム
 冷たいリアリズムは、「星の金貨」にも見られる。例えば、まだ北海道にいた頃、
祖父は彩に、秀一との結婚は所詮かなわぬ夢だから諦めよと説得する。また、秀一の
婚約者の結城祥子(細川直美)は、聾唖者である彩の心を傷つけるような残酷な言葉
を吐く。「星の金貨」では、この他にも聴覚障害や手話が否定的に見られるシーンが
出てくる。
 「星の金貨」と「フォレスト・ガンプ」は、似かよったオーラを発散する作品であ
る。両者は、ともに異人譚の定型を踏んでおり、同時にまた冷ややかな現実感をかも
し出している。筆者は、両作品におけるこれらの特徴は、ストレンジャーに対するま
なざしから派生したものだと捉えている。要するに、異人譚とは、あくまで里人の目
から見て書かれた物語なのである。すなわち、異人にとどまりつづけてほしくないと
いう里人たちの無意識の本音がちらつく異人譚そのもののが、ある意味で、冷たいリ
アリズムを内在させていたのではないかと思われるのである。
 先程「星の金貨」が障害者ドラマ・ブームの先頭を切ったと述べたが、それは、こ
の作品がブームの火つけ役を果たしたことを意味しない。なぜなら、そのとき機はす
でに熟しており、主役ではないが障害者を登場させたドラマが目立って多くなってき
ていたからである。そして、このようなムードは、ある一人の人物によってもたらさ
れたと筆者は信じてる。そして、視聴率至上主義の中にあってこのブームを本当の意
味で仕掛けた人物と、異人譚からの脱出をはかろうとした人物が、実は同じであった
ことをここで指摘しておきたい。
 
3 野島伸司とマイノリティの視点
 (1) 不思議な特徴
 野島伸司が、現在最も活躍している若手脚本家の一人であることに異を唱える者は
いないであろう。彼は、「101回目のプロポーズ」(主演 : 武田鉄矢、浅野温子、
1991年放送)で実質的なデビューを果たした後、「高校教師」(主演 : 真田広之、桜
井幸子、1993年放送)というドラマ史上に残る名作を発表したが、その後も次々と
ヒットを飛ばしている。そして、初期から彼の作品を見てきた人は、ある不思議な特
徴に気づいていたに違いない。すなわち、彼が脚本を書いたドラマには、障害者やそ
れに類する人々が頻繁に登場するのである。
 例えば、「高校教師」で、赤井英和演じる体育教師の息子は難病であったが、この
設定は、最後までストーリーとは関係せず、かえって不自然な印象を与えている。ま
た、「愛という名のもとに」(主演:鈴木保奈美・唐沢寿明、1992年放送)では、登場
人物の一人が、ある日見知らぬ男に呼び止められ、「福祉の世界に興味はありません
か」と誘いを受ける。また、「ひとつ屋根の下」(主演:江口洋介・酒井法子、1993年
放送)や「家なき子」(企画作品、主演:安達祐実、1994年放送)にも、車椅子の少年が
登場する。これらの点からも、この脚本家には、福祉と接点を持たせたいという強い
思いがあったのではないかと察せられたのである。
 これらの作品はすべて評判を呼び、それゆえ、視聴者も、ゴールデンタイムのドラ
マに障害者が出るということに対していつのまにか慣らされていったのだと思う。し
かし、この時点でも、彼がなにゆえ頻繁に障害者を登場させるのか、その理由は今一
つ判然としなかった。その意図がおぼろげながらもあらわになってくるのは、「この
世の果て」(主演:鈴木保奈美・三上博史、1994年放送)においてである。
 (2) この世の果て、人間・失格
 「この世の果て」は、従来のドラマとは異なり、芸術的色彩の濃い作品である。ド
ラマのあらすじは省略するが、この作品で描かれているのは、「この世の果て」とい
うタイトルが示すように、都市空間に潜む辺境のイメージである。「東京ラブストー
リー」がある意味での都市賛歌であり、キラキラとしたまばゆい光芒を放つ都市空間
の人間模様を肯定的に描いたのに対し、「この世の果て」では、同じ都市の片隅に蠢
く人々の深い心の闇が浮き彫りにされている。そして、ここには、幼い頃一生償いき
れない罪を犯してしまった女、転落し狂乱していくピアニスト、盲目の美少女、顔が
醜くただれた若者、悪意に突き動かされてしか生きることのできないホステス、その
ホステスに入れ込み愛する妻を殺してしまった男、人生の輝く季節が過ぎ去った後虚
無の時間を送りつづける女、などが登場する。
 そして、主人公の砂田まりあ(鈴木保奈美)は、こうした人々の心の傷を抱きしめ
る、まさに聖母マリアのような存在として描かれている。そして、辺境の住人の一人
に盲目の少女・なな(桜井幸子)が選ばれたことには、今までの作品とは異なった意味
で、何がしかの説得力が感じられたのである。また、盲目の少女にも、従来のような
端役ではなく、ストーリー全体の鍵を握るような重要な役割が与えられ、視覚障害を
もつことによって受けた心の傷や葛藤が丹念に描きこまれていた。
 このようにこのドラマの中では、野島がこれまで頻繁に障害者を登場させてきた理
由が、おぼろげながらもその片鱗を覗かせていた。そして、この年続けて発表された
「人間・失格 たとえばぼくが死んだら」(主演:赤井英和・堂本剛・堂本光一、1994
年放送)も、「この世の果て」と同様、野島の問題意識の高まりが伝わってくるよう
なすぐれた作品である。「人間・失格」には直接障害者は登場しないが、“いじめ”
という深刻な問題が取り扱われている。すなわち、主人公の少年(堂本剛)は、受験校
の陰湿ないじめに合い自殺に追いこまれるのだが、そのいじめに教師まで関与してい
たことを知った父親(赤井英和)は、息子を死に追いやった者たちに復讐を開始する。
 野島のテンションの高まりが勢いを増す中、その奔流は、翌年の「未成年」(主演:
いしだ壱成・桜井幸子、1995年10〜12月放送)へとそそぎこまれていく。そして、障
害者を登場させてきた本当の謎が解けるのは、この作品においてなのである。
 (3) 未成年
 「未成年」の前半は、ごく普通の青春ドラマとしてすべりだしていく。すなわち、
落ちこぼれの高校生ヒロ(いしだ壱成)と順平(北原雅樹)、彼らがデクと綽名をつけた
近所に住む知的障害の青年(香取慎吾)、ヒロの家庭教師のモカ(桜井幸子)、暴力団組
員の五郎(反町隆史)、東大を目指すエリート高校生の勤(河合我聞)らの奇妙な友情が
淡々と描かれていく。
 ところが、途中から話は急転直下する。すなわち、ヒロは、信頼していた担任教師
の裏切りにより大学の推薦入学に落っこちてしまう。順平は、甲子園の出場を賭けた
大事な試合で平凡なフライを落とし、下級生からリンチを受ける。モカは、心臓に障
害があったが、そのことを恋人に告白すると婚約を破棄されてしまう。五郎は恋人と
所帯をもつため組織から足を洗ったが、そのためにその恋人を殺されてしまう。勤
は、バレエ教室に通う少女に恋をし駆け落ちを決意をする。
 このようにごくごく普通の若者たちは、ちょっとした偶然の重なりあいによって、
通常のレールから次第にはずれた方向へと踏みだしていく。そしてその最中に、ある
事件が勃発する。すなわち、知的障害の青年デクが、銀行強盗をしてしまうのであ
る。彼としては、お金に困っている両親を見るに見かねて、銀行の窓口で「お金」と
叫んだだけだったのだが、行員ともみあっているうちに、元暴力団組員の五郎から
貰った拳銃を発砲し、その行員に重傷を負わせてしまう。偶然その場に居合わせたヒ
ロと順平がデクを連れだして逃げるが、それによって騒ぎはさらに大きくなる。
 そして、社会のレールから逸脱しはじめていたモカ、五郎、勤らが、彼ら三人に合
流し、全員でその街からの脱出をはかり、福島県の廃校に隠れ潜み、共同生活を始め
る。しかし、世間ではすでに大騒ぎになっており、マスコミは、彼らは政治的意図を
もった凶悪集団であると断定した。
 そして、最終回近くになってこのドラマの大いなる謎解きが行なわれる。すなわ
ち、彼らが立てこもっている(と報道されている)山あいの廃校を機動隊が包囲し突撃
するというシーンが映し出されたからである。それは、このドラマが放送される少し
前、全国の人々の目を釘付けにした上九一色村の光景とそっくりであった。
 結局彼らは全員逮捕され、ラストは、裁判官の前でズボンを降ろすという明るいラ
ストシーンで幕を閉じる。しかし、野島が、この純情な若者たちとオウムの信者たち
を重ねあわせたことは明白であろう。このドラマが放送されたのは1995年10月〜12月
であり、地下鉄サリン事件(1995年3月20日)からわずか半年しか経っておらず、時期
的にもピッタリ符合していた。
 野島があえて危険な賭けを犯してまで、このようなオウム事件のパロディをやろう
とした理由は、筆者には痛いほどよくわかる。当時、この事件に対する世間の反応
は、マジョリティがマイノリティを一方的に断罪するという図式そのものであった。
そして、このような風潮が世間を覆い尽くしていることに対して、野島は苦々しく感
じていたに違いない。それゆえ彼は、視聴者が主人公たちに共感しいつのまにか自分
自身を同一化してしまうというドラマの特性を生かして、視聴者にある種の思考実験
を強要したのではなかろうか。そして、このようなシミュレーションによって想像力
を膨らますことは、オウム事件の事実の問題とは別に、我々自身に内在する差別意識
を見つめる上で、欠いてはならぬプロセスなのである。
 ここで、野島が求めようとしたものを、私は、「マイノリティの内在的視点」と呼
ぶことにしたい。先ほど、異人譚の視点は共同体の側の視点であると述べたが、換言
すれば、異人譚の視点は、マイノリティに対する外在的視点と言えるかもしれない。
そして、「未成年」において、デクとモカという二人の障害を持つ若者が登場する
が、彼らをアウトサイダーの仲間に加えたことの中にこそ、彼が今まで長いこと障害
者を頻繁にドラマに登場させてきたことの本当の理由が覗かれるのである。
 「未成年」では、例えば、次ぎのようなシーンにも、マイノリティの視点がうかが
われる。すなわち、第10章の「傷だらけのクリスマス」の中で、廃校が機動隊に包囲
されたとき、モカがヒロに対して「世界中を敵にまわしても、貴方を守ってあげる」
とつぶやく。マイノリティの心性を表すとき、筆者はこれ以上に適した言葉を知らな
い。事実、筆者はかつて、ある障害者グループの中で、これと同様の言葉を耳にした
経験がある。
 そういえば、野島伸司の実質的なデビュー作となった「101回目のプロポーズ」の
主人公は、武田鉄矢演じる風采も上がらず仕事の面でもあまりパッとしない、見合い
を100回もふられつづけた中年男である。ある意味で「101回目のプロポーズ」は、野
島自身の思想的原点を示した作品だったのかもしれない。
 (4) マイノリティの視点とは
 そして、ここまで話を広げると、「マイノリティ」という言葉の意味が少し曖昧だ
と思われ向きもあるだろう。ここで筆者が言う、「マイノリティ」という言葉の意味
をもう少し整理してみたい。「マイノリティ」という言葉は、少数民族など、集団そ
のものを意味する実体概念ではない。アメリカには、マイノリティの中に、女性、障
害者、老人なども含めるという考え方がある。女性は当然ながら人口の半分を占める
のだから、マイノリティが少数グループであるとはけして言えなくなる。しかし、筆
者は、マイノリティの対象をこのように拡大して解釈することに対しては特に疑問を
感じない。
 例えば、赤坂憲男は、現実の中に居場所が見つからず公園で一日中ひなたぼっこし
ている老人のことを、「暮れなずむ黄昏の老人たち」と命名したが、彼らと、政治の
表舞台で実権を握っている高齢者たちと当然同じには語れない。一口に老人や高齢者
と言っても、個々において立場や社会的機能が全く異なるからである。すなわち、老
人のマイノリティ性とは、実体ではなく、その機能にもとづくものなのである。
 しかし、一見暮れなずむ黄昏の老人と全く無縁な存在であると思える権力者老人の
中にも、いつ訪れるかわからない死や痴呆化への恐怖など、彼らと共通する心性を宿
していないともかぎらない。そして、レーガン元大統領のように、引退後ゆるやかに
マイノリティの世界の中に入っていく者もいるだろう。ゆえに、老人のマイノリティ
性が機能にもとづくとは言っても マイノリティに属する老人とマジョリティに属す
る老人を画然と区別することは困難であろう。こう考えていくと、老人のマイノリ
ティ性とは、個人に付着したレッテルというよりも、個々の内面の中に芽生え膨らん
でいく断片的な心理的要素としてとらえた方がよいのではないかと思えてくる。この
ような側面は、むろん女性、少数民族、障害者等にもあるはずである。また、貧しい
人、病気をもつ人、容貌がひどく醜い人、落ちこぼれの生徒、いじめや児童虐待を受
けた子ども、何らかの理由で集団から無視されたり仲間外れにされた人なども、社会
の主流からはずれていることで心に深い傷をもっているはずである。この意味で、多
くの人々は、自らの内にさまざまな形でのマイノリティ性を抱えているにもかかわら
ず、そのことに目をつむり、マジョリティとしてのアイデンティティを求めたがる傾
向があるのである。
 筆者が、ここで言うマイノリティの視点というのは、その心の傷を通して、ないし
はそれを起点として、世界に相対する姿勢のことをさす。そして、マイノリティの視
点を持つということは、ちょうど地と図を反転させるように、自分が今まで糊塗しつ
づけてきた“内なるマイノリティ”の視点を浮き立たせようとすることに他ならない
のだ。
 野島は、このような“内なるマイノリティ”を世に問うため、かくし味のような形
で障害者を登場させつづけてきたに違いない。そして、「この世の果て」、「人間・
失格」によって自らの問題意識を凝縮させ、「未成年」によって、その思いのたけの
すべてを一挙に吐きだそうとした、はずであった。しかし、野島の大いなる野望は、
全くの空回りに終わってしまった。なぜなら、露骨なまでに上九一色村を連想させる
機動隊の突撃シーンを、オウム事件と結びつけた者は誰もいなかったからである。
「未成年」はそこそこの視聴率を獲得したが、ドラマが終了した後は、その主題歌に
使われた「Top of the World」と「青春の輝き」がカーペンターズのリバイバルに寄
与したということのみが、人々の記憶にとどめられた。
 「未成年」の後、障害者ドラマ・ブームが本格的に始まるわけだが、それらはすべ
て、野島によって敷設されたレールの上を走ったと言っても過言ではないだろう。し
かし、野島自身は、現在に至るまで、障害者を主人公にした作品を一本も書いていな
い。
 (5) NIGHT HEAD
 野島的な視点とシンクロするドラマは、何も障害者を登場させた作品にはかぎらな
い。例えば、「NIGHT HEAD」(飯田譲治脚本・監督、1992年10月〜1993年3月)がその
好例で、この作品は、深夜の時間帯(午前零時40分〜1時10分)にもかかわらず、異常
な人気を呼んだ。
 「NIGHT HEAD」は、直人(豊川悦史)と直也(武田真治)という超能力を持つ二人の兄
弟の物語である。兄・直人はテレコキネシス(念動力)の力を、弟・直也はリーディン
グの能力をそれぞれ持っているが、この二つの能力は、マイノリティの心の世界にお
ける二つの方向性を暗示するものではないかと推測される。すなわち、直也のリー
ディング能力は異常に繊細で傷つきやすい感受性を伴い、直人のテレコキネシスは追
いつめてくる敵に対する破壊となって炸裂する。直也は、過剰なる感覚情報によって
支配されており、その心象風景は、高機能自閉症者ドナ・ウィリアムズのそれを彷彿
とさせる。また、この兄弟の対構造は、「人間・失格」における、自殺に追いこまれ
る息子と復讐を誓う父親の姿ともオーバーラップする。すなわち、傷つきやすい心
と、ときおり炸裂するアグレッションが一対となって、マイノリティの内面世界を象
徴しているのである。
 このドラマでは、一話完結で、前半は、事件物あり、恋愛物あり、バイオレンス物
ありだが、後半から少しずつ様相を変え、一つのテーマに向かって絞り込まれてい
く。すなわち、「変革」というキーワードが登場し、変革を望む超能力者グループ
と、変革を望まない、すなわち、世界がこのままでありつづければいいと願う超能力
者グループの抗争といった形へと話が発展していくのである。この「変革」の具体的
内容については十分には語られていないが、大筋としては、物質文明から精神文明へ
の転換が示唆されている。二人の青年は、自分たちに超能力があることを知られぬよ
う、世に隠れて旅を続けているのだが、次第にこの抗争の渦の中に巻き込まれてい
き、変革を望まないグループから命を狙われだすようになる。すなわち、近い将来、
この二人が「変革」のキーパースンになることが予言されており、変革を望まないグ
ループは、彼らを危険分子と見なし、早いうちにその芽を摘み取ってしまおうとする
のである。このドラマで面白いのは、世界がこのままでありつづけてくれればいいと
いう、いわばマジョリティとして当然の願いを持つ人々が、明らかに悪人として描か
れている点である。そして、「15話 APOCALYPSE 啓示」では、彼ら二人自身、変革
が本当に正しいことなのかどうか迷いはじめる。そして、弟の直也が、自分たちがも
しかしたら間違った存在なのではないかという疑心暗鬼に駆られだしたとき、兄の直
人は、こう答えている。
「誰にも望まれなくったっていい。俺たちがつくれる未来があれば、俺はそれを望
む。俺とオマエに存在する意味があれば、何でもいい、俺はそれを望む。たとえ、世
の中全部を敵にまわすことになってもな」
 この「世の中全部を敵にまわすことになっても」が、「未成年」においてモカがヒ
ロに語った、「世界中を敵にまわしても、貴方を守ってあげる」と重なることは言う
までもない。このように、「NIGHT HEAD」は、マイノリティの視点がかなり鮮明な形
で表現されている作品であると言えよう。
 (6) その他
 飯田譲治は、野島と同様、マイノリティに対する自覚的な問題意識をもつ作家らし
く、その後の、「沙粧妙子・最後の事件」(主演:浅野温子、柳葉敏郎、1995年7〜9月
放送)でも、これが強く打ち出されている。「沙粧妙子・最後の事件」では、警視庁
のプロファイリング・チームの天才的な研究員が、快楽殺人の犯罪心理を探求してい
るうちに、犯罪者の心の世界の中に本当に入ってしまい、自ら殺人鬼と化していく。
また、この作品からは、マジョリティに対する憎悪の念がそこはかとなくにおってく
る。
 また、岡田惠和は、「イグアナの娘」(主演:菅野美穂、川島なお美、原作 :萩尾望
都、1996年4〜6月放送)で、女子高生が劣等感と過剰な自意識から自分のことが本当
に醜いイグアナに見えてくるという、思春期の心模様を描いている。このドラマは、
妄想の世界と現実の世界を交錯させることにより、幻想的な雰囲気をかもしだしてい
る。また、岡田は、この後、ベトナム人留学生のことをテーマに扱った「ドク」(主
演:香取慎吾、安田成美、1997年放送)の脚本も書いているが、これなどは、今回の一
連のブームにリンクする作品であると言えよう。
 また、マイノリティの視点とは若干趣を異にするが、筆者が「清貧ドラマ」と名付
けたところの一連の作品も、障害者ドラマブームに関与していたと思われる。「清貧
ドラマ」という命名は、もちろんベストセラーとなった中野孝次の『清貧の思想』か
らとったものである。このジャンルに属する作品として、筆者が気づいただけでも、
「私の運命」(主演:坂井真紀、東幹久、1994年10月〜95年3月放送)、「君と出遭って
から」(主演:本木雅弘、鶴田真由、1996年4〜6月放送)、「コーチ」(主演:浅野温
子、玉置浩二、1996年7〜9月放送)、「それが答えだ」(主演:三上博史、萩原聖人、
1997年7〜9月放送)、「こんな恋の話」(主演:真田広之、玉置浩二、松嶋菜々子、
1997年7〜9月放送)などがある。
 清貧ドラマに登場するのは、貧しくとも、素朴で清らかな人生を送っている人々だ
が、このドラマの中では、彼らが、世間的にはトップエリートと言われている者の価
値観を根底から揺るがしてしまうのである。そして、清貧ドラマには、もう一つ重要
な特徴がある。それは、エリートたちが一方的に「清貧の思想」によって折伏される
のではなく、両者の間に、ある種の相互作用のようなものが働くという点である。す
なわち、素朴な生き方をしている人々もまた、エリートたちの力強い価値観や生きざ
まから多くを学びとり、影響を受けるのである。ゆえに、このドラマには、従来のよ
うな確固とした正義と悪の図式は存在しない。
 今日、バブルの崩壊から経済効率主義に対する疑問は強まり、地球環境問題から
も、個人のエネルギー消費量を減らすことは、人類が滅びないための切実な課題とな
りつつある。清貧を求める価値観が現実的な思想課題となっている今日だからこそ、
このような作品が出てきたのではないだろうか。
 また、アニメの世界では、この傾向はさらに強まっているように見える。例えば、
記録的大ヒットとなった「もののけ姫」は、たたら師、エミシ、白拍子、森の住人や
精霊など、日本史における異端者の視点から描かれており、時代設定が室町時代にも
かかわらず、武士や農民ははるかに背景に押しやられている。また、「新世紀 エ
ヴァンゲリオン」では、戦闘用ロボットの話でありながら、自閉的な少年の病んだ心
の世界を通して戦いが描写されていく。
 これらは、障害者こそ登場しないが、野島作品と軌を一にするものと思われる。
5 障害者ドラマブーム
 野島伸司の「未成年」の後に本格的に始まった一連の障害者ドラマは、秀逸な作品
が多い。そして、これらのドラマは、以上の議論を踏まえて眺めてみるとよく見えて
くる。
 (1) オンリー・ユー
 例えば、「オンリー・ユー 愛されて」(主演 : 大沢たかお・鈴木京香、1996年
1〜3月放送)は、知的障害者の青年(大沢たかお)と有名モデル(鈴木京香)とのラブス
トーリーだが、この作品には同じ知的障害者を主人公にした「フォレスト・ガンプ」
の欠点を見事に免れている。例えば、大沢たかお演じる主人公の知的障害の青年は、
高嶺との花とも思える女性のことを深く愛するが、ガンプの場合とは対照的に、その
執心ぶりは視聴者を辟易させるほどである。そして主人公は、とうとう彼女の心を射
止めてしまうのである。そして、「フォレスト・ガンプ」とは異なり、主人公の青年
がとこかへ去っては行くことはなく、彼にとって幸福の絶頂の中でドラマは幕を閉じ
る。
 先に述べたように「フォレスト・ガンプ」には、ファンタジー的要素がたくさん含
まれているにもかかわらず、肝心なところは冷ややかなリアリズムによって貫かれて
いた。その反対に「オンリー・ユー」は、ファンタジー的要素はほとんどないにもか
かわらず、主人公の願いは現実原則を踏み越えて叶えられていくのである。
 (2) ピュア
 もう一つやはり、知的障害者を主人公にしたドラマに「ピュア」(主演 :和久井映
見・堤真一、1996年1〜3月放送)という作品がある。「ピュア」では、和久井映見が
好演した、絵に際立った才能を示す、自閉症かサバン症候群を思わせる女性が主人公
である。そして、主人公はやがて、彼女の作品を取材に来た新聞記者の青年(堤真一)
のことを慕うようになる。
 このドラマの脚本は、「星の金貨」の龍居由佳里であり、この作品は「星の金貨」
と同様、異人譚の形をとっている。しかし、「ピュア」は、「星の金貨」よりはるか
に興味深い作品となっている。すなわち、ここでは、主人公の知的障害者ではなく、
寡黙な新聞記者の青年の方がストレンジャーとして描かれており、ある意味で、“逆
異人譚”とでもいうべき世界が成立しているのである。これは特筆すべき点であろ
う。そして、異人譚のパターン通り、この新聞記者ははかなく世を去り、主人公の前
から消え去っていく。全体として、この作品は今一つ成功していないが、この発想は
大いに評価されてよい。
 (3) 愛してくれと言ってくれ
 「愛してくれと言ってくれ」(主演 : 豊川悦司・常盤貴子、1995年7〜9月年放送)
もまたすぐれた作品である。これは、聴覚障害者である新進気鋭の画家(豊川悦司)
と、彼に恋をする健聴者の女性(常盤貴子)との間のラブストーリーである。「星の金
貨」も聴覚障害者を主人公にしたドラマであるが、両者を比較してみるといろいろと
面白い。
 例えば、「星の金貨」では、恋人や親しい友人以外はみな筆談をするという冷たい
リアリズムが見え隠れするが、「愛してくれと言ってくれ」では、喫茶店のマスター
や美術関係者など、どう考えても手話とあまり縁のなさそうな人々まで手話を使いこ
なすという、暖かな荒唐無稽さが横溢している。
 また、「星の金貨」では、聴覚障害や手話に対してネガティブな価値しか与えられ
ていないように見えるのだが、「愛してくれと言ってくれ」では、聾唖という障害
が、“寡黙で、ニヒルで、カッコイイ”という、ポジティブな価値と結びついてい
る。また、彼のしなやかな手の動きが画面一杯に広がり、美しいパフォーマンスと
なって繰り広げられていく。「愛してくれと言ってくれ」の手話指導は丸山浩路であ
るが、これからも、手話の美しさの追求がはっきりと意図されたものであったと思わ
れる。
 アメリカでは、手話が聴覚障害者の文化の一端を担う独自の言語体系であるという
主張がなされており、政治的にも大きな勢力となっている。この考え方からすれば、
音声トレーニング、補聴器、人工内耳などはもっての他で、健聴者の言語体系に媚び
たり合わせたりする必要は全くないという、ラディカルな思想へと結びついていく。
日本では、聴覚障害者の政治的運動はこれほど活発ではないが、手話劇などの形で、
聴覚障害者独自の文化を主張するという動きはある。また、身体障害者のグループで
も、「劇団 態変」など、身体障害者の身体表現による美を追求しようという芸術活
動がある。
 ちなみに、「劇団 態変」を主宰する金満里は、今回の障害者ドラマブームに対し
ては否定的で、「本物の障害者が主人公になってやればいい。言語障害のキツイ役
だったら、ホントの言語障害の人を連れてきてやればいい」と述べている(「スパ」
1996年3月27日号、「障害者たちが笑うメディアの『障害者ブーム』」)。金満里のコ
メントはもっともであり、先年の世界メディア会議でも、当事者俳優の養成が強く訴
えられており、現に海外では、賞を獲るような演技力を発揮する当事者俳優も輩出し
ているという。日本も近い将来是非そうなってほしいと願うが、しかし、当事者の俳
優が出演するということと、ドラマに内在する思想性とは、別に論じられなければな
らないことなのである。
6 結 び
 障害者ドラマのブームは、すでに一つの季節を終えつつあるようである。このブー
ムは、「星の金貨」(1995年4〜6月)に始まったと思うが、「続・星の金貨」(主演 :
酒井法子・大沢たかお、1996年10〜12月)では、脚本家が龍居由佳里から山崎淳也に
交代したが、筆者は、この「続・星の金貨」によって障害者ドラマ・ブームに一応の
ピリオドが打たれたと解釈している。
 すなわち、この作品では、初期の野島作品におけるかくし味的であった障害者の存
在が、強烈なスパイスへと様変わりし、ストーリーに山場を持たせるために登場人物
は次ぎから次ぎへと障害者になっていき、しかもそれがどんどんエスカレートしてい
く。いわば、障害者になるということに対して、従来の死と同じ意味が付与されたわ
けである。死がカタルシスにおいて不可欠であるというのは、おそらくドラマの発生
と共にあった古い様式であろうが、これに、障害者になるということが安易につけ加
えられるべきではない。なぜならそれは、障害者になることを悲劇や不幸と見なす発
想へとつながるからである。筆者は、何も障害者になることを悲劇的な文脈で取り扱
うことすべてがいけないと言っているわけではないが、少なくともそれが、様式とし
て固定化されるようなことはあってはならないと思う。
 「続・星の金貨」は、エンターテインメントとしては恐ろしく成功した作品であ
る。脚本家は交代したとは言え、異人譚として出発した「星の金貨」の続編が、この
ような非人道的ドラマへと帰結したのは、ある意味で必然であったのではないかとも
思われる。そして、障害者ドラマの潮流は地下にもぐりこんだたとしても、清貧ドラ
マは今もって健在であるし、もっと大きくメディア全体を見渡せば、マイノリティの
視点はさらに胎動を強めつつあるように見受けられる。それは、「もののけ姫」や
「新世紀 エヴアンゲリオン」の超人気ぶりを見ても明らかであろう。今後のさらな
る展開が楽しみである。



障害(者)・と・メディア・芸術  ◇全文掲載
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