パレスチナ自治選挙監視団に参加して
長瀬修
199604
青年海外協力隊『クロスロード』誌1996-4
(平和を)
「We want pease.」とそのカードには書いてあった。あるパレスチナ人家庭でお茶をご馳走になった時のことだ。まだ選挙日以前の投票所の下調べで回っていた時だった。パレスチナ人のもてなしの気持ちには驚かされる。道を尋ねただけで、お茶のお誘いを何度も受けた。その家庭も夫が選管の役員を務め、我々監視団の道案内を務めてくれたのである。折り紙で子どもたちと少し遊んだ後で、そろそろ腰を上げ、次の投票所に向おうとすると、きれいなカードを記念にくれた。ピースの綴りが間違ってはいたが、平和を求める気持ちが確かに伝わってきた。
(世界が見守る)
1月20日に行われたパレスチナ自治選挙に日本政府外務省派遣の選挙監視員として参加する機会に恵まれた。パレスチナ自治選挙への国際選挙監視団の派遣は95年9月の自治拡大協定に明記され、選挙が自由かつ公正に行われているかどうかを評価するのが目的である。国際選挙監視団は中心となった欧州連合に加えて、日本やノルウェー、米国、エジプトなどからの約650名から構成された。日本からの公式の監視団は総計で77名、各国中で最大の監視団員数となった。
私自身は2回目の選挙要員としての勤務である。国連職員当時の93年にカンボジア総選挙に参加している。カンボジアの際は実施主体が国連であり、日本政府からのPKO協力法による派遣者を含め、国際スタッフは各投票所の責任者を務めた。しかし、今回はあくまでオブザーバーである。選挙法通りに行われていない現場に出くわしても、基本的には報告するだけである。我々の役割はその場に立会い、<見守る>ことにあった。
私の班の担当はベツレヘム市の南東部の8投票所で、なかにはベドウィンの村もあった。荒涼とした風景の中で羊の群れを追う姿を見かけたが、彼らも選挙登録をし、投票に来るのだろうか、来てほしいと願った。
投票日当日は午前5時過ぎにはホテルを出て、担当の投票所を回った。各投票所で約30分ほど過ごし、投票が選挙法通りに行われているかどうか観察するのが監視団の役割である。午後7時に投票が締め切られ、投票所でそのまま開票も行われる。カンボジアでは開票も夜を徹して国際スタッフだけで行ったが、今回は我々は立ち会うだけである。深夜の開票作業終了を見届け、ホテルに戻ったのは午前3時過ぎだった。
(民度)
「民度」という表現が東京とエルサレムでのオリエンテーションの際に外務省員から用いられた点が気にかかった。教育の普及等を指して、「パレスチナ人の民度は高い」という言い方だったが、このような自らを高みに置き、ある民族・国民の程度を判断するかのような表現は慎むべきである。オリエンテーションの際にも苦言を呈したが、ここ数年でこの表現を日本の外交官の口から公式の場で数度、耳にしている。外務省内では一般的な表現、そしてーもっと重要なことだがー発想になっているのか疑問に思った。協力隊事業も外務省管轄だが、このような傲慢な表現、発想をしていないことを望む。教育を受ける機会に恵まれなかった人たちの程度を仮にウンヌンするならば、「程度」を問われるのは誰か明らかだろう。
(被害と加害)
私の中東への主な関心はこれまでユダヤ人にあった。私自身は、ここ数年でポーランドのアウシュビッツ・ビルケナウ収容所、米国のホロコースト博物館、オランダのアンネ・フランクの家など、被害者としてのユダヤ人に触れる機会が多かった。今回もエルサレムでヤド・バシェムというホロコーストの犠牲者を慰霊する記念館に足を運んだ。(「ガス室はなかった」という記事を掲載した日本の雑誌が廃刊になる事件があった。ナチスドイツがガス室を当初、「生きるに価しない」障害者殺害のために開発し、その技術を後にユダヤ人等に転用した経緯はあまり知られていない。この障害者「安楽死」計画は主に精神障害者を対象にし、20万人以上のドイツ人精神障害者が犠牲となった。)
ホロコーストの犠牲者・被害者として約600万人の同胞を失ったユダヤ人が長年の夢である自分たちの国家としてイスラエルを建国した。しかし、占領地にひるがえるダビデの星のイスラエル国旗は抑圧の象徴以外の何物でもない。
国際的な障害者運動の指導者であるカナダのヘンリー・エンズが「解放に向けての闘いの中で人間性を失ってはいけない」という趣旨の発言をしている(「福祉労働」93年春、第59号)。被抑圧者が抑圧者になりがちだとも。これは例えば、近代日本にも当てはまる面がある。日本は欧米に不平等条約を結ばされ、その抑圧を解消しようと必死に努力したが、自分自身が近隣諸国の抑圧者となっていった。それと同じことがユダヤ人、イスラエルにも言える。自らの安全保障に血道をあげるばかりに、パレXチナ人の姿はかすんでしまった。
西岸占領地でいやでも目につくのはユダヤ人の入植地である。高台の上にこぎれいな家並が並んでいたら、確実にそこは入植地である。屋根が赤く、周りは鉄状網で囲まれている。入口には検問がある。監視団も入植地には近寄らないよう、指示を受けていたが、担当した投票所の一つにたどり着くには入植地を通過しなければならなかった。国際監視団と明記した車両で入るが、緊張した。94年には西岸のヘブロンで入植者がマシンガンを乱射し、数十人のパレスチナ人を殺害する事件が起こっている。宗教的な熱意で入植している人たちもいる。嘆きの壁で見かけた熱狂的なユダヤ人の姿が目に焼きついている。
選挙の結果はおおむね予想通りでアラファト議長が議長に選ばれ、同議長派が評議会も圧倒的多数派を占めた。紆余曲折はあるだろうが、パレスチナ人とユダヤ人の平和への道をこれからも、<見守って>いきたい。長瀬修 ケニアOB
青年海外協力隊「クロスロード」誌96年4月号
(本稿は掲載された版とは異なっている。「民度」に関する部分が編集され、掲載された。
なお、本稿は外務省の了解のもとに書かれたものである)
REV: 20161229