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『自由の平等――簡単で別な姿の世界 第2版・註』

立岩 真也 2023 筑摩書房,ちくま学芸文庫(予定)

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※第2版出版までの間、初版TEXT&HTML版・300円+この註の頁(本頁)の併用がおすすめです。

※以下、今のところ初版(2004)の註のまま。ここから始めます。たぶん本文は変更せず、註を増補して、第2版とします。リクエストください。(2023.1.25)

序章 世界の別の顔 
  書かれていること
   自由による自由の剥奪
   嫉妬という非難の暗さ
   存在の肯定が肯定する
  書かれていること・2
   価値を問わないという価値を採らない
   機会の平等を第一に置かない
   世界にあるものの配置
  この本では述べないこと
   分配する最小国家?
   不足・枯渇という虚言
   生産の政治の拒否
   労働の分割
   生産・生産財の分配
   持続させ拒んでいるもの
   国境が制約する
   分配されないものの/ための分配

第1章 自由による自由の剥奪――批判の批判・1 
 1 「自由主義」による自由の剥奪
  1 自由による自由の剥奪
  2 所有の規則はそれを正当化しない
  3 妨げられない自由/行なう自由?
  4 自然の状態/制度による制約という区別、ではない
 2 ゲームから答はでない
  1 ゲームにならない
  2 結果を正当化できない
  3 役に立つことはある
 3 迷惑をかけない限り勝手であるという説の検討
  1 「自然な感じ」?
  2 危害を加えない?
  3 身体の自由と所有の自由
 4 もっともっともな論
  1 帰属・表出
  2 努力・苦労
  3 寄与・貢献

第2章 嫉妬という非難の暗さ――批判の批判・2 
 1 つまり羨ましいのだと言われる
  1 まじめにとりあうこともないかもしれないが
  2 それでも言っておくべきこと=この章の概要
 2 批判の批判・2――嫉妬でしかない、について
  1 私ができることの否定の限界
  2 だが私ができることのよさは自明ではない
  3 私とできることをつなげてしまうもの
  4 切り離し、私のためにできることがあるとする
  5 できることもつことを肯定し分配を肯定する
  6 他人ができることはよいことになる
 3 さらに言われうることについて
  1 他者を低めること?・際限がないこと?
  2 固有性・多様性の破壊?
  3 むしろ批判は自らを否定する
  4 立場

第3章 「根拠」について 
 1 「根拠」という問い 
  1 「根拠」という問い 
  2 人間性を置くことについて
  3 答に与えられる条件
 2 私の存在と他者の存在
  1 私のために、から届く
  2 「利他」
 3 普遍/権利/強制
  1 普遍性・距離
  2 権利と義務・強制への同意
  3 中途半端さとつきあうこと

第4章 価値を迂回しない 155 
 1 回避
  1 何を置くかという問題の問題
  2 人により異なる→効用の平等→安価な/高価な嗜好
  3 だから客観的なものを、という解でよいか?
 2 回避しない
  1 多くを要求する人
  2 つつましやかな人
  3 総合評価について
  4 比べること
  5 基準について

第5章 機会の平等のリベラリズムの限界 
 1 限界
  1 答えが開く問い
  2 本人/環境の分割という答とその出自
  3 支払い失うものがある
  4 格差はなくならない
 2 代わりに
  1 収め所としての結果の平等
  2 それは過程・機会が大切であることと矛盾しない
  3 そして労働の機会が分配されることが支持される

第6章 世界にあるものの配置 
 1 それが留まってしまう場所
  1 そこに起こっていること
  2 決めること・選ぶことという案
 2 もっと普通の答
  1 もっと普通の答
  2 世界にあるものの配置
  3 私との関係、から再び社会の解析

 
 
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序章・世界の別の顔(仮)


 社会について何か考えて言ったからといって、それでどうなるものではないことは知っている。しかし今はまだ、方向は見えるのだがその実現が困難、といった状態の手前にいると思う。少なくとも私はそうだ。こんな時にはまず考えられることを考えて言うことだ。考えずにすませられるならそれにこしたことはないとも思うが、どうしたものかよくわからないこと、仕方なくでも考えなければならないことがたくさんある。すぐに思いつく素朴な疑問があまり考えられてきたと思えない。だから子どものように考えてみることが必要だと思う★01。
 第1節と第2節でこの本で述べることの概略を記す。第3節で他で少し書いたこと、多くはこれから考えようと思うことを述べる。

 
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■■1 書かれていること・1

 人の存在とその自由のための分配を主張する。つまり「働ける人が働き、必要な人がとる」というまったく単純な主張を行なう。
 まずそのようには言わない主張を検討する。するとそれらは間違っている(第1章・第2章)。
 そして、私がただ私であるというだけの存在を望むなら、人が人であるだけで存在していることはよいことだと思うなら、その双方が存在と存在の自由のための分配の規則を支持する(第3章)。

 
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■1 自由による自由の剥奪
 自由を尊重すると言い、国家による税の徴収とそれを用いた再分配を不当な介入だと批判する人たちがいる。しかしその批判は自らを堀り崩す。同じ根拠から彼らの主張を否定することができる。第1章ではこのことを述べる。

 [略]

 
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■2 嫉妬という非難の暗さ
 羨望や嫉妬やルサンチマンといった語を使ってなされる社会的分配に対する非難がある。第2章ではこの種の論を検討する。他の人の不幸を望み喜ぶことが望ましくないことに同意しよう。自らが得られないものの価値を引き下げるのも暗い行いではあろう。しかし社会的分配についてはその批判は当たらない。むしろ怨恨を持ち出して分配を批判する側の方が怨恨の圏域に内属している。

 [略]

 
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■3 存在の肯定が肯定する
 では必要に応じた分配の積極的な根拠はどこにあるのか。第3章はこの問いを巡って考える。
 まず私たちは、確かな根拠、誰もが合意し支持する根拠がなければならないとは考えず、むしろそんなものがなければならないと考えることに錯誤があると考える。ただこのことの確認の上で、何かが社会に実現し継続するのは、それが人々によって支持されるからだろうから、なぜ分配が支持されるのかを見ておくことには意味がある。そして、社会の成員の誰もが得られるという普遍性がどのように言えるのか、同時に、義務として引き受け負担を強制されることに同意するという一見矛盾することがどうして成立するのか、このこともまた説明を要するだろう。
 普通に使われる語を使えばひとまず「利己」「利他」と分けることのできる二つの契機があり、この各々から考えることになる。

 [略]

 
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■■2 書かれていること・2

 第4章から第6章は自らの論をより明確なものにする試みであるとともに、社会改良派のリベラリズムの考察にあてられる。その立場は、一人一人がよいとするものを尊重しゆえにそれに立ち入らず、自らは無色だと言う。しかしそれは望ましいことでなく、不可能なことでもある。このように言うことと、私たちもまた人々の多様性を尊重すべきだと考えることとは矛盾しない。むしろ私たちの考えでは、存在の多様性を尊重しようとすれば、特定の立場に加担せざるをえないのである。
 実際、分配を現実に行うときにはリベラリズムもまた基準を設定している。それは、一律の基準を外から規定しまうのでなければ、個人に帰せられる部分とそうでない部分とを分ける。それは結局は自らの生産物の自己取得という範式に内属している。それを私たちは、基本的には、否定する。
 人は欲し、生産し、そして取得する。まず第一のもの、人の欲求・価値がどのように捉えられるのかを検討し、批判し、自らの立場を対置する(第4章)。次に、リベラリズムは、私たちのように単純に生産と取得とを別に考えようとは言わない。生産する能力を等しくすることによって平等の側へ行こうとする。しかしこれはうまくいかないことを説明する(第5章)。そして、世界にあるものの何がその人のもとに置かれるかについて、つまり所有権の付与のあり方について、リベラリズムが間違ってしまうことを言い、別の基準があることを確認する(第6章)。

 
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■1 価値を問わないという価値を採らない
 一つに一人一人の選好、価値にどう対するか。一方に僅かを得るだけで満足していると語る慎ましい人がおり、他方にどれだけあっても満足しないと言う贅沢な人がいる。とくに前者、より多くを得ている者の傍で自分はこんなものだと僅かしか食べない人がいて、それは辛いし、その状態は不当だろうと他人事ながら思うのだが、そんな人に何が言えるのか。これは、文化相対主義、自民族中心主義、パターナリズムといった言葉も知りながら、また知らなくとも感じながら、援助の場にいる人にとっても大きな問題だ。第4章でこのことを考える。

 [略]

 
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■2 機会の平等を第一に置かない
 次に、生産とその能力に関わる部分について。リベラルな社会改良派は「機会の平等」を掲げる。本人が努力してなんとかなる部分については自分で、それ以外の部分にいて社会が担当すると言う。そうして「環境」が皆同じになったら残りの差異は「努力」だけによってもたらされ、同じだけ努力すれば同じになる。ならばよいではないかとも思える。しかしそうか。第5章で考える。
 考えてみると、そうはうまくいかない事情があり、その策が常に正当ではないと考えられる理由があることがわかる。そしてこれは基本的な場所のとり方の問題でもある。[…]

  [略]

 
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■3 世界にあるものの配置
 改良主義的リベラリズムは、結局、作ったもの/与えられたものを、その人に帰されるもの/そうでないものという対に対応させようとする。私たちはそれはおかしいと考える。それは一つに、私が作ったものが私のものであることを認めることができないから、また、私が作り表出するものが私をそのまま示すとする価値を支持できないからである。財のすべてが、またその人の生産した財のすべてがその人の存在に関わるというアニミズムを認めない。むしろ切り離せるものがあることを言う。他方、既にあるもの、自分が作ったものでないものについてもその人のもとに置くべきことがあると考えるなら、リベラリズムの対応のさせ方はこのこととも整合しないからである。

  [略]

 
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■■3 この本では述べないこと

 
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■1 分配する最小国家?
 分配を肯定することは政治の領域が今行なっていること全般を肯定することでなく、今ある「福祉国家」を護持することではない。実際、国家は権利を強制力によって保障する活動――分配はその重要な一部である――だけを行なっているのではない。様々なものに租税から支出がなされる。政治が何をするかしないかにも関わり、またどれだけを供給するかその基準の設定の問題にも関わり、どのように分配を実現するかという方法・機構を巡る問題がある。このことについても十分に議論がなされてきているとは思われない。考えていくと、現在なされていることの大きな部分についてその正当性が疑われることになる。
 経済学では、公共財については政府支出がなされるべきだとされる。公共財とは個々人から個別に料金を取れない、そして/あるいは、取るべきでない財とされる。しかし、取れないのか取るべきでないのか、いずれの理由によるのかはっきりしないものもあり、それぞれについても理由が明らかでない場合がある。また取れない場合には技術がそれを変化させる可能性もある。次に取るべきでないと言えるもの、費用を強制的に徴収すべきものがどれだけあるか。国家が租税を使って行うことは、強制的に負担を求めて行うことである。何かがなされてよいことであることと、それが強制されてよいこととは同じでない。このまったく単純で大きな差異が頻繁に無視されている。国家は今行っている少なくない部分から撤退しうるし撤退すべきかもしれない★03。
 供給の機構も再考することができる。一つに、税を用いて必要なものを用意し、それを無料で供給するという手段がある。費用を払わなくてすむから個々人の手持ちにかかわらず利用できる。一人一人について測って各々別々に分配する必要がない。しかしこれは利用が膨張するのを防ぐことが難しい。また何に使うかを個々人が決定することができない。税を使える用途は有限だから選択が当然行われることになる。これは何が社会的に供給されるかが政治的に決定されるということであり、何を得て暮らすかは一人一人が決めることだという考え方からは批判されることにもなる。
 とすると、現物を給付するのでなく、個人には貨幣が渡り、何を得て暮らすかは個々人が決め、営利・非営利の様々な供給組織から選んで利用するという方法がある。そうなっていなかった一つの理由は供給の独占を維持したい供給側の利害である。また一つに、使途を限定し給付物であると印付け、低く押さえること、抑制がめざされた。そして一つ、生を方向づけることが目指された。これらを批判し、国家は資源を徴収し供給するが、具体的な財の供給からは手を引いた方がよい場面があるとする。そのもっとも簡潔な形態は、世界の財を人数分で割ってしまうことである。ここでは、政府は徴収と割り算と各人の口座への振込をすればその仕事が終わることになる。ただ同じ状態を得ようとしても、その人の身体のあり方やその人が置かれている状況によって必要なものが異なる。また違いがあるからこそ分配が要請される。だから均等割りという単純な方法の全面的な採用は難しい。ただ、考える基点としてこれを置き、どこで均等割りが不可能になるのか、どのように個々の事情に対応すべきかを考えていくことはできる。
 そして、分配のために全体を分割し一人一人に対応すべきことと、分配の基準を設定すること、また個々の違いを測定しそれに応じた基準を定めることとは別のことである。第2節の終わりに、基準、上限の設定はやむをえずなされると述べた。このことは、比較したり基準を設定する必要がない場合がありうることを示してもいる。例えば制限しなくても需要がそう膨張することがなければ、予めの「ニーズ」の査定はつねに必要なのではない。その人が必要と思うだけを受け取ること、実際に使った分について費用を支給することも可能であり、実際行われてもいる★04。
 所得保障や社会サービスをあり方の再考が促されるだけではない。例えば地域間の格差がある。都会との格差の存在がこの国の「公共事業」の現実性を維持してきた。しかしこのままではよくはないとするとどう考えたらよいか。また国際援助もその多くは事業に対するものであり目的を定めたものだった。また多くは政府や組織を介したもので、直接に個人に渡ることは多くない。そしてその多くは現物の支給だった。もっと直接的な分配の方が望ましいと言えないだろうか。
 これらを考えていくと、むしろ政府の行なうべきことは少なくなるはずである。「分配する最小国家」という言葉を使ったことがある。それが本当に望ましいのか。それをこれから考えようと思うが、考える上での一つの準拠点にはなる。

 
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■2 不足・枯渇という虚言
 とくにこの国で語られるのは、正当性の問題ではなく分配の制約条件、「財政」の問題である。少子化、高齢化で「今のままの福祉」を続けていけば――これらの何がどう問題なのかはよくわからないのだが、けれども、ともかく――財政が破綻すると言う。引き締められるところを引き締めつつ、いっそうよく働かねばならないと言う。攻撃的な人たちだけが攻撃的なのではなく、優しい多くの人に漠然とした不安・悲観がある。
 資源が分配を制約するというのは一般的にはその通りだが、しかしここには多くの誤解がある★05。まず、同じものをどのように分割しても総量は同じでしかない。こんなことで間違えるはずはないと思うのだが、例えば家族が無償で行っていることを有償にすることを巡る議論にはこの間違いがある★06。なされてきたことを社会的な負担のもとに置くこと、有償化し、社会化すること自体は負担の総量の増大を意味しない。次に、負担が増える場合にも負担と利得とが相伴って増える。負担という理由だけによって社会的分配への賛否を言うことはできない。これも当然のことである。
 足りないものがある地域が世界に広大に存在することは認めよう。またこの国にも足りないものはあり、足りない人は明らかにいる。しかし、さしあたりこの国のような地域に限れば、総量として何かが足りないと言えないとしよう。次に働く人は、少なくともいま多くいて、余っていると言ってよい。このことは、簡単に言い切ってしまえば、失業の存在が示している。そしてその状態は今後もそう変わらない。だから人が足りないということはない。他方、人以外の資源に限界があるのは確かだろう。しかしその制約自体は社会がどんな社会であっても動かせない。私たちは次に、生産の総量の拡大を目的に置かず、あるものを分けることを主張するのだが、それは有限な資源の有効な使用が望ましいのであれば、むしろそれに適った主張である。

 
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■3 生産の政治の拒否
 放任、自由化策を支持する人たちがおり、他方に公共事業といった策を支持する人たちがいて対立しているのだが、それは基本的な立場を共有しつつ、そのための手段としてどちらがよいのかという争いである。「小さな政府」を主張し、税金を減らし、市場に委ねた方が経済が「活性化」するという議論と、そうではなく「公共投資」の方が有効だという主張、政策とがあった。しかしこれを対立と言えるのか。どちらが「経済」に有効かという観点から議論がなされ、そして実際の政策の選択がなされてきたのだが、いずれが有効なのかという問いはよい問いだろうか。景気が悪くなれば政府が批判され、税金が増えれば野党が議席を増やす。有権者の一人である自らにしても、「政府に期待することは」と世論調査で問われれば「景気対策」と答える一人ではあるのだが、しかし一方でそんなものではないのではないかと思っている。「生産」という場を共有した曖昧な対立があるだけなのだ。環境派からの批判だけではない。こうした対立の中では、自由の主張とされるものは具体的には経済活性化のための政府の縮小という主張なのだが、そんなものを自由と言うのだろうか、そんな疑念を多くの人が抱いている。
 だから強制力を用いた経済政策、成長に向けた政策自体が基本的に正当化されうるかを考えることになる。生産は、定義によるが、定義上このましいことではある。ただ、それに伴って費消され排出されるものがあり、なにより、人は働かなければばならない。少なくとも生産と消費の水準が一定に達した地域において、生産とともになされなければならない労働、また世界から失われ世界に排出されるものを考えたとき、全般を一緒に括ったものとしての成長が必要がないと考える人がいるなら、その人にも強制し加担させて生産全般を増やそうとする政策的介入は正当化されない。私たちは自働する資本主義、自動的に膨張する市場という決まり文句を疑ってよい。たしかに売り手は売りたいだろう。しかし買い手がいなければ売れはしない。あらゆる策、正当化されない方法も使われるのだが、人はいま以上はもうそういらなくなっていて、消費への呼びかけに応えなくなっている。そしてこの状況における労働はなお意義を減じ辛いものになる。また、分配が生産の増大に結びつかない場合、増大に結びつく部分が優先されることによって分配が排されることがある。成長をもたらす部門に集中的に労働と財が投下され、たんに生活を維持するための活動が切り詰められることがある(資源の制約や枯渇とは、さきに述べたように絶対的な制約などではなく、この場所から言われることである)。だからその方向に社会を導くことを放棄すべきであるとする★07。
 この場所から、私たちは「生−権力」「生−政治」と漠然と呼ばれることもあるものの一部、生産する/しない人口を巡って発せられてきた言説、なされてきた行いを批判し、否定することになる。生への介入は、やはり漠然と、「福祉国家」に結びつけられることがあるのだが、その曖昧に一体化された全体から不要な部分を差し引くことを提案する。

 
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■4 労働の分割
 ここしばらく分配は消費点での分配としてもっぱら考えられてきた。これまでの議論もまたそのように受け取れとられたかもしれない。しかしそのようでしかありえないのではない。どの場所を問題にするのかは開かれている。この主題についても満足な議論が行なわれてきたように思えない。
 人の配置原理としての能力主義と、また市場に生ずる労働への価格の差異とを否定しないとしても、それは雇用・労働の場をそのままにし、その上での租税の徴収とその「再」分配だけが唯一の分配の手段であること、それが最善の方法であることを意味しない。労働市場、雇用に対する介入の正当性について考え、そのあり方を考える必要がある。例えば、労働の分割、ワークシェアリングというアイディア自体はずっと前からあったのだが、見向きもされない時期が長く続き、それがこの状況で、どうもこれしか残らないようだという消極的な理由で導入するしかないとされるのだが、私たちは、消費の場面での分配と別に、あるいは消費の場面での分配と同時に労働の分割・分配が正当化されるかを考え、次に具体的にその機構について考えるべきである。
 雇用政策が正当化されるのは、働こうとする側にとっては、第一に分配だけで暮らす人が得られるものの水準が最低限になってしまうからである。第二に、労働・生産の場に参画することのその当人にとっての意義がある。第三に、再分配とその具体的内容は政治的決定に依存することになる。私たちはそれが機械的に作動する機構であるべきことを主張するのではあるが、それでも根本的な不安定性から逃れることはできない。関連して第四に、これまでの論からはその人が市場で得た所得に対する所有権が本来その人にあるのではないのだが、しかし「再」分配の機構からそのように思わせてしまう要素を払拭できないとするなら、利害が対立し分配のための徴収が困難になりうる。ならば生産の場面での所有を分散した方がよく、そこから労働とその対価のあり方も考える必要がある★08。そして最後に、働かせる側にとっては、労働に就かない(就けない)人に所得の保障だけで対応するより、労働を分割し、分配した方が適切である。
 この社会は生産・消費の総量を増加させることによって雇用を確保しようとしてきた。しかし、とくにこの社会にあってこの方法はよい方法ではない。生産物が全体として不足しているのではない社会においては、失業があることは、その水準の暮しのためにすべての人が働かなくてよい状態にあるということであり、それは基本的にはまったく喜ばしい状態である。しかしもちろん、失業で暮しが成り立たないのは困る。そこで、労働市場自体はそのままにして対応を別に行なうという答が一つある。つまり失業者には所得保障で対応する。もう一つ、労働の分割、分配がある。前者を肯定するその前提となる分配派の立場に立つなら後者もまた肯定され、その上で右記した理由から政策としてそれを行なう正当性が得られる。
 こうして労働の分配・労働の分割もおもしろい主題としてある。しばらく私たちは消費社会を語ってきたのだが、とくにこれから何十年かは労働がもっとも大きな主題の一つとなるだろう★09。

 
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■5 生産・生産財の分配
 繰り返すが、分配は消費における分配だけに限られない。いま労働の分配・分割について述べたのだが、これに関連して、生産への関わり方、生産財の所有の編成を考える必要がある。
 なぜ生産の場における決定の形態、生産のための財の所有の形態を問題にされてきたのか。一つに生産・労働における自律が目指された。ただ、私たちは(政治の主体であるべきこととともに)経済の主体であるべきことを相対化する視点をもっておいてよい。ともかく消費される財が行き渡るのであればそれでかまわないのかもしれないと、ひとたびは考えてもよいのだ。労働にせよ、生産にせよ、政治にせよ、それらを特別に価値のあるものにせねばならない理由は考えてみればとくにない。それでもなお生産について自らが考え決めたいことはあるだろう。そうした場から生産の運営のあり方、その権限のあり方を考える必要がある★10。
 次に、前項に述べた市場と政治的分配の並存という方法を使うときの問題がある。さらに市場における価格をいったんは認めることに関わる厄介さがある。財を分配したとしても、生活に必須なものについて誰かに独占的な権利が認められているから、その独占者はその供給と引き換えに世界の大方を所有することもできるかもしれない。これは特に技術を考えるときそう極端な仮定ではない。生産財の独占をそのままに所得の分配を行っても限界のある場合がある。
 いわゆる知的所有権の問題は、その保護の側面だけがもっぱら論じられ主張されるが、動機付けを与える手段として権利の付与、保護を一定認めつつ、生産財、とりわけ規則の設定によっては独占が可能になる技術については、独占されてはならず、その共有が支持される。私たちの立場からは、開発者・生産者による独占的な技術の所有は認められない。例えばエイズは薬をうまく使えばエイズはいま亡くなる病気ではないのだが、世界で一日約八〇〇〇人が死んでいる。問題は薬、薬に関わる技術の所有のあり方である。生産財としての技術の所有のあり方を考えざるをえない。開発者による利益の取得の部分的な許容すなわち部分的な制限を行ってよいし、行った方がよい★11。
 例えばこれらのことを考えなければならない。これは生産点の編成、生産財の所有のあり方として何が望ましいのかというまったく古典的な問題である。しかし、ここしばらくはともかく、かつては膨大な量の言説がこの領域についてあったはずであるにもかかわらず、議論が尽くされているように思われない。私たちの世代が三十年ほど怠ってきた経済体制の問題を、もう一度、ただいくらかは以前と異なった視座からも、考えるとよいのだし、その必要を多くの人は感じている★12。

 
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■6 持続させ拒んでいるもの
 こうして見てくると、不要であるようにも思え正当性が疑わしい様々なことが行なわれてしまっているのはなぜか、また事態の変更が容易でないのはなぜか、その理由の検討に促される。もちろんこのことについてもいくらも語られてきたはずなのではある。だがやはりよくはわからない。
 負担の総量の増加ではなく、負担と利益の各人への配置が変わることへの抵抗が分配への反対をもたらしている。分配がなされる前に比べ、負担より受け取りが大きくなる人がいるのと同時に受け取りより負担が大きくなる人たちがいる。資源の絶対的な制約というより、この人たちが負担を避けたがっているという単純な事情がまずある。この心性はそれ自体として否定されない(ただ、その同じ人がまた別のことを同時に思っていることがあることも第2節で述べた)。そして、たんに出し惜んでいるだけであることを、あたかもそれ以上のことであるかのように言いなすことを私たちは批判するし、その批判に意味があると考える。そのためにも、何が誰に利益を生じさせていると言えるかを確定する作業が必要になる。いくつかの場合には不当な利益を得ている人たち、不当な不利益を被っている人たちを特定することができるはずなのだが、それは従来漠然と名指されてきた人たちと同じではないことがある。例えば家族が行っていることが「社会化」されないことによって不利益を被っているのは、家族全般でなく、家族の一部であると言えるだろう。また、ある労働市場からある範疇の人たちを排斥することによって利益を得ているのは、排斥する側にいる労働者でもあるだろう。そうした事々を確認していく必要がある★13
 そして、人々の利害の布置と別に存在するのではないが、しかしそこからある独立性を有して存在する事態の構造がある。競争と格差とを強化しないとこれからの社会を維持できないという論は基本的には間違いである。しかしそれに現実性があるのは、私たちの社会で行われているゲームの性格による。負けるとすべてを失うゲームに参加させられてしまっているのであれば、そこから降りることができない。生産・成長にどれだけかを、できるだけたくさんを取っておかなければならない、ということになっている。それで未来に利益を生み出さないだろうところ、例えば死んでいくだろう人々にはかけない。そしてこの生産・競争への圧迫が存在することに国境が関係し、国家が分立し国境が存在することが分配に対する大きな制約になっている。

 
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■7 国境が制約する
 例えば自由を認めるという言い方で技術の独占が支持されることがある。そしてそれはたんに私的な主体によって行なわれているのではなく、そこに国家が介在し、より積極的に保護・育成したり、さらには国家自体がその主体として活動している。それは一つに、国家が国境を接して分立して存在し同時にその間で財や人の移動が存在することに由来する。
 国境があり、閉じられながら開いており、開きながら閉じている。分配を制約する要因として残るのが、この半透膜のように機能する国境の存在である。分配は国家を単位としてなされている。そして輸出輸入で財が出入りする。ただ資源や作物のある場所はまずは固定されている。資本は移動可能、人はそれに比べれば少し不自由だが、移動できる、等。移動しようとする人もおり、やむにやまれず移動せざるをえない人もおり、その場にとどまろうとする人たちもまたいる。移動や定住についてもっと事態に即して考えるべきだ。もちろん私たちは人が移動する自由を言うべきである。だが同時に移動は、多くの場合に移動する人、せざるを得ない人たちにとって無償でないこと、望まれないものでもある。移動について生ずる摩擦は人とものとで異なる。グローバリゼーションと呼ばれる事態を、世界全体を均質にしていく自由化の過程と捉えるのは間違っている。いま起こっている事態は摩擦のあり方の異なりのもとで、ときにそれを利用して、進行している。
 こうした条件が存在するとき、なくてよい競争に乗らざるをえずそれを止められず、分配が十分に行われない。一つに勝者による利益の独占が認められているなら、国家間の格差を維持しようとする力が働く中で開発、成長が優先されてしまう。競争に乗らざるをえず、開発に予算を重点的に配分し「国際的地位」の確保をはかる。追い越されないよう気にかけ、「国際競争力の維持」のために、「科学技術立国」を目指し、金をかけるところにかけ、かけないところにはかけない。このようにこの国を含む多くの国々ではことは進んでおり、他方こうした場に参入することを最初からほとんどあきらめるしかない国々があり、人々がいる。これらによって分配が困難になる。むろん、ある国では高くつくものを他の国では安く生産できる等々のことは様々に存する。しかし事態を楽観できるとするそれらすべての論点をふまえた上でも、なお基本に問題は残っている。
 一つに、国境を移動することにより一方では負担を逃れられること、また一方では分配を求める者がより条件のよい場に移動することが、むろん多くの要因が絡むからことは単純に推移しないのではあるが、分配を困難にする。その意味で、福祉「国家」には本質的な限界がある。そして、私たちが論じてきたことの中に分配が国境内に限られることを正当化するものは何もない。現実には内側にいる者たちの労働と分配とを維持するために流入を制限することがなされてきた。だが、とくに貧窮にある人たちのよりよい生活を求める流入についてそれを拒んでよい理由はない。
 このように考えるなら「地域」を対置すればよいということにならないのは明らかである。「地方分権」をただ肯定し推進すればよいなどということにならないのは明らかである。採るべき一番単純で筋の通った方法は、徴収と分配の単位の拡大であり、徴収と分配の機構が国家を越えて全域を覆うこと、国境の解除あるいはそれに近い方向を目指すことである。むろんそれは困難だが、財の流れがしかるべく整序されれば同様の効果をもたらすことはできる。明らかなのは一国的な解決には限界があり、世界同時決定的な動きが要されることである。それはすぐに思うほど荒唐無稽なことではなく、普通に考えれば議論はそこに落ち着くしかないのだし、そこから見たとき、その当然の方向に事態を進めようとしている動き、それに加担しようとする動きはそこここに見出される。
 所有のシステムを前提とし、国境を前提とすれば、毎日いたるところで語られている暗く慌ただしい話になる事情はわかる。だが、前提を所与として受け入れるしかないのかを考えればよい。受け入れない方向を基本的には採るべきだと考える★14。

 cf.グローバリゼーション:http://www.ritsumei.ac.jp/a../gsce/d/g001.htm

 
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■8 分配されないもの/のための分配
 分配を基本的に否定する立場と別に、問題を分配の問題として語ることに懐疑的な立場がある。問題を分配の問題として語ることが楽観的であると、あるいは現実とその問題を看過していると感じられる。それは一つに、分配だけで問題が解決されると考えているように受け取られることから来るのだろうか。たしかに私はいま、右から左、下から上、上から下に行き渡るもの、AからとってきてBに渡せるもの、渡すべきものについて考えている。それは分配的正義をめぐる議論だ。簡単な問題と難しい問題があって、私は簡単な問題、考えれば解けそうな問題について、分配可能なものをいかに分配するかについて考えようとしている。しかしそんなものしか世の中にはないと言うのではない。分配したり交換したりできないもの、あるいはすべきでないものがある。
 例えば、取り返されない危害を加えてしまうこと、それに関わる責任の問題をどう考えるか。やはり徴収し分配することができないとされる関係やその関係の中にあるもの、また帰依や帰属をめぐる事々をどう考えるか。これは別の経路から同時に考えるべき大きな主題群として残される。私もここまで述べてきた簡単な方の仕事を十年か二十年して、それが終わるなら考えてみたいと思う。
 ただそれにしても、一つにまったく素朴に利害について考え、そこから何が言えるかをまず言ってみることだろう。例えば差別という行いにはたいてい「いわれのない」という言葉が前に被せられ、それはその通りなのだが、同時にそこに生じているのは一方の側の利益、そして不当な利益の取得であったりもする。また起こっているのは、範疇の区分けに関わって見出された微細な差異に由来する、あるいはそれを理由に発動される、ある「合理性」を有する差別の増幅過程であったりもする。とすればまず、考えるに簡単な側から考えられるだけのことを考えておいてもよいと思う。
 そして一番基本的なところに立ち返れば、譲渡したくないものを譲渡せずにすむように、分配が要請される。存在は代替されないし交換されない。存在のための分配、譲渡されないもののための譲渡、交換されない存在のための交換が求められる。だから、両者は独立してもいるが、つながってもいる。楽な方から考えていっても考えていくときっと別のところに出ることになる★15。

 
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■序章・註

★01 この章の本文は[2004a]とほぼ同じ。[2004a]が収録されている塩野谷他編[2004]は、国立社会保障・人口問題研究所の研究プロジェクトを受けた『季刊社会保障研究』[2002]を踏まえて編まれた。その号に掲載された私の文章[2002e]はやはりこれまでの作業の概要と今後の課題を列挙するといった性格のもので、こちらは若干の加筆・修正を施した上で山口他編[2003]に同じ題の文章[2003c]として収録されている。また[2002c]をもとに立命館大学の公共研究会で報告した記録として[2002d]があり、ホームページに掲載した版は質問への応答などを含み[2002e]の倍程の分量がある。
 なお本書は実態にふれない。この国の不平等の進行について若干の議論があった後の本として佐藤[2002]、原編[2002]。福祉国家の比較分析として岡沢・宮本編[1997]、埋橋編[2003]、等々。
★02 例えば、貧困の絶対性と相対性を巡るタウンゼント(Townsend[1979][1985][1987])とセン(Sen[1981=2000:22-24][1983][1985])の論争に関する論文(山森[2000c]cf.[2000b])のある山森亮が、必要について論ずる論文で『ゴータ綱領批判』(Marx[1875])を引く(山森[2001:49])のだが、「必要に応じて」と書いた『批判』の筆者は、「必要」の基準を定め各人について測定するといったことを考えていたのか。規準の設定や測定の意味がないと言うのではない。問題はその位置づけである。この論点についてはSen[1973]に言及しつつ大庭[1983:82-83]でもふれられている。なお十九世紀後半に夢想された社会の現実的な条件は既に存在していると見ることもできるのではないかと廣松[1972→1975:232-234]に述べられているのを[2000a]で紹介した。(引用はHP)
★03 例えば王様を慕いその人を養うのに同意する人たちは多くいる。その人の並以上の暮しについては民間の篤志によるのが正当であり、その人は人気があるから財政的にも十分やっていけるだろう。その公益性が認められるなら社団法人などが設立されるとよいかもしれない。cf.井上[2001:3-116]。
★04 「福祉多元主義」を巡る議論では直接の供給主体の多元性と供給の責任主体の多元性が区別されないことがあり、区別すべきことを[2000j]で述べた。「自由化」を一括りにして「ネオリベラリズム」という標語で批判するのはかえって批判の力を削いでしまう(cf.[2000b→2000g:256ff.])。規準の設定、判定の要/不要について[2000b→2000g:292-297]。二〇〇三年にホームヘルプサービスに上限を設定するという動きを巡り抗議行動が起こったのはこのことに関わる([2003d][2003f])。
★05 [2000a]で論じた。人間の数が足りない(足りなくなる)という主張の批判も含む。cf.Butler, Laclau & Zizek[2000=2002:423](ジジェクの執筆部分)、等。
★06 家族、家事労働について、不払いであること、支払われることについて[1994a][1994b]を書いて中断した。[2003b:(1)]にも記したが、性と経済の関係という馴染みの主題がまったく決着をみていない。そしてさらにそれに国境が加わった場合にどう考えるか。近年刊行されたものとして竹中・久場監修[2001-2003]、また『現代思想』[2003]、『環』[2003]といった雑誌の特集もあるのだが、そこに収録された文章のいずれかに納得できるかである。私は納得できないので作業を再開する。本書に続く労働論の一部ともなる。[2003k]にそのおおよその構図を示した。
★07 [2000a:(下)][2001d]等で以上を述べた。
★08 『現代思想』[2002b]はこの手の雑誌としては珍しく税を特集した。その中で関[2002]は「再」分配の限界を言い生産財の分配の必要を主張している。なおロールズの論は、よく誤解されるように専ら「再」分配を行ういわゆる福祉国家支持の主張ではない。『正義論』で言及されている「財産所有民主制」(Meade[1964]、cf.川本[1993])の案がそのフランス語版序文(Rawls[1987=1993])等に至ってより具体的に示され、さらに「リベラルな(民主的)社会主義」の案も併記されることになる(Rawls[2001])。その論の紹介として伊藤[2002:217ff.]。cf.渡辺[2002]。
★09 労働について[1997:348-351,363-364]で僅かのことを、[2001h]では障害者の雇用に即し(cf.[2003m])、そしてごく短い文章では[2000g]で述べた。本書の立場からは労働の分割が支持される。文献としてまず熊沢[2003]がある。近年ワークフェア(workfare)という主張・政策があり(Giddens[1998=1999]等がよく言及される)、またベーシック・インカム(basic income)というアイディアがある(日本語の文献として小沢[2002]、山森[2002][2003]等)。両者の紹介、その含意についての検討として岩崎[2002:110-]、新川[2002][2003]、宮本[2002]。むろん労働の方に人を差し向ける行いは以前からあった。英国十九世紀以降の就労支援策について重森[2002]。
★10 例えばMarx & Engels[1845-1846](の所有観について青木[1992:45-68])に描かれる「朝に狩猟をし、昼には魚を捕り」という未来社会において政治活動はどうなるのだろうとWalzer[1970=1993]は考える。私たちとしては、労働も政治活動も特別に価値のあることでなく、しかし双方とも参画するのはときに楽しいこともありまた必要でもあるという、そしてこの意味でもこの二つの間に優劣はないという、だから丸山真男の言うことはわかるがその立ち位置はわからない、アレントは立派なのだろうけれどやはりわからないところがあると言ってしまいたいという、単純な所から発してはいけないのかと考えてもよいと思う。「停滞する資本主義」(第2章注11)「冷たい福祉国家」といった語もそんなところから来ている。その「退屈な国家」は「政治的なるもの」(Mouffe[1993=1998])の位相を見落しているのだろうか。そうではない。本書に示すのはまったく特定の立場・態度であり、それが争いの場に置かれることになる(cf.Mouffe[2001=2001:31]、Laclau & Mouffe[1991=1992])。
★11 自然に存在する天然資源、動植物の多くは偏在しながら、そしてそれに関わる問題を生じさせながらも分散しているのに対し、生産の方法である技術は唯一であることがありえ、それを独占することは規則の設定によって可能になる。エイズとその治療薬の問題について林[2001]。生産手段、とくに科学・技術に関わる所有権について[2000g:191-194][2001b:(2)][2001g]、小倉・立岩[2002]でごく基本的なことを手短に述べた。さらに考察するのは今後の課題になる。ただ、とくにコンピュータ技術との進展で所有の規範が解体していくだろうというある種の楽観論があるのだが、それが事態を単純化しすぎているのは明らかだ。財の流布や価格の決まり方は財の性質や財をとりまく状況、人々の布置によって様々に変わってくる。その解析が必要である。cf.山田[2001]、竹田[1999:121ff.]。
★12 一九八〇年代から九〇年代は歴史学と人類学の時代だった──第3章1節2でそうなってしまった由縁について述べた。もちろんこれらはどちらも重要な貢献をした。それらが行ったことは、事象が地理的に時代的に相対的であることを指摘することに止まっていたのではない。しかし他方で、ある事態の歴史性・作為性を指摘することをもって批判とすることもまた長らく行われてきた。ゆえに考えるべきものが残った。だから考え始めることが大切だ。[1997:290-301][2000c][2000h]でこの国で規範論が一時期避けられてしまったこと、しかしこれからは違ってくるだろうことについて述べた。
★13 簡単にではあるが、[2000a:(上)]、第5章注12にもあげた[1994b]等で述べた。
★14 国家という単位が不十分、という以上に抑圧的であることについては[2000a:(下)][2001b:(2)]で述べた。分配が国家の単位を越えてなされるべきとだいう主張(Beitz[1979]、Pogge[1989][1994]、等)に対しRawls[1999b]が否定的であることを伊藤[2002:233]が紹介しているが、もろちん本書から支持されるのは前者である。関連する議論の紹介としてBrown[1998=2002]。分配の範域を広げることの可能性に人と人の関係の近さ・遠さがどう関わるかという主題がある。第3章3節1で考える。外部者の立ち入りを遮断し他の地域のために税金を払うことを拒絶する米国のゲーティド・コミュニティ、地域の「疑似政府」、共同体主義によるその肯定について酒井[2001:259ff.]、Bickford[2000=2001]。たんに「地方分権」を肯定することはそれを是認することでありうる。そのことに鈍感であるべきでないと[2001c]で述べた。それはまた「干渉(権)」について考えようということでもある──例えばバリバールが「絶滅的な生−政治あるいは生−経済の現実」としての「全面的な非介入」にふれている(Balibar[2002:22])。そんなことを考えていって主張しようとするのはHardt & Negri[2000=2003]の最後に記される、道具立てのわりには平凡なと評される(Zizek[2001=2003])方向とそう違わないかもしれない。ただそれをさらに平凡に、順序通りに考えて言おうと思う。【◆】
★15 本書はまったく単純に分配について考える。分配の問題として社会を語ることへの批判は数あるが、それにどう応えるか。論点は多岐に渡り、ここでも個々の論点がはっきりさせられていないのが問題なのだが、まずおおまかには次のように言える。第一に、分配について考える仕事はすこしも終わっていないのだから、考える必要がある。第二に、いくつかの批判は本書で行い今後続ける議論には当たらないと考える。第三に、分配の問題として考えられない部分、考えるべきでない部分があることを認めるが、それをどう考えるかを考えるためにも、私としては、本書で行う作業を進めていこうと思う。
 移動したり分配したりできる/できないという境界がある。またすべき/すべきでないという境界がある。むろんこの境界自体が思考の主題になる。[1997:116ff.]に続き本書第6章で関連することを述べる。そしてこれは二つにきれいに分かれるのでなく、さらにいくつも個々に考えるべき領野がある。例えばWalzer[1983=1999]が「複合的平等」という言葉のもとに考えている(cf.大川[1995][1997]、Bellamy[1998=2002]等)。また各所での(分配的)正義(local justice)についてElster[1992]等。またマイノリティの権利という視点からの分類はKymlicka[1995=1998]等にある。
 一つに悪、責任という主題がある。岡野は、正義から矯正的正義の側面が落とされ分配的正義として語られてしまっていることをShklar[1989=2001][1990]等を引きながら批判する。正義を分配の問題として把握すると落ちてしまう部分を考えたいのだと言う(岡野[2002:244ff.]、cf.大川[1999])さらに直接に自分が関わったのでないことについての責任、集団の責任をどう考えるかという問題がある。江原編[1998]、安彦・魚住・中岡編[1999]、瀧川[1999]。cf.小泉[1997]。
 このことについて私はこの本で何も書くことができない。ただ、たんに分配の問題として語れるものをそれ以上のものにする必要はない、少なくともいったんは分けられるべき二つを一緒にすれば、それはかえって分配の問題として語るべきでない正義の意義を薄めさせると考える。これは、分配されるものとされないもののどちらを見るかは異なるものの、分配の問題として正義が語られることに対する批判と共通する部分がある。私は分配を自己の行為の結果を自らが負うという自己責任の枠で考えること自体に問題があると考える。労働の成果の供出は責任を負い義務を果たすことの一部だが、それはすべきでないことをしてしまったことを責められることと同じではない。
 次に、姿・形もさしあたり移動できない。とすると姿・形をめぐって生ずる問題も多々あるのだが、これを単純に分配によって捉えたり解決したりすることはできない。むろん、身体的な能力などについてもそれ自体は移動できないという事情はそう変わらないのだが、産物が問題になる限り、その産物自体は移動することはできる──そのことを巡っては第2章でもいくらかのことを考える。だが、姿・形については事情が異なる。そこで評価されるものはその人から離れることがない。また自らが好かれることを求めるときにしても、その相手にそれを望むことはできるが、相手の感情を決定することはできないし、まただからこそその人に好かれるとか嫌われるという事態も成立するとされる。
 他方、感情や愛情もそのように感じるのを本人が止めようとして止められないものだとされる。財一般に対する好悪の感情についてもこのことは言えるのだが、それがいま記したように人に向かうときには、人に対する好悪とは感ずる人にもその感情が向けられる人にも制御できないものだとされることになる。むろん、実際には様々に可変的でもありまた操作されることがあるにせよ、それはいま記してきたことを全面的に否定するものではない。美醜を巡る感情、人に対する好悪はそんな場に置かれている。cf.[1991][1997:365-367](第8章5節4「他者が他者であるがゆえの差別」)、本書第2章注9。(存在の承認、承認の要求もまた同じ位置に置かれているだろうか。私はそれは少し異なると考える。このことは第3章で述べる。また例えば感情/利害といった境界を、単純に、社会の領域の境界に対応させるべきではない。cf.第3章注14、愛情について[1990]、家族について[1991])
 帰属や帰依という事態についても、帰属や帰依の意識は容易に自らから移動させることのできないものとされるし、また帰属意識が向けられる集団や帰依している対象についてもそれは譲渡できないものとされる。となればこれらもまた通常の意味での分配の対象でなく、分配的正義の論がそのまま扱えるものではない。そして以上のような問題は、例えばある好悪や信仰のあり方の歴史的相対性を指摘すればそれで終わるのでなく、またそのような手法で「政治化」すればすむという問題でもない。
 ある人たちの見込みと異なり帰属や帰依等が社会の中でもつ重みが漸減していくことはなかった(例えば「原理主義」について臼杵[1999])。このことについて何もこの本で述べない。それは、どのように記述し説明すれば記述し説明したことになるのか、その見込みがつかないからだ。例えば差別の言説が生物学的な差異を言いたて、その誤りを批判すればそれですむといった簡単な事態があるのではない──バリバールが「人種なき人種主義」について書いている(Baribar & Wallerstein[1990=1997:37-38,cf.18])。ただ、その接近の難しい相手に対し、私は、まずはそこに見出される利害、損得を記述しようと思う。ときに深刻な対立と結びつけられる帰属や帰依そのものが消えてなくなることはないとすれば、またなくすべきでもないのなら、それ自体でなくそれに結びついているものを除いたり変えたりすればよいのかもしれないとも思うからだ。だから私は、利益・損失といった見やすいところ、分配や規則の設定といった理論的には解決が容易な部分から、総じて易しい部分から考えていこうと思う(cf.第5章1節4、[2001f])。どこまでを利害を巡る対立として捉えられるのか、分配という設定がどこまでを扱えるのか、できるところまでそれを明らかにし、それでなお言えない部分はそれから考えようと思う。そして同時に、それぞれに信じられているものの「内容」に立ち入ることがどうしても必要になってくる。各々の信ずることを尊重すると──たしかにそれは大切なことだろうが──ただ言えばすむことではない。本書の後半に記そうとすることは──そこではまったく抽象的にしか言えていないのだが──このことに関わってはいる。
 以上に関わるだろう議論として、再分配/承認という対置、その間に存在する困難、という事態の把握とその妥当性を巡る議論があるようだ。そこには人の様々なあり方の各々について、かなり多くの論点があり、それを切り分けて考えていく必要があるのだが、ここでもさほどの仕事がなされていないと感じる。例えば分配が承認、とくに人がある属性を有する人であることの承認、その属性を共有する人たちの「集団」の承認に対して抑圧的だという主張はどんな主張だろうか。まず、この社会にある問題のすべてがただ右から左に財を移転することで解決されるものではないことは述べたとおりだ。これまでその部分にだけ議論の焦点が当てられてきたなら、その批判は当たっているだろう。次に、仮に分配が人を一律に扱うことであるとして、かえってそのことが各々の人の特性を保存する方向に作用することもあるのではないか。次に、そうでない場合があるとしてそれはどんな事情で生ずるのか。分配との関連だけを言えば、その属性に関係してより多くの資源を必要とするのにその分配が妨げられている場合だろうか。しかしそれは基本的には必要な財の分配が妨げられているという問題ではないか。あるいは、特定の集団により多く貧困が存在するために社会的分配が多くなされ、そのことがある集団に対する負の価値づけに結びつくといった指摘があるかもしれない。しかし、事実そうした現象があるとしても、その基本的な問題は分配を得ることに負の価値が与えられることにあるのではないか。そう言えない場合があるとしたらそれはどんな場合なのか。また、ある範疇で括りその全体について他と異なる扱いをすべき場合もあると考えるが、それに対しては反論もある。これらの集団的属性と分配との関係について、例えばアファーマティブ・アクションについて具体的に見ていく中で考えてみたい。(この主題について日本語で読める理論的な文章は少なく、Dworkin[1977=1986:299-323]、Nagel[1979=1989:145-166]、石山[1987]、山森[2000a]、等。土屋[1996:72-96]にも記述がある。)
 これは「承認の政治」(Taylor[1994=1998]等)、「差異の政治」(Young[1990]等)と呼ばれたりもする事態に関わり、フェミニストによっても多く論じられている。集団としての規定・同一性の肯定性が主張されるとともに、それが他の範疇の人々の排除やそこで規定される属性に回収されるものでない個人の抑圧につながりうることが問題にもされる。そしてそれに分配の問題が重ねられるという具合になっていて事態はなお複雑なのだが、しかしそれでも私は議論がおおまかすぎると感じる。例えばテイラーが持ち出すケベック州でのフランス語の問題についてどこまでのことが言えるのか、言語は他のものとどこが共通しておりどこが異なるのかを考えるといった仕事を一つずつ積んでいくことが必要だと思う。文献だけいくつかあげる。バトラーとその関連まで含めると膨大だから省く。それでも一部にすぎず、より詳しい情報はHP。Young[1989=1996][1990][1997]、Fraser[1993][1995][1997a][1997b][1998=2001]、Olson ed.[2002]。これらの論、論争に言及する文献に千葉[1995:130ff.]、山森[1998][2000a]、大川[1997-1998][1999:1-7]、Rorty[1999=2002:291-296]、金田[2000:155ff.]、向山[2001:129-143]、挽地[2001][2002]、竹村[2002:288ff.]、等々。またKelly[1998=2002:259-265]、Benhabib[1999=2000]、竹村[2000a]、等々。二〇〇四年にヤングが私の勤務する大学院で集中講義を行うこともあって、いくつかを大学院生と読んだ。何本かの論文の翻訳に論点の解説と考察を付して出版するとよいかもしれない。多文化主義、マイノリティ文化の権利についてはKymlicka[1995=1998]、Kymlicka ed.[1995]、工藤[2000]、西川[2002]、等々。また井上[2003a:171-211]では多文化主義とリベラリズムとの関係が検討されている。(井上の言うリベラリズムとこの語の本書での用法とは同じでないが、本書では論者による語の理解の異同を確認していくことはできない。)
 そしてこれらすべてを考えていくためにも、私たちはこの時代にあったこと、考えられたことについて知らないか忘れている。cf.第3章1節2。現代史を記述する作業が必要である。私自身はほとんど取り組めていないのだが、[2003h]([2002-2003]の一部と[2001-]とともに[2004c]とする)[2002-2003](書き下ろしの分を含め[2004d]とする)に少し記した。共同作業を要する。「生命」に関わる領域については松原洋子を中心とした企画がある。cf.『現代思想』[2003b]、立岩[2003j]。
★16[2001a]。同様に短く考えていることを述べた文章としては他に[2002b]等。


 
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■第一章・註
★01 個人主義、平等主義、普遍主義、改革主義の四つがリベラリズムに共通する特徴だとされたりする(Gray[1986=1991:4-5])のだが、この語は歴史の中で意味を変えてきた。特に戦後のそれは「ウェルフェア・リベラリズム」「リベラル・イガリタリアニズム」と呼ばれる性格をもつものとなった。ロールズはその陣営の首領の一人ということになる。リベラルという語が日本語として用いられる文脈もほぼそんなところにある。そしてリバタリアニズムはその「変質」したリベラリズムに対抗する位置をとる。このことに関連してやっかいなのは日本語との対応である。リベラリズムを自由主義とすなおに訳せない。むしろリベラリズムは自由主義と対立するかのようであり──しかしそれでも自由党はリベラル・パーティで自由民主党はリベラル・デモクラティック・パーティである。日本語で言う自由主義は何を指す言葉なのか。もちろん、体制としての社会主義に対置されるものとして使われてきたという経緯がここには一つある。「ネオリベラリズム」「新自由主義」といった言葉があらたに使われるようになってきた背景には、リベラリズム、自由主義という言葉の落ち着きの悪さもあるかもしれない。(リベラリズム、リバタリアニズムの語義、分類については森村[1996:31-32]等。また[1997:171-172](第4章注27)で生殖技術に対する態度に関わらせていくらかのことを述べた。)
★02Nozick[1974=1992]「のもつ重要性はまさしく次の点にあった。つまり、(集産主義的体制と比較して)自由市場の方が資源配分の点で効率的だという観点に立って自由主義的個人主義を擁護することから、集産主義的な介入が一群の自明と仮定されている資源権や人権に対して加える「暴力」を考察し批判することへと、注意を転じた点である。」(Barry[1986=1990:13])
 ノージックに比べると、ハイエク、フリードマンといった人たち──ケインズ的福祉国家の誕生・成長の時代、本人たちの自己認識としては不遇だったが、政策の変更との絡みで前面に出ることになった人たち──は、やはり経済学者であって、こうした方が経済・社会がうまくいくという言い方をすることが多いのではあるが、その人たちであっても、国家による統制を批判し、個人の自由を賞揚する立場をとる。そして左翼は、彼らと対立しつつも、権力に抗し介入に反対する人たちでもあったから、そのある部分が流れていく行く先としても機能する。ただその「自由尊重」、反国家主義──ノージックは「最小国家」(minimal state)を認めるが、それも認めない人たちもいる──はかなり徹底したものだから、経済のための(日本語における)自由主義者・小さな政府主義者はこの国にもいくらでもいるが、きちんとしたリバタリアンは日本ではそういない。それでも笠井[1995]、森村[1995][1996][1997][1998][2002]、等。雑誌特集に『情況』[1996]。本書ではその主張のおもしろいところに触れることはないが、その様々な「民営化」論は検討してみてよいと思うし、また比較的よく知られているアイデアとしてはフリードマンの「教育クーポン券」や「負の所得税」の提案などもなかなかおもしろいと思う。私は「分配を認めたノージック」「分配を認めたリバタリアン」(市野川・立岩[1998→2000d:155])「分配する最小国家」([1998f])という線がありうると考えているのだが(cf.[2000b])、その可能性と限界は考察を進めていく中に明らかになってくるだろう(序章3節1)。
 「バイオエシックス」を議論の素材とする理由として、それがときに極端であること、しかし現実に接続してはいることを述べたことがある([1997:11])。経済学もまた同じように使える。経済学は様々に批判され、そしてその批判は多くの場合もっともな批判である。ただ、単純で限定された前提からものごとをはっきりと言うところはものを考える上での参考にはなる。例えば経済学が国家を論ずるときには、たいてい国家の役割は削られていく。もちろん歴史を歴史として現実を現実として見れば、政府は単に市場の欠落する機能を補っているのでなく、もっと積極的なことを行っている。だがそこから、なぜその差が生じているのだろうかとか、政府がこんなことをする必要はないのかもしれないと考えを進めていくことができる。その意味で一定の意義があると私は考える。
★03例えば「数世紀に渡り、国家は、人々から強制的に金を奪い、それを「課税」と呼んできた。」(Rothbard[1994:46]、尾近[2000:50]に引用、傍点は尾近)といった言明。
★04自らによっては自由にならないことから、自らが自由にすることができない存在としての他者から、その自らは多くを受け取っている。しかし、それでも自由が大切なものであることはたしかである。というか、私にとって自由でない存在としての他者がいるということはすなわち、その人が存在することの一部としてその人が自由であることである。cf.[1997][1999b]。
★05[1997:27-28,40]、cf.[2000i]。つまり、「私的所有がよいか、共同所有がよいか」(藤原[1991→1997:71])といった問いからは、抜け落ちるものがたくさんありすぎるのである。
★06このことを言ったのはロックだが、ノージック(Nozick[1974=1992:271-273])がこの立場を引き継ぐ。彼の議論はゲームの展開のように見えるが、少なくともいくつかそれだけで進行していかない部分がある。ゲームの「あがり」のように私には思える私的所有権は、論の最初に置かれる。ゲームから私的所有へは行けず、そこで結局権利を最初に置くしかない。利口なノージックはそのことに気づいていて、それで、そのような論の構成になったのだし、次の著書以降でこの種の議論がなされることがなかったのかもしれない。(ノージックの立論、関連文献について[1997:58])。
★07Nozick[1974=1992:284-285]。次段落で、強制ではあるが特定の行為の強制ではないことを指摘するが、このことの指摘は、特定の行為の強制をすべて排すべきことを意味しない。これはこれとして考えるべきことになる。[2000b→2000g:238-240]で関連したことを少し述べた。
★08この二つを対比させて論じたのはバーリン(Berlin[1969=1971])だということになっている。彼は、「消極的自由」とは「他者の行為によって干渉されないこと」であり、「積極的自由」とは「自己実現の自由」、「自分の行為を真に自分自身が支配できていること」、「自分を律して価値ある生活を実現できること」であるという──なぜ「自己実現」と言わなくてはならないのか私にはわからない。以下本文で述べるのはその二つの自由ではなく、それを巡ってなされてきた議論に直接関わるものでもない。(HP「自由」の項にGray[1980→1984=1987]、橋本[1994]、井上[1998]、稲葉[1999]、長谷川[2001]他からの引用がある。長谷川[2001:122]は私が本文で述べていることに近い。)
★09バーリンも、自由が大切である理由として選択をあげるのだが、これでは選択も不可能ではないか。井上達夫がこのことを指摘している。「行使可能性がまったくなくとも消極的自由は存在するというのはやはり無理があるでしょう。[…]最低限の選択肢の利用可能性は消極的な選択の自由の存在にとっても必要条件です。「どれぐらい多くのドアが開かれているか」(Berlin[1969=1971:58])という、消極的自由に関してバーリンが使用する比喩も、このことを示唆しています。」(井上[1998:23])
★10注6に記した議論の出発点の問題を別としても、ノージックの議論は「見えざる手」の過程を記述しているようで、そうはなっていない。稲葉はその議論の展開の改良を試み、「厳密な意味で最小国家は「みえざる手」によって形成されうる」(稲葉[1999:246])ことを証したとする。それがいったん成功し完結しているようであるのは、本文に記したように、議論に含めるべき一部を議論の対象から外しているからではないかと考える。(保険として捉えることの問題については第3章2節1、稲葉自身の再検討は稲葉[1999-2000:(中)]で行われている。また稲葉の議論の中でその議論を可能にする要素としてあげられる「国家の複数性」については[2000a:(下)130ff.]でふれた。)
★11ゲームをしてみて役に立つのは、現実に存在するあるいは存在しうる前提を置いた上でその帰結を予測する場合であり、現実に存在する状態の要因を探る場合である。人はこのような手持ちでこのように動いている。とすると現実にはこうなるだろうと予測する。それが役に立つことはある。例えば、ゲームをしてみると意図しない結果が出てくることもあり、その結果は好ましくないとすればその回避方法が考え出される。ゲームの様々な条件設定によって結果は様々に変わってくる。いろいろ試してみてその意味を考えるのはたしかにおもしろいことではあるし、意義があるだろう。
 また社会学では、もっと大きな風呂敷を広げ、いかにして社会秩序は可能かという「秩序問題」「ホッブズ問題」が問題にされてきた(cf.盛山[1995:esp.37ff.]、数土[2000:esp.22ff.])。最初から答に至りやすい条件を仕込んでおくと、それは問題を解いたのではなく最初から答を置いているのだと言われ、逆に難しい条件を最初に置いてなお到着点まで辿りつけたとすると、どこかに論理の飛躍があってのことだったりという、なかなか逃れがたい困難──第三章で述べる──はあるのだが、それでもやはりそれは基本的な主題ではあり、検討する意味・意義がある。だがこのような使用法を超え、規則、原理の導出、正当化に絡む場合には行うべきことは違ってくる。前提の置き方、ゲームの規則の正当性が問われることになるからである。だが、どのように秩序が可能か、あるいはどのような秩序が現われるかという問題と、その現われた秩序をよしとするかどうかという問いは別の問いなのに、しばしば両者が混同されてしまう。本文で述べることはこの混同による混乱と関係する。
 種々の社会契約論の紹介と批判としてBoucher & Kelly eds.[1994=1997]、Kelly[1998=2002]。ロールズの論を中心に検討した飯島[2001]。合意から道徳を導出する試みにGauthier[1986=1999](についてMoore[1994=1997])。なおロールズの場合には「無知のベール」(→第3章注4)により個人間の差異はなくなっているから「集計」の問題は実質的には存在しなくなる。このことの指摘としてWalzer[1987=1996:13-14]、Mouffe[1993=1998:101]、等。ゆえにこれを「契約」と言えるかという疑問があるのだが、この問題はロールズの論に限らず契約論を称する議論全般に存する。
★12何がどれだけよいかは人により様々だから比較しないことにしよう、だが当事者が皆同意しているのならそれはけっこうなことだからよしとしようというのが基本的な発想である。それで問題ないのではないか。だがそうか。第4章以降でもう一度論ずる。パレート最適についての的確な指摘として大庭[1989:317-318]、Sen[1987b=2002:chap.2]等(cf.[1997:41-43][1998c→2000g:16-17])。
★13「一般論として、倫理的リバタリアン論者は、自然権・自己所有権の正当性を自明の理としており、ア・プリオリにこれを「道徳的公準(moral principle)」と想定している。[…]この正当化を試みた倫理的リバタリアン論者はほとんどいない。これが倫理的リバタリアニズムが「基礎なき思想」である、と批判される所以である。/注目すべきは、帰結主義者が、この自然権論の限界を補っている点である。」(Askew[2000:70-71])[1997:31ff.]で、正当性を見出せない(第2章2節)が一定の条件下では生じてしまい、必要とされること(第2章3節)を述べた、その順序に右の引用は対応する。本文で述べたのは、帰結主義的にしか正当化されないならその主張の性格も変わってくるだろうことである。帰結主義による正当化を意図するものに尾近[2000]等がある。もちろんその効用の評価については異論があるはずだが、それよりなにより、経済や景気などより自由──その自由の扱いを間違っていると私は述べているのだが──を尊重するのが「自由至上主義」などとも訳される流派の存在理由だとすれば(cf.注1)、帰結主義的な正当化に頼ってしまうのはその流派の流儀にもとるのではないか。
 さらに考えるべきは、この理由による分配の差異化を受け入れるとして、それをどこまで、どのような態度で受け入れるのかである。私自身は、動機を与えなければ働かないことが事実として動かし難いならより多くを支払うことも仕方がないだろうという以上のことを書いたことがなく、考えたことがない。北本[2003]でより進んだ考察がなされようとしている。cf.Sen[1997=2000:109ff.]
★14ロールズを批判してノージックがプロ・バスケットボール選手のチェンバレンを持ち出す箇所が述べたことに対応する(Nozick[1974=1992:271-273])。川本[1997:175-177]、Kukathas & Pettit[1990=1996:133-135]等にこの部分への言及があり、これらでも言われているようにロールズ批判としては効いていない。なお、こうした例があげられるのには第4節2に述べることが関わる。もちろんスポーツ選手が高額の収入を得るには実力がなければならないのだが、同時にそのスポーツに人気があり、大人数を収容できる場で観戦できたりテレビ中継できるといった条件が加わる。こうした条件のもとで一人一人の低額の「自発的」な拠出が結果として高額の収入に結びつくことがありえ、それが読者の納得をえられやすい例、それで文句あるの、という例として引かれるのである。
★15森村[1994:267]。森村[1995]は自己所有権、私的財産権の正当性を弁証しようと日本語では最も多くの言葉が費やされた本ではないだろうか。注17・18に記したのはその論点への批判でもある。
★16以下は[1998b→2000g:14ff.]でも述べた。
★17「生存くじ」はHarris[1980=1988]で提出され、[1997:52-55]で検討した。また森村[1995:29-33]が取り上げている。愛敬の論文の中でCohen[1995:70]を参照しあげられている「眼球くじ」と同様の例はパーフィット(Derek Parfit)の未公刊の論文を参考にして森村[1995:31-33]で論じられている。他に[1997:65](注24)に引用した大川[1993]に同様の問題への言及がある。森村は「自己所有権テーゼの説得力」を示すためにこれらの例を持ち出し、愛敬はその説得力を否定する。
 くじは認められないという直感自体を否定する人がいるかもしれない。眼球もまた分配されてよいというようにである。ハリスはもっと過激な例でほとんどそこまで行くが、この場面ではあまり重要と思えない理由──第3節3にあげた機能的な理由──で、引き返す([1997:54])。
 私にとってこの問いは次のような意味をもっていた。私的所有を支持する理由はそこに見込まれる機能にしか求めることができず、しかも生存くじの場合にはこの機能も──右記したようにハリスはこれを最後に持ち出す──見込むことができないのに、なぜやはり生存くじは採用されるべきでないと思えるのか。このことを考えていくと、その人に帰されるものとそうでないものとの境界線が、私有派が引く線とは別様に引かれる。というか、実際に別の線が引かれていることが明らかになる。何が分配(のための徴収)の対象となり何がならないのかという「境界」の問題があまりきちんと問われていないと私は考えていて、以下の記述もそうした思いからなされている。境界を論じるとは、世界(の財)を二つに区切るという戦略でもあり、なにか「二枚舌」的な雰囲気がそこに醸し出されもする──[2000d]という短文でもこのことに少しふれた──のだが、しかしこの分割は必然的なことだと思う。[1997:116ff.,352ff.]で図を使いながらこのことについて述べた。第6章2節で再論する。
★18「格差原理は、実際には生来の才能の分配をある点で共通の資産とみなし、この分配を補整することによって可能となるより大きな社会的、経済的便益を分け合うことに、同意することを表している。」(Rawls[1971:101=1977:77])「格差原理を受け入れることによって、彼らは、より大きな能力を共同の有利性のために用いられる社会的資産とみなす。」(Rawls[1971=1977:82])。これに対してノージックが言う。「人々の能力と才能を他人のための資源として扱うようなカントの再構成などというものが適切でありうるだろうか[…]これは、人々とその才能、能力、特徴との間の区別をごく(「ごく」に傍点)強く推し進める場合にのみ、言えることにすぎない。[…]我々の内の[…]純化された人格(のみ)が手段とみなされないからといって、様々な特徴でいっぱいの我々がなぜそれを歓迎せねばならないのか、もまた明らかではない。」(Nozick[1974=1992:376-377])この部分に注目したサンデルの議論を紹介しながらの言及としてKukathas & Pettit[1990=1996:155]。また小林[1991:159]がノージックに似たことを述べており、それを[1997:65-67]で引用し検討した。また、ロールズのこの部分の記述については岩田[1994:37-38]の解釈があり[1997:313]に引用(cf.第3章注4)。他にMartin[1994=1997:337-341]、渡辺[1995:438-439]、等。「能力の共同性」を論ずる竹内[1993]にも関連する記述がある。cf.cf.第2章注6。/[1997]について、身体の自己所有権を認めないことから近代社会にある私的所有の規則を批判しているとの理解をいくつか目にしたが、私はそのようには論じていない。「とても単純で、より基本的な問題」([1997:36])としたのは、身体がその人のものであり、その身体がある行為をなし何かが作られたとしても、その何かがその人のものであることにはならないということだった。私はその人の身体に対する権利を認めたし、そのことは、身体が私にとって他者として現われる位相があると述べたことと矛盾しない。たんに私に他者を対置するのでなく、この辺りをどのように言うかが大切なことだと私は考えたし、あの本で苦労しながら述べたのも([1997:116ff.])そのことである。森村[2001]等の論述との異同を確認していただければと思う。
★19[1997:116ff.](第4章2節「境界」、cf.[1999a])。これが注17の後半に示した主題への答になるが、いくつか補足しないとこの答には難点が残る。第2章注15で補足する。
★20ある人は何かを背負った人であることから逃れられない、逃れにくい。その人を構成するものについての因果がわかり、その原因がその人の外にあることが明らかとなったからといって(cf.第4節3)逃れられるわけではない。それをできる/できないという相、すき/きらいという相、それぞれについて考える必要がある。前者について[1997:331ff.](「個別性の不可避性」以下)[1998b]。後者について[1997:365ff.](cf.序章注15)。そして同時に、好悪の不可避性を理由に普遍的な承認、権利の付与が虚妄だとする短絡は避けなければならない。cf.[2000b→2000g:308ff.]。
★21ここで認められるのは生存ではなく存在ではない。第2章でもこのことを言う。cf.小泉[2000]。
★22努力に応じて評価される別の機構が望ましいのかもしれない。ただ、それは可能かという問いがある。努力の度合いを測りそれを反映した評価を行うよい方法を考えつかない。またそれを測定すること、測定しようとする行いは望ましいか。このように考えていくと、直接に努力・労苦に応じた配分の機構を打ち立てるという方向はとらず、とれず、別様に対処するしかないということになる。
★23刑罰でも害を作り出した人が報いを受けるではないかと言われるかもしれない。だが、犯罪・刑罰と生産・所有をいっしょに論ずるのには無理があると思う(→序章3節8、序章注15、第4章注10)。
★24つまり自己決定を批判する文脈でこのことが言われる。死に関わる決定に関してこの種の議論を[1998d→2000g:70-74][2000f]で批判した。また[1997:392f]では出生前診断・選択的中絶という主題についてこのことを述べた。
★25[1997:34-37]で批判(1)〜(5)を列挙したが、その(1)〜(4)は同じ前提に乗った上での批判であり、本文に以下記すのも前提を共有した上でのことである。ただ、(1)〜(5)と並列させつつも「より基本的な問題」は(5)だとした。注18に記したのもそのことである。
★26このように述べた上で、注18で紹介したロールズの議論(とそれに対するノージックの批判)をどう考えるかをまとめることができる。ロールズの議論にも、一人一人の才能(の違い)は偶然によるものだから、という理由づけがなされているように読める部分がある。この点についてはいま本文に述べたように考える。そして第4節3で述べたように、才能、才能が関わって産出されるもの(行われる行為)、そこから得られる利得、これらの各々について帰属・権利の問題を分けられるし、分けた方がよい。その意味では「才能のプール」という(ロールズの本自体にはない)表現は誤解を招く可能性、曲解される可能性がある。才能が個別の人に帰属することを否定する必要はない。またそれ自体を他の人たちに譲らなければならないものと考えることもない。ただ、ときに(その才能を必要とする)行為の義務が課されることはあるだろうし、またそれより多く、その行為によって取得したものの一部の譲渡が求められることがある。


 
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■第二章・註

★01基本的には第1章4節1に記したことで済んでいるのだが、取り上げて論ずるに値しない粗暴で狭量なものも含め、政治や経済が論じられる中でこうしたことがしばしば語られるので、一つの章とする。
 私は稲葉[1999:298-299]に触発されてノージックやハイエクがこのことについて書いたことも見ておかなくてはと思った(もう一つ気になっていたことについては注3)。そこではニーチェとハイエクが並べられている。(該当箇所にはニーチェは出てこないがルサンチマンという語はある。そしてその本は永井均の論を取り入れて組み立てられようとしている。)この取り合せはわからないでもないが、違和感があった。そして次のような言明が私にはわからなかった。「「偉大な社会」において平等主義を追求することは、個々人の間の差異、唯一無二性の否定につながる、とハイエクは論じる。それはそれぞれの個人がそれぞれに唯一無二の存在である、という事実を受け入れられない心弱さ、それに基づく弱者の強者への嫉妬を正当化する思想に他ならないのだ、と。」(稲葉[1999:298])しかしニーチェがなんだかすごいのは少なくともハイエクの主張との親和性を読み取れる部分ではないはずなのにという感じ、もっと直感的に、ハイエクはニーチェに比べたらどうしてもたいしておもしろいと思えない感じが、ハイエクを読む前にあった──そして読んだ後に思ったのも同じことだった。
 石川准(注4)も永井[1997]経由できつねとぶどうの話を持ち出す。もう一つ疑問。Nietzsche[1887]等でニーチェの言ったこと、言ったとされていることはとてもおもしろいのだが、同時になにかおかしいと思える。それはなぜか。こうしたことも気にしながら本章は書かれる。注12に続く。
★02cf.江原[1985:61-97,esp.91ff.]。
★03「人々は一般に、他人とは差のある最重要次元について自分が何処に位置するか、によって自分を判断する。人に共通の諸能力を欠く動物達と自分とを比較する事によって、それらの能力から人が自尊心を得ることはない。(「私はかなり出来の良い方だ。私には他の指と向き合う親指があり、言葉を話すこともできるのだから。」)(Nozick[1974=1992:401]──注19の引用につながる)
 私が私を評定することと同時に、あるいはその前提に、他者による私の評定があり、それが気にもなる。そしてその他者による評定は、それが社会のどんな場所、場面でなされるかにもよるが、多くの場合、そう露骨な直接的なものとはならない。思いやりとかげぐちについて奥村[1998]。
★04注1に記したことともう一つ、別の領域(と私は思わないのだが)での議論が気になってきた。つまり、「できないこと」や「障害」をどう考えるという主題がある。例えば石川准は「存在証明」について考えてきた人だが、その方法に「印象操作」「補償努力」「他者の価値剥奪」「価値の取り戻し」の四つがあるとする(石川[1999]、石川[1992]でも四つだが用語が少し変わっている)。「アイデンティティ問題に直面する人々にとっては、印象操作や補償努力や他者の価値剥奪は存在証明のための道具的な手段である。価値の取り戻しも、同じように存在証明のための手段である。存在証明からの自由でさえ、存在証明の挫折を超越する手段でありうる。[…]自尊心の損傷と呼ぶか、ルサンチマンと言うかは違っていても、人はいかにしても価値に手が届かない時には新しい価値を創造する、と考える点では共通である。」(石川[1999:52-53])そんな自分が好きなんですと言うこと、自分はそんなことを気にしないと言うことが、やはりやせがまんだと見られることがある、これは不快なことだが、たしかにそんなこともあるかもしれない。そんな辺りを気にしてきた。これは感情というものをどう扱ったらよいか、考えたらよいかを考え、逡巡することでもある(石川[2000]、奥村[1998]、等)。この文章は、そんなことを考えてきた人たちへの──同じ場所に立って何か言うというより、自らの場所を示すというかたちをとった──返信でもある。
★05とくにこの社会では、他人から貰いものとして得たのではその人は評価されなかったりけなされたりする。例えば親が富裕であるために富裕な人間は、羨ましがられはするが、評価としてはそれなりでしかなかったりする。ただ、何かの価値をその何かを生じさせた原因、とくに本人の努力の方に見出そうとすることの意味は、この社会がどんな社会なのかを考える中で冷静に考えた方がよい。また、例えば家族内部での贈与、相続は、私有する財の処分の自由という規則からは正当化されうるが、その権利の正当化に持ち出される自らの産物の自らによる所有という図式にはうまく乗らない。この辺がどのように論じられ言い抜けられているのか(例えばHayek[1960:88-91=1986-1987:(I)130-134])を調べておく必要もある(cf.第6章注15)。そして、何でも生産者と生産物という図式で評価しようとするこの社会でも、その背景や原因と関係なくそこに表れているものが評価されてしまうこともまたいくらでもある(注9)。それがどう調整されたり、調整がつかないままにされたりしているのか。
★06竹内章郎は才能を共通の資産とみなそうというロールズの論(Rawls[1971=1977:77,81-82]──後半には優生学についての言及がある、cf.第1章注18・26)をさらに批判して次のように言う。「能力というレヴェルにまで、共同性概念を深化拡大することが必要ではないか。これまでの社会と文化の在り方では、共同性を営みうる「能力」も含めて、「能力」自体を、皮膚一枚で区切られた諸個人の内部の事柄としてのみとらえる傾向、つまり、個人還元主義的な「能力」把握、あるいは、個体能力観があまりにも強かった。その結果、共同性も、皮膚一枚で外界から遮断された諸個人の外側に、したがって、諸個人と諸個人との間に成立する事柄としてのみとらえられた。しかし、こうした共同性の把握では、「能力に応じた」差別を真に克服した新たな社会や文化の創造には至らない。」(竹内[1993:144-145]、その後の著作に竹内[1999][2001]があるが、この部分はそう展開されていない)
 能力の水準での共同性とはどんなことだろう。いくつものことが書かれているが、引用の直後には、環境要因(社会や文化の在り方)と生物学的要因がマイナスに「共同」してしまうことにより、また「損傷」に環境要因がうまく働きかけられず「共同」がうまくいかないことにより「能力不全」が生ずることがあげられる(竹内[1993:147-148])。これは別の関係・共同性の中ではできるようになっていくということでもある。「工夫にみちた取り組みによって、ほほ笑みが生まれるということには、周囲の人間たちの在り方が微笑という能力を生む側面の重要性が現れている。」(竹内[1993:155])さらに、そして「微笑という能力」と言うとき既に、できることの意味、「有用性」が関係のあり方の中で規定され変更されるものであることが言われる(これは、言葉の使い方は異なりながら、本文で次に記す立場にもつながるところがある)。「「重度障害児」との接触が、既存の激しい競争社会や生産効率主義の社会の非人間性をかえりみさせてくれ、本当の人間らしい暮らしとは何かを希求させてくれることもある。[…]新たな有用性、つまり、本当の人間らしさにとっての有用性」(竹内[1993:170])
 わからないではない。しかしこのように論を進めていく方向とは別の方に私は考えていこうと思う。できることやなおすことを巡って、多くの人は知らなかったという意味では小さいが、その意味合いにおいては大きい(と私は思う)対立・論議があった。具体的な議論については機会があれば別に論ずることにしたいが、それは、乱暴に短くすれば、「みんなの力で(あるいは「科学的」な認識と方法によれば)できるようになる」という立場と「できなくてもよい」という立場との対立だった。それが相当の時間の経過の中で論点が詰められてきていると考える。本文に記すこと、[2001e][2002f]に書いたこともこのことに関わる。なおこの注と本文の対応箇所は、私と竹内の論の異同についての福島智の質問への回答の一部でもある。ただ言葉が足りないのはわかっている。どこかで補足したいと思う。
★07加藤[2001b]が身体への自己決定権を肯定する。私も制御→取得という図式のもとで権利が正当化されるべきでないことを述べると同時に、例えば身体に対する自己決定権が別様に確保されるべきことを述べた([1997:122ff.])のだが──分配や交換の対象にならないものとなるものとがあり、簡単に言えば、固守されるべき自己決定権は前者、前者と後者の境界に関わり、本書では後者を論じている(cf.注15、序章3節8、第6章2節)──それと加藤の論との異同についてはさらに考えてみたい。
★08なおすこと、できるようになることについて[2001e]で少し、そしてできないことがどんなことであるかについて[2002f]でもう少し考えてみた。cf.[2002e]。
★09姿・形で好かれたり嫌われたりということがある。ここにはより大きな困難があるように思える。
 一つは、身体はその人から切り離すことができないということだろうか。手術等ができる場合もあるし、取り替えもきく場合もないではないが、そうはいかない場合も多い。もう一つは、そのことの受け止め方が、感ずる側、評価する側にとって任意に操作することができないとされているということだろうか。それは「感情」という操作可能でないもの──とされているもの──の水準にあるとされる。あなたがわるいのではないことはわかるけれども、あなたが私は嫌いだ、嫌いではないが好きにはなれない、ごめんなさい、というわけだ。こうして、このことについては出口がないように見える。
 しかし、これら自体が本文に述べるできる/できないこととの違いだろうか。まず第一点について、姿・形は個別の人のものだが機能は代替可能であるとは必ずしも言えない。その人自身について言えば、できないものはやはりできない、できるようになること、取り替えることはできないことも多い。第二点についても同様である。まずいものしか作れない人がいて、その料理をおいしいと思おうとしてもやはりまずいものはまずい。だからその当人においては姿・形も能力も同じく変更不可能なことはあり、その相手の評価もまたその相手の方に委ねるしかないということになる。
 相手にとっての必要・評価のあり方も同じで、自らにとっての逃れ難さも同じだとして、何が違うのか。それが「私」と関わるその関わり方が異なることがあるということではないか。例えば私はその私への評価が気になるのだが、容姿が評価される要素であるとき、それは自分に密着してあり、他の人とは代替できないものとして、あるいは代替したら意味がないものとしてあるなら、このことから逃れ難さが生じてくる。もちろんできることも私の意味、私への評価に関わってくるのだが、しかしそれは、本文に述べることが本当なら、かなりの部分はとり外すことができる。それは、すること(の少なくともかなりの部分)は本来は自分でしなくてもすむことだからだ。それに対して姿・形の場合はどうか。
 さらに、私の私に対する対し方、それに対する他者の対し方、他者の私に対する対し方、それの私にとっての意味、と考えていくと、事態はかなり複雑である。例えば、自分が自分のような姿・形でいることは自分にはたいして関心のないことなのだが、しかし他者にとってはそうではない、あるいは私にとってはそのぐらいのものでしかないとは他者は受け取ってくれない、等々。
 私はこれらを考える方向がつかめず、比べれば能力や分配の問題はまだとりかかれる主題だと考え、前者については[1997:365-367,372]にわずかのことを記しただけで、後者の(考えるだけなら)手に負える方だけをこれまで考えてきた。体、顔の異なりについて石井政之の本がある(石井[1999][2001])。後者の本では、私が二つのうちの一つしか考えないことを記した[1998b→2000g:93]に引用したのと同じ横塚晃一の言葉──さらに短くすると「″身障者も同じ人間だ″なんていうね。絶対に違うんだよ。おれたちの最大の生活環境は一人一人が持っている肉体なんだ。これはどこへ行こうとついてまわる。」──を冒頭に置いて、私が手がかりがつかめないでいるもう一つの主題に入っていく。
★10[1997:223-228](第6章2節「主体化」)で、カルヴィニズムにおける二重予定説が効果として与えたもの、そして公教育の開始において目指されそしてそれがもたらしたものについて記した。[2001d]でも、その一部を反復しつつ、関連したことを述べている。▼
★11このことは「冷たい市場」の成立の可能性を示してもいる。「例えば市場において、労働能力しか問題にならないなら、そこにそれ以上の何か、「人」が現れる必要はない[…]。この時、市場は「冷たい市場」として現れる。」([1997:224])本章は、冷たい市場、「人のいない市場」([1997:303-306,333])の具体像を明らかにせよという福島智(著書に福島[1997])のもう一つの問い(注6に記したのが一つ、他にもあった)に応えようと書かれてもいる。関連して「停滞する資本主義」の可能性について[2001d]。
★12ルサンチマンがあって、どこか屈折している、どこからか捩れている。それはなにかまっすぐなものが捩れたり、歪められたりしているということで、つまりどこかの「自然」から発している。そのこと自体が問題だというのではない。それがどのようなものとして想定されているのかである。
 ニーチェにも言及しながらキリスト教における「内面」、内面におかれる「罪」の発見を描いた吉本隆明の文章(吉本[1978]所収の「喩としてのマルコ伝」)がある。罪が具体的な行為の水準から移動させられた時、内面に罪は見出される。この準位にある罪は誰もが否定することができない。それは思い起こせば誰にもやましいところがあるというだけではない。ここに罪の場所が置かれる時、罪の存在の可能性を否定しきることがそもそも論理的に不可能なのである。そうしてすべての人は罪人になり、それを救う存在につながれる([1997:249-250])。
 だが、ルサンチマンという言葉を使って通常言われることは、このような認識と異なるように思える。なにか言われること自体が狭量に思える。どうなっているのだろうか。
 ルサチンマンに発していると相手を糾する側もまた同じ心性を有しているとも言えると第1節で述べた。このことにも関係はするが、より基本的なところでその言説はルサンチマンを言う批判が批判したものの内部にある。つまり、ルサンチマンを持ち出して批判するというそのあり方そのもの、ルサンチマンを指摘し糾する言説そのものが、ルサンチマンとして取り出された仕掛けをなぞっているのである。
 内面を問題にすること自体を否定しようというのではない。日常に用いられる言葉の意味で動機や感情は存在する。だからそこに何があるかを問題にすることはときには大切だ。ただいつもそんなことをしなければならないのではない。そして内的な領域が用いられる「用法」に注意すべきだ。とくに内部に遡及し、否定できないところに持って行かれること、このことを利用されることには警戒してよい。
 ルサンチマンという把握自体がルサンチマンに内属してしまう。どうしてそうなるのか。どこかで倒錯が起こっている。それはニーチェを正しく読むとか間違って読むとかいうことではないだろう。彼の本にはどちらも書いてある、彼には両方の思考があるということではないかと思う。まっすぐなもの、「自然」なものと先に述べたものが「生」なのだが、それはいわゆる「強い生」(「力への意志」?)として想定されていることがあり、またそんなことに関係ないただの「生」であることもある。
 ニーチェにおいてここがどう辻褄が合っていたのかあるいは合っていなかったのか、それは知らない。ただ、生存すること、存在することがそのままで肯定されてよいなら、行いと存在とのつなげ方も存在の否定のあり方であり、否定されてよいものである。それなのに変だと注1に記した。そう思って永井[1998]を読むと、彼はニーチェの第二空間、第三空間と彼が呼ぶものを描いている。他に(リベラルな個人主義と)ルサンチマンについてConnolly[1988=1993:315-322][1991=1998:142ff.]。
★13しばしば「(悪)平等主義的な教育」が、一人一人の差異をことさらに隠しているとして非難され嘲笑される。これが一人一人ができる度合いに違いがないことを言おうとしているのであれば、違いがあるのは事実なのだから、それは間違いだ。このことは認めよう。
 しかしなぜ差を見せなければならないのか。見せることが好きな人はそれでよいだろう。見せたい人もいるだろうし、気にならない人もいるだろう。それはそれでかまわない。しかしそれは、存在するものがすなわち取り出され、晒されることがよいということではない。
 非難する人はさらに次のように言うだろう。「できる/できないことはたいしたことではないと言うなら(たしかに本文でそのように述べた)、気にしていないのなら、見せてもかまわないではないか。」しかしこれはおかしい。第1節に述べたことにも関わるが、第一に、世の中が気にするように作ってあるのなら、自分では気にしたくなくとも気になって当然であり、自分で気にならなくなってから世間に文句を言え、と言われなければならないことはない。第二に、実際に自分は気にしていないとして、それがその場で焦点を当てられるとしたら、気にしていないものを気にされる、気にさせられるということであり、そのこと自体が不快であり、不快だから文句を言ってもさしつかえないはずである。
 さらに、「一般社会」は競争でやっているのに学校でだけ特別扱いしても仕方がない、欺瞞的なだけだという指摘がある。これは基本的でおもしろい問題だ。[2001d][2003e]で少し考えた。
 そして最後に、学校のことは別として、ともかく社会を維持していくためには、嘘を言ってでもできるようになること、何かをすることの方に仕向けることは必要なのだと言われる。しかしそのように言えるのか。資源の枯渇、生産の停滞への危惧をどう解するかについて[2000a]で検討した。例えば経済学者が「労働倫理」を正当化しようとした論としてBuchanan[1994=1997:1-37]があるが、むろん、それを読みそこに記されている因果関係を受け入れても、本章で述べた立場に変更はない。
 人が自らができることに価値を認めること自体を否定はしなかった。とすると、どんな時どのように、それに「重みがかかりすぎている」と言えるのか、その人に言うのか。「安楽死」のことなどを巡り、パターナリズム(第4章注17)という主題にも関わって、[1998a→2000g:60-62][1998c→2000g:42-43][2000b→2000g:306-307]にすこし記したが、もっと考えるべきことがある。ただ少なくともまず、この社会がこのように作ってあるということ、そしてそうでなければならないことはないこと、しかしそのようには知らされていないこと、これらのことを言うことはできる。だから、「そんなに気にすることはない」と言い続けるのは、何も言っていないようだが、しかし意味のないことではない。
★14このようなあり方の羨望や嫉妬についてロールズ(Rawls[1971=1977:416ff.])、遡ればカントが論じている。ロールズは、羨望にただ羨ましいというだけの羨望と相手が引き下ろされるのを喜ぶのと二つあり、前者は問題がないが後者は問題だとする。また、そうした感情が生起する状況を考慮すべきだと言う。「羨望は全体として不利となる。他の人を羨む人は、ただ両者の差が十分に縮小されさえすれば、彼ら両者の立場をいっそう悪化させることを喜んで行うとする。かくて、カント(彼の定義に私はほとんど従ってきた)が人間を憎む悪徳の一つとして羨望を論じたことはまさに適正である。[…]良性の羨望の場合、悪意が抱かれたり、示されたりすることはない。[…]われわれは他の人々が持っているあるものの価値を認めているのである。[…]羨望が、ある人に別の感情を期待することが不合理であるような環境において、自尊心の損傷に対する反作用である時には、私はそれを許されるべきものであると言いたい。」(Rawls[1971=1977:418])そのカントは次のように書いている。
 「嫉妬〔livor〕とは、他人の幸福をみると、そのために自分の幸福が少しも妨害されているわけではないのに、苦痛をおぼえるという性向であって、それが燃え上がって実行〔他人の幸福を侵そうとする〕に至った場合には、本格的嫉妬と呼ばれ、そのほかの場合には単に羨望〔invidentia〕と名づけられるが、ともかく、間接的に性の悪い心術である。いいかえると、われわれ自身の幸福が他人の幸福によって光を奪われるのをみての不満である。そういうことになるのは、われわれが幸福と比較して評価し、この評価を具体化するすべを心得ているからである。」(Kant[1797=1972:624-625])
 そしてノージック。「平等を自尊心と結びつけるのはもっともなことである。嫉妬深い人は、もし自分が(同じように)他の誰かがもっている物(才能など)を所有できないなら、相手もそれをもたない方がよいと思う。嫉妬深い人は、相手がそれをもち自分がそれをもたない状態よりも、どちらももたない方がよいと思うのである。」(Nozick[1974=1992:393-394])「人々はよく、平等主義の底には嫉妬がある、と主張してきた。他の人々は、平等主義の原理はそれと独立に正当化でき、平等主義者はその正しい原理の実現を望んでいるだけだから、彼に不名誉な心理を帰する必要はない、と答えてきた。人々が感情の合理化のための原理を創作する際の発明の才を考慮に入れ、なおかつ平等がそれ自体価値であるとする議論を見つけるのがこれほど難しいとすれば、少なくとも、この答は証明されていないのである。」([396])注19の引用も含めWolff[1991=1994:207-209]に言及がある。
★15これは世界にあるものを分配のための徴収が許容されるものとされないものの二つに分けるということである。ずるいやり方のようにも思える。しかし、このように考えないと、あとは、すべてが交換あるいは徴収と分配の対象であると考えるか、あるいはすべてがその対象にならないということにしかならない。いずれをもとらなければ、二つあると考えるしかない(第1章注17)。として、次の問題はその境界をどのように引くかである。これは注6に記したことにも関わり重要なことだと思い、[1997:116ff.](第4章2節「境界」)で考え、第1章4節1(第1章注19)で要点を繰り返した。
 はっきりとした境界線が引けないこと自体は本質的な弱点ではないが、それ以外にいくつか危ういところはある。一つにはその人のもとに置かれるものと、分配、分配のための徴収、交換の対象になるとものとの境界設定を、各自に暮らせていけるだけの財が分配されていることを前提とした上で、その本人の決定に委ねていることである。とするとその人がそれは供出できないと言えば、何でもその人から得てはならないことになりはしないか。ただこれについては、その人が本当に自ら費消あるいは退蔵するならそれはかまわないとしても([1997:124])実際上の問題はそうないだろうと考える。
★16介助・介護について考えた文章で「判定から逃れようとすること」について述べた([200b→2000g:292-297]、cf.[2003d])。これらは社会的分配を考える上でたいへん重要な主題なのだが、本格的な議論は意外にも少ない。cf.序章3節1・序章注4。
★17「他者は私との違いによって規定される存在ではない。それはただ私ではないもの、私が制御しないものとしてある。」([1997:105])
★18[1997:65](第2章注22)でも水の例を持ち出して──大庭健が同様の例で論じたことがあったからだったと思う──比較の可能性・妥当性について少し記した。
★19「社会が自尊心の格差の普及を回避するもっとも見込みのある方法は、諸次元の共通のウェイトづけを持たないことであり、その場合その社会は、様々な次元とウェイトづけの多様に異なったいくつものリストを持つことになろう。」(Nozick[1974=1992:405])これは第2節1に見た相対化という戦略に近い。これはよいとしよう。ただたんに相対化するのでなく、どうしたら実際に多元化するだろう。彼はそれが実現されない(と彼が思う)条件については記している。「一つの共通の社会的ウェイトづけのこのような分散化は、いくつかの特定次元の重要性を除去しようとする何らかの中央集権化された努力によっては、達成することができない。その努力が中央化され広く支持されればされるほど、その努力に対する貢献度が、一般に合意された人々の自尊心の基礎となる次元として、ますます前面に出ることになるからである。」([405])それだけなので、「神学とおとぎ話の世界を別にすれば、これは単なる希望にすぎない」(Wolff[1991=1994:207-209])と言われることになる。
★20ここまでを述べた上でノージックについて。「自然資産の場合に、厳密には何が念頭にあるのか。もし人々の資産や才能を、他の人々に奉仕するようそれに引き具をつけて利用することができないなら、これらの稀な資産や才能を取り除くか、その者自身やその者の選んだ誰かの利益のためにそれらが活用されることを禁じるよう、何かがなされるのだろうか。後の場合、この禁止によって他人の才能と能力を自分の利益のために利用することが何らかの理由でできない人々の絶対的な地位が改善されることがなくとも、ということなのか。嫉妬がこの正義観の底にあり、その根本概念の一部をなしている、という主張はそんなにおかしいだろうか。」(Nozick[1974=1992:377-378])
 もちろん「そんなにおかしい」。この文章には、人の才能は他の人が使えないものだという論点と、自分に直接的な利益がなくても人にあるもの(の価値)を低くしようとするという論点とがあり、それがつなげられている。ノージックはあいかわらずこのことが──「才能のプール」という言い方をしてしまうと誤解の上で議論が進んでしまうのだが(cf.第1章注26、本章2節5)──わかっていない。
 「資産や才能」自体は「引き具をつけて利用することができない」としよう。するとある人が持っているものを別の人が持つことはできない。人が持っているものを自分が持っていないからといってたんに低くしようとすることは、ありがちなことではあるが、よいことだとは認められないとしよう。しかし「資産(というより資源)や才能」そのものは他に使いようがなくても、それによって産出された産物は使うことができ、分配することができる。そしてそれは嫉妬という感情を要するものではない。
 ハイエクについて。稲葉[1999]に出典は記されていないが、たとえばHayek[1976=1987](第11章「抽象的ルールの規律と部族社会の情緒」)あたりが対応するだろう。同様の文章もいくつかはある。(ただ彼が本格的に羨望を論じている部分はあまり見当たらない。またハイエクについて論じている文章にもあまり言及はないように思った。)「これらの(機会の平等を求める・引用者記)要求の正当性について検討するとき、われわれが気づくことは、それらが、一部の人びとの成功によってあまり成功しなかった人びとのなかにしばしば生まれる不満、あるいは、あからさまにいえば、羨望にもとづいているということである。この感情を満足させ、社会正義という尊敬すべき外観でそれを偽装する現代の傾向は、自由にとって重大な脅威にまで発展しつつある。…もしも満たされない欲望が実際にすべて、共同社会への請求権をもつとするならば、個人の責任はなくなってしまう。いかに人間的であろうとも、羨望はたしかに、自由社会がとり除くことのできる不満の源泉の一つではない。おそらく、そのような社会の維持にとって不可欠な条件の一つは、羨望を奨励しないこと、それを社会正義として偽装することによってその要求を承認しないこと、それを、ジェームズ・スチュアート・ミルの言葉を借りれば、「あらゆる感情のうちでもっとも反社会的かつ悪質なもの」として扱うことである。」(Hayek[1960:93=1986-1987:(I)136-137]、第6章5「機会の平等」、引用されているのはMill[1859=1967:305][=1971:158]──この訳では「嫉妬」)「そもそもは最も不運な人々のためになされた「社会的正義」に対する訴えが、自分たちは受けるに値すると思うだけのものを得ていないと感じる構成員からなる別の集団、特に、自分たちの現在の地位が脅かされていると感じている人々の集団によって、取り上げられたという事情の結果である。」(Hayek[1976=1987:193])
 彼は、各人が各人なりに利を得ようとすることは肯定する。それが社会の推進力になるとも言う。それ自体はかまわないが、それが羨望になり、政府に対する要求に結びつき、「自由にとって重大な脅威」になるのが問題だと言うのだ。例えば社会が経済的発展を遂げる中でもっと得られてもよいと思う人たちが出てくる(Hayek[1941=1992:14-17])。ナチの時代のドイツに自分はもっとよい仕事につきもっと受け取ってもよいはずだと思う人たちがいる([150-151])。衰退傾向の産業に従事する人たちも要求する(Hayek[1976=1987:192-193])。人々の欲望の増大あるいは鬱屈があって、その「解決」が社会に持って行かれる。期待と実際との間に距離があり、それが政府への要求、過大な要求に結びつけられる。そのとおりのことがあったとしよう。言おうとしていることはわからないではない。
 しかしそれはここで述べ、これから述べようとする立場に対しては効かない。例えば各人の仕事への配置と分配とは別である。仕事への適性に応じた配置は認められうる。また分配自体は特定の産業の保護や育成を支持することはない。そして繰り返すと、本稿で述べてきたのは、成功しなかった不満から立ち上がるような力を、減るものなら減らせばよいということだった。
 彼はよく知られているように「計画」という発想を批判しいわゆる「自生的秩序」をもってきた。その意義はそれなりに認めてよい。計画主義に対する批判には同意できる部分がある。だが、私たちは、その種の批判を気にしながら、簡潔で機械的な分配の可能性について、様々な打算や利害が絡んで歪んでしまわない簡素な機構について考えてみようと思う。もう一つ、彼の論が、手を加えない方が(という言い方は不正確で、彼が認めるだけの規則を設定するだけの方が、ということだが)結局はうまくいくという、その帰結によって正当化しようという論である限り、その立場は相対的なものとなり、この程度の介入なら当座そう心配しなくても大丈夫、有効だという主張を現実には許容していくことになる(cf.Barry[1984=1987:344ff.]、Gray[1989=2001:141-142]、橋本[1994:207-209])。実際、彼自身がどうであったかはともかく、この種の主張は都合のよいところがそのつど取り出されて使用されるのである。リバタリアニズムからのハイエク批判についてはAskew[1991]。
★21自由を単純に、即物的にとらえすぎているという批判があるかもしれない。たしかにその通りだが、その単純な自由が実現されていないと考えるから、それを問題にしている。そして「分配(的正義)」から考えていくと、そこからは語られないことが現われてくるだろうし、また同時に、この分配の問題がたんに分配だけの問題でないこともわかってくるだろうと思う(序章3節8、第6章2節)。例えば『思想』は思想についての雑誌だからなのか、「所有」が特集となる時にも(『思想』[2001a][2001b])あまり多くは語られないのだが──もちろん他のことが語られ、それはよいことなのだが──私は、「経済」を語ること、ただ少し別様に語ることがとても大切なことだと考えている。
★22むろんこう述べることは、バンコク宣言における「自由に対する生存の優位の思想」を批判する論(井上[2003a:85])が批判する対象と同じ主張をするものでは、幾つもの意味で、まったくない。


 
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■第3章・註
★01しばらく前に終止してしまったかのような諸思想について、それらが何だったのか、どんな論理の構造になっていたのか、何を巡って対立したのか、再検討する必要があると思う(序章注15)。(疎外論/物象化論という対立については廣松[1972][1981]等、田上[2000]、他。なお本節と本書の何箇所かは[1997]を論じた三村[2003]への応答でもある。)また、本文に記したのは現実が変わると意識が変わるという一つの線だが、むろんそれだけが想定されたのではない。両者の間の幾度もの往復が、希望とともに、描かれたのだった。それはたしかに空想的だと思える。しかし、人もまた変わっていくはずであると考えるのは、人はこんなものだろうというところから議論しそこに留まってしまうのと比べて、少なくとも論理的に誤っているということはない。人はどのように変わっていくかわからないのだと、だから「代替案」を示せという脅迫に「誰にも予見できない未来」(西川[2002:112,138-139])を対置することは正しいのだし、論と現実を先の方まで進めていこうとする力に対してリベラリズムが反動として作用することに苛立つ人がいる(Zizek[2001=2002])のも当然なのである。
★02この部分自体は市場アナキズムの紹介として書かれているところで、「どちらが人間の悪魔的部分を膨張させるかと言えば、むしろ国家の方です。[…]このような市場アナキズムは国家の危険性を批判的に吟味する上で種々の洞察を含みますが、国家を無用化するのに成功しているとは言えません。」(井上[1998:37-38])と続く。(金子・井上[1999]という対談があり、おもに市場についての評価を巡って両者は対立しているのだが、それを読んでも思うのは、市場がどんな場所なのかというごく基本的な主題について、実はあまりまとまったことが言われていないということだ。cf.金子[1999])
★03いずれもはっきりしない言葉ではある。例えば利他的な行為と見えるものもそれに自分が満足しているのだから実は利己的な行為なのだと言われることがある。これを否定する必要はない。何かをするのは何か得るものがあってのことだという、ただそれだけのことを言っているだけだからであり、あとは言葉の使い方の問題だからだ。ここでは、別の人にとってよいことをすること自体を目指して行うこと(を自分にとってよいこととして──だからそれも利己的と呼ぶことはできる──選ぶこと)を利他的な行為とし、それ以外を利己的な行為としよう。
★04社会福祉・社会保障を贈与でなく保険と捉える考えの限界について[1995a:230-231][2000a:(上)70-71](「自分のためにという説明の効力とその限界」)で述べた。公的年金保険・医療保険を正当化する経済学の論では、非加入者の医療や生活を結局税金で賄わなくてはならなくなること、そして非加入者はただ乗りの利益を得てしまうことが言われるが(島田・清家[1992:173]、橘[2000:84][2002:147]、等)、それは公的扶助等の社会的分配の存在を既に前提して言えることであり──むろんその限りでは当たっている──社会的分配そのものを正当化する理由にはならないこと等を述べた。
 また[1997:280-285]では「無知のベール」を持ち出すRawls[1971=1979]の議論がこの第二の論のようにも読めてしまうことを言い、[1998e→2000g:207-211]では遺伝子検査と保険について考える中で繰り返した。ロールズの「原初状態」における「無知のベール」を、それ自体に規範的な意味が込められたものと解さないとしよう。一つには、その前提とその帰結とされる諸原理の間の整合性の問題がある──渡辺[2000][2001]がこの点を詳しく検討している──のだが、同時に、この状態をなぜ最初に置くのかという問題が現われる。一つに経験的な状態との合致を言いうる。それは部分的な合致ではあるが、それでもかなりの程度は合致する。そして各自が各自の将来を案ずる心性は肯定されてよいとされる。ゆえに、ロールズ本人は別として、この論の運びは頻繁に用いられる。だが、本文に述べたようにそこに残されるものがあり、それを認めないなら、このように考えるべきでない。
 とすると原初状態において無知を想定することの意味が問われる。どう解するべきか、あるいはどう論を補うべきか。その一つがここで第三のものとして述べることであり、もう一つが他者に対する態度として言えることだと考える。つまり一つに、私が何であるかを知らないかのように、あるいは知っていてもそれを無視して、私を存在させるようにという要請として、一つに、他者にそのように対し他者をそのように遇しようとする態度として、無知のベールという言葉を──なお使おうとするなら──使うことになる。岩田[1994:37-38]の記述を後者の解釈として読めることを[1997:313]で述べた。他に例えば次のような記述がある。「無知のベールという虚構は、まさに(抽象的に)個人であるという規定を別にした一切の個人の属性が、つまり社会の内部での他の諸個人との差異によって特徴づけられうる個人の一切の属性がまったく偶有的なものであるとする、断固たる意志を表現するものである。」(大澤[1996→2000:169])(この状態をどう理解するか、またロールズがその論をどのように位置づけ、また変化させていったのか、それをどう評価するかについては、Rawls[1975][1980][1993]等をあげ、Gray[1989=2001:39-62,233-285]、藤川[1989:53-73]、Warnke[1992=2002:67-72]、Pakaluk[1994=1999:39-40]、川本[1995][1997]、井上[1999:117-121]、Cornell[2000=2002:310-311]、伊藤[2002:139ff.]、盛山[2002]、等で論じられている。)
 原初状態における社会契約について言われていることを現実を持ち出して批判すべきでないという主張は塩野谷[1984:446]にも見られる。しかし、この主張と同時に当人のリスクを基底に置いて社会保障・福祉を正当化しようとするなら、つまり本文で二番目にあげた主張を行うなら、論理の整合性が問題になる。そしてこの正当化は成功しない。菊池[2000:252-253]に関連する記述と、保険として社会保障を基礎づけようとする塩野谷[1997]等の文献の紹介がある。齊藤[2001:32,42]でもこの主題が取り上げられ、井上[2003b:204]にはドゥオーキンの「仮想的保険市場」(第4章注2)について私の主張と同じ指摘がある。もちろん「セーフティネット」はけっこうなものではあるのだが、その位置づけが大切であり、それを支持する論理を間違えてはならない。貧困の状態に置かれる人に対する制度から所得の多寡に関係なく誰もがサービスを受ける制度に社会福祉が変化していると言われることがある。そう捉えられる変化があることを否定しない。例えば生活保護が政策全体に占める割合は減少している。しかしこのことをもって贈与の要素を軽視してよいと考えるなら、それはちがう。義務を本質的な規定としないものを中核に置くことは義務としての贈与という契機を弱めることになり、実際に保険の原理で制度を運営するなら義務という性格は壊れてしまうだろう。保険の機能を拡充し、ここに述べている分配をその中に含みこむようにした方が人々の支持を得られるという考え方には一理あるとしても、また「互酬」という言葉の口あたりがよいとしても、社会が義務を負うことの意味がどこにあるのかははっきりさせるべきである。
★05以下に記すことをこれまで明示的に述べたことはなかった。述べてきたのは保険、相互扶助でなく贈与と捉えるべきだということだった。しかし考えてみれば、考えてみなくとも、「ただ存在すること」は私の側からの要求でもある(cf.注8)。
★06自らの境遇が変わり保険に入っていた方が有利になる可能性がまったくないという人はたいへん少ないし、またその得失の分岐点があらかじめわかるわけでもない。だから実際には、自分のためにという動機と自分には関わらないかもしれないがという動機との境界がはっきりとあるわけではない。
★07「貢献」「生産」「能力」等の言葉の意味を変更、拡大しようとする気持ちはわかるが、それには限界がある。第2章注6で「新たな有用性」と述べる竹内[1993:170]を引いて記したのもそのことである。共同性とその変質という論については[1997:293-296](「関係の自然史」)でも考えた。
★08森岡は、優生思想が批判されるのはそれが「この社会に生きる人間たちをシステマティックに「無力化」し、彼らから「根源的な安心感」を奪い去るからである」(森岡[2001:389])と言う。私は、「人のことを(自分の都合で、自分の好みで)決めてはならない」ことをあげた([1997])。同じことについて二つのことが言え、そして両者は別のことでもあり、相互に関わりのあることでもある。
★09最首が義務の先行性と内発性について述べている。「私たちは義務というと、他から押しつけられる、上から押しつけられるものと、反射的に反応してしまうので、よい感じはもっていないけれど、行動原理の根底は内発的義務であり、その内容は「かばう」とか「共に」とか、「世話する」とか、「元気づける」であって、それを果たすとき、心は無意識のうちに充たされるのかもしれない。/そのような内発的義務の発露が双方向的であるとき、はじめて人は尊ばれているという実感をお互いにもつことができ、それが「人が尊ばれる」というふうに定式化したとき、権利という考えが社会的に発生するのだろう。」(最首[1993→1998:131])「権利とは「この人、あの人はこう手当されてあたりまえ」という社会的通念です。それを「この人、あの人」が自分に引き取って、「私はこういう手当をされて当然」とすぐに言うことはできません。内発的な義務の発露を他者に投げかける、自分の選択を見つめる人たちがいっぱいいて、その人たちが社会という場をつくるときに、この場に権利という考えが発生するのです。」(最首[1994→1998:391])これを受けて、[2000b→2000g:312-313]で本文に記したことを述べた。最首の言う内発的義務については川本[2000]に言及がある。
★10以下に関連する記述として[2000b→2000g:309-320](「口を挟むこと、迎えること、他」)。同じ本では[1998d→2000g:74-75]等に関連する記述がある。愛国心・愛国主義(patriotism)を巡る議論にもこの論点に関わる部分がある。例えばNussbaum with Respondents[1996=2001]、例えばその中のTaylor[1996=2001:201]をそのような観点から読んでみること。するとなかなかもっともなことも言われているが、それほどでもないことも言われている。
★11「慣れとは、大方は、感覚の鈍磨という、障害者にとってはまた堪えがたい意味をもっているのであるが、しかし良い、悪いの意味をこめない尺度の移行は、慣れによって生じることは事実である。大事なことは、慣れとは、関係の取り結びだということであろう。障害者本人と、あるいは障害者とかけがえのない関係を結んでいる者との関係を、取り結べたとき、障害者に対する異和感は消失するし、想像、類推の力によって、ほかの障害者への異和感を軽減させることはできるのである。そして慣れの深さによっては、差異の事実はかえってはっきりと残され、ときにはそれをあげつらうこともできるようになる。」(最首[1980→1984:234-235])
★12例えばサンデル(Sandel[1982=1992])がロールズは「負荷なき自己」(unencumbered self)を想定するが、それは間違っていると批判する。その指摘は、実際にそんな人間はいないというその限りでは当たってはいる。しかしそれをどう解釈するのかが大切だ。私は、ロールズ自身がどう考えているかは別として、その人の具体性を尊重しようとするがゆえに、その人の具体性から離れなければならないことを言っているのだとすれば、その主張を支持する。cf.注4。
★13例えば「ケア」を語る言説にこうした部分に対する注意を欠いたものがある([2000b→2000g:245ff.])。「非人称の連帯」の利点(と限界)の指摘は齊藤[2000:65ff.][2001:41]などにもある。なお、政治の行いが実際に冷たく距離をおいてなされてきたと言っているのではない。実際には「よいこと」にお金を出し、それで分配を受けて暮らす人はよいことをして暮らす人でなくてはならないようなことになってしまった。なぜそうなるのかを考えたいという思いからもここは書かれている。
★14『思想』でも「公共圏」「親密圏」という語を含む特集が組まれ(『思想』[2000][2001c])、『現代思想』でも「公共圏」の特集があった(『現代思想』[2002a])。本書はそうした設定とどんな関係をもつことになるのだろう。まず「親密圏」はどんな位置を与えられるか。
 それが語られず正当に位置づけられていないとされ、その圏内での自己が肯定される感覚、安心できることが大切であること、それがときにその外での闘争や抵抗の拠点ともなるのだとされる。そしてその単位は家族に限られるべきでないことが強調される。同時に、それが逃避の場所として機能し、体制補完的なものになることがあることも指摘される。また内部に生ずる抑圧的な契機を無視すべきでないことが言われる(三品[1998]、齋藤[2000a][2000b]、佐藤[2003]等)。
 言われていることはそれぞれにもっともなだ。けれどもう少し考えてみてもよい。一つは肯定や承認をどう捉えるか。「無条件の肯定」が親密圏で必要とされるという言明は、ときに強迫的で脅迫的であるかもしれない。肯定されたい私、その人を肯定しなければならない人がそこで産出されているのかもしれない。肯定すること否定しないことをどう考えるのか。そしてそれは分配と無縁か。強制的な徴収と分配の保障が最も基礎的な肯定だとも言える場面もまたあるのではないか。このように言うのは、強制的に徴収され分配されえないもの、少なくともそれを予定しないもの望まれないものがあることをむろん認めた上でのことであり、認めるからでもある。否定しないこと以上の肯定が求められること、それが特定の場に置かれてしまうことに懐疑的であってよいと思う(cf.[2000b→2000g:309ff.])。
 序章3節8に記したことの繰り返しになるが、ここで分配できるものの分配を考えているのは、まずは一方の側から考えていこうということである。一つ一つを分けて何が問題なのかを考えていかなければならないのは面倒なことではあるが、そうしないとよくわかるようでしかしよくわからない話しかできずに終わる。その意味で、公共(圏)/親密(圏)といった大きな括りの分割の言葉がどこまで有効か、私は疑問に思う(cf.齋藤・竹村[2001:17ff.])。とくに公共(性)という言葉を使って何か言えるだろうか。とりわけ「公」と「私」の間に「公共」を入れて両者をうまく繋ごうといった類いの(佐々木・金編[2001-2002]に散見されるような)捉え方ではほとんど何も明らかにならないだろう。例えば問題は何が私的なこととされるのかである。cf.西川[2003:82]、[2003c:132]。
★15述べているのは、つまりは他者を手段として扱ってはならないという、ただそれだけのことではある。ただ近代の社会には同時に、為すことによって存在が規定されるという観念があり、これがある限りこの自明の原理は徹底されることはない。このことは[1997:223-227,287-290]で述べた。そして自分が得ることと自分の価値とが強く結びついていないなら、自らが得ようとすることに限界はあり、嫉妬や羨望をもってきて平等を批判しようとする主張の錯誤については第2章で述べた。
★16以下は[2000b→2000g:232ff.](「根本的中途半端さについて」)で述べたことである。[1997:342-343]では、「負担に同意しない人もまた負担させられているのだがそれでよいのか。もちろんよいのである」として四つをあげた。第一は別の立場(私有派)は正当化されないこと、第二は立場の違いを無理やりなくさず反対を認めた上でも規則は立てられること、第三が本文に記す「ただ乗り」という論点(cf.井上[2003b:18-19])、第四が個別の自発的な行為としての贈与より政治的分配の方がよい場合があることである。こうしてただ羅列したことをもう少していねいに論じようとした。
★17これには、政治という場がいちおう「正論」が語られなければならない「公の場」だということになっていることも関わる。このことの意味についてもっと考えてよいと思う。
★18彼は知られているとおりの人である。「わたしは自由主義者として、もっぱら所得を再分配するための累進課税については、いかなる正当化の理由をも認めることがむずかしいと考える。これは他の人びとにあたえるために強権を用いてある人びとから取り上げるという明瞭な事例であり、したがって個人の自由と真正面から衝突するように思われる。」(Friedman[1962=1975:196])
 この種の論について言うべきことは既に述べたのでここでは繰り返さない。その人が貧困への政治的対応を認める理由が次のようなものだ。「わたしは貧困を目にすることによって悩まされ、貧困の軽減によって利益を受ける。けれども、その軽減の費用を払うのがわたしであろうと他の人であろうと同じように私は利益を受ける。」(Friedman[1962=1975:214-215])
 フリードマンに限らず、第1章で検討したリバタリアンたちでも、どういうわけか、何もしなくてもよいという主張を貫く人はそう多くはない。分配をまったく否定する人たちもいるが、そうでもない人たちもいる。むしろ多くが、しぶしぶ、あるいははっきりと肯定する。なぜその人たちは「救貧」「扶助」を認めるのか、認めたがるのか。そしてそのことと権利についての主張とがどんな関係になっているか、そこに整合性を見出しうるのか、これらの検討はここでは略す。公正、公平についての心理学的研究で公刊されている書籍として田中編[1998]、Tyler et al.[1997=2000]。
★19[1997:116ff.](「境界」)。cf.第6章2節。
★20市場を利己主義の場と考えるのは間違っている。市場ではどのように行動することも妨げられてはいない。同じものに人の倍払うことも、買わないのに払うこともできるし、金をもらわずに売ることも禁じられてはいない。もっと一般的に、贈与が認められる限りどのような所有権の規則が与えられていても、市場でもどこでも分配は達成されうる。市場があることと分配が行われないこととは別のことである。だから不平等は市場がもたらすものではなく、あくまで「選好」によって存在するようになるのである。とはいえもちろん、これだけを言うのでは不十分ではある。例えば市場、というより複雑な分業系においては、人は対面的には現われて来にくい。そのことによって、その人の状態に応じた贈与は困難になる。ただしそれを軽減する技術的な策もいくつかはある。私は「市場の論理」とか「資本主義の宿命」とかといった決まり文句をまずは排して考えようと思う。心がけしだいといったことを言いたのではない。一度は基本的なところから考えた方がよいということだ。その上で、例えば「健康で文化的な生活」を営むに足るとは思えず、受給者も抑制されている、しかしそれでもそれなりの予算が使われている制度としての「生活保護」と同等あるいはそれ以上のことが、政治・強制を介さずに可能か。
★21「道徳教育者の使命は[…]「どうして私は親戚でもない、不愉快な習慣を持つ、あかの他人のことを心配しなければならないのか」という、もっとしばしば発せられる問いに答えることだ、ということがわかるでしょう。[…]次のように始まる長い、悲しい、感情を揺さぶる種類の物語を語ることです。すなわち「家から遠く離れて、見知らぬ人のあいだにいる彼女の立場になってみると、現状はこのようなものなのだから」あるいは「彼女はあなたの義理の娘になる可能性もあるのだから」あるいは「彼女の母親が彼女のために嘆き悲しむだろうから。」」(Rorty[1993=1998:163-164]、略した部分にはまたしてもニーチェへの言及がある)このような論に似ているところもあることを本文で述べたのだが、そのローティはやがて「アメリカ」「国民の誇り」を持ち出すことになる(Rorty[1998=2000]等、このことについて北田[2001]、齊藤[2001:42])。


 
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■第4章・註

★01以下では、アナリティカル・マルキシズムの陣営に属する人についても言及するが、それはその全体を批判することではない。この学派には興味深い多くの提起、主張があると私は思う。訳書としてRoemer[1994a=1997][1996=2001]、その主張を紹介し検討している論集として高増・松井編[1999](巻末に外国語文献・日本語文献表がある)、他に紹介として松井[2000]等。
★02第3章2節1。なお、ロールズを批判してドゥオーキンが示す「仮想的保険市場」も基本的な発想は似ており、ローマーはそこに想定される初期状態を「薄い無知のベール」と呼ぶ(Roemer[1996=2001:284ff.]、また吉原[1999:165-166]がRoemer[1994b]をあげて紹介、cf.第3章注4)。
★03Dworkin[1981a][1981b]。Roemer[1996=2001:273ff.]でも紹介され検討されている。松井は「厚生主義(welfarism)」の問題を三つ、「安価な嗜好」と「高価な嗜好」を第二・第三にあげて解説している(松井[1999:142-143])。吉原は二つ以外に「攻撃的嗜好」を示し(吉原[1999:173])、松井・吉原ともにSen[1979]等をあげている。他者を貶めることで満足を得るといった嗜好をどう考えるかについて本章では主題的に論じないが、それに対する基本的な姿勢は示したと考える。
★04「手段は、究極的には何か他のものによって評価されるから、手段の評価をその目的から全く独立に行うことは容易ではない。ジョン・ローマー…は、この関係を巧みに利用した数学的な帰結を導き、それを…「資源の平等は厚生の平等を意味する」と解釈した。この結果は精巧な公理の集合に基づいているが、その背後にあるアイデアは、資源の価値をその資源が生み出すものから求めようとするところにある。資源は、それ自体で価値をつけられるものではないので、このような関係に目を付けるのはもっともなことである。最終的な目的が厚生だけであるようなモデルを作って、「資源の平等は厚生の平等を生み出さなければならない」というローマーの定理が導き出される。」(Sen[1992=1999:124]、言及されているのはRoemer[1986]。ドゥオーキンの主張とローマーの批判の紹介として吉原[1999:167])。ドゥオーキンの平等論を検討したものとして旗手[1991:63ff.]。若松[2003]では、センの効用、厚生主義に対する対し方について考察がなされている。
★05もちろんこの提起は当たっており、重要なことではある。だが言われなくても誰もが知っていることではないか。またこのことがずっと問題にされてきたのではないか。社会サービス、例えば介護の費用についてどのようなことが考えられ、要求されてきたのか。それを思い起こしながら見ていくと、効用・厚生をどう捉えるか一つをとっても、微妙にあるいは大きくずれているところがある。それについて考えることが大切だと思う。それが気にかけられない状況、一方には経済学説があり、他方の社会政策や社会運動に関わる人たちはその学説を自らの主張の「お墨付き」として受け取り、そのようにだけ利用するという状況は、好ましいことと思えない。例えば、三重野[2000]、『社会政策研究』[2002]等で「生活の質」の指標化・測定についての議論が紹介され検討されているのだが、本稿の視点から、また経済学の立場との関係について、それをどう考えるべきかを考えることがあってよい。また多様な論者の多様な論稿を収録するNussbaum & Sen eds.[1993]も検討の対象になる。センの議論の紹介は近年数多いが、経済学(との関係)におけるセンについては鈴村[1999]が簡潔で要を得ており、後藤[1999]がわかりやすくないがおもしろいかもしれないと思わせた。その後、鈴村・後藤[2001]。
★06ローマーはセンが幸福を機能に含めることを指摘し次のように言う。「分配的正義にとって重要となる優位の尺度の中に、人のおかれた状態を示す何らかの客観的尺度を考慮に入れるべきであるのは確かであろう。というのは、純粋な主観的尺度だけでは「飼い慣らされた主婦」の問題を解決できそうもないからである。こうした見通しの下では、センの機能概念がもっとも期待できると思われる。ただし[…]センとは違って「幸福」のような主観的な特徴をもつものを機能に含めない方がよいと私は考えている。」(Roemer[1996=2001:355]、この点を含むセンへの批判の紹介は同書[220-223])つまりローマーはセンの方向を徹底しようとする。だがそれをそのまま肯定できないことを述べた。
★07「ドゥオーキンが強調するのは、自由主義的平等は人格性と環境をはっきり区別するということである。人々はその資源(個人的な資源)において可能な限り平等であるべきだが、その福祉においては平等であるべきではない。彼らは、自分自身の人格からもたらされる趣味や企て、願望、その他の個別的な事柄に対しては自ら責任を負うのである。それらによって、ある人は自分の生活が、同じ資源を持つ他の人よりも善いとか悪いと考えるであろう。(例をあげれば、誰も、自分自身の趣味がより高くつくというだけの理由で、より多くの資源を要求する権利をもっているわけではない。)」(Wolfe[1994=1999:58]、Dworkin[1990]を紹介)
★08「…分析的マルクス主義派のR・アーヌソンが、資源の平等に対して、選好形成には本人の責任を越える社会的要因が関わっており、選好も保障の対象に含めねばならないと批判し、自らは「効用の機会の平等」を提唱している。効用の機会の平等とは、誰もが複数の選択肢からなる決定樹について、選択の期待値が等しいという意味での等価な決定樹に直面している事態である。コーエンは、アーヌソンによる選好形成の社会的要因の指摘を高く評価しつつも、自らは「利益(advantage)へのアクセスの平等」を唱えている。効用や資源ではなく利益とされるのは、それが効用と資源の対象領域を包括しているからである。また機会ではなくアクセスとされるのは、機会はもっているが能力が欠如している場合を、機会の平等では扱えないからである。現実的になにかをもっていることがアクセスである。」(松井[2000:113-114])「アーヌソンの「厚生に対する機会の平等」論を踏まえて明示化されたのが、以下のような責任的補償原理である。すなわち、平等主義的正義論の目標は、帰結に及ぼす要因を、個人の統制できる、したがってその帰結に対して個人が責任を負うべき要因と、個人の統制を超えた、したがってその帰結に対して個人が責任を負う必要のない要因に区別し、後者に起因する機会の「不足」のみを社会的に補償することである。」(吉原[1999:170]、責任的保障原理の語は後藤・吉原[1997]から用いられている)他にアーヌソン(Arneson[1989])、コーエン等に言及している文献として松井[1999]、Roemer[1996=2001]等。
★09「分配的正義に関する処方箋として厚生の平等には少なくとも二つの重大な問題が存在する。それは「安価な嗜好」の問題(センの例では「虐待を受けてきた奴隷」や「飼い慣らされた主婦」の問題)および高価な嗜好である。この二つの問題は、同じ対象を二つの側面から捉えたものではない。なぜなら、安価な嗜好はそれが非自発的に陶冶されたときにのみ、そして高価な嗜好は自発的に陶冶したときにのみ問題になるからである。」(Roemer[1996=2001:274])
★10一つに行為の責任という考え方がある。悪いことをわざとしたら償いはしなければならない、罰は受けなければならないとされる。しかし自分の趣味を通したい人は人に害を与えようとしているのではない。生活の手段の獲得の問題と悪いことをしたときの責任の問題とは同じでないはずだ(序章8節)。
★11人にある資源・能力も、個人ではどうにもできない部分だけではない。自分が意図的に、あるいは不注意で起こした事故によって障害を負うことがある。またその原因はともかく、なおすこともできるかもしれない。あるいはなおらなくとも、人よりたくさん苦労すれば、それなりにできるようになることもある。ではそれはすべて自己責任ということになるだろうか。そんなことはない。寄与や過失の度合いに応じて徴収や給付の率を違えることは、事故を招くような不摂生や不注意を抑止するため等の手段としてはある程度有効であるかもしれず、あってよいにしても、できることは何でもすべきだとはならず、選べることについては自分で負うべきだとはならないはずだ(cf.[2001a])。
 ところが今みてきた議論ではそうならない。例えばローマーの議論の行く先が、結局、一つには機会の平等と教育であることもこのことに関わる。第1節2で引用した部分に続く文章は以下。「かりに、人びとが自由意志を働かせることがなく、すべての行為は個人の統御のおよばない諸要因に起因するのだとすれば、幸福への機会の均等は幸福の均等へと堕する。しかし、大部分の社会主義者もその他の人びとも、意志を発揮する領域はあるものだと信じており、それゆえまた「社会主義者が望むもの」のリストのどこにも機会という箇条を挿入しておくことが大切なのである。」(Roemer[1994a=1997:24-25])
 「機会の平等」と「結果の平等」については第5章で検討するが、問題は「機会」と「結果」の間に何があるのかである。この登山の場合、結果が登山できることであるとして、登山のための機会の平等とはいったいどういうことだろう。登山は禁じられてはいないかもしれない。しかし資源がなければ実際には登山することはできない。それは機会が与えられていないということと違うのだろうか。
★12「選好を正直に顕示することにまつわる周知の難問」(Sen[1979→1982=1989:194])。
★13本当にそれが可能か。これは事実に依存する部分がある。例えば世界の酸素の全部がないと生きていけない病気の人がいた時、酸素を供給するか。しないかもしれない。けれど、そんな議論が不要でないと言うのではないが、まずその資源の有限性なるものがいったいどんなことであり、その現実はどの程度のものであるかを知っておく必要がある。[2000a]でいくつか初歩的な確認を行った。
★14ではローマーがあげた登山の場合はどうか。まずこの例があまり現実的でない。それは一つに自分で行うことの意味に関わる。こんなことにまで社会は応ずるだろうかと多くの人が思うのは、登山というものはやはり自分の力で登ることに意味があると私たちが思っていることにもよるだろう。マラソンにしても自分の足でどれほど走れるかがその意味とされる。別の手段によっても走行することはできるが、それは別の遊びあるいは競技となる。山に登るのも同様で、例えば山からの景色を見るのが望みならヘリコプターを使った方が楽で、そしていくらかは安くもあるかもしれない。cf.第2章2節2。
★15「わたしたちの社会には、きわめて長期間にわたってあまりにも乏しいものだけで生存を維持してこなければならなかったために、そのニーズが生命をようやく維持できる必要最低限度にまで萎縮してしまったような人びとがいる。かれらの期待水準を引き上げ、かれらがそれなしでやってきたものに目を向けさせることは間違っているだろうか。[…]かれらの生活水準を改善しようとするどんな政治も、おそらくかれらが自分ではっきりと表明しえないであろうニーズを代弁しなければならない。まさにこれこそが、なぜ政治はかくも危険な仕事(ビジネス)なのかという理由なのだ。[…]見知らぬ他人たちのニーズを代弁することが正当なのはどういう場合なのか」(Ignatieff[1984=1999:19])
★16コーエンの議論はうまくいかないとローマーは言う。コーエンの論は「「遡ってその人の選択に帰することができず、かつその人が避けたいとする場合に限って不利益を補償する」というものである。残念ながら、この修正は行き過ぎている。というのは、これは飼い慣らされた主婦の状況を救済するなと社会に命じているから。」(Roemer[1996=2001:317])引用された部分だけを見ればこの指摘自体は当たっている。その上で問題は、注8、注6に引用したような発想でうまく事態を捉えられるか、示される方向が妥当かである。[1997:271ff.](第7章1節「別の因果」)に関連した記述がある。
★17パターナリズムについて[1999c][2000b→2000g:302ff.][2002a](少し書き換えたものが[2003i])で、安楽死について[1998a][2000f]で少し考えた。ALS(筋萎縮性側索硬化症)の人たちについて、とくに人工呼吸器をつける/つけない「決定」について[2002-2003]──ここから始めて[1997]を使って話していく順序を記したものとして[2004b]。「生命倫理」に関わる主題についてリベラリズムが主張することにときに違和感があるのも([1997:172])ここで考えていることに関係する。パターナリズムについて日本語の本として澤登編[1997]もあるが、瀬戸山[1997]。
★18宗教的信念による輸血の拒否等をどう考えるかといった問題が残る。またローマーは、禁欲といった宗教的信念と貧困とが絡むより複雑な問題を示している(Roemer[1996=2001:317-318])。ここでは論じない。ただ、これらを考えるなら「善」の内容に立ち入らざるをえないことは繰り返しておく。
★19可能性が示されることによって、今まであったものが壊れてしまう、選択肢を示すこと自体が破壊的だという指摘に対する楽観的な回答は、どんな文化も宗教も、思うほどには閉鎖的なものではなく、他との接触のもとで維持されてきた、あるいは変容してきた、だからその可能性は示されてもよいというものだ。ここには、よいものは支持される、あるいは、支持されるものがよいものなのだという、素朴といえば素朴な、仮定がある。本格的には共同体主義を検討する中で考察する。
★20価値を与えるのはまずは土地の人であり、口をさしはさむのはその外にいる人であることが多い。それはその通りだが、その人にとっては、その土地の人もその外の土地の人も他人であることにはかわりはない。近くの人を優先すべきだと思うのはどうしてか、また、にもかかわらず外から口をはさむとしたらそれはどんな場合か。[1997:180-182][2001b:(3)]で関連したことを述べた。
★21他方共同体主義も、それが自信のある共同体主義なら従わない者を追いかけようとはせず、その人が帰属していることがその人にとって大切であることを認めよと言う。だから解釈によっては、リベラリズムも共同体主義も、存在を尊重することのその内実をなす主張になる。両者の対立点を消去しようともすべきとも思わないが、ときにリベラリズム対共同体主義という対比自体が粗雑なことがある。
★22[2000b→2000g:256ff.]で「直接選択」の機構について述べた。
★23cf.[2000b→2000g:292-297](「判定から逃れようとすること」)。


 
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■第5章・註

★01機会の平等/結果の平等を主題にする予定ではあり、その際、第4章とも関連しリベラリズムの位置づけが重要になることはわかっていたが、当初予定していなかった考察を加えようと考えたのにはいささか外在的な理由もある。私が属する大学院の開設に関わりドゥルシラ・コーネルを招待した講演会(Cornell[2003]、その解読として岡野[2003])があり、その準備のために著作を読んだ。読むと、そこに見出される問題がリベラリズムの問題として捉えられるように思え──直接に関係するのは第6章に記す部分だが──既に論じたことも含めてまとめて考えておく必要があると思った。
★02平等主義の方に傾いていくリベラリズムの変質についての簡潔な紹介としては伊藤[2000:5]。このことを含めリベラリズムの規定について第1章注1。
★03ヌスバウムはかなり素朴に価値の内容と序列を想定しているようにも思える。そこで次のような批判がなされる。「ヌスバウムは、基本的な潜在能力に対する文化的解釈の余地を残そうとしてはしているものの、彼女はこうした潜在能力の正しい内容とその機能を規範として記述できると信じており、したがって、いまだ人間的ではない者たちが、いかにして人間的になるべきかを正確に記述できると信じている。ヌスバウムを暗示的にも明示的にも批判してきたアマルティア・センは、市民権を超えて、かつ市民権に対抗させる形での、自然の人権のこの種の価値序列に対して、はっきりと反対している。」(Cornell[2002=2003:133]、参照されているのはNussbaum[2000]、Sen[1999=2000])このセンの批判、コーネルの批判はもっともだとしよう。ではどんな答を代わりにもってくるかである。
★04この語に関わる曖昧さは[1998c]でも指摘した。害さない限り自由という言い方にひとまず私たちが納得するのは、あらかじめ害してならない人の領分を想定しているからである。問題は、例えばリバタリアンがこれを言うとき、それが実際には(少なくともある人々の)害されてならない領分を害することになるのだが、そのことがすぐにはわからないことにある。例えば他人に迷惑をかけても請求できることもあるなら、この言い方はそのことを隠してしまう。第1章でこのことについて述べた。
★05[1997]での私的所有の範式の批判自体がこのように解されることがある。つまり、私が作ったものは私のものという図式に乗った上で、私が作ったという前段を否定することによって私の生産物の私による所有を批判したと読まれるのだが、それは私の批判の要点ではない。基本的な論点は、私が作ったことから私が得られることを導けないというところにある([1997:36]、第1章注18)。
★06岡野はリベラリズムが自由の尊重を主張しながら「現実の自己と社会を構想する段階において、現状維持に加担してしまう反転」を見せるのはなぜかと問う(岡野[2001:20])。一つは、「選択」であることにおいて許容されるという論理構成によるとされる──これは私の第6章での論に関わる──のだが、もう一つは、「自然」のものとされる相違(の結果としての不平等)は放置されてよいという考え方から来ていると論じられる(例示的に引かれているのはNagel[1997])。本稿の以下の部分は、なぜリベラリズムがこの差異を放置するのか、少なくともしがちであるのかについて考えてみようとするものである。例えば次のような文章があり、竹内[1999]、そして田中[2002]──そこでの論理展開は十分と言えないとしても、問題の所在は直感されている──で問題にされる。
 「私はまた、全ての人々が正常な範囲内にある身体的ニーズと精神的能力をもっていると想定しているために、特別なヘルスケアの問題やthe mentally defectiveをどのように扱うかについての問題は生じない。正義論をこえたところへ我々をつれていくような困難な問題を早まって導入することに加えて、これらの困難なケースについて考えることは、しばしばそうした人の運命が同情と不安を引き起こすような、我々とかけ離れた人々について我々に考えさせようとすることで、我々の道徳的知覚を混乱させてしまう。しかるに正義についての第一の問題が関与しているのは次のような人々である。正常な道をたどる社会における十分に活動的な参加者であり、生まれてから死ぬまでに直接的あるいは間接的に結びついているような人々との関係に正義の問題が関与しているのである。」(Rawls[1975]。竹内[1999:194-195]、田中[2002]に引用。訳文は田中による)センのこの部分についての記述は以下。「ロールズの格差原理によると、彼が身体障害者だからという理由でより多くの所得を提供することも、より少ない所得をあてがうこともない。身体障害者が効用の面で不利な位置にあることは、格差原理にとって重要性をもっていない。これは過酷なことのように見えるかもしれないし、私は実際にそうだと思う。ロールズはこの点を正当化しようとして、「[身体障害者をどのように扱うべきかという]難しい事例はそうした人の運命が憐憫と不安をよび起こすわれわれとは隔たった人々のことを考えざるをえなくすることによって、われわれの道徳的知覚(our moral perception)を混乱させることになりうる」と書いている。それはロールズのいう通りかもしれない。が、難しい事例は現実に存在しているのだから、身体上の疾病、特別な治療のニーズや心身の欠陥といった事柄が、道徳的に重要な意義を有していないなどと見なしたり、間違いを恐れるあまりにそれらを考慮の外におくことは、必ず逆の意味で過ちを生じさせるに違いなかろう。」(Sen[1980=1989:249]、[]の内部は訳者の注記)
★07リベラリズムと優生学との微妙な関係は以上に関わっている。まず遺伝を言う側は必ずしも社会改良を否定したわけではない。むしろそれは人の性質が遺伝によって規定されていることを前提にしながら、様々な方法によって人間と社会の改善を積極的に図ったのだった。リベラリズムは、その手段として強制を否定しそのことにおいて優生学の方策を批判するとしても、個人の質の改善を支持し、そのことによる生産の増加を支持する点では両者は一致し、この意味でリベラルと言ってよいだろう社会改良派と優生学とは手を結ぶことができるし、実際そのような歴史的現実が存在する。対立する部分がありつつも、協力できるところは協力し、組み合わせられるところは組み合わせることもある。
 同時に、生理的なものが規定しているとする論およびそれを前提にした改良・改造とリベラリズムとの関係がしっくりいかない部分があることも説明される。優生学は、少なくともその始まりの頃には、人の個体そのものにおいて質を改善することができず、個体を消滅させる、発生を予防するといった方法が主となった。他方で、技術の進展によりなんらかの生体への介入によって直接にその能力を高めることができるようになることがあるかもしれない。このいずれの場合にも、外からの助力があった上であとは個人が努力するという順序にはなりにくい。こうした歴史的、論理的な錯綜を追い、考える必要がある。日本での優生学と教育学の関係の検証として桑原[2001][2003]。優生学、社会環境説と遺伝説との対立については[1997]第6章・第7章1節。病因論における生理的要因説と社会的要因説との対立について[2002-2003:(2)(3)(9)]で少し考えた。[1997:228-241,254-267][1998c=2000g:47]に優生学についていくつか文献をあげたが、その後日本で出版された書籍としてTrombley[1988→2000=2000]、二文字・椎木編[2000]、本の紹介として[2001-:(9)-(12)]。
★08[2001e][2002f]が以下に関係する。前者では「なおす」ことが置かれている位置について、とくに本人が何を得るかわりに何を支払うかについて、このことに注意を払うべきことについて、簡単に述べた。後者では、できないこと(disabilityとしての障害)は「ないにこしたことはない」か、その本人と周囲の人の各々に即して考えると、一般に言われるのと少し異なる結果になることを述べた。
★09決定論について、また決定論を採った上でなお何が言えるのかについてHonderich[1993=1996]。
★10例えばローマーは機会の定義を拡張した上で機会の平等を主張する(Roemer[1998]、cf.後藤[2002b])。リベラリズムの理念に忠実であろうとするその誠実さに感心しながらも、結果の平等から機会の平等を切り離して正当化しようとする情熱──彼は分析的マルクス主義の陣営に属する人だが、その熱心さはロールズ等を上回る──がどこから来るのかわかりかねるところがあるのだが、ともかく主張する。そこで問題になるのが本人に帰するもの/帰さないものという区別をどう行うかであり、ローマーは、その人の様々の特性・属性(性別、年齢、等々)を取り出し、そのそれぞれの特性をもつ集団の統計データをもとにこの区別を行うと言うのだが(この点について後藤[2002a:58]に言及がある)、これで本人に帰せられる部分が過大にならないように区分けができるようには思えない。
★11つまり、能力による差別は市場では許容されるが、それ以外の差別は認められないというとき、それは本文で述べたように、本人の力による/よらないという分割によって支持されるのでもないし、買い手が求めているもの/そうでないものという分割によって支持されるものでもない。とすると、あらためて市場で許容される/されない差別の境界はどこにあるのか、なぜそこに境界を置くのかという問いが生ずる。このことについて[1997:348-351]。また[2001f][2001h]で、本章と同様に雇用・労働における差別の現われ方を三つに分けて記しているが、そこでもこのことにふれている。
★12労働者の排除が労働者によって支持されることがあることを無視すべきでない。労働の場での女性差別に関してこのことを[1994b]で述べた。分配が前提となる場合には事情が変わることについては[2000a:(下)127-128](序章3節1)。序章注15にこの項の記述の位置に関連することを記した。
★13[1997:367-369]で何点か文献をあげて簡単に紹介し[2001f][2001h]でも言及した。確率による差別の昂進についてLyon[2001=2002:306]の訳者あとがき(河村[2002:306])にも言及がある。
★14基準が必要かという点に関連して、介護費用の支給について出来高払いの可能性を述べた([2000b→2000g:223-224]、cf.序章3節1・序章注4)。(特に人的)資源が足りず分配は抑制されざるをえないという言説の妥当性を[2000a]で検討し、妥当でないと述べた(cf.序章3節2)。
★15なぜ途中を略したお仕着せのものが供給されてしまうのかについては[2000b→2000g:267ff.]。
★16「D・フリードマンは、リバタリアニズムは「各人が自らの人生を営む権利、つまり自ら選んだ道を歩んで奈落の底に落ちる権利を有する」[…]と信じている、という。」(アスキュー[2000:74]、引用されているのはFriedman[1989:xiii-xvii])古典的経済システムは「一種のトーテムであり、宗教的信仰の表現なのであった。[…]社会保障[…]の持つ改良的傾向に対する実業界の抵抗を知的近視眼性ないしは狭隘な金銭的利益のせいにすることは、競争的・資本主義的動機づけにおける重要なものの多くを誤解することである。多くの人が敗けるゲームが自分が勝つことの楽しみにも、なにがしかを、おそらく多くを、帰さなけれはならないのである。」(Galbraith[1987=1988:314])
★17以下は[2001h]で述べたことと大部分が重なるが、二点目はそこでは記していない。


 
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■第6章・註

★01「倫理的自由主義者は平等化されるべき個人的資源のなかに、人格に由来する様々な特質(たとえば、選好、趣味、確信、偏愛、願望、愛着)を含まない、ということに同意する。補償可能なものとそうでないものとの間に引かれる選択のラインは、人々の違いが意志的なものであるかどうかであろう。(心身障害は補償されるが、キャビアを好むという洗練された趣味はそうではない。)しかし、この区別は挫折する。」(Wolfe[1994=1999:67-68])
★02○このことについては[1998b→2000g:108-109]に記した。できないこと(障害・disability)がある人たちの主張とセンの主張はうまく接合する。というより、その人たちはかねてからその主張をしてきていた、センの理論はそのお墨付きとして価値があったということだ。とするとその理論は、既に言われているもっともなことを言う以上のものであるのか、ありうるかが問われることになる。私たちは、その「理論」が現在の状況で(状況にもかかわらず)なぜ一定の支持を受けるのかを(「知識社会学」的に)考えた方がよいのかもしれない。二〇〇三年の講演(Sen[2003])について[2003g]。
★03 このことについて[1999b]。そこではこれが自己決定を教えるべき──これは自己決定の論理からそのまま正当化されることではない──理由でもあることも述べた。
★04 このことも社会サービスを受ける側が主張してきた。[2000b→2000g:256ff.]等に記した。
★05そして大切なのはこの問題の扱い方である。これは私の選択と社会が強いた選択という二つを立てれば──見てきたようにリベラリズムがよくこの図式を使うのだが──すむ問題ではない。[1998c→2000g:18ff.]でも述べた。注14・20もこのことに関係する。これは「構築」を巡る議論をどう考えるかに関わる。構築の指摘は、それが指摘し批判する相手と同じ土俵の上に乗っていることがある。このことについてはどの水準で構築の存在を押えるか(cf.加藤[2001a])を含め「ジェンダー」との関連で[2003b]で少しふれた。フェミニズムの議論の展開についてFraser[1996=1998]、竹村[2000b]。
★06「選択するということは、それ自体、生きる上で重要な一部分である。そして、重要な選択肢から真の選択を行うという人生はより豊かなものであると見なされるだろう。」(Sen[1992=1999:61])
 「(選択によって最も選好しているものを手に入れることができるという)道具的価値にとどまらず、センにとって複数の選択肢から選べる能力そのものも価値をもつ。そしてこの価値は潜在能力(生き方の幅)の中での選択肢の範囲に反映される。したがって、選択は人々にとって非道具的価値(選択の「論証的」かつ「象徴的」な価値)を有するというスキャンロン(Scanlon[1988])の議論とセンの立場は似ている。人の潜在能力への関心と達成された機能ベクトルとの違いを示すために、断食中の裕福な人と食物を買う金のない飢えた貧しい人を比べてみよう。この二人は栄養状態の点では同じレベルにあるが、前者の潜在能力は後者より大きい。ここで重要なのは潜在能力の違いである。」(Roemer[1996=2001:119-220])
★07「たとえ、結果的に個人の福祉が増大したとしても、それが外生的に与えられたものであるならば、彼の福祉的自由が改善されたことにはならない。自己の福祉を実現するための機能(functioning)が向上し、自らの意思的選択によって自己の機能を達成する機会、すなわち、潜在能力(capability)の豊かさが増したとき、初めて、福祉的自由が改善されたことになる。
 例えば、生来、両腕のない人に対する社会的施策として、いま、二つの方法を考えよう。(a)ホームヘルパーを派遣し、食事や排泄など身の回りの世話をする。(b)日常生活を営むに有効な性能のよい義手を支給する。いずれの方法も、栄養の摂取や排泄が滞りなく行われるという帰結に関しては変わらない。ところが、本人自身が「栄養を摂取する」、「排泄をする」という機能を獲得すること、その結果、本人の意思と力によって帰結を実現することを可能にする点において優れているのは、(b)である。二つの方法は、福祉的自由の観点からは異なる効果を有するものと解釈される。」(後藤[2002:6])
 もちろん、選択できることがよいことであるとしても、(a)より(b)の方がつねに望ましいことにはならない。(自分でできること、自分ですることが自分にとってよいことであることが自明でないことについては[2002f]で述べた。)この引用部分を、センの主張の誤読であり、勇み足であると解すべきかどうか、ここでは判断しないが、そのように読まれてしまう部分があるのだろうとは言える。
★08[2000b→2000g:274-279]で少し述べた。また第5章1節とその注10もこのことについての記述である。夥しく自己責任が語られるのだが、私たちは責任についてたいしたことを知らない(序章注15)。
★09実際には選択肢を用意する費用がかかることがある。その費用が少なくてすむのは選択の後でその実現のための準備をすればよい場合である。注文を聞いてから料理を始めればよいのなら、注文されない食事を作ってから捨てることはないから、この問題は大きくならない。ただ他方にはそうはいかない場合もあるだろう。選択肢を現実に揃えておかないと選択が意味をもたない場合である。このときにはどう考えるのか。選択肢を少なくした方が財を得る場合の費用が少なくなる場合もありうる。とすると、選択肢の多少に対応した価格表を本人に提示した上で、どのような選択肢のあり方を選ぶかを本人に選ばせるということになるのだろうか。しかしこの方法は選択それ自体に価値があるという価値から見たときには歓迎されないかもしれない。とするとそもそも選択自体に価値があるとするのは誰なのか。選択する(かもしれない)本人なのか、それとも望ましいと語る論者なのか。この場合には後者だとなる。
★10ただ必ずしもそのような論にはなっていないように思える。たんに得られることが大切なのでなく、得るものを自分で決められること、何を得るかを自分が選ぶことが大切であり、そのために社会が選択肢を提供しようという主張に異論はないとしよう。しかし、そこで言われている選択をそのままに、何にせよ本人が決めるのが望ましいことだと受け取れば、選ぶかどうかも含めていずれかを自分で選べるのが望ましいとなるはずだ。そうならないのは、注9にも記したように、何をするのかしないのかそれを本人が選ぶべきであると、本人でない人が考えているということである。
 私たちは、それが可能でありさほどの費用もかからないなら、本人が決められるようになった方がよいと考えることを先ほど述べ、それは他人に任せたら騙されるかもしれないからだと、その理由を記した。ここでは、私たちの理由づけと異なり、予測される結果から選択の正当性が主張されているのではないのだから、別の理由があるはずだ。選ばないことを選ばず、選ぶことを選ばなければならないのはなぜか。現実を直視し運命には自分で立ち向かわなければならない、とされているのだろうか。
★11この最初の選択が与えられるとは、たとえ選ばないことを選べるとしても、新たな選択肢を無視することが認められているとしても、今までのあり方に対して別のものが加わることである。それは押しつけられるのではないにせよ、人の前に示されてしまい、このとき現実はそれ以前とは異なったものになる。選択肢の提示とはそこにいる人にとって侵入でもありうる。このことをどう考えるのか。「文明」が流入してくる、「市場経済」が導入される、米国の農産物が入ってくる、病であるかどうか知らないままでいることもできるが知りたいか知りたくないかは予め聞かれる、等々。もちろんこれらについての疑念の内実はそれぞれについていくつもあり、様々に異なるだろう。それらの中のあるものの流入は侵略であり、選択肢の登場などというものではないという指摘もあるだろう。私は、これらを考えることがとても大切だと考えるのだが、やはり、考えられたものをあまり──例えば、入ってくるのは仕方がないのだ、そこで変容しながら生き延びていくものは生き延びていくのだ、と言っているように読める文章としてHabermas[1994=1996:185-187]があったりはするが──読んだことがない。
★12[1998c→2000g:16-18](第1節「空虚I・迷惑について」)でもこのことを述べた。
★13以下の多くは[1997:116-117,352-356]等で述べたことを短くした上での繰り返しだが、一部はそこには明示的に述べていないこともある。両方を合わせ、より十分な記述を与える必要もあるだろうが、それはここでの課題とはしない。ただ、所有のあり方を考え、その像を構築していく作業はなされてよいほどにはなされておらず、そのための道具立てを考える仕事もいくつかの例外を除けばわずかなしかない。だからいくらでもこれからしてよい仕事がある。
 近代社会における所有権は排他的・独占的な権利であり、包括的な権利である。あるものについて権利者である主体と権利者でない主体とははっきりと分けられ、前者はその権利の対象をどのように扱うかについての広い権限が与えられる。使っても、売り渡しても、捨ててもかまわないとされる。これはまったく単純すぎて、また乱暴すぎて、使えない。共有と個人による所有への分割という分け方でも単純すぎる。一つのものについて利用と処分を分けることもでき、そのそれぞれに様々なあり方がありうる。例えば以下では処分しないことを条件に保有が認められる権利があるだろうと述べる。可能性を網羅する作業がいったんなされるべきなのか、具体的な対象に即して考えていくのがよいのかはいちがいに言えないが、ともかく今後に残されている作業は多い。
★14「性の商品化」について[1995b]で述べた一つはこのことである。それはまた、暮らすためのものがあれば、あとはその思いは様々だから、と言える余地があることを示してもいる。
★15[1997:124]。なお、この境界設定の本人への委託という条件は仮想的な状況では外されうる。つまり、その人が手放さず自ら費消しようとすることによって他の人の生存が危うくなるような場合にはその一部を徴収することも認められうる。ただ、その人のもとにあってその人が自らだけで費消しようとするものあるいは手元に置こうとするもの──その絶対量は多くはなくそしてその多くは他の人には価値のないものだ──をその人に残しても、足りなくなることにはまずならない。他に問題になるのは贈与の扱いである。少なくともこの社会の現実の下では、贈与、相続によって格差が世代を越えて継続し拡大することになるから、贈与についてはその人の自由にすべきだとは言えない(cf.第2章注5)。
 何かを譲渡しがたいとし何かをそうはしないその思いが、社会的に作られていること──こうした指摘が以下でも繰り返されるのを見ることになる──を言う人がいるだろう。だとすればこの境界も浮動してしまうではないか。しかしこれはおかしな言い方だ。それは主体によって創設された、しかも不動のものが真正なものだという信仰のもとにいる人──リベラリストもこんな人たちであるか、あるいはその近くにいる人たちである──の言うことである。不確かで浮動するものであったとしても、その思いが思いとしてあること、その思いの現実は存在する。
★16病にあっても現実に生きていける資源、資源を使える保障が与えられるなら、それで生きていけるだろう。しかし仮にその条件があっても──大抵はないのだが──自らが為すことのできることが少なくなる時に生を辞退することがある。この決定にはリベラリズムもまた内属しているこの社会が関わっており、私たちは、社会が関わっているからではなく、この社会にある規範がその内容において間違っているからそれを変えるべきだと主張する。第4章注17にあげた文献で述べた。人に委ねると述べた際に付した、資源を用意することと価値を質すことという二つの条件についても記している。むしろ、発想の順序としては、死の決定について考えたときリベラリズムの限界と問題性が明らかになってきた。
★17ノージック「のいうentitlementとは、”いちはやく西部に行ってインディアンの土地を侵略すれば、ひとかどの権利を持てる”という”開拓者”の自立と、彼ら・侵略地主たちのローカル・コミュニティを「理論」化した以上のものではない。」(大庭[1989:318])
★18コーネル──以下でも幾度か言及するが、その事情については第5章注1に記した──は代理母については子どもを売り買いすることはすべきでないから金銭を介した契約は無効とする。他方で、無償の場合には認められる場合があるとする。「子どもたちを売買する契約は履行不能である。しかし同時に、代理母制度は人々が家族を作る一つの方法として許容されるべきである。」(Cornell[1998=2001:229])この主張と私の主張([1997:160-162])との間にそう大きな隔たりはない。
 「異性愛者として生きていることによってより善い親になれると考えるべきなんらかの理由があるのだろうか? このことが事実であるという証拠は、ホモフォービア(同性愛者嫌い)を根拠とするものを除けば一切ない。」(Cornell[1998=2001:215])これもそのとおりだとしよう。
 「子どもへの長期的コミットメントは明らかに必要である。…子どもたちが必要とする安定性を実現するために、監護責任の引き受けは、現行のもろもろの責任、すなわち経済的支援、移動の制限などを伴うことになるだろう。」([216-218])ただ社会的に供給可能で調達可能な資源については、有利な環境をいま提供できている側が優先されることにはならないだろう。それが供給されればどちらも必要な資源を得ることはできるからである。もちろんこのことにもコーネルは同意するだろう。
★19コーネルもこのことを言う。養子に出しても全部が失われるのではないやり方もある。「イマジナリーな領域の平等保護の一部として、養子と実母は相互にアクセスすることができるべきである。全ての養子と実親とが登録可能な記録があるべきである。」(Cornell[1998=2001:197])
★20それに対して、ここでも──注5と注14の後半に続き三度目だが──こだわるその心がたんにある価値や因習に囚われているのだと言うことはできるし、あるいは脳内の生理的な過程に支配されていると言えるかもしれない。そう思えば言えばよい。しかしこの指摘はそのままではその経験を否定すべきだという批判にはならない。私たちは多くのものに囚われながら生きている。それに関わる因果とその現実性とは別のことである。その由来をしかじかと「説明」されたとしても、その現実性が否定されることにはならない。すべてが「幻想」だとするなら、その言葉は何かを区分けする言葉ではなくなる。リアルなものとして立ち現われる幻想といってもリアルなものと言っても変わらない。そしてどこかに幻想でないものがあったとしても、それでも幻想がリアルなものとして現われてくる現実感は存在する。
 そしてやはりこれが何を効果させるかが問題である。ここでは他の存在の肯定に向かおうとする、あるいは向かってしまう傾動について見ているのだから、それはまずはその向けられた対象である存在にとっての脅威ではない。むしろ危険があるとすれば、それが自分に向かってしまい、他者のために自分を否定するという場面である。例えば殺して食べることができない人がいたとして、その人に対して何が言えるのか。献身や犠牲が頻繁に語られてしまう現在にあって、それをどのように捉えるかという主題は重要なのだが、やはりあまり論じられていないように思える。私も[1998c→2000g:49]に僅かを記しただけだ。そこで述べたのは、自己犠牲自体は肯定されるとして、それが教えとして与えられるときには教えられる者は犠牲になるのだから、そのことにおいて他者を助けよという教えが自らを裏切ってしまうことを考えるべきであり、考えられることを伝えるべきだということだった。このような思考の回路とうまくつながらないのだが、義務についてWalzer[1970=1993]。
★21そしてこの契機を通り越した論には違和感を感じてしまうだろう。身体的統合を巡る平等権として人工妊娠中絶の権利を立てるコーネルの論にもそのようなところがある。(その論は、次節に図式化する私を巡る議論の類型としては三番目の場に位置づくものの中でよく考えられたものである。またそれと同時に、このようなものの言い方になるのは、それが米国で実際に裁判で争われている主題であること、であるからにはその国の法廷で了解されうる観念に理解されうる言語で言及する必要があるという事情が介在しているだろうと佐藤憲一に教示された。それはありうるだろう。もちろん、そのように言説は編成されていくということでもある。)山根[2003]がこの問題について考えている。この主題について私が以前に考えたことは[1997:195ff.](「はじまりという境界」)に書かれている。
★22「人格とは、決して一度も充たされることのありえない計画=投影であるがゆえに、一つの願望なのである。」(Cornell[1998=2001:34])けっしてその願望を否定しないが、そうでなければならないものなのか。このことばかりを、この章で、他に[2000k]等々で、私は述べてきた。
★23むろん評価の基準自体が社会に内在している、与えられているという指摘は可能だ。ただこの構造からはどうしても逃れられないし、だから評価ができないわけでもない。
★24ただ実際には、そこで言われる自由とは真正の自由ではないのだから、投下する費用より利益の方がありそうなら雇用政策をしてみたり、公共事業をしてみたりすることになる。その「自由主義」と社会への介入の主張・実践とはまったく簡単に接着し癒着するのである。
★25単独の存在として世界に立つことを支持する人たちも、その立場を支持し他の立場から距離を置くことで自己を規定し、この対抗的な集団への帰属意識をもって自らを支えることにならないでもない。


UP:20230124 REV:
立岩 真也Shin'ya Tateiwa
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