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「天畠大輔の本に「誰の?は…」」・12

「身体の現代」計画補足・812

立岩 真也 2022
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/3188973511369614

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表紙写真から注文できます&このHP経由で購入すると寄付されます
天畠大輔『しゃべれない生き方とは何か』表紙

 私の勤め先の大学院で博士号をとったりした人たちが出した本におまけのようなものを幾つか書いてきた。
立岩が関係した博士論文:http://www.arsvi.com/ts/dt.htm(現在整理中)
 それを紹介していきます。これまで5冊を途中まで。6冊めがつい最近出版された
天畠大輔『しゃべれない生き方とは何か』,生活書院
 天畠:http://www.arsvi.com/w/td01.htm
 そこに書かせてもらったのが
◆「誰の?はどんな時に要り用なのか(不要なのか)」
 それを分載していく。その第12回。
 まず第8回に引用した部分と同じところ。

 言いたいことはまず以上だ。協働と呼ばれるような営みがある。自分の仕事を介助してもらうことがある。両者は地続きに連続している。そうしたなかで「誰が?」が、なぜ、どのように問われるかは、その行ないが行われている場による。どうでもよい場合もある。なされさえすればよく、誰が、はどうでもよいという場合だ。しかし、そうもいかない場合がある。それにも幾つかある。自分が生活するに際して介助を得るといった場面、なんらかの主張をもって社会に訴えるという社会運動の場面、いずれも、「誰が?」がどうでもよいということにはならないが、同時に、委ねてしまってもよいところがある。いま引用した文章の「★15」とあるのは註で、「介助者手足論」にふれている。その「論」にも少なくともこの二つの契機があるのにそこがこんがらがっているから、分けて考えようと思ってきて、そのこと等を言っている。そして私の考えは、介助に関わっては、『介助の仕事』(2021、筑摩書房)の第8章「へんな穴に落ちない」、そして介助に加えて運動については、青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』(2019、生活書院)で私が担当した第6章「分かれた道を引き返し進む」の第2節「つきあい方について」に記した。だいたいそれに尽きると思う。

 解説その4:『不如意の身体』第3章の註15は以下。天畠の本の解題には収録されていない。
 「★15 「(介助者)手足論」がしばしば取り上げられてきた。まず、この言葉がどんな文脈にあったかについて小林敏昭[2011]。そして、後藤吉彦[2009]、熊谷晋一郎[2014]、石島健太郎[2018]、等。日常の生活において自律をどれほど求めるかと、社会運動において誰が主体となるべきかはまずは分けられる。後者について、あくまで本人たちが主体であるべきだという主張と行動がなされる由縁は理解できるしあってよいだろうし、同時に、それと異なる方針の組織・運動もあってよいとまず言えるだろう。前者については、専ら手段として位置づける場合とそうでない場合と、これも両方があってよいとまずは言える。そして一つ、いちいち細かに指図すること自体がとりわけ大切だというわけではない。また天畠のように、そんなことをしていたら手間がかかってよくないという場合もある。その上で、一つ、介助者自身が人であり、手段に徹することが困難であること、またそのように振る舞うことを求めてはならないこともある。」(立岩[2018:96])

 以下は、『介助の仕事』(2021、筑摩書房)の第8章「へんな穴に落ちない」、pp.193-194 「自己決定主義について・2」のはじめ。
 http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm

 「もう一つ、その人にとってのよしあしとは別に、その人が決めるというそのこと自体によって、その決定が大切にされねばならないという捉え方もあります。その人の意志、決定、その実行は、その人における大きな部分ではあるでしょう。とすると、その人を尊重するなら、その人の決定を尊重しようということになります。はたから見ると、そのようにその人で決めて行動したらかえってその人は損するのではないかと思うところはあるけれども、それでもその人がそうするというのであれば認めようということがあります。  しかし、その人の決定は、当たり前ですが、その人が生まれ暮らしてきた社会にある価値観や、お金があるとかないとか様々の事情に左右されます。こういう場合にはこう決めるのが当然だとか、かっこいいとされることがその人の決めることにおおいに影響します。  だからといって、その人の決定は「本当の自己決定」ではないから無視したり否定したりしてよいといったことにはなりません。というのも、私たちのほとんどの決定はそんな性格のもので、「本当の自分の」決定しかだめとなったら、実際の決定のほとんど全部を無視・否定してしまえということになってしまいます。また、社会の価値に沿うような決定がだめだとも普通は言えません。むしろそれは望ましいとされることが多いはずです。  このようなことを確認したうえで言えることが二つはあります。一つは、」
 この続きも掲載しますが、しばらく間をあけることにします。


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◆立岩 真也 2022/**/** 『人命の特別を言わず*言う』,筑摩書房
◆立岩 真也 2021/03/10 『介助の仕事――街で暮らす/を支える』,ちくま新書,筑摩書房,238p.
◆立岩 真也 2020/11/11 「私たちはそういうことにあまり慣れてないのだが」DPI日本会議,ご寄付、ご支援について


 生存学研究所のフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20222812.htm
にもある。


UP:2022 REV:
天畠 大輔  ◇博士号取得者  ◇立命館大学大学院先端総合学術研究科  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇『介助の仕事――街で暮らす/を支える』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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