私の勤め先の大学院で博士号をとったりした人たちが出した本におまけのようなものを幾つか書いてきた。
→◆立岩が関係した博士論文:http://www.arsvi.com/ts/dt.htm(現在整理中)
それを紹介していきます。これまで5冊を途中まで。6冊めがつい最近出版された
天畠大輔『しゃべれない生き方とは何か』,生活書院
天畠:http://www.arsvi.com/w/td01.htm
そこに書かせてもらったのが
◆「誰の?はどんな時に要り用なのか(不要なのか)」
それを分載していく。その第10回。
まず第8回に引用した部分と同じところ。
言いたいことはまず以上だ。協働と呼ばれるような営みがある。自分の仕事を介助してもらうことがある。両者は地続きに連続している。そうしたなかで「誰が?」が、なぜ、どのように問われるかは、その行ないが行われている場による。どうでもよい場合もある。なされさえすればよく、誰が、はどうでもよいという場合だ。しかし、そうもいかない場合がある。それにも幾つかある。自分が生活するに際して介助を得るといった場面、なんらかの主張をもって社会に訴えるという社会運動の場面、いずれも、「誰が?」がどうでもよいということにはならないが、同時に、委ねてしまってもよいところがある。いま引用した文章の「★15」とあるのは註で、「介助者手足論」にふれている。その「論」にも少なくともこの二つの契機があるのにそこがこんがらがっているから、分けて考えようと思ってきて、そのこと等を言っている。そして私の考えは、介助に関わっては、『介助の仕事』(2021、筑摩書房)の第8章「へんな穴に落ちない」、そして介助に加えて運動については、青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』(2019、生活書院)で私が担当した第6章「分かれた道を引き返し進む」の第2節「つきあい方について」に記した。だいたいそれに尽きると思う。
解説その2:前回も引用した『不如意の身体』第3章の註15は以下。天畠の本の解題には収録されていない。
「★15 「(介助者)手足論」がしばしば取り上げられてきた。まず、この言葉がどんな文脈にあったかについて小林敏昭[2011]。そして、後藤吉彦[2009]、熊谷晋一郎[2014]、石島健太郎[2018]、等。日常の生活において自律をどれほど求めるかと、社会運動において誰が主体となるべきかはまずは分けられる。後者について、あくまで本人たちが主体であるべきだという主張と行動がなされる由縁は理解できるしあってよいだろうし、同時に、それと異なる方針の組織・運動もあってよいとまず言えるだろう。前者については、専ら手段として位置づける場合とそうでない場合と、これも両方があってよいとまずは言える。そして一つ、いちいち細かに指図すること自体がとりわけ大切だというわけではない。また天畠のように、そんなことをしていたら手間がかかってよくないという場合もある。その上で、一つ、介助者自身が人であり、手段に徹することが困難であること、またそのように振る舞うことを求めてはならないこともある。」(立岩[2018:96])
以下は、『介助の仕事』(2021、筑摩書房)の第8章「へんな穴に落ちない」、pp.190-192
http://www.arsvi.com/ts/2021b1.htm
「自己決定主義が最もはっきり書かれているのは、岩波新書『当事者主権』(中西正司・上野千鶴子、2003)かもしれません。著者の一人の中西さんは、第4章(102頁)で紹介したJILや、第7章(173頁)に出てきたDPI日本会議などで活動してきた人です。私はその本のための、著者たちと編集者との最初の打ち合わせに立ち会ったことがあります。すっきりはっきりしたその本は、なんでも自分で決めるのが(他人に指図するのが)よい、それが自立だ、的に読まれうるのかもしれません。そこで、実際にはそのようにはやっていけない、とか、それがよいと言い切れるか、的な話が延々と続いてきました。その本に書いてあることとは話の文脈の異なる「介護者手足論」といった言葉もそこに混ぜられました。私はこの種の議論については言うべきことははっきりしていると考えてきたし、そんなことより別のことを調べたり考えたりしたらよいのにと思ってきました。それでも、整理はしておく必要はあろうと思うから、少し言います。
まず、「自己決定主義」には十分ないわく因縁があります。その人自身が自分に関わることを決めたほうがよい理由は簡単です。一つ、多くの場合、自分にとってよいことは自分が知っているからであり、一つ、他人に委ねると他人が勝手なことをするからです。自分の生活が他人の心情やら都合やらに左右されてしまって困ってきた。それではよくないから、自分で決めるから言われたとおりにしてくれ、ということです。それで、あくまでも主体は自分であると主張し、介助というのは言われたとおりにさせることであり、介助者は言われたとおりにすることだ、ということになります。
だからちゃんと理由はあるのですが、しかしこのことは、いつも一つ一つを指図するのがよいことだ、ということを意味しません。あらゆることを本人が決めねばいけないかというと、そんなことはないに決まっています。一つ、決めて指図するのは面倒です。まず、いちいち決めるのは面倒です。私たちは、多くの場合に意識することなくいろいろな動作をしています。これから行なうこと、今行なっていることをいちいち意識しなければならなかったら、かえってうまくいかないということもあります。次に、それを他人に伝えるのにかかるコストがあります。つまり、いちいち意識の回路に乗せて、言語化して、他人に指示するのは、本人にとっては負担で、そしてそのコストが他の人
りも余計にかかる人もいます。なのにいちいち考えて指図せねばならないとしたら、それは面倒だという場合はあります。すると、自分で一つ一つみな指示しなくとも、自分のよいようにことが運べば問題はないということになります。
そしてもう一つ、」
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◆立岩 真也 2022/**/** 『人命の特別を言わず*言う』,筑摩書房
◆立岩 真也 2021/03/10 『介助の仕事――街で暮らす/を支える』,ちくま新書,筑摩書房,238p.
◆立岩 真也 2020/11/11 「私たちはそういうことにあまり慣れてないのだが」,DPI日本会議,ご寄付、ご支援について
生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20222810.htm
にもある。