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「天畠大輔の本に「誰の?は…」」・06

「身体の現代」計画補足・806

立岩 真也 2022
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/3155645704702395


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表紙写真から注文できます&このHP経由で購入すると寄付されます
天畠大輔『しゃべれない生き方とは何か』表紙

 私の勤め先の大学院で博士号をとったりした人たちが出した本におまけのようなものを幾つか書いてきた。
立岩が関係した博士論文:http://www.arsvi.com/ts/dt.htm(現在整理中)
 それを紹介していきます。これまで5冊を途中まで。6冊めがつい最近出版された
天畠大輔『しゃべれない生き方とは何か』,生活書院
 天畠:http://www.arsvi.com/w/td01.htm
 そこに書かせてもらったのが
◆「誰の?はどんな時に要り用なのか(不要なのか)」
 それを分載していく。その第6回。

 今回はもう一つ。2018年11月に青土社から出してもらった本『不如意の身体――病障害とある社会』があり、その第3章が「なおすこと/できないことの位置」でその第2節「できないことの位置」の3が「存在証明という方角もあるが」。以下その全文。

 それをジレンマと言えるのかどうか。自分でやっていると言いたいが、手伝ってもらってもいる。そしてそれはそれで心地よく、楽でもある。他方、彼自身が寄与しているのも間違いない。そもそものアイディアを出すということもあるし、そのチームを作ったのも、彼、彼の身体である。どれだけと確定はできないが、彼は寄与している。同時に手伝ってもらってよくなっている。それだけのことである。だから共著ということにしたいのであれば、すればよい。論文も学会報告も、ほとんどすべてがそのようにして発表可能である。
 ただ学位は個人に対して与えられる。個人を評価したその結果が学位であって、その成果には、もちろん環境があり、人との関係があったうえであること等々を承知しつつ、一人に一つ出すというものである。その合理性はあるか。例えば職を得る/与えるための指標であるとしたらどうか。普通は、人は一人採用するということになるから、その際の指標は、一人について一つということになりそうだ。このように一人につき一つが必要とされる場合があり、そのように求められることにつきあってもよいという人はその世界の流儀に従うことになる。これ以上つついても仕方がない。他方、同時に、仕事は共同で行なったといって何も問題はない。
 ときに自分がやっているか誰がやっているかが曖昧になる。それは当然のことであり、それ自体はよいことでもわるいことでもない。主体性が常に大切であると決まったものではない。本人と介助者の間のそんな、自律であるとか依存であるとかのマイクロな部分を記述することがなされてきたが、もうだいたいのことはわかっているように思う。たいがいのことはまかせてなんとかはなる。その範囲で支障なく生活が成り立っているなら、問題はない――ということは他方では、自分の身体の痛みが他人には看過されやすいといった看過すべきでないことがあることも認めるということだ。それをさらに繰り返すことにどれほどの意味があるだろうか。
 ただ天畠の場合は[…]



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◆立岩 真也 2022/**/** 『人命の特別を言わず*言う』,筑摩書房
◆立岩 真也 2021/03/10 『介助の仕事――街で暮らす/を支える』,ちくま新書,筑摩書房,238p.
◆立岩 真也 2020/11/11 「私たちはそういうことにあまり慣れてないのだが」DPI日本会議,ご寄付、ご支援について


 生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20222806.htm
にもある。


UP:2022 REV:
博士号取得者  ◇立命館大学大学院先端総合学術研究科  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇『介助の仕事――街で暮らす/を支える』  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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