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1980年代の調査・03


立岩 真也 2022/07/ 『eS』40
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※2022年内→2023年内に出版予定の
◆安積 遊歩・立岩 真也 2023/**/** 『(題未定)』,生活書院
のためにその一部の草稿を掲載していきます。たくさんわからないことがあります。みなさんからの情報をとても求めています。よろしくお願いいたします。
 ※2022:安積に送付→安積からなおし入ったもの戻る(以下には反映していません)→20230611:この頁の増補・訂正停止→あとは本でどうぞ

◆2022/07/22 「1980年代の調査・01」
 『eS』038
◆2022/07/23 「1980年代の調査・02」
 『eS』039
◆2022/07/24 「1980年代の調査・03」
 『eS』040
◆2022/09/15 「1980年代の調査・04」
 『eS』041
表紙写真から注文できます&このHP経由で購入すると寄付されます
『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙   立岩真也『介助の仕事――街で暮らす/を支える』表紙   青木千帆子・瀬山紀子・立岩真也・田中恵美子・土屋葉『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』表紙

 ※以下草稿

立岩:4月に、小熊英二さんの連れ合いでもある十時由起子さん(08)★。

安積:十時さん、一橋の学生で、私の介助に私がめっちゃ声かけてた子の中の一人ではあるけれど。わかった。中村さん…、秋山さん(02)の介助もしてたからじゃない? たぶん。

立岩:そうか。そして、5月に新井英治・新井純子、今の境屋純子さんだね(13)。二人まだ一緒だった頃の新井夫妻というか、に聞いて、6月が高橋修さんなんかとも一緒に仕事していた伏見知久さん(14)★。

安積:この間うちに会いに行ったのね、「うらら」って言うんだけど今。そしたら、あの本、アマゾンで数万になってるって言うわけよ、彼女は。私はそれは、「えー、そんなことありえないじゃない」って思ったんだけど、本当?

立岩:「トラブルメーカー」(『空飛ぶトラブルメーカー』★、境屋[1992])ね。ありうると思う。出回ってる本が1冊とか2冊とかになる時があるのよ。そうすると、たとえば横田さんの対談本(横田他[2004])、僕との対談も入れてもらったやつ、あれ一時期2万ぐらいしてたよ。売れた本ほど安いわけ。売れた本はみんな古本屋にもって行って、売値で100円とかさ、アマゾンだと1円+送料とかさ。だけど、部数は出なかったけど、品切れになってから、ほしい人はほしいっていう人が1人でも、2、3人いると、値段が上がる。

安積:ちょうど『トラブルメーカー』が15、6冊あったから、「ちょうだい」って気軽に言ったら、「やだ。何万円で売る。アマゾン出てる」って言うから「冗談でしょ」って。
「くれない」って言ったのに、「いやあ、宇宙ちゃんも持ってないかもしんなから、宇宙ちゃんにあげるから」って言ってもらってきちゃったんだけど。

立岩:いや、あながち冗談じゃないよ。結局もらってきたんだ。元気ですか? 境屋さん。

安積:元気は元気だよ。【エマ】ちゃん◆って知ってる? 【エマ】ちゃんって、『駅と車椅子』って書いた親友がいるのね★。埼玉県の鴻巣駅の。ヒッピーと【エマ】ちゃんっていう二人のカップルの【エマ】ちゃんのほうが死んだわけ。【エマ】ちゃんはうららの親友だから、めっちゃ元気なかったんだけど、ようやくまた。でもほんとに、うららも、当たり前だけどお互いに歳とって。なんかもう呼吸器着けてんだって、夜だけ。鼻マスク。

立岩:覚えてるのは、話うかがう時、新井さんたちの家の部屋でみな車座になっているその場面の画像記憶だけだな。市営住宅だったよね。

安積:うん、私もその時初めて行った。市営住宅、今は新しくなっていたよ。三井絹子さんが隣に住んでる。三井俊明さん★なくなっちゃった。

立岩:この頃、ほんとに毎月ぐらい話を聞いてんだよ。〔新井→境屋〕純子さんは5月。6月は菅原百合子さん(15)。

安積:一番先に亡くなった。百合子さんがさ、ものすごい毎日毎日毎日電話をかけまくって。それでもおしっことかさ、もう自分のおしっこの海にまみれながらさ、亡くなっていったんだよね。もう、つらい。
 だからね、本当にね、今、サービスでね、「介助者のいるのが当たり前で介助者クビにする」っていう人たちが本当に許せないなって今一瞬思った。百合子さんのあの苦労。ほんとに介助者の仕事もさ、介助に行くじゃん、でも基本的なこともね、そのトイレとか行って終わったらさ、ずっと電話かけたからね。

立岩:ああ、俺もそうだったよ。それは、今度の『介助の仕事』って本の中にちょっと書いたけどさ、僕の場合は、勝又★って僕より4つ上の男、たぶん安積さんと同じ歳、脳性まひで和光大学の卒業で、僕が大学1年の時、見田宗介さん(◇頁)の「見田ゼミ」というのに参加していて、彼は世田谷の赤堤っていうところに住んでいた。車椅子往復で、僕が車椅子押したのが最初という人。新井さんへのインタビューと伏見さんへのインタビューの間、4・5月に、これは僕が勝手にやってってことだが、インタビューしている(09・10・11)。
 それで、彼のとこの一番の仕事って電話かけること。▽そうそうそう。みんなそうだったよね。△ 菅原さんもそうだったの? けっきょくかなり介助が厳しかったんだ。

安積:だよ。ものすごい厳しかったと思う。太田〔武二〕さんも知ってる?。こうやってヘルメットに、こう先に付けてさ。

立岩:会った会った、太田さんが7月(18)★。太田さん印象深いね。

安積:あたしが紹介したのよ、彼。

立岩:このへんはみんなそうだったと思う。『生の技法』の初版・第2版の各章の扉のページには写真があったんだ。第3版にもほしかったんだけど、初版・第2版を出してくれた藤原書店が頼んでいた印刷屋だか製版屋だかが倒産してしまって、預けていた写真がなくなってしまったとのことで、使えなかったんだけど、その第2章、第3章、第8章の扉の写真がが太田さんの写真★。

安積:面白いの、太田さん。「うんこがしたいうんこがしたい」。「うんこがしたい」って「結婚したい」と同じだから。冗談みたいな。

立岩:太田さんはなかなか忘れられない人だよね。その後一回田舎に引っ込んだのか、また戻ってとか、聞いた気がする★。そうじゃなかったっけ。

安積:私は立川までしか知らないけど。時枝さんも亡くなってるよ、おんなじような、太田さんと。

立岩:ほんとに矢継ぎ早なんだよ。だから、「何だったんだろうな」って、今思う。そのときはあんまり不思議に思わなかったんだ、だけどほんとにこのへん、毎月、新しい人に話を聞けて。

★ 『介助の仕事』(立岩[2021])に書けることは限られていたから、その 『補注』(立岩[2021])を作り、研究所のサイト上に置いている。そこに、大学生の時に介助をボランティアとしてまた有償の仕事を経験したことのある人たちを列挙した註(『補注』第1章・註08)を置いた。新書刊行後もこちらは増補を続けている。以下は国立・一橋大学界隈にいた、あるいはそこにいた人たちに関わった人たち。
 「★> (大)学生の時に、介助やら、障害者(運動)に関わりができて、以来、という人たちを、以下列挙する。私が知っている人が多いから偏っている。むろんもっとたくさんいる。
 序・註04で紹介した大賀重太郎(1951〜2012)は1969年神戸大学入学、中退。角岡伸彦の[…]
 加藤秀一(1963〜)は私の同業者だが、一橋大学の学生だった時、下記する宮本へのインタビュー(宮本[2020i])にも出てくる太田武二の介助をしていたことがあると聞いた。

 […]  十時由紀子(196?〜)は一橋大学在学時、小平に住んでいた菅原百合子の、国立では秋山家で介助。大学卒業後岩波書店に就職、長く務めた後、出版舎ジグを立ち上げる(https://www.facebook.com/yukiko.totoki/)。
 宮本泰輔(1970〜)は早稲田大学中に三澤了(1942/04/01〜2013/09/30)らの介助に関わり、太田武二の介助にも関わる。その後、タイ、南アフリカ等で国際協力の仕事をしていく。宮本へのインタビューとして宮本[2020i]。」(立岩[2021])
 出版舎ジグから出版された本に岩下紘己の『ひらけ!モトム――大学生のぼくが世田谷の一角で介助をしながらきいた、団塊世代の重度身体障害者・上田さんの人生』(岩下[2020])。岩下紘己は1996年東京生、慶應義塾大学在学中、NPO法人HANDS世田谷派遣の上田要さんの専属介助者として週に1回の泊まり介助を担当。
 安藤道人は2001年に一橋大学経済学部入学。2005年から2007年まで同大学一橋大学社会学研究科修士課程。【続く】」
★ 二人の文章として「エイタとジュンペイ・男と女の会話」(新井・新井[1979])。
 立岩が『看護教育』で10年に渡って続けた本の紹介の第26回「人生半ばの女性の本」(立岩[2003/04/25])より。
 「もう一冊は東京に暮らす境屋純子の本。安積や町田市の堤愛子や樋口恵子たちとも活動、ピア・カウンセリング等の仕事をいっしょにしてきた――樋口はもう一人のさらに有名な評論家とは同姓同名の別人で、著書に『エンジョイ自立生活――障害を最高の恵みとして』(現代書館,1998年,1500円)。また安積と境屋は東京都国立市にある自立生活センター「くにたち援助為センター」の運営にも関わっている。(このところ境屋うららの名前で出ている。)
 この本も生い立ちからずっと書いてある。1952年高崎市生まれ。脳性麻痺に。1960年に施設に入所、養護学校に入学。高等部は(現在筑波大学付属)桐ヶ丘養護学校。1973年に「自立生活」を始める。76年に和光大学に入学。車椅子の聴講生を受け入れ話題になった明治学院大学は願書の受理を拒否、和光大学も受け入れは初めてで、様々にもめる――ちなみにさきにちらっと名前を出した篠原睦治はここの教員で、本の中にも出てくる。77年から84年の間に3人の子を産み、88年に子の父と別居、91年に離婚、3番目の子と暮らす。
 年齢、一人で暮らし始めた時期も二人は近く、それぞれは大阪と東京でほぼ同時期にそれぞれその頃のものを受け取ってやってきた。例えば金の本には、療護施設のあり方に抗議しようと施設に行き、成り行きで占拠することになり、針金で自分を部屋の机にくくりつけて籠城し、そして踏み込んだ機動隊に連行されるのだが、しかし連れて行かれたのは警察署・拘置所ではなく自分たちの事務所だったという、高揚した、同時になさけない、一部で有名な事件の顛末が書かれていたりする(127-132頁)。そして男や子どものことが書かれているし、もちろん、優生保護法、子宮摘出手術のこと等、大きな問題になって、そして今に引き継がれていることがどのように問題にされたのか、自らがどう受け止めたのかが書かれている――もちろん、と言えるほど知られているか、知られるべく記録されているかが問題なのだが、これについてはまた他の本も含め所在を確かめてみよう。
 彼女らは、こうして激動の中にいたのだが、これは一度だけ起こったことなのか、ずっと起こっていることなのだろうかと思う。両方なのだろう。[…]」
★ そのインタビュー(菅原[i1986])より。
 「菅原 […]これ一人でかけるんですね。呼気フォンといって、番号のところを一つ一つ吹いていって、ストローで。これを30件ぐらいやっているとしまいにわかんなくなっちゃうの。ご飯食べて、7時ぐらいに食べて、それで12時ぐらいまで電話かけてるとしまいに誰にかけたかわかなくなってくるの。[…]30件ぐらいかけて全然だめなときもあるし、はいるときにはぱっぱっぱってはいるときもある。[…]全然だめな時はちくしょうと思って、爆弾投げたくなったりして。」
★ 第2章の扉は「「出て暮らす」生活」(立岩[19901025:57→1995:57]。ヘッドギアのようなものにキーボードを押す棒のようなものを付けて、ワープロのキーを押している太田さんの写真。
 第3章「制度としての愛情――脱家族とは」扉(岡原[1990:75→1995:75])では、太田さんの部屋には「おしこっのふくろのつけ方講座」「太田武二先生のおしっこ講座」といった張り紙があったのだが、それを撮った写真が3枚。
 第8章は、初版では「接続の技法――介助する人をどこに置くか」(立岩[19901025])、第2版(増補改訂版9)以降では「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」,安積他[1995:227-265→2013:354-413])なのだが、初版・第2版での扉写真は同じ(立岩[1990:227→1995:227])。ラーメン?を食べている太田さん。
 宮本泰輔さんへのインタビューより。宮本さんは1970年生、早稲田大学卒業後、DPI日本会議で働いた後、長く障害者の国際支援の活動に関わってきた。インタビューした時にはバンコク在住。
 「宮本:[…]もともと教職希望だったので、大学2年のときにちょうど早稲田の文学部に、[…]「障害児の生理と病理」という講座ができたんですね。板橋区にある整肢療護園というところのPTの人が教えに来てたんですけれども、その授業をたまたま取って、そのときに「ボランティアとか何もしないやつには単位をやらん」と言って(笑)、要するに整肢療護園を運営している「日本肢体不自由児協会」の夏のキャンプのボランティアのチラシをそこで配られたんですよね。それでそのボランティアに入って、で、そのときのボランティアやってたちょっと年上の人たち、ちょうど立岩さんぐらいのお歳の人たちぐらいの人から、まあ当時、ですからまだ介護制度も、そんな介助制度もない状態で、「国立に一人暮らししてるおもしろいおっさんおるから来ない?」って言われてですね、太田武二さん、『生の技法』の最初のほうの、今の版はわかりませんけど、途中のあの挿絵というか写真が入ってる太田武二さんの、
立岩:あのきったない写真ね。
宮本:(笑) 麺食ってるやつですよね。あれに介助に、夜は完全無給のボランティアでしたけど、入ってましたね。あの当時は昼は生活保護の他人介護料加算とか、東京都の全身性障害者介護人派遣事業とか組み合わせてお金が払われてましたけど、夜は無給でしたね。そこに月1、2回入ってました。[…]
立岩:[…]国立、僕も太田さんちに行ったことあるし、なんとなくあの人の感じは覚えてて。なんとなくじゃなくてわりと特色のある人なので、みんな覚えてるよね、太田武二さんのことはね。あれ僕の記憶間違いでなければ、加藤秀一っていう今、明治学院でフェミニズムのこととかそういうのを教えてる社会学者が僕の下でいるんですけど、彼も一時期入ってたんじゃないかな。そんな感じでボランティアに、太田さんのところに、それは2年生のときですか?
宮本:そうですね、2年生のときです。[…]じゃあ90年とか。
宮本:90年ですね。そうです。
立岩:ああ、じゃあちょうど僕らが本出した年ですね。その太田さんの、汚いって言ったらなんだけれども、写真が章の扉にあるやつね。ちなみにあのときの写真は実は、あの本藤原書店から出たんですけど、藤原書店がお願いしていた印刷屋さんが倒産して、そのときの版下が消え失せて。それと同時に、どっかうち探せば、あの写真僕撮ったりしてたのであるかもしれないけど、とにかく版下はなくて。それで今第3版なんですけど、写真どれも使えなくなっちゃって、というちょっと残念なことになってるんです。彼の麺食ってる写真と、それから彼の部屋にあった「介護はこうやるんだ」みたいな、「こうやってしっこ出すんだ」みたいな、きったないその説明書きみたいなやつ、久しぶりに思い出しました。[…]」
★ 立岩が91年にとったメモでは、90年?に山口に行く(戻る)、91年の秋には東京に帰ったとある。◆山口なのか山梨なのか〜等教えてください。〔202306:まだ不明〕


UP:2022 REV:20230611
『eS』  ◇声と姿の記録  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築 
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