◆立岩 真也 2021/03/10 『介助の仕事――街で暮らす/を支える』
ちくま新書,筑摩書房,238p. ISBN-10 : 4480073833 ISBN-13 : 978-4480073839 820+ [amazon]/[kinokuniya]
◆立岩 真也 2021/03/11 『介助の仕事――街で暮らす/を支える 補注・文献』
Kyoto Books
■草稿
※『解放社会学研究』刊行に際してここから外します。
書評へのリプライ
立岩真也 20220325 『解放社会学研究』35:107-126
丁寧な文章をいただいた。ありがとうございます。まず、これらの丁寧な書評を読んで、わかった気になって本を買わない、のではなくて、買ってください。本誌の読者のみなさんには大学や専門学校などで学生さんを教える人たちもいると思います。そんな場で使っていただけるとありがたいです。まとまった部数のご注文についてはこちらから、著者割引(2割引き)での発送もいたします。
と書いてそれで終わらせようと思ったのだが、締切日に原稿を初めて読んで、そうもいかなくなった。編集長が紙数は自由、と言ってくださったので、たくさん書かせてもらう。ひどく手間がかかってしまったことをお詫びする。
一つに、書評〜リブライとは別に(しかし関わって)、まず、(誰もが手にできる)本書にはあまり書かないほうがよいと思ったが、本誌の読者にはお知らせしたいことが2つかあるので、それを書く。その後、書評について書く。****の文章を「書評T」とする。****の文章を「書評U」とする。以下もっぱらTについて書く。いささ教師風情になってしまう。評者に基本的には感謝を表すべきところで、こんな文章を書いてはだめだとは思ったが、しかし、結局、仕方がない、さらに必要だと思うに至った。
本書がそもそも書評に適した本かといえば、そんなことはない。議論の対象となる議論が一つすべきことであるとしたら、いやすべきだと私は思っているのだが、そこは本書ではできるだけ短くしている。もっと長いものは他に書いてある。この書評は、そのことで苦労してしまって、無理をして、議論をしようとしたことによるのだろうか。
ただ、以下のリプライについては、いつものようにじつはどこそこに書いたとかいう自己言及的な話もあるのだが、本書では、ごく基本的な理路については、そういう書き方をしていない。あくまで、本書にはっきり書かれた範囲からでも、言えることははっきりしており、示されており、疑問をもたれること誤解を生じさせることはないはずだと思う。しかし、そのように読まれていない。
ふつうに社会科学(人文社会科学でもよい)を学んでくれば、いやそんな面倒なことをせずとも、こうはならないはずだ。(ちなみに、最後の文章も意味がよくわからない。本書で書いた程度のことは、「障害学会の議論」を知らなくとも――まあ知らないよりは知っておいてもらってよいとは思うが――できるし、できなくてはならないと思う。)常套句からいくらかでも身を離してものを考えられるように、難問とか言って、難しがって、立ち止まってしまわないように、それに対して・抗してものが言えるように、私は考えて書いてきたと思うし、話してきたと思う。そしてその結果を、短く、本書にも書いてある。しかしそれがみごとに伝わっていない。普通に驚いたし、悲しかった。
なぜこのような話をしてしまう人が存在するのか、という問いへの答えは、結局思いついていない。しかし、しばらく考えて、こういう人たちは一定いるのかもしれない、とも思った。例えば、「市場原理主義」といった言葉を聞いて、もちろんそれには当然いくらか思い当たり妥当するところがあったりするから、覚えておく。また例えば、なにか二つあると、その「間」が難しい、みたいなことを思ったりする。なにか一つあると、その「限界」みたいものがあるのかなと思う。すぐに思う。
しかし、調べたり考えたりすることは、そんなところにとどまっていては全然だめだというところから発する。そしてそのことを知らせることは、教育というものにも一定の意味があるのだとすれば、教員が最低限果たすべき義務でもある。すぐに落ちてしまう落とし穴に落ちている人がいれば、そこに落ちた気がするのはしかじかの理由があってのことで、そこに落ちたままで、ぼっーとしていても仕方がないのだから、上ってきて、さてと、と、考え始めようと言う。
しかし、そこがそうなっていないとすればよくないことだ。そこにいくらかは、今どきの社会科学(教育)のだめさが関わっているのかもしれない。そこで、すこし元気を出そうとして、書くことにした。それに際し、いただいた書評の「リプライ」に自分の書いたものを列挙するといったことはあるまじき行ないであると我が身を恥じつつも、一定のことはしておく必要があると思った。
■リプライでないこと・1
まずリプライでないことを書かせてもらう。本書で「重度訪問(介護人派遣事業)」という仕事は儲からない仕事だと述べたが、やりようによってはそうでもない。客を選び、そう対応が難しくない人に(あるいは対応の難しい部分を別の事業所に委ねてしまって)、一度に長い時間を供給すれば、そしてヘルパーの時給を安くおさえれば、事業所にとってはそこそこの収入になる。そこに目をつけた業者がこの業界にも入ってきており、捉えようによっては荒らしていることを、何年も前から私は聞いてきた。ちくま新書を読んでそんな商売をしようという気になる人がそういるとは思えなかったが、それでも新書だから、簡単に買って読める。なので、このことはあまり言いたくなかった。
しかし、これは実践的にも学問的にも重要な問題であり課題である。これからも長い、たぶん終わらない戦いは、ようするに(福祉を、医療を、障害者を、病人を)「食い物にする連中」と、食い物にされないように、どのように戦うかということだ。私はこれまでの戦いの多くは、この場で戦われてきたと考えているし、いま現在も、とても重要なことはここにあると考えている★01。
本書に書いた領域からは少しだけ外れるが、具体的には例えば「貧困ビジネス」のことだ。いったいあれをどうしたらよいのか。一つに政府・行政による監視・監督を行なうという話になる。私はそれに全面的に反対するものではない。監視・監督も必要だと考えるし、もっとなされるべき場合・場面があるとも思っている。しかし、それは(書評Uに書かれることとも関係がなくはないが)、ある種「緩さ」、「よさ」を減らすことになる可能性もある。そういう名目での介入がよからぬ意図からなされる、すくなくともよからぬ効果をもたらすこともある。どうしたものか。「難しい」と言うだけでは、もちろん、全然だめだ。どうするか、具体的に調べて、考えて、すっかり解決はしないとしても――全面的な解決策が論理的にないことは証明できると思う――よりましなようにすることだ。
ではこの介助者派遣という事業については、手はあるか。なくはない。そのことを言うために、今の仕組みがより具体的にどうまずいかについて、本書にも何度か書いている。本書に出てくる組織は、介助派遣の仕事の「あがり」で大切な仕事をしている。家族や病院の側の無知・無理解や反対・抵抗のあるなかで――しかもやっかいなのは、「普通の」福祉施設に比べて、医療との縁がきれないといった事情のある人たちは、ただ相手を「蹴っ飛ばして」出てくればよいというわけには、なかなかいかないということだ――病院からの30年ぶりの退院、次の生活の場・体制を作り、生活のための制度を獲得するのはまったく容易なことではない。それで、本書に何度か出てくる、金沢の医王病院にいた古込和宏(92・170頁)の退院の時には、関東から、また私が知っている時期では、京都や西宮から金沢まで一度に3人とか4人とか出向いて、支援した。それには膨大な時間がかかった。CILの持ち出しで、人件費も、交通費もまかなった。立派なことがなされたと私は思う。しかし、このことは、そういうことをしない事業所・会社はその分を儲けにできるということでもある。さきに述べたのは、実際そういうところが出てきているということだ。そういうところが増えるということは、面倒な「移行支援」などはしない・できないところ(知識もないし気合いもない、要請の連絡も来ないから、たしかにできないのでもある)が、めんどうでない客を選んで、派遣をする。そうすると、そういう「困難事例」に取り組む一方はますます持ち出しが増え――本書に出てくる組織は大きな事業をやっているから維持できているのだが、次に記す私が関わっているような零細な組織は、もろにそういうことになる――、他方は儲かることになる。前者が減り、後者が幅をきかせていく可能性がある。そのような制度の構造になっている。今はまだなんとかなっているとして、この状態がより広がっていくなら、ことは深刻だ。
どうするか。そのことも本書に、第7章「無駄に引かず無益に悩まないことができる」
の「「相談支援」をまともにする」(180頁)に書いてある。「「(相談)支援」についてまともな仕事をさせることです。計画(書)1枚に対してではなく、仕事に対して、仕事に応じて払うことです」(182頁)。その仕事をするという人たちが本当にまともに仕事をするのかといったことはあるから、問題がすっかり解消するわけではない。しかし今よりましにはなる。そして実は、この部分については、政策は後退してきた、なぜこういう部分が削られたのか。それには事情がある。それを調べることも研究の課題になる★02。政治と経済、政府と市場、を問題にするとは、後に言うように「市場原理」といった言葉を曖昧に使うことではなく、例えばそういうことだ。
■リプライでないこと・2
もう一つ、これは、たんに私の勤め先への「兼業届け」とかそういうものをどうしたらよいのか、わからなかった(今でもよくわかっていない)という事情、それ以前に、本の発売とほぼ同時、そのすこし後だったから、紹介はできなかったのだが、重度訪問の介助者派遣の「事業」を始めた。本書には、「2021年には同じ〔「ある」という〕名前の合同会社が派遣の仕事を始めます。こちらもご連絡いただければと」(104頁)★03とだけ記した。実際には、本を読んで、応募してくれた人はまだいない。またツイッター等でもお知らせし宣伝しているが、どんどん希望者が現れるということにはなっていない。なかなか難しいものだと思う。
始めたといっても、私は名義貸しのようなもので、実際にはなにもしていない。今は、大学の研究者・(もと)院生つながりといったところで、仏教大学、京都府立大学、同志社大学、立命館大学、あと京都産業大学も、といった学校の学生が関わり始めてくれている。のっけから難しいところに取り組み、よく続いていてくれているな、とてもよい体験をしているなと思うとともに、さぼってばかりいた昔の学生(135頁)と異なり今の学生は学校に行くことも多く、看護系など実習があったりする人もいて、また、「そういえばあったな」という「130万円(他)の壁」に妨げられて、仕事を制限せざるをえないとか、いろいろな難しさがある。
そして、いま利用者として関係のある人たちは、自分が住んでいたところに制度がなく、事業所がないために、そこに住み続けられず、京都市内に移ってきた人たちでもある。もちろんいろいろとある諸事情、様々な思いのなかで、こちらで関わってきた人は、長い期間・時間、時に他県と行き来しながら、相談しながら、誤解や齟齬やいろいろありながら、引っ越しが決まり、新たに住居を探し、制度の交渉をし、…といったことになる。
そして介助の仕事について。介助者募集、が目的である本書では、そんなにたいへんな仕事だとは言っていない。「介助というのはどんな仕事か。ちょっといろいろありすぎて、一言じゃ言えない。きついかきつくないかっていうのは、ほんとに一概には言えません。ただ、ここで思い浮かべている一対一のという仕事の仕方については、まず身体的な負荷ということで言えば、そうしんどくはないことが多いと思います、僕はね」(36頁)。間違ったことは書いていない。他でも各所で「しんどいこともあります」みたいなことは書いている。ただ、私がずっと前に関係した脳性まひの人の時には実際たいしたことはなかった(140頁)。
しかし、障害の違いや、それが進行性であればそのどのあたりにいるのかといったことにも関わり、とてもたいへんなことは、ある。私自身は何もしていないが、一人ひとりが、また介助者と利用者の双方に関わっている人たちが、最初から難関に突き当たり、ほぼそのままの状態が続いている。いまは、お金・経理・経営の関係については、長年の経験とそして何より気持ちのある組織に全面的に依存し委託することによってなんとかなってはいるが(介助者としての登録自体、その別事業所への登録にさせてもらっている)、介助派遣が始まるまでの膨大な時間・労苦に満ちた労働は無償の仕事だったし、派遣が始まってようやくその理解のある事業所が、制度からお金がでない部分についても払ってくれるようになったといった具合だ。それは長年のつきあいがあっての、しかし偶然の幸運のようなものであって、それがなかったらさっそく立ち行かなかったかもしれない。そして、生きる死ぬに関わる、複数の思いや利害が交錯もする。そのうち関係者がきちんとしたものを書いてくれるだろうと思ってはいるが、ここではこれ以上書けない。
そして、そんな仕事は、こちらの会社?が、使えるもの引き受けるところがなくそこで連絡があったという成り行きから始まってそれ以来の関わりなので、仕方がないのではあるが、こちらが全部受けることになる。24時間の介助が必要となれば複数の事業所が入ることになるのだが、「普通の事業所」は、そういうことは、しない。そしてしない事業所のほうが楽だし、儲かるから、そうしたところがこの「市場」を荒らしていくこともありえ、実際、その徴候はすでにある。それはよくない、どうしようもないなら仕方がないが、どうしようもある。それをさっき「リプライでないこと・1」に書いた。
今述べたような、現場と経営に即した研究は本当に少ない。これもまた悲しいことであり、進んでほしいと願っている。ただ、私は、研究者の誰もが現場に出向いて調査するべきだとは思わない。好き嫌いというものもあるし、適不適というものもある。座って、考えて書くというスタイルの人がいてもよい。私の仕事のかなりの部分もそうした仕事だ。ただ、人の書いたものを読んで議論をするというなら、普通にちゃんものを考えて書いてほしいとは思う。そして、そういう方向の仕事が実は好きでもなく自分に合っていないのなら、別のことをすればよい。そうなる。
■仕組みのこと
さて、書評Tでは「国家の福祉政策としてのケアと、民間市場を活用した介助制度」、という対置がなされる。正確には、後者は「民間市場を活用した介助制度であるイギリスの介助者制度(との衝突)」という記述になっている。そして前者=「国家による福祉制度を重視する者たちは、市場原理を活用したダイレクト・ペイメント(直接給付)によって障害者の自己決定を可能にしてきたイギリスの介助者制度の危うさを指摘している」とある。
日本では、「欧米のようにはダイレクト・ペイメントが標準化されてはいない」とあるから、欧米では標準化されていると読める。そのような了解は、またそのような了解につながるダイレクト・ペイメントの理解は一般的ではないと思う。評者がどのような規定をしているか、ここからはわからない。ただ、普通の意味でのダイレクト・ペイメントとは、政府が利用者に直接に現金を支給し、その現金を使って利用者が介助者を直接に選択・雇用するという仕組みであり、それは、むろん定義にもよるが、どの国でも地域でも、どこでも標準化はされていないと思う★04。
それはたんに事実についてのことであり、むろんここでの主要な問題ではない。また事実が、知らない間に、変化した、のかもしれない。ただそのことと関わらず、上記から、まず、普通には、ダイレクト・ペイメントは、「国家による福祉制度」である。利用・供給の具体的なところをどうするかと、そのための資源について誰が責任をもつかはを分けることができるし、分けるべきである。(私は、そのことも、あきるほど、幾度も述べてきた。)そして、すくなくとも前者の意味では、ダイレクト・ペイメントは――地方政府・行政によるという場合はありうるが――「国家による福祉制度」である★05。
その提供の責任について、具体的には資源の供給について、社会が、具体的には国家が責任を有するとすることについて、運動の側に争いはない。いやそれでも、という立場もあって、じつは日本での議論のある部分を占めてきた。そのことについては第6章「少しだが大きく変える」、とくにその「筋論として、ボランティアでよいか」(142頁)に記した。さてその上で、無償で、というその気持はわかるが、私は、「(再)分配」としてなされてよいと考える。もっと詳しい話は、143頁に記したように『差異と平等』(立岩・堀田[2012])でしている。
そして次に、「国家による福祉制度」にしても、民間市場は、「活用」しているかどうかはともかく、使っている。税金を使って財・サービスを提供する場合、政府がそのお金でそれを購入する(そして提供する)場合がある。そのほうが多いはずである。他にありうるのは、例えば介助という行為を強制して行なわせることだ。ちなみに、そういう主張も実はある。市野川容孝の主張が(本書では名は出していないが)そうしたものだ。この論点については145頁で述べている。
行為を行わせるという案を採用しないなら、人を政府が直接に雇用するか、民間の事業所に払うか、利用者に払うかとなる。第一のものを民間市場の利用と言うか言わないかは定義によるが、労働者は労働市場のなかで職を選ぶから、無関係とは言えないだろう。ただ、直接の雇用と、民間を利用するのと、同じではない。公務員ヘルパーの主張・運動があったこと、そこにもっともな理由はあったこと、けれども、民間の参入は許容されるべきであることは、第4章の「複数あってよいとなると民間もよいとなる」(96頁)に記した。
すると、その上での論点・争点はなにか。一つは、下請けのように使い、競争させたりして、安くするといった民間委託の弊害だ。これはありうるし、実際にある。ただそのうえでも、民間(その中には本人が直接に、という形態も含まれる)は否定されないなら、民間を認めた上で、その弊害・弱点を除去あるいは軽減していこうということになる。理屈として難しいことではない。適正な価格を設定し、それを遵守すればよいだけのことだ。そして、ここで決まる価格は「公定価格」なのだから、それは可能だ。このことは第1章の「お金のこと」「まずたんにお金を増やせばよい」(31頁)に書いた。
繰り返すと、政府なのか、納税者なのか、納税者でもある企業…なのか(このことを考えることも大切だ)は安くすませようとする、そのための手段として民間に委託することがある。例えば複数を競争させて、安くする。それがよくない結果をうむのであれば、高くするしかない、安くさせないということになる。市場を使うから、つねに一番安いものを選ぶか、そういう選び方をしないか、それは政治的決定なのだから、安すぎるところに抑えないことは「本来は」可能だ。「これはいわゆるマーケットメカニズムで決まるお金、価格じゃないんです。選挙民というか、政治的な決定に関われる人たちがそれでいい、そういうことにしようって言えば、明日からでもできます」(33頁)。だから、それを実現しよう、そのことを言おうと本書を書いたのだとも述べている。
そのようにただ言ったからといってどうなるものではない、とは私だって思う。言葉(だけ)が現実を変えるわけではない。しかし、すくなくとも言わないよりはよいし、言論・言説の水準に誤りや誤解があることも少なくはない。ならばその誤解を解くぐらいのことは、まずは、できる。せめてわかってくれそうな人にそれを言ってまわる。それなのにがっくり、というのがさきに述べたことだ。
■資源に対する態度
さらに残念なところは、その続きだ。評者は、制度が多く広く使われるようになると、その利用、利用者を狭くする方向にように働きかねないと言う。「介助ニーズをせっかく発掘して市場効果を高めるようとすることが、国家の財政逼迫につながり、障害者の介助が縮小されるといったバックラッシュも起こりかねない」。その可能性の指摘自体は当たっており、実際感じられてもいる。とするとまず一つ、何がそちらの方向に作用するかである。
一つ、そこには自治体間の格差が作用しうる。私たちがこのところ関わった人たちも、京都市外からやってきた人であり、それは、京都市には制度があり、他にはないからなのだが、そうすると、他でも収支がうまくいっておらず赤字が増えていると報道されている京都市で予算が増える。そうすると、今の制度の利用を維持していけるか、拡大していけるか心配になる。このこともまた、遅くとも一九八〇年代には、例えば当時制度が比較的ましだった東京都西部のいくつかの自治体について感じられ、言われてきたことだ。そして、局所に偏ることに関わる不足について言えることは、基本は一つだ。すべきことを行なうところが損をしないようにすることである。そのためには、より広い範囲で使える制度にすること、具体的には国による支出とすること、もっと言えば、国家間の格差を少なくすることである。そうすると、制度があるところに移動せざるをえないということは少なくなる。さきに「地域移行」をがんばっている組織が損をするような仕組みにしてはならないと述べた。同じことである。税をきちんと徴収する国家を嫌う人や企業が別の国に(名目上)移動できるなら、その国家はうまくいかなくなる。それに対する処方は、税を低くする競争に加わることではなく、税についての国際協調であり、税率を下げて人・企業を誘う国家を認めないことだ。そしてそれはまったく非現実的なことではない★06。このように、自力でかつ平等を大切にしてがんばろうとして給料が安く人が逃げていなくなる近所の作業所・事業所と、「グローバル経済」において起こっていることは基本的には同じであり、なすべきことも同じだ★07。
ただこれは「偏り」の話ではある。もう一つ、全体として利用=負担が増えていく、そこで、減らそうとすると、結果肩身が狭くなるというお話についてはどうか。
ここでも、評者は、ずっと前からある話を繰り返している。社会に関心をもつ人が最初に思ったり、聞いたりする話をしている。つまり、少子高齢化→財政の膨張→引き締め→、というありがちな、そしてもちろん全面的には間違っているわけではない図式をそのまま、もってきている。ここは、そのように言われているという書き方にはなっているが、その言論に対する評定はなされず、すると、事実として受け入れているのかなと思われる。そしてその見立ては、少なくとも全面的には間違っていない。しかしそれは考えてものを言うということの、それを始めようという時の、まったくの出発点であり、その水準での「疑問」なるものを出されても困る、困るとしか言いようがない。学問としても実践としても、それがどこまで本当か、どうにも動かせないことなのか、それを考え、調べて言うことになる。それが仕事だ。
利用がより多くなれば、支出がより必要になるというのはまったくその通りだ。しかし、増えても、社会がやっていけるならかまわないと主張はできる。そして実際、様々考えると、そのように言える。そのことを私は示そうとしてきた。「「人が足りない」とか言うと、すぐ「少子高齢化」とかで人間が足りなくなっているからだっていう話にすぐ乗っちゃう人がいるんですけど、私はそれは嘘だと前から言っています。」(30頁)。「世の中大変だっていうのが挨拶代わりになっているわけです。…そうでもないよっていうことを、「足りない?」→「足りなくない」ことを、別の本(30頁)で書こうと思っています」(33頁)。だから、本書ではその仕事はしていない。ただ、そういう「枕詞」みたいなものについて思考すべきであることは書いていて、それは伝わるはずだし、私の「結論」も、結論だけでしかないとしても伝わっているはずだ。
こうして、財政・資源の問題化という問題を考えるのが一つ、だが、もう一つ、関連するが別の問い方、答え方がある。どうするべきなのかという問いだ。そしてこの問いに対する答えは二つしかない。一つは、遠慮して、努力して、利用を少なくするようにする、増やさないようにする、そうして負担を少なくする、増やさないようにするということだ。そうした指向性の主張がかつてもなかったわけではないこと、1970年代には「東京青い芝の会」という組織でそんな主張があったこともまた、1990年に紹介している★08。
もう一つは、いるものはいる、とすることだ。もちろんその主張が通るとは限らない。しかし、第一の方向を採るわけにはいかないのであれば、第二の道を行くしかない。これもまったく論理的にはっきりしている。とすれば、一方で、そのことB(=いるものはいる)を言いながら、しかしそんな「筋論」をいくら言われても社会はやっていけないという現実(の可能性)の制約についての論Aを検討することになる。正しくても(B)だめだという話(A)が本当にほんとうなら、選別・縮減を認めるか、あるいは共倒れになるかである。すくなくともある種の論理・倫理からは後者の共倒れの方が正しいともなるはずだが、そんなに切羽詰まることはない、なんとかなる、となれば、話もまた違ってくる。最初は本書よりさきに書かねばならないだろうかと思っていたのはその話だ★09。例えば「トリアージ」について考えるとはそういうことである。そしてれは「安楽死」の話にまったく地続きでつながっている。
「床屋政談」という言葉がある。実際の床屋でおじさん・おじいさんたちはもっとまともなことを語っているような気がするのだが、「なんかよさそうなこと言う人もいるけど、世の中そう簡単じゃないよねえ」とか言って、そこで止まったり、繰り返したりする。そして、そういう人はまあまあいる。大学院に入ってきたような人にもいる。しかし、そこから始まったとしても、その「さき」を言う、同時に「もと」を考える。繰り返すが、考えるとは、そういうことだ。
■そのうえでどのような形態か
以上と、個人・本人が決めるという形態、対、供給側がより大きな部分を制御するという形態のよしあしとは、相対的には別のことだ。まず、利用者が選択し決めるという場合にも、その本人が現金を支払うことは必須ではない。そもそも、もともとの金は、国家・政府から出た金でもある。現物給付・対・現金給付を論ずることは従来社会福祉(学)のなかで論じられてきた。例えば所得保障としてなされるものは現在ほぼ現金給付だが、かつては現物給付の部分も多くあったりもした。いずれがよいとかといういう議論がなされてきた。これはまずまず大きな論点で、もちろんここで全体を論じることはできない。ただ、所得保障の場合であれば、全体(の金額)を一定としても、何をどれだけ消費するのかを個々人が決められた方がよいとは言える。よって基本的には現金給付の方がよいとなる。
それに対して、介助は、誰からという違いはあるとしても、必要なものは一種類ではある。自分で払うという形が、自分が選ぶというのとは異なる意味をもつとすれば、それは介助者に支払う金額を自分が加減できるということができる場合のことだ。そのことによって定額であってもより多くの介助を得ることはありえなくはないが、それについては、本来は、総量・総額として必要なだけが要求されるべきであり、個々への支払いを利用者が加減できるのがよいとは言えない。となると、介助の場合には、利用者の選択・決定が大切であるとして、それが実現できる条件があるのなら、現金を得て支払う仕組みをとる必要は実はそうない。
となると、次の問い、というか、さきの資源・お金を出す・出させることに関わる問いの次の問いは、利用者が選ぶこと、決めることをどのように捉え、それをふまえてどのような具体的な仕組みを構想し実現するかである。
自分が選ぶ、管理することによって利用者の側が強くなる可能性・蓋然性はある。しかし、そうなるとは限らない。このこともまた当然のことであり、また私たちが「事業」に関わるようになって、今さらながらに感じていることだ。わかりやすい例では、自分にとってよくない人、うまくいかない人たちを切っていって、結果、誰もいなくなる、そのために自分の生活が立ち行かなくことはありうる。いや現にある。すると、自分が一人で決めて個人経営し管理する形態のほうがかえって、自らががまんせざるをえないこともありうる。対して、事業所との契約であれば、そこの責任にして、より簡単に介助者を交代させていくといったこともできうる。やはり実際、そんなこともよくある。
他方、働く側にしても、個人対個人の契約で、首を切られたら、すくなくともその職はなくなる。うまくやっていっていても、本人が亡くなってしまったら翌日から仕事がないということもある。それでも、その方がよいという場合はありうるが、それは次の(似たような)仕事が見つかりやすいといった条件が満たされた場合だ。そこで、うまく次の職が得られるような仕組みを作ることもできなくはないだろう。以上から、介助者・利用者の力関係も、場合によって違ってくる。他に(適切な人が)いないなら、介助者の方が強くなることもある。逆のこともある。
こうして考えていくと、どのような形態が、誰にとって、どの程度、よいのか。一つの正解はないというのが正解になる。これは、ただよくわからないということではなく、きちんと考えていけば、単一の解がないことが証明できるということだ。すると、いくつか可能なかたちを併存させることができるのがよいということになる。自分が自分ひとりのために採用し利用するという形態も、他人まかせ事業所まかせというのでも、どちらでもよい。どちらも可能であるような仕組みが望ましい。そこから見ると、ここまで作られてきた仕組みはそんなには悪くない。そのことを第4章「組織を使う作る」で述べた。
「こうして「自分のために」というものから、より多くの人に提供しより多くの人に働いてもらういうものまであって、その幅の中に、組織を使う、ときに組織を作っていくということがあります。またお金の管理の部分を自分でやる/やってもらう、人を集めて介助のやり方を教えるのを自分でやる/やってもらう、とか、自分で担う部分と、他の人・組織にやってもらう部分を様々に選ぶことができます。そういう広いレンジがある。これはよい仕組みだと思います。その仕組みが、いろいろと試行錯誤をしたり、政策がころころ変わったりするなかで、作られてきました。」(108頁)
■自己決定のこと
次に出されるのは、自己決定について、できない人はどうするのだというお話だ。
評者には、自己決定至上主義の障害者運動・対・「従来のケア」という2つの項があるようで、その対立で話が進むところがある。さきのダイレクトペイメントにしても、それが前者に割り振られ(しかも自分で自分の金をもっている→自分で決める、というそれこそ「新自由主義」的なものが前者の方に割り振られ)、それでみなうまくいくの?という話が、前者と結びつけられる。それとまったく同じ構図で、自己決定をもちあげる人たちがいるが、しかし…、という話がされる。
前者を(だけ)私が主張しているのではないことは評者も理解されているようだが、なんでここに上野千鶴子の『ケアの社会学』がさしはまれるのかさらによくわからないのだが、はされまれたりしながら、「著者は自己決定が難しい人々や意志疎通がほとんどできないために、自己決定できるのか否かも認知されていない人々を想定しているのだろうか」と言われる。
しかし、答えは本書の内部においてはっきり示されている。まず一つ、本書に書いてあることは、いくらかは紹介していただいているように、決定(能力)は、しかじかの理由で大切だが、必須の条件でもないし、なにより大切というほどのものではないということだ。そして、もう一つ、生きていくために介助が必要であり、それがきちんと供給されることがなされるべきだと述べた。
とするとそこから導出される、論理的に、普通に、唯一の方向は、自分が決定しなくても、決定できなくも、決定を表出できなくとも、必要なものは提供されるべきであり、もちろん、よいものが提供されるべきだということである。そのことを、第8章「へんな穴に落ちない」、その「自己決定主義について・1」「2」で、これ以上はっきりと言うことができない言い方で、はっきりと述べている。そしてもちろん、この前に述べた「そのうえでどのような形態か」も、このことから言えることになる。「自分でなんでも決めて差配できないといけません」、ということには、まったく、ならない。
しかじかの場合に具体的にどうするのがよいのか、そうした記述が具体的でないということだろうか。しかし、まずだいたいのことは、わざわざ書かれたり言われたりしなくとも、誰にでもわかる。例えば、寒いとか痛いとかは、まずはよくないだろう。それ以上のこと、細々としたそして大切な具体的な技や、遵守すべきことについては、また別に書かれたらよいだろう。
以上、それだけのことだ。それを、どうすると、間違って、というか、受け取りようがないように受け取ることができるのか、私にはわからない。ついでに、「自己決定(至上)主義」と「障害者運動・CIL(的なもの)」について、少し付記しておく。本書でとりあげた『当事者主権』(中西正司・上野千鶴子)という本については、読みようによっては、「至上主義」的に読めてしまうことは述べた(190頁)。そして、もっと普通に考えればこうなると思うことを記したことは今述べた通りだ。そして、その「至上主義的」な傾きのある中西にしても、死の自己決定に賛同は――むろんそこに矛盾はないかと考えるという道はあるが――していない。はっきりと別の主張をしている。そして、日本の障害者運動の重要な部分が至上主義から遠いところから出てきて、そこに基本的に留まっていることも知られている。そして、現在も、CIL(自立生活センター)が自己決定しない/できない人に介助を供給していないかというと、そんなことはない。例えば本書に何度か登場する甲谷匡賛(64・87頁)の言葉を読みとることは、今は誰にもできない。そうなって、その仕事から撤退したかといったら、そんなことはない。知的障害の人とその介助・支援のこと等についても、ここでは紹介しないが、ここのところいくつもの文章・著作があること、もちろんその手前に多くの実践があることはよく知られている。本書に出てくる、「日本自立生活センター(JCIL)」、「メインストリーム協会」はとくにその活動に熱心に取り組んでいることで知られている★10。
■安楽死のこと
そして、生死のこと、具体的には安楽死については次のような文章が書かれる。
「生死をめぐる障害への差別を解消しようとして、障害の有無に関わらず死は良くないのだと論ずることによって、障害者の差別経験が捨象され、障害者の不平等は温存され、……。逆に障害という不平等な経験を特殊化し、問題化しても、障害者固有の問題というラベルが与えられ、不平等は強化されてしまう。」
ここにもひどく単純な図式がある。つまり、一般・個別が対置され、一般化すると個別性が無視され、個別を言うと全体から無視されるというお話だ。
まず、この主題に即して簡単に言う。死はとても多くの人が避けたい(先延ばしにしたい)と思っているが、死にたいことの全部が全部、否定されるべきだとは私は主張しない。ただ、それについて慎重であるべきこと、勝手に好きなようにどうぞとは言わないほうがよいことは、言える。そして、幇助、代行はよくないとされた方がよい。そこに死を助けようという側の信条・利害――普通に死が恐い人はわざわざ人の死を助けようとはしない――も関わり、死なずにすむ人が人が死ぬことになる可能性は高まる。ここまでは、基本的に誰についても言えることだ。障害の有無は関係ない。
では、どういう人が死を望むか。多く、そんなに美しい理由で人は死のうとはしない。なかで、できないことに関わる規範・気持ちは大きな部分を占めている。できない人〜その結果(この社会では)稼ぎが少ない人、得たいものを得られない人の全部を障害者と呼ぶかどうは、基本はどうでもよい。ただそれが死にたい成分の大きな「部分」であることは言える、とともに、まったくそれは社会全体の仕組みに由来して生ずることなのだから、社会全体の問題であるとも言える。だから、固有の問題であり全体の問題である。全体と個別について、このように言って、なんの問題もない。むろん、「死は良くないのだと論ずること」と同時に、「差別経験を捨象」しないことはできる。二つはまったく論理的に両立する。
次に、よいとかわるいとか言う前に、実際には、多くの人は自分で死ねてしまう。ただ、そのことが自分でできない(障害がある)ために、死ぬのに手伝いがいる人がおり、手伝いが必要な場合がある。だからこの点で、「安楽死」の問題は、基本は、障害者の問題であると、やはりよいとかわるいとかと別に、事実として、言える。この意味で「固有の問題であると言える。
書評にとりあげられてはいる「自殺幇助」「嘱託殺人」についての私のもの言いが、ここまでの筋と整合することは容易にわかるだろうからもうよいだろう。自力で死ねない人だけ死ねないというのは不公正だという(わりあい執拗に繰り返される、わからではない)話に対して、実際には死ねないわけではない、ただし…、と言っているのである。
ではどうするか。それについてたくさんの文章・本を書いてきた。「死を助けることが常に倫理的に間違っていると、私は考えません。しかし法の水準では、それは犯罪とし、罰した方がよい。そういうことです。/乱暴でない話は本でしています。四つもあります」(232頁)。
評者が、『完全自殺マニュアル』を点字訳するかしないかといった議論を、しかもこの本を読んでいつでも死ねると思ってかえって死なずにすんだ知人がいるといった挿話――そんなことはありうるし、実際あるのだが、その話をここにもってくる理由は私にはわからない――とともに、ここに差し挟むわけもよくわからない。一般に、評価が分かれ人を死に誘導する可能性のある言説(そうした話はしぬほどそこらにある)を、障害者にだけ隠すべきだという理屈はない。その上で、言うことと、実際に行なう(手伝う)こととは、もちろん、異なる。また言うだけだったら何を言ってもよいのか。それも違うだろう。第9章「こんな時だから言う、また言う」の「確認1・「ああなったら私なら死ぬ」は普通は誹謗だ」(230頁)ではそのことを述べている。ついでに、次に述べることには、「確認3・「特別扱いするな」はさらに意味不明だ」(236頁)が関係する。
■「ジレンマ」という常套句
このように、たしかに幾つも理論的な論点を含むのではあるが、まったく具体的な主題でもある死・安楽死のことを、評者は個別性と普遍性、…の「ジレンマ」という図式で言う。しかしこれはそういう問題なのか。この主題に即すればそうではないことは今述べた。ここではものごとの捉え方について。
ここにも二つある。一つは、個別の特殊な問題ではないのに、そのように間違って認識されている場合だ。それを正そうと、例えば介助はみながやがて使うようになるという意味で「みなの問題」であると言われる。まあそれはそのとおりだ。そんなことにも気づかない人がもしいるのなら、教えてあげた方がよい。しかし、いつまでたってもなぜだか元気という人間はいるし、いてわるいわけでもない。そしてみなが必要とは言っても、程度の差はあり、それはときにかなり大きい。現実には全体のある部分の人たちが被るできごとがあることを、無理して否定する必要はない。私自身は、障害を障害でないものからあまり強く区別をする必要がないとする立場をとり、そこからものを言ってきた★11が、その立場はそれとして、「固有の問題」がありうることは認める。例えば視覚に障害がある人に固有の問題はあると言ったってよいだろう。あるものはある。それだけだ。
ただもう一つ、より重要なのは、問題が今述べた意味での個別の問題であっても、それは、全体が引き受けるべき問題であると主張することはできるということだ。そして言うまでもなく介助自体が、ここでそれを言わずにどうするという行ないである。一部の人たちであることと、その解決・改善のために全部の人に義務があるといったことはまったく両立するし、むしろさせねばならない。そこにその主張の意味があるということだ。そのことを否定したらまったく元も子もない。また本書を読んでも理解できなかったということなら、本書はないも同じだ。
もちろん多くの問題は、他の人たちにもあるだろう。しかし、なんでも「みなの問題」と言わねばならないわけではないし、「私たち全体のこと」とせねばならないわけではないということだ。だから、「固有の問題」であると居直ってよい場面、そこから引き下がらないという立場をとった方がよい、その方が楽だという場合はあるということだ。とすると、否定するべきは、そのへんのことを(一部の人たちのことなのだから)その一部の人たちだけで解決される個別の問題と「される」ことであることになる。これもまったく単純なことだ。
たしかにこれは、負担できないことはないのだから負担すればよいというさきの私の話と同様、正論でしかなく、建て前でしかない、かもしれない。その実現が困難であるということはある。「みなの問題」だと言うのは人々の同意を得るさいに有効だから、その筋の話の限界さえわかっていさえすれば、使ったらよい。「「明日、事故にあって障害者になるかもしれないじゃないか」とか「年をとったら介助が要るようになるよ」といったことです。それはそれで間違いではないから、言ってもよいとは思います。政治哲学だとか難しそうなことを言っている学問にしても、簡単にまとめてしまえば、そういう筋立てになっているものがかなりの部分を占めます。人間、思いつくことはそうたくさんはないということです。ただ、…」(234頁)
手練手管は考えた方がよいし、使えるものは使ったらよい。ただ同時に、基本をどこに置くか、それが大切だし、それが定まった上で、各種の戦術の何をどのぐらい使うかの見当もつく。
比較的知られている議論としては「再分配と承認のジレンマ」というナンシー・フレイザー(Nancy Fraser)、アイリス・ヤング(Iris Marion Young)といった人たちによる論争があった。そして、ミノウの「差異のジレンマ」という論もたしかにある。ただ、まず一つ、こうしたジレンマの話には論理的な誤りがときどきあり、しかもある種の――ある部分に固有のことは全体には通じないといった――「常識」に依拠してしまっていることを一つの要因として、どこがおかしなことになっているのか容易にわからなくなってしまう人がおり、そのためにかえって議論を無駄に混乱させてしまうというところがある。私も、再分配と承認のジレンマなるものを巡る「論争」について少し論じかけたことがあるが、むなしくなって途中でやめた。ただこういう話に限って、言及されたり、援用したりしようとされてしまう。けっしてよいことだと思わないので、元気を出して、整理しようかと思ったほどだ★12。
そしてもう一つ、フレイザーにせよ、ヤングにせよ、ミノウにせよ、たんに「どっちに行っても難しいですよね〜」といった類の話で終わらせようとはしているわけでなく、いくらかでも前に進もうとして議論をしているということだ。そこまで話を進めないと、すくなくとも進めようとしないと、ただぼやいているだけのことだ。そしてそのぼやきに「ジレンマ」とか「アポリア」とか表札をかけたら、そして、そこに「床屋政談」より高級な感じは加わるのだが、あるいは加わるがゆえに、それで終わりにしてしまったら、とてもよくない。
■書評Uについて
書評Uについて。最初に述べたことを繰り返す。それはおおむね本書の紹介に紙数があてられているのだが、それを読んで、本を読んだ気にならないでください。どうか買ってください。
ここに示されているただ一つの論点は、「へんな人問題」だと思う。ちゃんとした仕事、事業になっていくにつれて、「へんな人」が除外される、それが残念だというのだ。私は「どうもこのごろ普通の事業所になってしまってつまらん、という嘆きはわからないではない」(206頁)と書いたうえで、「ですが、しかしそこには、実は、毎日、様々な事件が起こっています」(206頁)とつなげている。つまり働き運営する側にとっての波乱や激動のこと(だけ)を言っている。それと別に、へんな人がそこにいること、へんな関係がそこにあること、それはそれで大切であること、大切かわからないが気持ちがよいことがあることは認めよう。
私は、ちゃんと仕事をすることと、仕事的な関係(だけ)でない関係があり、へんな人がいることは、基本的には、両立すると思っている。例えば、本書に描いたような仕組みと違う、「濃い」関係を築き維持した新田勲(131頁に写真)たちのことを書いた深田耕一郎の本(深田[2013])がある。私自身はそこにずっといたらちょっと辟易すると思うが、それは好みの問題だとも思うし、そういう場・関係があってもよいと思っている。制度の仕組みの上に、濃い関係を乗せることはできると思っている。ただ、その具体像を描くのは、そういうことを考えたい、というよりそういう場を実際に作りたい人たちに委ね、私は別の仕事をしようと思う。
■註
★01 「生政治」は平凡なものだ「生権力」は凡庸に作動してきたとはこのことを言っている。『精神病院体制の終わり』(立岩[2015])、『病者障害者の戦後――生政治史点描』(立岩[2018b])などがそのことを書いている本になる。
★02 私の書いたものでは『精神病院体制の終わり』の第3章「地域移行・相談支援」(立岩[2015:113ff.])等。また萩原浩史の『詳論 相談支援』(萩原[2019])。
★03 今のところ「合同会社ある」では検索しても上位に出てこない。工夫しようと思う。URLはhttp://aru.official.jp/index.htm。
★04 ダイレクト・ペイメントについて、2010年にコリン・バーンズ(Colin Barnes、当時リーズ大学)が私の勤務先で集中講義をしてくれた時、日本のことを知らせようと書いた連載の一回に記した(立岩[20100)。全文をこちらのサイトで読める。その前年、この主題を研究してきたリーズ大学のサイモン・プリドー(Simon Prideaux)を呼んで、この主題での研究会を行なった。その時に作成した資料(立岩[2009])も全文を読める。
★05 ただ、まったく不可解なのだが、さきに引用した対比を言う段落、終わりは「経済的な資源に恵まれた障害者がより良いサービスを享受でき、…」という文章になっている。とすると、自分で自分の金をもっている/もっていない(→国家の)という対比での話なのか。そして金をたくさんもっていれば、たくさんサービスが購入できるのはまったく自明だ。しかし、もちろん、言うまでもないことだが、「当事者運動」がそれを主張したことはない。ダイレクトペイメントにその可能性があるという点については後で述べる。ここで言及されているCarol Thomasという人がほんとうにそういう単純かつ混乱したことを言っているはずはないとは思うのだが、もとは確かめていない。それは私の義務ではないと思う。
★06 税・税制がどのようにほぼ気づかれないまま変容してしまったのか、またどのようにしたらよいのかについては『税を直す』(立岩・村上・橋口[2009])。
★07 例えば『希望について』のV「境界について」に収録した、「贈り物の憂鬱」、「市民は当然越境する」、「共同連のやろうとしていることはなぜ難しいのか、をすこし含む広告」、「限界まで楽しむ」(立岩[2006:91ff.])を読んでいただけるとありがたい。
★08 1970年代の東京青い芝の会の主張について。「第二に、年金制度の獲得を第一の目標とした場合、その額を超える介助料の要求は非現実的で、かえって運動を阻害するものと捉えられた。租税・保険料の再分配としてあるものを要求する限り、それを支払う側の了解を得ることが必要であり、そのためには…」(立岩[1990→2012:286])
★09 「「分け方」の問題であって、ものにせよ人にせよ、「総量」が足りないということではありません。これまでに私の書いたものがあるけれども、とさっき言いました(30頁)。これからそれを短く、やさしくして、そしてなぜ間違った話が流布してしまっているのかを加えて、やはり新書にして出してもらおうと思っています。」(59頁)
★10 映画『道草』(宍戸大裕監督、2018、本書44頁)の上映会をしたことがあった。その映画を見ていただくのがまずはよいと思う。その上映の後の宍戸監督との対談(へのインタビュー)として宍戸・立岩[2019]。全文を読むことができる。
★11 『不如意の身体』の第4章「障害(学)は近代を保つ部品である、しかし」(立岩[2018a:97ff.])に私の捉え方を述べた。
★12 立岩[2013]。長い連載のこの部分は(他にもまだそういう部分がかなり残っているのだが)単行書化されていない。『自由の平等』(立岩[2004])の増補・文庫本化を予定しており、そこに加筆のうえ収録することを考えている。
■文献
安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店
―――― 2012 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版
深田 耕一郎 2013 『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』,生活書院
萩原 浩史 2019 『詳論 相談支援――その基本構造と形成過程・精神障害を中心に』,生活書院
宍戸 大裕・立岩 真也 2019 「宍戸監督に聞く」,於:立命館大学朱雀キャンパス http://www.arsvi.com/ts/20191221.htm
立岩 真也 1990 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」,安積他[1990:165-226→2012:258-353]
―――― 2004 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店
―――― 2006 『希望について』,青土社
―――― 2009 「質問+日本のことを幾つか」,ダイレクト・ペイメント,その論点――Simon Prideaux氏と話す,立命館大学 http://www.arsvi.com/ts/20090714.htm
―――― 2010 「障害者運動/学於日本・4――ダイレクト・ペイメント」,http://www.arsvi.com/ts/20100094.htm
―――― 2013 「制度と人間のこと・8〜9――連載・86〜87」,『現代思想』2013-2, 2013-3
―――― 2015 『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』,青土社
―――― 2018a 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社
―――― 2018b 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社
立岩 真也・堀田 義太郎 2012 『差異と平等――障害とケア/有償と無償』,青土社
立岩 真也・村上 慎司・橋口 昌治 2009 『税を直す』,青土社
■お知らせ
◆2021/11/15 あるのメンバーに
[arukyoto:0149] 1120ミーティング/26〜27研修(Re: 本日13時からミーティング
こないだのミーティングでは次は1120ということだったと思います。
Zoomでも参加できるようにします。&場所は同じ
http://aru.official.jp/ts/kitayama.htm
26〜27医療的ケアふくむ研修ということだったと。
変更とか、詳細情報とかあったら知らせてください。
https://twitter.com/ShinyaTateiwa
などでも広告しますので。
ついでに
http://www.arsvi.com/ts/20220004.htm
の「リプライでないこと・1」「2」を(他はよいので)
読んでいただけるとよいかと思います。
立岩
http://www.arsvi.com/ts/0.htm