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窪田好恵さんの、博士論文がもとになった本、『くらしのなかの看護――重い障害のある人に寄り添い続ける』(2019、ナカニシヤ出版)が刊行された。
http://www.arsvi.com/b2010/1904ky.htm
私はそこに「ここにもっとなにがあり、さらにあるはずについて――解題に代えて」という文章を書かせてもらった。それを分載していく。その間に、買ってください(オンライン書店、予約始まっています)、そして/あるいは、図書館、図書室、研究室…にいれてもらえるよう、リクエストしてください。
今回はその3。◆のところになります。
■「論文の要旨」
■「論文審査の結果の要旨」
◆具体的に個別の全体を書く、というのもある
□その各々の配置を見る、というのもある
□今とは違う人が入った時期もあった
□ざらっとした部分を、少なくとも残しておく
□開いておくために、絞りこむ
「■具体的に個別の全体を書く、というのもある
本書のもとになった論文は、だいたいいま引用したように評価できると思う。その上でだが、幾つかある。そして「要約」「講評」的なものはもう終わったことにして、以下は、解題とか解説ではない。せいぜい、横からなにか言うといった類のものだ。そしてそれは本書に対してというだけのことでない。日頃思っていることを、すみませんが他人さまの本に、というものになる。そしてさらに反則だが、拙著(立岩の本)の引用など長く――さきにあげた葛城本にはもっと長い引用をしてしまったのだが――引用する。
何を書く/書かない/書けないかについて。看護の人は結局看護師のことを書く。それは看護学ならほぼ仕方のないことだ。看護という実践に関わる学が看護学というものということになっているからだ。ただ私が働いている研究科は看護学の研究科ではないから、その制約はない。それでも、著者は看護師のことを書きたかったのだ。なら書けばよいというだけのことなのではある。ただ、例えば訪問看護のことを研究している人がこちらに幾人かいるのだが、看護(師)のことを書くにしても、看護されている人にとっての看護(師)のこと「も」調べて書いたらよいのに思うことがある。同じことは看護(師)が関わる他の様々についても言えることだ。
しかし、本書の場合は確かに難しい。理由はまずは単純で、重症児者は、ほぼ、語らないからだ。そうした場合は仕方がないのか。仕方がないとは言いたくはないが、どうしたらよいか。どうにもなりはしない。しかし、それでも、いろいろとやってみることはできる。
2019/04/26
本書に書かれているように、看護師になった時期、その施設で働いてきた期間によって異なるというのはその通りだろう。ただ、著者がよくわかっていること、そして著者と幾度が話したことがあるのは、施設によってもかなり違うということだ。
そのことは今回本書には書かれていない。それは著者がこちらの大学院に来る前に既に始まっていた調査における調査対象の選定、同意のとり方に制約されていて、仕方のないこと動かせないことだった。だからまったくのないものねだりなのだが、その空間がどういうふうにできてそして今どんな空間なのか、具体的にわかるとよかった。それは一つの場でもまったくかまわなかったと思うが、幾つかの施設であれば、その各々について書かれ、そのなかで働く看護師のことが書かれるとよかっただろう。
私は書かれたものを使って書くから、そこに固有名詞が書いてあればそれをそのままに記す。ただそれだけのことでなく、どこの病院・施設で、ということは大切だと思う。「A病院」とかでも、かまわない。さらに可能なら、人にせよ施設にせよ、固有名を記すのがよいと思う。その理由は幾つかあるかが、一つには、「それ」「その人」についての次の研究を誰かができる、引き継げるということだ。同じものを別の面からみる研究・記述もできるということだ。
この部分で、本書がではないが、多くの研究に無駄でときに有害な萎縮があると私は思っている。それは近年の「研究倫理」の流行にもよるのだろうが、それだけのことではない。例えば施設入居者への(もちろん本人同意のうえでの)調査・インタビューやその公表について、施設の側の了承を得ねばならないと思ってしまっている人がいる。これは、基本的には、とんでもないことであり――施設の側にそんな権利・権限などあろうはずがない――そんなことを思ってしまうこと自体が、よくない現実を維持し肯定しているその一部であるということには気付くべきだ。
■その各々の配置を見る、というのもある
こうして本書では、研究・調査の設計として、一つひとつの施設の成り立ちやその空間のあり方と看護師たちの働きや感じ方をつなげることはなされなかった。そこで[…]」