星加良司の本を『現代思想』連載の4回分、榊原賢二郎の本を1回分※、書いてそれを04/18刊行の『社会モデル』ver1.3に収録した。
http://www.arsvi.com/ts/2016m2.htm
今年中にまとめるつもりだが、その時には構成などだいぶ変わっているはず。『社会モデル』には連載で取り上げられなかった部分、本にはならない部分たくさんあるので、これはこれとしての価値があると思う。分量あるが、HTMLファイルなので検索なども便利。
※「榊原賢二郎『社会的包摂と身体』――連載・144」,『現代思想』2018-4
http://www.arsvi.com/m/gs2018.htm#04
まだここでは、2月号掲載の
◆2018/02/01「社会科学する(←星加良司『障害とは何か』の3)――連載・142」,『現代思想』46-(2018-02):-
http://www.arsvi.com/ts/20180142.htm
からの分載を続けている。この回の目次は
□大きな話は終わっていない
□社会(科)学は
□ただ一つひとつ応ずればよいではないか
□嘘を言うから「障害」が要ると言われる
こうやって切れ切れだと全体は見えない。それは仕方がない。ただこれらの断片を、できれば、ゆっくり読んでいただきたいと思う。
なお[200003]は『弱くある自由へ』所収の「遠離・遭遇」
http://www.arsvi.com/ts/2000b1.htm
[200810]は「楽観してよいはずだ」
http://www.arsvi.com/ts/2007080.htm
「□嘘を言うから「障害」が要ると言われる
[…]
「次に、こうした場面に「障害」が現れることについて。「障害」は、この追加分が必要であることの理由、証拠、徴(しるし)とされる。しかじかの障害があるのでその部分が補われねばならないとされる。移動について補わればならないのは、その人の足が動かないのを見ればわかるだろうということになる。「障害」が現れる、呼び出されるのはこのようにしてであり、それだけである。
とすると次に、ここで提供される条件を「普通の意味での(狭義の)障害」に限定する必要がないこと、むしろ限定するべきでないことが明らかである。この社会は、しかたなく余計に手がかかること、そのことにかかわるその人の事情のすべてを障害だとはしていないが、そのことに正当性はない。身体にそのことを示す「徴」がある場合もあるが、ない場合もある。あろうとなかろうと要るものは要るのだから、提供されればよい。これで話が終わるのであれば、この場面では、障害は存在しなくてよい。
しかし、そんな事情が本当にあるのか、ない場合もあるのではないか、虚偽があるではないかと言われる。それでは困るというので、証拠がいる、種々の診断が必要だということになる。するとやはり「障害」が要るのか、それとも要らないのか。
まず、要らないとすることの方が望ましいということは言えるはずである。検査され詮索される。検査され詮索されても見つからない場合がある。証明せよと言われて困ることがある。査定されて、不満足な査定結果しかでないことがある。審査され査定されることが愉快なことではないだけでなく、実際に困る。それで、実際、手帳や等級は怨嗟の対象になってきた。そしてその歴史を追い、主張を検討することも必要だ。
その怨嗟を受け、そこでなされた主張の線を進めていけば、一つに、要ると言われたらそのまま認めればよいということになる。ただその要求は疑わしいから証拠を、ということだった。無駄な膨張をよしとしないというその要請は、一つ、資源の有限性とは別に、余計な労働は控えたいという、それ自体はもっともなものである。では、徴を取り出し、証す必要はやはりあるということになるか。
私がこれまで述べてきたのは、まず、審査はよくないことを引き起こすから控えられるなら控えた方がよいということだった。また、例えば介助は仕方がなく必要なもので、それが増えるのは他人のいるときに煩わしい時間が増えるということでもあり、その要求が大きくなることはそうはないということだった。それは依然として言えると考える([200003])★12。ただ続きもある。」
「★12 [200003]、以後、[200810]など幾度か繰り返している。一つには医療については基本出来高払いであり、それはそのままにされた上で「福祉」のほうでは別の話がなされていること、その差異に気づかれもしないとはどういうことかといったこと。供給者である医師の専門性(があるゆえに委ねてよいといったこと)が言われるのだが、一つ、実際にはいくらも怪しげで過大で有害な供給がなされている(医療の場合には過大は加害であることが多く、比べれば「福祉」のほうがまだ過大が加害につながる場合は少ない)。一つ、その専門性とは結局、不正をしたら失うもの(資格停止、に伴う収入の喪失等)が大きいということだけで、ならば失うものを大きくすること(不正のない場合にはたくさん与えること)の方が別の制御の方法より経済的・合理的と言えるかも問われる。[200810]の6「「過大申告」と基準について」。その内訳は「「最低限度」「人並み」は自明ではない」、「上限はおのずと決まってくる」、「それでも基準が必要ならば…」。
「「過大請求」は現実に生ずるだろうか。まず所得保障の場合、ほしいだけ支給するというのはたしかに難しい。お金はなんにでも使えるし、あればあるだけよいと思う人はかなりいる。しかし使途が限定されている場合にはそうなるとは限らない。例えば医療では可能だ。[…]医療はあればあるだけよいというものではない[…]。注射をいくらでも打ってほしいと思う人はまずいない。薬にしても注射にしても、多く使えば使うほどよい結果になるわけではなく、そして注射は痛い。さらに、かえってそれでは自分の健康が危いこともある。病院にずっといたいわけでもない。
すると[…]それは特別な場合に限られる[…]あればあるほどよいとは言えないものは特別なものだろうと言われるかもしれない。[…]だが介助はどちらか。まず、一日は二四時間でそれ以上長くなることはない。そして多くの場合、その仕事は一人について一人で足りる。上限は自然に決まっている。次にやはりここでも人はそう多くをほしがらないかもしれない。[…]介助は[…]必要不可欠なことではあるものの、それ自体はうれしいことではない。むしろわずらわしい。必要でない時以外には人にいてほしくはない。だから、その人が「ほしいだけ」というきまりにしても、そう増えることにはならないはずだと中西〔正司〕は言う。[…]
この主張には一理ある。たしかにたくさんあればあるほどよいというものではない。そして、あなたにはどれだけと決められるのは当人にとってはいやなことではある。これこれの状況のあなたの場合にあなたに認められるのはどれだけ、と決められる。介護・介助は生活全般に関係することだがら、生活の全体が査定されるのに近い。それはうれしくない。[…]とくに査定をせずとも、現実がおおむむうまく落ち着くならそれが一番よい。そのために考えるべきことを考え、できることをしたらよい。
まず必要以上に膨張させる要因は、利用側というよりむしろ供給側にある。たくさん買ってもらったらうれしいから、たくさん売る。「過剰医療」と呼ばれたものの背後にあるのもそういう利害だ。それはそれで[…]対応すべきであるが、そのために利用者側に制約を課すのはよいやり方ではない。[…]/また、たくさん使ってしまう人はたとえば心配な人である。そのうち減らされるのではないかという心配があり、とれるときにとっておこうとする。しかし[…]うまく取り除かれればそう多くはいらない」([200810])。」
生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20182498.htm
にもある。