◆2018/02/01「社会科学する(←星加良司『障害とは何か』の3)――連載・142」,『現代思想』46-(2018-02):-
http://www.arsvi.com/ts/20180142.htm
より。目次は
□大きな話は終わっていない
□社会(科)学は
□ただ一つひとつ応ずればよいではないか
□嘘を言うから「障害」が要ると言われる
「□ただ一つひとつ応ずればよいではないか
[…]
だがまず一つ、全体としてよいことがよいだろうことと、その全体の幸福度や不幸度を計算できると考えること、また計算すること、計算しようとすること、比較しようとすること、比較することがよいこととは別のことである。それが時に必要とされることを否定しないとしても、それはかなり暴力的なことではある。人の幸不幸をどのようにしてとやかく言えるのかといったことである。それは少なくとも困難であり、仕方がない場合に認められることであり、その場合にはどうして仕方なく必要であるのかを言う必要がある。その乱暴な例の一つを後にヌスバウム(Nussbaum[2006=2012])について見ることになるだろう。
次に、人が、さらに政治、政治的再分配の仕組みがどれほどのことができるかということがある。それらは、人の幸福や不幸の大きな部分について、大きく関わることもあるが、それでもたいしたことはできない。できることは、せいぜい、関わって左右できること、増やすことができる部分について、その度合いを計ったり、その部分のその限りについて、幸福を増やしたり不幸を減らしたすることだ。全体については何も言わない、計算しないということでよいとされよう。私が著者であげた幸福な人への車いすの供与という例についていえば、関与しようのないそして/あるいは関与すべきでない全体を基準に、供与を控えることにするのはよくないと思われる。
そしてあるものが得られることが認められるなら、その取得から除外される条件として幸福であるというのもおかしい。それはさきに記した全体として幸福がよいとしたことに対して、かえって否定的な行ないである。よいものを得るにはよいものを失うことになるのだ。関連する箇所として星加が取り上げたのは『自由の平等』で「総合評価」に関する記述だった。「各項目についての達成度や満足度の合計が可能だとして、その合計点が高いことはよいことではあるだろう。しかし、総合評価して高い点数の人についてはある項目を無視してもよいということになるだろうか。いや、それはそれとして考えるべきではないか」([200401:189])★04。」
「★04 この部分については星加も同意している。「確かに「車椅子の支給」という主題に関しては、「人の置かれている環境、身体的な状況」の差異に対する補正だから、上のように結論することは、少なくとも立岩理論の内部では妥当である。」「この議論の文脈は、「効用」の総合評価をめぐるものであり、そうした基準の設定に無理があることには我々も同意する」(星加[2007:193,210])。
ただ、「特に嗜好に関する個人の選択が介在するような領域では、個人の生活の全体を視野に入れて考えなければならないケースはあるように思われる。/個人がどのような文脈で不便を経験しているのかは各項目だけを見ていたのでは分からないし(ある場面で移動の不便を我慢する代わりに別の機会に高価なワインを飲みたいという人など)、個人間比較をする際にも同一の資源が別の意味を持つことを理解するには一定の時間的な幅を持って評価をすることが必要になる(いつも高価なワインを飲み続けてきた人とまだ一度も飲んだことのない人との比較等)。また[…]」(星加[2007:193])
これらが、ここで言及されている『自由の平等』で考えたことでもあり、また今回論じていることでもある。」
生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20182489.htm
にもある。