◆2018/02/01「社会科学する(←星加良司『障害とは何か』の3)――連載・142」,『現代思想』46-(2018-02):-
http://www.arsvi.com/ts/20180142.htm
より。その目次は
□大きな話は終わっていない
□社会(科)学は
□ただ一つひとつ応ずればよいではないか
□嘘を言うから「障害」が要ると言われる
「■大きな話は終わっていない
前々回と前回から星加[2007]を検討している。その論はかなり入り組んだものなので、面倒ではあるのだが、意義があると考えている。ものごとの捉え方の違いが何を生じさせるかということがある。それをわかってもらえる。自分でも、考えるなかで、言うべきことがより明確になることがある。
結局、人は生産して消費して生きている。分ければ二つになるその仕組みを、二つのつなぎ方を考えながら、見つけて示していくことは、依然として社会科学の大きな仕事としてあると考える。星加の本から考えるべきことも、結局その二つになる。そしてその本を取り上げてきた理由の一つは、このところの議論の仕方が風呂敷を広げることを制約してしまうことがよくないと考えるからである。
まず前者、生産・労働・雇用について。それに関わる現在について種々に具体的な、深刻な、腹立たしい事態は記述されてきた。むろんそれは大切だが、これに対して見取り図を示すという仕事は依然としてある。それは退屈な仕事でもあるが、その程度の退屈さには耐えるべきであるとも思うとともに、そんなにへりくだることもないとも思う。大切なものは大切なのだし、考えていくと実はかなりおもしろくもある。星加の論に即するのは次回。以下概略。
今だから重要なのは、一つに、生産の場面にどのように関わっていくかだと考える。そうして考えると、採るべき立場は、すくなくとも普通にリベラルと呼ばれるものではない。そのことは[200401]――以下著者の文章は著者名略、発行月を表記――他幾度か述べてきた。本連載では、「働いて得ることについて・案」([200801])、「素朴唯物論を支持する」([201301])、等。さらに考えて書くべきことがあると思って、また別の仕事をしてしまって、まだまとめてられていない。続きを続けて、本にしようと思う。
仕上げるために読んだり確認したりすべきことは多いが、おおまかな構図は単純なものである。技術の水準が上がり、生産力が増大し、生産に要する労働者は少なくなっていく。そのためもあって労働者は余っている。余るようになることは基本的にはよいことである。しかし、この社会においては、仕事がなければ稼げず、稼げないと暮らせないから、それは多くの人に不利益をもたらす。
そこで人は仕事を得ようとして、なんとか得る人もいる。労働者は、種々の機械・技術があるなかで働き、それらとの関係で条件も変わってくる。労働力・労働者が余っているなかで、賃金は安くされる。余っているはずなのに一人あたりの労働は増え、仕事はきつくなる。そして繰り返すが、それは経済の失敗がもたらすのでなく、成功がもたらすものである。
労働者、また労働者になれない人たちの手取りが減った分は、経営する側、投資する人たちに渡る。それもまたそこに金を投じた人たちの「才覚」であり「能力」であると言ってのける人はいるだろう。それを全面的に否定する必要はない。ただ、仮にそのように言えるとしても、その才覚がある(かもしれない)人がその益をまるごと受け取ってよいわけではないことは述べてきたとおりだ。
するとこの部分では、一つに、資本を提供し運営し経営を支配する側を追い出して、別の支配を代置するというやり方がある。
ここまでは、たんに古くからあった話である。何も加えていない。しかしそうした、かつて普通にあった話が、ある部分から、例えばこの国の社会科学のかなりの部分から消えてしまったかのようであるのはよくないことであると思う。その古典的な構図は、まったく無効になったのではなく、むしろより現実的なものになっているとも捉えられるのに、である。」
生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20182484.htm
にもある。