『現代思想』2018年1月号が発売されている。
http://www.arsvi.com/m/gs2018.htm#01
そこに載っている私の連載の第141回「星加良司『障害とは何か』の2」
http://www.arsvi.com/ts/20180141.htm
を断片的に分載していく。今回はその第5回。立岩真也編『社会モデル』
http://www.arsvi.com/ts/2016m2.htm
の購入者には、この回の原稿を収録した増補版を無償で後日提供します。
「■定義としては成立しないが
ここで星加は何をしようとしているのか。表現は何箇所かで揺れているが、まず、ディスアビリティ「とは」と言い、「とは不利益が特有な形式で個人に集中的に経験される現象である」と言っているのだから、これはかなり強い規定である。たしかに「不利益が特有な形式で個人に集中的に経験される現象」はあるし、それは重要だ。しかしそれをディスアビリティと呼ぶべき特段の理由があるか。
まず一つ、普通「障害」と呼ばれている現象、また呼ばれうる現象に存する不利益には「集中的に経験されている」と言えない場合があるはずだ。不利益が集中していないものは障害ではないのかと問えば、普通にはそんなことはないと返されるだろう。さほどの不便がなく、不具合が次の不具合を産むといった具合にはなっていないこともある。例えば○○が動かない人がいて、その人はいくらかの不都合を感じているとしても、全体として不利益はそう数多くはなく、深刻でなく、また不具合が次の不具合に連続していくわけでもないといったことがあるだろう。軽重、種々様々がある。そして軽いほうを除外するべき理由はまずはないはずだ。
次に一つ、普通には障害と呼ばれないものについても、複合的であったりさらに複層化する場合があるはずである。不利益が集中しているものは障害以外にもいろいろとあるだろう。星加も、複合化も複層化も「障害者に対して固有に生起する現象ではない」ことを認めていた。
とすると不利益の集中(複合化・複層化)は、ディスアビリティの定義・規定としては成立しないということになる。つまり、「ディスアビリティとはなにか」という問いを立て、種々を廃棄・棄却して辿りついたものは、一つに条件として重すぎる(狭すぎる)場合があり、また一つに広すぎるということになり、この書でなされようとしたことが、定義・規定しようという行ないであるとすれば、それは失敗して終わったということなる。」
生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20182461.htm
にもある。