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「不如意なのに/だから語ること」分載の4回め。
「エスノグラフィ――質的調査の現在」が『現代思想』11月号の特集。
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#11
https:/twitter.com/ShinyaTateiwa
などでも紹介している。
拙稿はそれとは別の連載(第139回)。
http://www.arsvi.com/ts/20170139.htm
以前書いた部分に加え、9月号からの部分をつなげて来年まとめて本にしようというものだが、特集にもいくらか関係はある、と思っている。それを分載していくが、一部しか載せられない。『現代思想』買ってください。
「■苦と死
さらに不如意なことについて。人はわりあい簡単に人を殺すことはできるし苦しめることもできるし、実際に行なってきた。死なないようにすること苦しくないようにすることは、それより難しい。
むろん、人・社会の行ないによって、社会の変更によって、現状の変更は可能である。人が死なないため苦しまないために多くのことができる。社会科学のある部分の発祥もそこにあるだろう。依然として、これから書くことよりも、そのことの方が大切であると考えている。このように言うと大げさだが、関係することを、ただ書くだけでは仕方がないのだが、書いてもきた。
そして次に、直接に人の身体・生命に関わる医療等の技術があって、それが救命・延命等に寄与することがある。そして、むろんそれに社会がどれだけ金を出すか出さないかといったことがあるのだから、以上二者は関係している。
ただ、そんなことをしても、死んだり苦しんだりすることがすっかりなくなったりはしない。やはり人は苦しむし、結局すべての人は死ぬ。できることに限界はある。
病は、(3)痛み苦しむことで、(4)死が訪れることがある。あるいは病によって痛み、死に近づくことがある。私たちは病という語を様々に使うが、日常の用法からそう離れてはいない。
病者は苦痛から逃れることを求める。また死に至ることが遅くなることを求めている。それが実現するなら、つまり病気がなおればそれでよい。それはなかなかかなわないとしても、状態の悪化がとどめられるなら、あるいはその進行がいくらか遅くなるなら、よい。病は避けられてよいものである。それに対する対応は痛みを軽減することであり、死から(しばし)遠ざけることである。
身体的な苦痛の次に、心理的な、社会的な苦痛と並べられるのだが、その後者の苦痛は多く、できる/できないこと、そしてできる/できないことの価値に関わって存在している。差異に関わる苦痛も、加害性があるとされることによる苦痛もある。これらは、実際には混ざり合っているとしても、いったんは分けて、これらは外し、しかし不快や不安や焦燥感や絶望といったものを含むものとする。例えば、精神障害と今日呼ばれるものの大きくの部分は苦痛であるように思われる★07。」
「★07 白田幸治の研究(白田[2014-2016])が関わる。苦しみは(普通の意味での)社会モデルによっては包摂されないと言われる。それはそれのとおりだと思う。関連して桐原[2016]。
身体障害、そして知的障害、そして精神障害と並べられ、そして近年はこの国では発達障害が加えられ並べられるのだが、各々にはだいぶ異なる部分があるように思う。知的障害と呼ばれるものは、認識や表出に関わる性能の度合いの差異、能力におけるできなさであり、同時にそのことに関わる様式の異なりであるとされる。そして日本で発達障害と呼ばれるものは、世界・人に関わるときの差異であり、差異に関わって現象すこの社会でのできなさと受け止められる。これらは必ず辛いというものではない。」
生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20172432.htm
にもある。