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「不如意なのに/だから語ること」分載の3回め。
「エスノグラフィ――質的調査の現在」が『現代思想』11月号の特集。
http://www.arsvi.com/m/gs2017.htm#11
https:/twitter.com/ShinyaTateiwa
などでも紹介している。
拙稿はそれとは別の連載(第139回)。
http://www.arsvi.com/ts/20170139.htm
以前書いた部分に加え、9月号からの部分をつなげて来年まとめて本にしようというものだが、特集にもいくらか関係はある、と思っている。それを分載していくが、一部しか載せられない。『現代思想』買ってください。
「次に、(2)姿形や振舞い、その差異について。それらは他の人に移動できず、多くの場合その人にとどまる。そしてそれに対する人々の好悪の感情も動かしがたいと言われる。それは差別者の居直りの言葉でもある。しかし完全に否定することはできない。じつは社会的なものだ構築されたものだと言えばすむことでもない。この連載では顔の異形等に関わるいくつかの文献を示しいくらかを述べた。
考える際には、不如意でありながらもいくらかのことはできることも含めて考える必要がある。できないものはできないし、異なるものは異なる、と述べたが、それでもいくらか見た目を操作することができることはある。できる/できないのある部分は隠せる。服を来たり、姿を見せないことによって、吃音者が話さないことによって、隠したり別様に見せることができることはある。ただ、身体が不透明で実在するものとしてあることによってそれは可能になるとともに、限界もある。隠せることも隠せないこともあるというだけのことだ。こうした人々の営みについての社会学の文献があるが、有名だからあげる必要もないだろう。それ以前に、人々はすこし変えて見せたり隠したりする毎日を生きているから、既に多くを知っている。そのうえで、その先を考えることは残る。
整形等々が可能な部分もあるとして、そうして変更すればそれですむということではないだろう。人々の選好・好悪がからりと変わるということでもないだろう。だとして、どの程度のことがどこでできるのか。これは自分ができないことは誰かが補えばよいという単純な――しかし実現していないから以前として大切な――話よりは面倒な話だ。だから私たちはもたついているのでもある。そんな事情があって、この主題について途中で止まっている河出書房のサイト上の連載([201109-])がある。再開するかもしれない★06。」
「★06 人は人を差別してしまう。それは望ましくないが、あらゆる場でそれを除去することはできそうにない。とするとどうするか。[201109-]などで述べたことの一つは、差別嗜好(taste for discrimination、[199709→201305:606])による差別を例えば雇用の場において禁ずるという方策である。せめて公私のうちの公の部分について、その場は情緒的紐帯によって作動されねばならないわけではないのだから、だめなことはだめだとしようというのである。」
生存学研究センターのフェイスブックにあるこの文章と同じものは
http://www.arsvi.com/ts/20172431.htm
にもある。