たいへん細切れにして以下引用しているのは『現代思想』2017年2月号(特集「ビットコインとブロックチェーンの思想――中央なき社会のゆくえ」)に掲載された連載第130回を分載しているその第22回。今回でようやく終わり。
http://www.arsvi.com/ts/20170130.htm
は、その第130回に対応した文献リスト。こうして文献リストを別にして本文を長くしたつもりだったが、読み直すしてみると、これでは記述不足・説明不足でなかなか伝わりにくいだろうと思う。わかってもらえるように『現代思想』の連載を進めていこうと思う。
なお最後に記してある次回予告はまたもその通りにはならず、3月号掲載のものは「施設/脱施設/病院/脱病院 生の現代のために・19 連載・131」
http://www.arsvi.com/ts/20170131.htm
となった。今日ぐらいから発売されているはずです。
フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172321.htm
にもある。
「■複数の存在、に由来する不在
[…]
「中立的」であること、あるいはあるべきであるかについて、学の領域によっても随分異なる。例えば、連載で引いた日患同盟に対する批判を批判する福祉学者(小倉襄二、当時同志社大学)の立場はまったくはっきりしている。そして私は立場があってかまわないと思うし、また無関心であってもかまわないと考えている。
ただ、一つ、わかっていないよりわかっていた方がよい。無自覚であることが多いのはよくない。そして、主張を通すためにも虚偽は書かない方がよいと思うし、論理としても事実の水準においても話の確かさに留意した方がよいだろう。そして、学の方面の書き物に利点があるとすると、それはすぐに役に立つことを書かなくてよいことであると私は考える。運動者は、時間がなく手間がかけられず、ということがある。差し当たってせざるをえないことを優先せざるをえないことがある。学術論文にも、一つの論文について一つ(以上)なにか「新しい」ことを示すような体裁が求められ、また数をこなさねばならないといった事情もあり、空疎なあるいは微細な何かを言わざるをえないといった制約もなくはない。それでも今日明日のためにものを言わねばならないということはない。いくらか直接的でないこと、距離をとることができる。だからそんな態度で、様々な人が書いてきたものを集めてきたものを、見せてもらったり読んだりして書いていくことに、一定の意味はある。そんな行ないのために、行ないをする人のために、集めていることについて書いた。次回は、一九六〇年代、筋ジストロフィー児や重度心身障害児について、国立療養所や医療者・研究者にあったことの記述を続ける。その子どもたち(かつて子どもであった人たち)を引き取るに際してあったのは、まず愛・人道であり、空きの出てきた国立療養所の経営だった。加えて研究が、政策が対応し、病院・医療側が引き取るその動因になった。」(連載第130回終わり)