相模原での施設での事件があったりして、それで関係のことを書くことになり、本が出て、さらに補足の文章を書いたりして、それらを紹介してきた。今回から、その前、途中まで載せてきた『生存学の企て』(生活書院、2016)
http://www.arsvi.com/b2010/1603rcav.htm
「補章」を続ける。ちなみにその途中までの最後は
◇2016/08/21 「遠離・遭遇――「身体の現代」計画補足・194」
http://www.arsvi.com/ts/20162194.htm
その途中まででも、27回も続いた。これからもけっこう長くなる。まず買っていただくのが、やはりよいだろうと思う。そしてその前は「序章」の紹介もしたのだが、それはまた別に知らせる。「本体」のほうの紹介もそのうちに。それはだいぶさきのことだから、やはりまず本を買ってもらったらよいと思う。
そして中河・渡辺編[2015]は中河伸俊・渡辺克典編『触発するゴフマン――やりとりの秩序の社会学』
http://www.arsvi.com/b2010/1505nn.htm
三野宏治は
http://www.arsvi.com/w/mk20.htm
フェイスブックに載せているこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20172290.htm
にもある。
「■4 言葉にしていくこと
■日常を言葉にする&言葉でない世界を言葉にするのは難しい、が
三野宏治が仕事をしていたのは精神障害者の作業所だった。それを題材に別の研究科で修士論文を書いた。ただ、このぐらいまでだとなんとなく想像できる。もっとやりよう、工夫のしようはあったかもしれないが、まずはあまり思いつかなかった。それで、自分がそこでスタッフとして働いているという以外に、なぜ作業所が気になったのかを考えることになった。だいぶ苦労することになったのだが、なんとかなった。次節で述べる。
そういう「普通の世界」は書かないほうがよいということではまったくない。うまく書ければ、それがいちばんかっこがよいのである。渡辺克典が共編者となっている本(中河・渡辺編[2015])が出ているゴッフマンという人はそんな人であったかもしれない。ただ、それは「芸」でもある。自分でやってみてどうもおもしろくないなら、いちど引いてみて、違うところを掘ってみるという手がある、あるいは掘ってみるしかないということになる。
他方、日常というのとは違う、むしろ逆向きの営みであることも多々あるのだが、これまでのところ、一つ難しかったと思うのが、幾人かの人が取り組もうとしてきた「アート的な営み」だ。おもしろいと思ったからそれを主題にしようというのだろう。そして、言葉のない世界、すくなくとも言語化しにくいところがあって、むしろそのことに意味のあるような実践ををうまく書ける人はいるのだろうと思う。ただなかなかに難しいということはある。実際、つまらないと私には思える論文、学位論文もある。
だが私にはたいがい対案がない。むろん、美術史のようなやり方で切り取ること書くことは、そこそこの歴史や背景があるものについては可能だろう。しかしいつもそちらに話をもっていく(ことを勧める)というのも芸がないようには思われ、いくらか気がひける。とすると代案がなかなかない。いろいろと考えるのだが、なかなか思いつかないでいる。
それでも、いくつか思いつくことはある。」