強制〜国家権力が肯定される場合・2(『精神医療』掲載稿09)
「身体の現代」計画補足・252
立岩 真也 2016/11/02
251 < / >
253
「介助は本来ボランティアとしてなされるべきかそうでもないのかという問い」について堀田義太郎と私が考えてみたという『差異と平等――障害とケア/有償と無償』は
http://www.arsvi.com/ts/2012b1.htm
「国家・権力を素朴に考える」
http://www.arsvi.com/ts/20160027.htm
の転載の第9回。
全文は、他にも様々を集めた、『精神』
http://www.arsvi.com/ts/2016m3.htm
に収録されている。
もとは『精神医療』第84号(特集:国家意志とメンタルヘルス)に掲載。
http://www.arsvi.com/m/p4084.htm
フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162252.htm
にもある。
「■4 強制〜国家権力が肯定される場合
[…]ただ多くの社会契約論が描く社会像が間違っていることは、自由な生存のために強制が必要とされ正当化される場合かあることを否定するものではない。その場合とはどんな場合か。
私が強制、権力の存在を認めたのは一つに社会的分配の場面だった。つまり税金を使って分配策を行なってよい、行なうべきだとした。なぜそれが認められてよいかについてはやはり『自由の平等』([2004])で、さらに『差異と平等』(立岩・堀田[2012])で考えた。それは、障害者運動の関係では、介助は本来ボランティアとしてなされるべきかそうでもないのかという問いに関わる。私の立場は、無償派の主張はわかる、としながらも、いくつか条件を前提するなら、自発性に委ねるのはかえって正義に反するとして、強制力の行使を認める、具体的には強制的に税を徴収しそれを使うことも認めるというものだ。その理由については、詳しくは本を見てほしいが、人の権利を、たんに道徳的な要請として認めるべきというのでなく実質的に保障しようとするなら、周囲の人にはその権利を認める義務が発生する。そしてその義務はたんに道徳的な義務ではない。その義務の履行を自発性に委ねてもうまくいかない理由があるなら、強制力をもってその履行を求めることが正当化される。
もう一つ、加害の抑止、またなされた加害に対する権力による制裁もまた、それが私的な暴力に比して誰にとってどれほどよい/よくないものかを考える必要があり、こちらの方はまったくきちんと考えられていないのだが、正当化されるものと考える。」