「悪文」(「悪文について」でなく「悪文」という題だったようだ)は
http://www.arsvi.com/ts/20140022.htm
「別の本で日本国のことを「この国」と書いてしまうこと」に関わる文章は「反論する――『生の技法 増補・改訂版』書評へのリプライ』(1996)
http://www.arsvi.com/ts/1996a25.htm
障害学会の学会誌『障害学研究』第11号
http://www.arsvi.com/ds/jds011.htm
に載った拙著『造反有理』の書評へのリプライ分載の8。その目次他は
http://www.arsvi.com/ts/20150013.htm
フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162241.htm
にもある。
「■文体について
「文体」について。というか「悪文」について。二〇一四年八月号の『群像』に「悪文について」という文章を書いた(立岩真也+悪文で全文が出てくる)。そこに書いたことともすこし重なるが、すこし。私はずっとごく普通の文章を書いていると思っており、しかし悪評が絶えないので、不断の努力をしているつもりだ。ただ、ときにわかりやすい文章だと書いたり言ってくれる人もいるのではあるが、やはりなかなかというところだ。さらに努力はしようと思う。
ただ、一つだけ。このごろはだいぶ自覚してなおすようにしているのだが、指示代名詞が多いのは事実だ。なぜそうなるのか。一つは、当然にわかるだろうと思って、「それ」と書いてしまうところがある。ただ、校正で見てもらったりといったときも含めて思うのは、意外と私が思うようには読まれていない、違うように読まれてしまうことが多い。いちいち「それ」にあたるものを記していくのは文章がくどくなるのだが、いくらかは仕方がないのかと思う。もう一つは、いくらかの数の言葉をできればあまり使いたくないという気持ちが働いているようにも思う。例えば精神障害者と書くのがよいのか精神病者と書くのがよいのか両方併記するのがよいのか。いずれか迷うところもあり、いずれも積極的には使いたくないという場合がある。他にもあまり高い頻度で使いたくない言葉は、私にはある。ただ、そう思ってこの本を見たらそれにはそんな箇所はそう見つからなかった。けれど、以前別の本で日本国のことを「この国」と書いてしまうこと――この場合字数は減らず、文章は簡潔にならない――を咎められたことがあったが、それはそうしたい気持ちがあってのことで、それはこれからもなおさない(なおせない)のではないかと思う。
そして、ときに、「この程度書けばわかるだろう、わかれ」、というような気持ちが私にいくらかあるのだろうと思う。けれども、そのかなりの部分は伝わっていないことも感じる。それから、本当はひやかしているのだが、そのことがその直接の相手にも伝わらないといったこともあるようだ。もうすこし直接的に書いた方がよいのかもしれない。なにせ、こうしたことは言い訳をしてもきりがない。とにかく工夫は続けます。」