これから・前(10月号緊急特集相模原障害者殺傷事件・17)
「身体の現代」計画補足・232
立岩 真也 2016/10/13
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フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162232.htm
にもある。
■これから
何を言って、していくか。ここではその手前のことを並べたが、様々な要因があるからには一つではなく、一つの種類ではなく、たくさんある。これまで種々長々と書いてきたことは概ね省く。
七〇年前後の連続と断続から。もちろん一つには、生命の尊厳が言われる。今回の事件のときも呼びさまされ持ち出されたのは「この子らを世の光に」と言った糸賀一雄だった。実際それに感じ入り、仕事に生きがいを感じる人はいる。世話や仕事を続けようとする人にとって、それは励ましの言葉として自らの存在や仕事についての肯定の言葉となるかもしれない。
ただそんな人たちばかりでもないし、そうでない部分がある。立派なことはずっと言われ続けながら、日常は続く。その教えを朝礼で反復すればよいだろうか。既に相手や自分に尊厳を感じられている人にはそんなものは不要だろうし、他方の人たちは、そんなことを余計だと感じるだろう。実際、尊厳があるかと問われればあるのだろうと思いながら、「利用者」あるいは親は自分の言うことを聞いてくれず、腹の立つことはある。それで怒りに向かう人もいる。
ただ一つ、あなたがどう感じるかと生き死には関係がないのだと言うことはできる。もちろん共感は大切なものである。それを涵養することも大切だ。ただ好悪は残るだろうし、それをよい方向に替えねばならないと思うことは、自責になることもあり、他害になることもある。それより、一つに、間違いは間違いだと言う。一つに、好悪は正不正の問題でないとしても、あなたの好みで生きる死ぬを決められないと言う。そのように、その人に伝わるか伝わらないか知らないが、また精神の病気であろうがなかろうが、直接に相手に対して怒ったらよい。できれは、犯罪などに及んでしまう前に、本気で怒ればよいと思う★16。先月号の文章で、私は「他害」に精神医療が関わるべきでない、犯罪は犯罪に関わることになっている部署に回してしまえばよいと述べたが、それと本稿で述べたことは両立する。私たちは刑罰を与えることはできない。しかし怒ることはできるし、それはまず私人たちがすべきことだ。
次に場所と、慣れ・鈍麻、敵意について。[…]
★16 二〇〇七年一二月の、「障害者の日」関連の企画でもあったNHKの『TVワイドともに生きる』という――テーマは「怒りを忘れた若者よ!これからいったいどーすんねん」だったのだが――やさしい番組に出て、そこで/それに怒っていたことが横田との三回目の対談(正確には鼎談)のきっかけになった(横田・立岩・臼井[2008/01/22→2016:191-192,195-196,203-205,207-211])。今度の事件後、やはりNHK大阪で撮られ八月七日に放映された番組『バリバラ』緊急企画「障害者殺傷事件を考える」でも、もっと直接に真面目に怒ったらよいのだと私は発言した([2016/08/07])。」