以下は青い芝の会の活動が1970年から1973年ぐらいまで、いっとき、朝日新聞社の本や、『ジュリスト』や『社会福祉研究』にとりあげられたこと、やがて忘れられていくこと、と言ったら言い過ぎかもしれないが、について書いている。それは『現代思想』10月号に載っている「七・二六殺傷事件後に 2」
http://www.arsvi.com/ts/20160031.htm
をこまぎれに、きれぎれに、の10。そんなことを書くことがあの事件になんの関係があるかと思う人は、この号と拙文を読んでいただければと。そしてこの時期の10年弱前については
◇立岩真也 編 2015/05/31 『与えられる生死:1960年代――『しののめ』安楽死特集/あざらしっ子/重度心身障害児/「拝啓池田総理大学殿」他』,Kyoto Books
http://www.arsvi.com/ts/2015b1.htm
フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162224.htm
にもある。
■一九七〇年・横浜での事件
[…]
その背景について。いくつか言える。さきに『しののめ』に妙な文章を書いた人として大仏空をあげた。その人が住職をしていた茨城の寺で、後に神奈川で七〇年代の青い芝の会の活動に関わる人たちが共同生活をし、悪人正機説他を吹き込まれたことがあるだろう。そしてやはりその時期の社会があり、社会運動がある。勤勉な六〇年代が終わって、なにか先が見えているというわけではなかったが、それが懐疑される。この社会とそこでよしとされているものを基本的に肯定しない、しなくてよいのだと思う。その代わりがなんであるかしらないが、わかるまで、あるいは実際に変わるまで今あるものを否定してはならないなどというのは間違っている。
その会には「行動綱領」があったのだが(今でもある)、そこには「愛と正義を否定する」という条項とともに、「問題解決の路を選ばない」という条項がある。こんな啖呵の切り方がいつでも効くわけではない。ただ、生きられるようになるまでは死んでも殺しても仕方ないということではない。そして殺さないことは、「解決」ではないとしても、実際にできないことではない。
そしてその時の行動をメディアも取り上げた。NHKの『現代の映像』に取り上げられ、『朝日新聞』の記事になった。それは、今は普通のメディアになっている各社がいっとき偏ったことがあったことの一部でもある。全七巻の「朝日市民教室・日本の医療」の第六巻『立ちあがった群像』(朝日新聞社編[1973b])に横塚[1973]が、七四年一〇月の『ジュリスト』に横塚[1974]が掲載されている。また「母親の殺意にこそ――重症児殺害事件の判決を終って」(横塚[1972])は北里大学の大学祭で発表された。映画『さようならCP』が最初に上映されたのは東京大学の自主講座でだった。他に基本地道な専門誌である『社会福祉研究』にルポルタージュが掲載されている(菅井[1973])。そして大手から出たというわけではないが、横塚晃一の『母よ!殺すな』(横塚[1975])、横田弘の『炎群――障害者殺しの思想』(横田[1974])がもとになった『障害者殺しの思想』(横田[1979])が出版された★11。
そしてこの時期、それを可能にし、またその提起に着目しまたそれを支持する動きがあった。二〇〇二年の横田弘との対談
「立岩:[…]どういう背景とか、文脈とかがあったんだろうと。[…]一つは先程もでていた、小山〔正義〕◇さんの所に来ていた大仏さんの所のマハ・ラバ村のことが一つありますよね。それはやっぱり、特に神奈川の青い芝運動の一つの土壌みたいなものにはなったんだと思う。/と同時に、七〇年あたりは社会全体が騒然とした時期ですよね。[…]
横田: それは認めます。七〇年のあの当時、あの時でなかったならば青い芝の連動は、こんなに社会の皆から受け入れられなかったと思います。七〇年の学生さんの社会を変えていこうよと。社会を変えなければ僕たちは生きていけないと考えた、あの大きな流れがあったから、僕たちの言うことも社会の人たちが、ある程度受け入れようという気持ちがあったわけです。僕は七〇年から今まで同じことを言っているんだけど、近頃の社会はあまり僕の言うこと受け止めないの。」(横田・立岩[2002/11/12→2016:92])
そしてその人たちは、その時期が終わっても、同じことを言い続ける。そしてそれは聞かれなかったり、あきられたりする。
まずその主張は、一つに、一度言えば終わるようなことに思われる。こまごまと場合分けして論理を展開していくような話ではない。なにか深い、あるいはおどろおどろしい話でもない。それは週刊誌的にもあるいは「学術的」にもおもしろくないと思われる。他方、話が例えば出生前に及ぶとなるとどう考えるか、また隔離・分離全般に反対していくとなるとどこまで受けいられるかといったことになる。繰り返されるだけの部分と、ややこしくなる部分がある。
そして批判される側はうっとおしい。国立療養所の経営者たちが内輪の回顧集のようなもので、入居者や労働者についてぼやくのを連載で見たが、それほどにも言及されることはない。抵抗する側は、現にあるものに対抗し抵抗するのだから、そこには相手方は必ず出てくる。しかし対抗された側の書きものにおいて書かれることはない。革新的な政治勢力、社会運動の一部との関係も関わっている。そんなことも込みになって、あまり表に出ることはなくなる★12。
しかし、こういう類のことは、一度起こるとなくなることはない。個々の主題を、また手段をどう考えるかということは残るせよ、基本的な姿勢、世を儚んで自らを害することはしないという姿勢が獲得される。このたびのような事件にしても、その容疑者という人がどんな精神状態であろうと、まず基本、その人にもこのように対するべきであり、それは譲らないということだ。そして言う時に、なにか大切なもの、よいものを持ち出す――するとそれは、あるとかないとかいう話になっていく――必要はない。そして――前文と両立するだろうかと思われるかもしれないが――何がよいのか、はあなたの思いと別にある。そんなことが言われたと思う。こうして考えていくと、読み解き考えることは実はある。挿話集のような本稿でなく[2007]他いくつかの「解説」でそれを示そうとしてみた。
★11 『母よ!殺すな』は一九七五年と八一年に初版と増補版がすずさわ書店から、二〇〇七年に増補版の倍以上の量のある新版が、二〇一〇年には新たに横塚の文章を九つ加えた版が生活書院から出された。私は生活書院版に[2007]を書き、「ひとびとの精神史」というシリーズの吉見編[2015]に[2015/11/25]を書いた。
『障害者殺しの思想』は横田[1974]がもとになっているが大幅に加筆されている。横田[2015]として再刊。それに私は[2015/06/03]を書いた。また三度話を聞く/と話をする機会があった。横田他[2002/11/12]は横田[2004]に収録された。[2002/07/28]と[2008/01/22]は横田・立岩・臼井[2016]に収録された。
私がこうして書いてきたもの、品切れで入手できない対談集中の対談、文献表を「電子書籍」[2016/04/29]にまとめた。
その抗議はごく単純なことに発していると横田は言ってもいる。その時彼には三歳の子がいて可愛がっていたし子も自分のことが好きだったが、その子が自分を殺したら減刑嘆願運運動かそれはたまらんと思ったという(横田[2004:214]、横田・立岩[2002/07/28→2016:92-93])。それとともに、父親が自分が死ぬ時はお前を殺すと言われた時と同じ恐怖に貫かれたという記述もある(横田[2004:214]、cf.臼井[2016:46-47])。
★12 横田・立岩[2002/07/28→2016:121-122](立岩作成の注23)。「全障連」◇と「全障研」◇が争ったりした。上田敏◇他について本誌連載。他に来年終刊になる『そよ風のように街に出よう』での連載「もらったものについて」([2007-2017])。」