前回、「前書き」を忘れてしまい、失礼しました。
特集:精神医療の新時代――オープンダイアローグ・ACT・当事者研究…、という、現在発売中の、『現代思想』9月号に、連載の代わりに書いた「七・二六殺傷事件後に」を分けて載せていて――とても長くかかっているから&こうやってきれぎれに読むのはわずらわしいと思うので、『現代思想』買ってください――その12回め。目次や文献表は
http://www.arsvi.com/ts/20160030.htm
フェイスブックに載せるのと同じこの文章は
http://www.arsvi.com/ts/20162206.htm
にもある。
この9月22・23日、立命館大学いばらきキャンパスを会場にした障害学国際セミナー2016
http://www.arsvi.com/a/20160922.htm
テーマは「法的能力(障害者権利条約第一二条)と成年後見制度」、の話が最後に出てくる。基本事前申し込み制。手話通訳、文字通訳(共に日本語)あり。おいでください。関連して「意思決定支援」。
http://www.arsvi.com/d/ds.htm
「■現行犯として刑事司法が対応すべきこと
では代わりにどうするか。その人たちをどのように遇するべきであるのか。そんなことはこちらの仕事ではない、知ったことではないと言うこともできる。代替案を出さなければものを言ってはならないということはない。しかしそれでも、では何もしないというのか、逃げをうっていると言われる。少しだけ進めておく。
刑罰を否定しているわけではなく、犯罪への対処を否定しているわけではない。加害的な行為をしているというそのことによってその人が捕縛され罰せられることは認められる。現在犯罪とされるものの範囲をどう考えるかという問題は残るにせよ、犯罪としての加害に対してはそれに対応する職・人がいる。基本はそちらにということになると考える。
誰が対処するにしても、確率によって、未来の可能性によって対処することが望ましくないことは言える。基本、現時点での行ないに対応することにする。さきの共同通信の短文では「ごく短く言えば、「現行犯」として対処するべきだし、対処できると思う」と述べた。確率、予測に基づく強制処置は侵害的である。加害は加害として、行為として顕在化した場合に、とりしまるなり罰するなりすればよいというのが基本となる。
もちろん実行と予告とは異なる。殺人の予告は殺人ではない。だが、予告自体が加害行為である。しかじかの人々は死ぬべきであるという発言も加害行為である。だから拘束等の対象とはなりうるということである。言葉による攻撃の方が身体に対する攻撃より問題がすっと少ないということもない。いまの法律や法律の解釈としてどうなのかは別として、両方に対応することができるだろう。
それが治安のさらなる強化、警察の過剰な介入をもたらすという危険はある。ただDVやヘイトスピーチのことを考えても、基本的な方向は間違っていないはずだから、その方向を認めたうえで「過剰」を抑える方途を考えることになる。」