■なぜ一回で終わらないか
社会や教育のあり方を「能力主義」であるとしてそれに反対してきた人たちがいる。私は基本的にその主張は正しいと考え、その立場に私自身が立っていると思う。
しかし同時にこのままではだめなのだとも思ってきた。正しい方が分がわるいのは悔しいことだが、悔しいぐらいだめなのだ。まず、自分の立場がどんな立場なのか、自分でもそうはわかっていない。なぜいけないんですか、とか、仕方がないではないか、と言われたとき、きちんと返すことができない。言わなければならないことをきちんと言えない、と我ながら思う。そしてそれは私だけが思っていることではないはずだ。
そこをなんとか考えられるだけ考えるしかないと思って考えてきた。むろん何か言えたからといってそれでどうなると決まったものでもない。いよいよあきらめた方がよいということになるかもしれないし、理屈が通っていることがわかったとして、だから現実が変わるわけでもない。それでもまずは考えるしかないし、考えて言えることを言うしかないと思う。
それで『私的所有論』(勁草書房、一九七七年)という本を書いた。六〇〇〇円もする本だが、もし能力主義とその批判の仕方に関心があるなら、読んでもらいたい。(私のホームページhttp://www.arsvi.comから注文すると少し安くなる。)その後もいくつか依頼された短い文章でそこで述べたことを紹介した。ここでも、今まで書いたことの一部をごく短くし繰り返して、それですませようと最初思っていた。しかし、やはりそれではいけないのではないかと思った。繰り返すが、ものごとを簡単にしすぎてきたことがまずかったのだ。教育が絡むと問題はさらに複雑になる。分けて考えなければならないことは分けて考えることが大切だ。そうでないと自分でも何を言いたいのかわからなくなるし、相手にあげ足をとられることにもなる。そこでこの文章は一回では終わらないことなってしまった。
そしていったんは学校のことを外して考える。仕事や労働の売り買いの場面で能力が問題になることと、学校で能力・学力が問題になることとを最初からいっしょにすることはできない。もちろん、それはつながっているのだが、そのつながり具合が問題だ。それを問題にするためにもまず分けて見ていく必要があり、その上でそのつながり方を考えていく必要がある。まず仕事、労働、生産の場での能力主義――「主義」という言葉がしっくりこないことも多々あるのだが――について考える。これだけでもそう単純ではない。
■少なくとも三つある
能力主義には少なくとも三つの意味がある。ここではきちんと分けて議論することができないのだが、まず列挙する。(『私的所有論』第8章では能力主義I・II・IIIと分けて議論している。)
まず、能力主義は、何かを生産した人がそれを、あるいはそれに応じて取れるということであり、だからよりできる人がより多くとれることになり、できる人は得をするということである。
次に、すること、することができることが人の価値を示すという意味合いがある。この人の価値に関わるものとしての能力主義は、財の配分原理としての能力主義とはひとまず別に考えた方がよい。ただ実際には、二つは相伴ってこの社会を構成してきた。
以下では、まずこの二つをまとめて考えていくのだが、その前にもう一つ、三番目のものをあげる。
その仕事が(他の人より)できる人にその仕事をさせる、してもらうことがある。この場合、それでその人が得をすることには必ずしもならない。実際、責任のある役を振られることはときに重荷であり、時間も奪われ損であることがある。ときにいやみな謙遜としてこのように言われることもあるが、そうでない場合もある。この「適材適所」という意味での能力主義はよい、と言ったら、その人はすでに、部分的には能力主義を肯定している。さてそれでよいのか。このことも考える必要がある。
■作った人がとる、は正しくない
自分が作ったものを自分がとる、自らが産出したものについて自らの権利があるという規則が正しいのだという主張は、ずっと以前、例えばジョン・ロックといった今から三〇〇年以上も前の人からなされてきて、ずっと引き継がれ、繰り返されてきた。それはただ経済についてだけでなく、生命倫理と呼ばれたりする領域にも及んでいる。学者が言うだけでなく、社会の中に広くある。
そして労働運動にも同じものの言い方はある。つまり、本当の生産者である労働者がその生産物を本来は取得する権利があるのに、資本家が上前をはねるのは許せないと言う。体制批判の運動自体も、能力原理の上に立ち、それを使って自分たちの主張をしてきたところがあるということである。しかし基本的にはそれでよいのか。そこから考えなければならない。
そのように私は思い、それで考えて言ったのは、どんなにたくさんの偉い人たちがそれが正しいと言っていようと、多くできる人、多くできた人が多くとるのが正義であると言えない、その根拠はそこに示されていないということだ。だからこの意味での能力主義は正義ではない、正確には正しいということを主張できていない。このことを先の拙著の第二章で述べた。そしてそこに記したことを、『思想』に六回掲載された「自由の平等」の第一回(二〇〇一年三月号)で補った――この連載は今年の秋の前には別の題の単行本になって岩波書店から出る。詳しくはそれらをご覧いただければと思う。
では代わりにどのように考えればよいのか――それは能力主義をどのような立場から、またどのような根拠から批判するのかということでもある。「働ける人が働いたものを、必要な人が必要に応じてとる」という、これもまたまったく古典的な方向でよいと思う。必要に応じてというが、それは具体的にどんなことで、どのように行なうのか等、たくさん考えるべきことはあるのだが、基本的には、やはり、まちがっていない。
もちろんこれもまた社会運動が言ってきたことだ。つまり運動の中には整合しない二つの要素が同時に存在していた。それはまずは労働者の主権を、そして遠い未来に「自由の王国」をという具合に配置されたりもしていちおう辻褄が合うことになってはいた。ただ最初からはっきりさせられることははっきりさせた方がよい。遠い将来のこととされたものを基本的な立場とすればよい。
そしてまた、人の存在価値を人の働き・人の能力が表示するという価値、先に能力主義の二番目のものとしたものもまた否定される。生産は必要であり、生産に必要なものとしての能力はたしかに必要だが、しかしそれは人の存在・生存のために必要なものであって、その存在を規定するものではないということだ。
そんなことはあたり前だと思うか、それともとんでもないと思うか。そこでも人は分かれるだろう。この立場にリアリティを感じない人も多いかもしれない。しかし、それはそんなに浮き世離れした理想だろうか。実現していないものであるという意味ではたしかに理想でしかないのだが、それほど荒唐無稽なものではないと私は考える。実現できるかどうかはともかく、それがよいのではないかと思ったとき、それはすでに支持されているのでもある。一つに、私が何であり何ができるかと別に、私がただ私であるだけで存在できることを望み、そうした私の存在を承認されたいと思うなら、もう一つ、他者がその他者であるというだけで、私ではない存在であることにおいて存在していることはよいことだと思っているなら、この両方が、存在と存在の自由のための分配の規則を支持することになる。また、人のできる度合いで、その存在、その存在の生命・生活が左右されることを否定することになる。これが主張と批判の根拠である。このことを「自由の平等」第三回(『思想』二〇〇一年八月号)で述べた。そこで言い切れなかったことは「社会的分配の理由」という文章に書き、それは今年中には出るはずの齋藤純一編『社会的連帯の理由』(ミネルヴァ書房)に収められている。
とするとむしろ、なぜ正しいことが正しいことでなく、正しくない方が正しいことになってきたのかの方が不思議だ。これは簡単には答えられない問いだが、ずっと正しいことにされ続ければ、疑われにくくはなる。そしてそれは不正の告発の中でも用いられてきた。例えば、性別、民族、出身地等によって人を不利に扱うことを差別として批判する時にも、能力・達成・業績「以外」で差をつけるから差別だという言い方がなされる。このときには、能力主義はよいものだとされてしまっている。
氏素性により人の社会的な位置が定まる社会はよくない社会であり、それは変えなければならないとして、それは実力・能力により人が位置づけられる社会がよいことを意味しないのだが、前者がよくないことと同時に後者がよいことがいっしょに言われる。そして後者は近代的な社会原理とされる。ここから生じがちな間違いの一つは、業績・能力でなく属性に関わる差別は近代社会には無くなっていくはずだと考えてしまうことだ。残っているとするとそれは「前近代的」なのものとして残っているものでしかない(だからそのままにしておいてもそのうち無くなる)という理解にも結びつく。もちろんそんな単純なことではない。近代社会が否定するはずの差別は近代社会に存在し存続し続ける。なぜか。そしてどのように対応したらよいのか。これもとても大切な主題なのだが、ここでは論じられない。そしてもう一つ、両方とも間違っているかもしれないのに、属性主義を否定すると同時に、あるいは否定するために、能力主義を正しいとしてしまう。社会科学のものの言い方もその上に乗っていたし、それを再生産してきた。
西欧であればここに宗教が関わってきただろう。例えば、自身が現世での仕事に自発的に邁進していることが救いの証であると考えるピューリタン=清教徒の信仰は、メイフラワー号、アメリカン・ドリームという具合に現代につながってくる。さらにここで、教育・学校は大きな機能を果たした。日本であれば福沢諭吉の『学問のすすめ』は当時のベストセラーだったのだが、そこに書かれているのは、ただ人の上下を決めるものとしての身分を認めないということではない。また学問はおもしろいから、それ自体としての価値があるからしましょうということでもない。これからは学問をしてできるようになることが人の位置を決めるのだと、だから学問をせよと説かれている。
■仕方なく部分的に採用する
さてこのように言った直後、すぐに威勢のよくない話になってしまうのだが、働きに支払いを対応させることから私たちが完全に逃れることができるかと言えばそれは難しい。これは単純な事情による。つまり、多くが欲しいし少なく働きたい気持ちが人々にいくらかあるとすれば、その人たちに働いてもらうためにはその代わりに多くを得られるようにしなければならないということだ。もちろん、仕事がおもしろければするとか、人のためになることをすると気持ちがよいとか、そんな部分もたしかにある。しかし同時に、多く欲しいしたくさんさぼりたいところもあって、それを前提せざるをえず、その上で生産を維持あるいは増加させなければならないなら、格差が必要になる。このようにして、第一の意味での能力主義は、その正義を否定されながら、使われることがありうる。それにもう一つ、働けばそれだけ時間もとられるし、疲れもする。たくさん苦労したならその分は報われてもよいという価値からの支持が付け加わる。
こうして、いったん否定されるとしたものを認めることになってしまう。ただ、このように考えてくれば、その位置をはっきりとさせることができる。基本的に、あくまでそれは、正しいものとして許容されるわけでなく、手段として用いられることがあるということである。餌で釣るしか仕方のない限りにおいて、仕方なく餌で釣るしかないということである。この位置づけの違いは重要である。差をつけないと働かないから、その限りで差をつけるのと、差をつけるのは、また多く受け取るのは当然のことだと思っている場合と、その意味合いは異なる。仕方がないとしても、それで当然だということにはならない。当然だと居直られたら私たちは反駁する。
多くできる人が多く取ることが当然だと考える人は、多くを得ても当然だと思うから、さらに格差を大きくしないと働かないかもしれない。だからそれは格差を大きくする方向に働き、さらに大きくしないとうまくいかないことにもなりうる。これは、そんなことを信じていなければ格差を大きくする必要はないということでもある。だから、差をつけるのが正しく当然のことではないと言うこと、そのことを伝えることには意味がある。
ここで、それは「押し付け」だからよくないという考え方は間違っていることを付け加えておこう。多くできる人が多くとることが当然だとするのもやはり教えることである。そしてこの社会の編成のあり方自体が既に一定の方向をもっている。何も言わなければ中立だというのではない。だから正しいと考えられる方を言えばよいのだし、言うべきなのである。
そして私たちの立場からは、どれほどの格差を設定するしかないのかはいくつかの条件によって変わってくる。生産のために、能力・働きに対応して褒美に格差を設定することを認めうるとしたのだが、この立場からはまず、どうして、どれだけ働き、生産する必要があるのかが問題になり、そのためにこの方法をとることがよいのか、どこまでならよいのかを考えることになる。
生産はたしかに必要なことである。そしてそれが増えることもさしあたりよいことではあるとしよう。ただこのことを認めたとしても、その方向に社会をもっていくことがよいことだとはならないし、そのためにどのような手段が許容されるかという問題も残っている。それは、得られること自体はよいことだとしても、それに伴う支払いがあるからである。支払いとはまず、ごみが出たり、資源が枯渇したりすることだが、それだけではない。
簡単に言えば、その分人間が働かなければならない、働けるようにならなければならないということである。そして、働かせ生産させるための手段として格差を設定したり、教育のあり方を変えようとしているのだか、まず、格差をつけられる人にとってそれはうれしいことではない。また、より多くを得られひとまず「勝ち組」ということになって得する側の人にとっても、騒々しいものに巻き込まれるうっとおしさはついてまわることになる。それに抵抗する部分、とりわけこのやり方が当然の正しいこととされることは受け入れられないと思う部分は誰にでもある。
いまどの程度のことが必要なのか。必要だと言う人が言うことはどこまでがもっともなのか。増やさなければならず、そのためには「動機づけ」が必要であり、それには場合によれば「使命感」のようなものも喚起しつつ、同時に格差を是認し拡大することが必要だとする。これが実際言われていることであり、かなり多くの人が信じていることである。それは本当なのか。
直観的におかしいと思わないだろうか。というのも、少なくともこの国に限って考えれば、とくに足りないものがあるようには思えないのだ。少なくとも躍起になって人をけしかけて増やさなければならないようには思えないのだ。ならば、その人たちは人を騙しているのだろうか。また私たちは嘘を信じさせられているのだろうか。たしかに半分以上は間違っており、信じる必要のないことを信じており、無用な心配をしていると思う。ただ他方で、まったくの虚構というわけでもないと私は考える。それは、人を煽るようなことを言っている人たち、それを真に受けて心配そうに語る人たちもよく持ち出す言葉なのだが、「国際競争力」に関係している。ならば、国際競争力を維持するためには手を打つべきだという点については受け入れるべきなのだろうか。私はそれも違う、別の道があると考える。そうして緊張を解いていった方がよいと思う。このことを後に述べる。
■適材適所について
こうして述べてきた意味での能力主義と、先に三番目のものとした人の配置原理としての能力主義とは同じものではない。そして前者を認めないことは後者を認めないことではない。では、この「適材適所」の方は全面的に認めればよいのか。そうとも言えない。ここがまたやっかいなところだ。これも順番に考えていくしかない。
まず、やはり見ておくべきは、この意味での能力主義の導入に賛成する動きがあるということ、つまり適材が適所に配置されていないことに対する不満があるということであり、それにはもっともな部分があるということである。財の消費者、サービスの利用者でもある私たちは、それらがきちんと得られることを求めている。しかしそうなっていない。このことに関わる怒りと苛立ちとそしていくらかのやっかみ等々がないまぜになり、批判に向かわせ、「改革」への支持に向かわせている。
例えば私は、社会サービス、障害者の介助のことについて少し調べてきたが、そこでは、その仕事に適任でない人でもそのままその仕事を続けられるという状態があって、それで利用者の側が不利益を被ってきた。労働者がよい質の仕事が提供できないのも労働条件が悪いからだという弁解の仕方はあり、それには当たっているところがあるとしても、やはりそれだけではない。利用者・消費者にとってよい仕事をしなくてもその仕事を続けていられる。そしてその人たちは、自分に不利にならない限りで、同業者、同僚の不利益になることをあえて支持することはなく、それをかばう立場にも立つ。だからその代わりに、利用者の側からの選択が主張されてきた。現在「改革」が一定受けているのは、たしかに適材でない人間がそこにいるからである。
こんな場面を見てくると「適材適所」という意味での能力主義を否定することはできないように思われる。二人の候補者がいて、そのうち一人しか採用することができない状況にあるとする。この場合には、その仕事により適した人を採用することはやはり認めてよい、認めるしかないようだ。いずれにせよ一人はその仕事にはつけない点では同じであり、そして仕事がよくできる人の方が、その仕事をしてもらう人にとっては益になる。
しかし、ならば労働、労働の成果を利用する側はそれを提供する側に何を求めてもよいのかと言えば、そんなことはない。例えば雇っているなら、そして雇われている当人に受け入れさせることができるなら、何をさせることも雇用主に許されるかといえばそれは違うだろう。また消費者も、よりよいものが得られた方がよいのだが、何を要求してもよいとはならない。例えば、客が店員の肌の色が気にくわないからその店でものを買わないから、その人が雇われないということがあったとする。店員の応対もまたサービスの一部であり、客はそれも含めて商品を買っているとも言え、客の「ニーズ」に応ずることが常に優先されるべきだとされるなら、その人は雇われないことになる。しかしそんなことは認めるべきでないと考えるなら、買い手側の権利も絶対ではないということである。雇用主も、また直接の購入者としての消費者も、絶対的な権利を有するのではなく、要求が無制限に認められるのではない。このこともまた明らかだ。
ではどの辺りが落としどころなのか、どのあたりに現実を落ち着かせるかということになる。
■適材適所の条件
この社会において、適材適所だろうとなんだろうと、仕事が得られないことで困ることは、一つに職がなくなり収入がなくなって、生活が苦しくなることである。ただこれを別に言えば、仕事がなくなることによって生活そのものが危機に陥るのでなければ、つまり分配の問題が解決されているなら、仕事のできる人を仕事場に配属してよいということにもなる。だから、第一には、どこにも仕事が見つからず仕事から離れても生活はできることが認められなければならない。つまり、前述した一つ目の意味での能力主義と異なった分配原理が社会の基本にあることが条件になる。
もう一つの条件は、本人があまりそれを深刻に受け止めないですむことである。仕事が得られ仕事ができることが人の存在価値であるとする価値を当人が信じているとしよう。あるいは当人は信じていないとしても周りはそう思っていることを知っているとしよう。とすると、仕事が得られないことは不必要に重いことなってしまう。だから第二に、先にあげた第二の意味での能力主義が否定されることが必要になる。
では、仮にこの条件が満たされるならば――もちろん現実にはまったくそのようになっていない――人の配置原理としての能力主義、第三の意味での能力主義は制限を受けないだろうか。そうもならないだろう。
まず第一点について。所得保障策によって生活できる水準を保障したとしても、それでも働かない人に分配されるものは相対的には一番低い水準になってしまう。これはさきに述べた事情による。すなわち、働く気にさせるには働かない人よりは働く人の方がいくらかでも多く受け取れるようにするという手段をとらざるをえないなら、働く場を得られなかった人が受け取れるものは、働く人よりいくらかでも少なくなってしまう。
次に第二点に関して。働くこと、働くことができることが人間の存在価値だと考える必要はないし、そう考えることは間違ってもいるのだから、そんな思い込みは取り払った方がよいし、取り払うべきだとしよう。しかし、それを取り払ったとしても、やはり、仕事をすることに意義を感じることはあるだろう。仕事をするのは辛くもあるがおもしろいところもある。何かの役に立っていることもうれしく思えることがある。
以上より、最低限よりは多くを得たい人、仕事をすることに意味を感じてしまう人には仕事があった方がよいと言える。とすると失業の問題はどう考えたらよいのか。
二つあって、一つには消費=生産を増やすことによって解決を図ることである。「(個人)消費の喚起」とか「雇用の創出」等々と言われたりする策であり、これもまた敵・味方がはっきりしなくなっている主題である。「景気回復」と言い換えれば、表立って反対することは、どんな政党もまずできないだろう。しかし次回にこの案を検討し、それをとるべきでないことを述べよう。(この点について筆者が過去に書いたものとして「停滞する資本主義のために――の準備」がある。東京大学出版会のシリーズ「越境する知」の第五巻、栗原彬・佐藤学他編『文化の市場:交通する』に収録されている。)
もう一つは、分けられる仕事については分けることであり、これを採用すべきだとする。私たちの立場は分配を支持するのだが、それはたんに消費における平等ではない。労働の分配、分割を認めるべきだとする。
それは、多くの場合には、労働の買い手、生産物の買い手にも大きな損失を与えることはない。他方すでに仕事を得ていた人の仕事は減る。これだけならよいことだけなのだが、収入もその分減る。これは歓迎されないかもしれない。しかし、私たちは基本的に仕事をしようとしまいと生活のために必要なものは得られるべきだとしたのだった。働かない人も働く人と基本的には同じだけが得られてよい。ならば、働く側は働かない人にただ贈与するより、その人にも働いてもらった方が、それだけ自分が働かなくてはならない分が減るから、得することになる。このように考えるなら、仕事を割ることができるなら割って分けることが支持される。おおまかに言えばこうなる。ただこれも、さきにあげた生産・消費の総量を増やすという別案と比較しながら、もう少し考えた方がよいところがある。次号で検討する。(続く)