2冊の本"At the Heart of Freedom" & "Just Cause" を読んで感じたのは、コーネルさんはリベリラリスト、最良のリベラリストだということです――岡野さんは、コーネルさんはきっとそれを否定するだろうと昨日おっしゃっていましたが。ただ、このリベラルという名前・名札を受け入れるか自体はそう大きな問題ではありません。問題は自由(Freedom)の位置です。自由が最初に置かれるものなのだろうかという問いです。
「子どもを手放すことを強いられた実母は、明らかに自らの性に関わる存在を表現する権利を保護されなかったのである。[…]彼女の権利は生物学的に母であるということではなく、人格性に基づくべきである。」([HF:110=197])
"A birth mother who was forced to give up her child obviously did not have her right to represent her own sexuate being protected."[…]Her right should be based not on the fact of her biological motherhood,. but on her personhood."([HF:110])
"Her right should be based not on the fact of her biological motherhood." について同意します。この章の他の多くの箇所にも同意します。しかしここでの彼女の権利は"right to represent her own sexuate"と言うべきものでしょうか。
2)の差異の強調、実体化に対しては、フェミニズム内部からとともに、リベラルな立場から批判が当然あり、それに対するリベラリズムの方に寄ったフェミニズムの弁護として機能することにもなる。
「善」とするものは一人ひとりで異なるのであって、それはそのままに認める。「正」の領域にもっていく。
「ジェンダー不平等についてのフェミニズムの実体主義的な理論が自由を掘り崩すのではないかという反論をリベラルな分析哲学者が繰り返してき(p.46)たわけだが、これに対抗して私たちは聖域としてのイマジナリーな領域という理念を用いることができる。」([HF:23=46-47])
"We can then use the ideal of the sanctuary of the imaginary domain to answer a frequently heard objection made by liberal analytic philosophers, that feminist substantive theories of gender inequality undermine liberty."([HF:23])
「フェミニストはしばしば、自分の家族観を誰彼かまわず強要しようとしていると非難されてきた。しかし、どの人格にとってもそのイマジナリーな領域が等しく保護されることを要求するフェミニズムは、その反対を行う。」([HF:44=89])
"Feminists have often been accused of trying to impose their view of the family on everyone else. But a feminism that demands equal protction for every person's own imaginay domain does the opposite."([HF:44])
しかしほんとうにうまくいくだろうか。それはリベラリズムは可能かという問いだ。
とても直感的には、その自由が最初に来るのだろうかという疑念、それは認められるにしても全体の一部でないか、そしてその一部であるものを特権化することにおいて、それはすこし息苦しさを伴うものになってしまうのではないかという疑念がある。 カント的なもの。カントのようにしか言いようがないではないか、とも思う。属性・国境…を超えること、が core ethics の要諦であること。それに異論はない。それでカント、となるのもわかるのだが…。しかし、
あるいは違和感だと言ってもよい。例えば次のような文章(立岩『私的所有論』第7章「代わりの道と行き止まり」冒頭に引用)を素直に受け入れられるかということなのだが、どうも私はだめなのだ。
「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。ところでこの状態は人間が自ら招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得えない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある。というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。」(Kant[1784=1974:7])
"Enlightenment is man's emergence from his self-incurred immaturity. Immaturity is self-incurred if its cause is not lack of understanding, but lack of resolution and courage to use it without the guidance of another. The motto of enlightenment is therefore: Sapere aude! Have courage to use your own understanding!" (Kant [1784=1974:7])
◆「家族形成」について。関係の形成原理として愛情のようなものをもってくるなら、その関係の外延の規定は不可能であること、このことについて私は[1991][1992]に述べた。それはそれでかまわない。
それにしても対立する場面、その可能性はある。対立でなくても、優先順位が問題になる場合。そして条件が問題になる場合のその条件を何が与えるのかという問題である。
性的な関係が恣意を条件として成立することを認めれば――これはそれほど特殊な仮定でないかもしれない――そこで許容されることはその片方の思いを通すことではない。つまり「双方の同意」が要件になる。このことをむろんリベラリストは認めるだろう。そしてそれと「生活」の問題とは分けて考えればよい、税や社会保障については基本的に個人単位で考えればよい。(これを特殊な規範だと言う人はいるだろう。しかしこんなところで相対主義を持ち出すことはないだろう。)
子が関係してくる場合。2人でも3人でも幾人でもかまわないのだが、そこになにかの関係であることやあるいは1人でいることと、子をそこにおくこととの関係。レズビアンのカップルに認めるべきだとする。それはよい。では単身者についてはどうか。あるいは3人ないし4人、の同性ないし異性の人の集まりについてはどうか。どこにも線を引かないのか、それとも引くのか。引くとしたらそれはその立場と整合するのか。そして対立・競合の場面。
もちろんここに(ここでも)もってこられるのは加害はいけないという原則だ。代理母については子どもを売り買いすることはできないという。ゆえに金銭を介した契約は無効となる。(売買ではないという主張もある。)他方で、無償の場合には認められる場合があるということになり、私もそれを否定するのではない。
「売買によって子どもとの関係を得るのではない親が子どもを手元におくべきである。子どもたちを売買する契約は履行不能である。しかし同時に、代理母制度は人々が家族を作る一つの方法として許容されるべきである。」([HF:221=229])
"Thus, the parents who does not come into its relationship to the child by buying it gets to keep the child. Contracts to sell children cannot be enforced. But at the same time, surrogacy should be allowed as one way in which people make a family."([HF:221])
もちろん、うまく折り合いがつけばそれでよい。そしてまた、コーネルも言い、また私もそう思うのだが、どちらか一方だけが親であると決めつける必要もまたない。養子に出したら全部が失われるというやり方でないやり方もあるはずだ。
「結論として言っておくと、イマジナリーな領域の平等保護の一部として、養子と実母は相互にアクセスすることができるべきである。全ての養子と実親とが登録可能な記録があるべきである。」([HF:110=197])
"To conclude, adopted children and birth mothers should be allowed access to each other as part of the equal protection of their imaginary domain."([HF:110])
として(これは代理母の場合だけに限らないのだが)、やはり対立の可能性はあるだろう。無償でなされた行いの場合、その産んでほしい人と産んだ人とが対立した場合にはどういうことになるのだろうか。
ただ一つにはそのようにしても解けない場合があるだろうということ。養子についての対立。私もまたできるかぎりはとやかく言うべきでないと思うから、この立場はわかる。のだが、なにか内容をもってくる、こざるをえないのではないか。
子について。この場合には、私に「関わること」という論理は通用しない。いずれの人にとっても、私に関わることではあるから。
とした場合に、「子どもへの長期的コミットメントは明らかに必要である。幼い子どもたちの安定した永続的関係へのニーズを考慮するならば、私たちは社会として、どのように次世代の再生産を規定すべきだろうか。」([HF:216])
そのように考えときにも、「異性愛者として生きていることによってより善い親になれると考えるべきなんらかの理由があるのだろうか? このことが事実であるという証拠は、ホモフォービア(同性愛者嫌い)を根拠とするものを除けば一切ない。」([HF:215])という。そのとおりだとしよう。
「子どもたちが必要とする安定性を実現するために、監護責任の引き受けは、現行のもろもろの責任、すなわち経済的支援、移動の制限などを伴うことになるだろう。」([HF:218])
もちろんそうした条件・資源が必要ではあるだろう。だが必要であるとき、両者とも同じくそれが可能である場合もあるだろう。あるいは可能であるようにできるといった場合があるだろう。そしてまた、二人が争っているとき、経済的により安定している方に委ねるべきであると主張することもできないだろう。
「子どもを手放すことを強いられた実母は、明らかに自らの性に関わる存在を表現する権利を保護されなかったのである。[…]彼女の権利は生物学的に母であるということではなく、人格性に基づくべきである。」([HF:110=197])
"A birth mother who was forced to give up her child obviously did not have her right to represent her own sexuate being protected."[…]Her right should be based not on the fact of her biological motherhood,. but on her personhood."([HF:110])
「生物学的に…ではなく」はわかる。だが、微妙な差異であり、差異はないのかもしれないのだが、「自らの性に関わる存在を表現する権利」ということであるのだろうか。
["Her right should be based not on the fact of her biological motherhood."→〇 But "her right to represent her own sexuate" →?]
それは、親であることについて言えば、その人に対して(人との関係において)その人が既にあってしまったことということになるのではないか。そしてこれは、そのこと自体においては、自由ではないだろう。当初の目的・予定と異なって、彼女は経験してしまった。それで引き渡すのを拒んだ。それは無償の約束の場合でも同じだ。それで私は『私的所有論』で産んだ人が優先すると述べた。これは必ずしも(遺伝子的なつながりのある「親」はもちろん)産みの親を特権化するものではない。
子(に対する「権利」)について考えたのだが、子はこのようなことごとの一つのものである。つまり、世界にはそのような様々なものがあり、それを巡って争いが生じてしまうことがある。そのときにどうするか、どうせざるをえないか、あるいは争いが生じないような条件をどのように設定するかということがある。
感受・経験、あるいは感受・経験のための余白を保っておくこと、そのことにおいて配分しがたいものの配分が決まる、決めざるをえないということではないか。
子自身にしても、私が、私がなんであるかを受け取りつつ、なんであるかを気にしつつ、なんであるかを伝えつつ、しかしなんであるかを聞かれないように生まれ育つこと。子自身もまた、その出自において「自由」である必要があるだろう。ただそれは、その空白にその子自身が自らを描けるその条件を与えるためだとだけ言えるだろうか。そうではなくて、その可能性も含めた空白を用意するということではないか。(そのようなことをコーネルもまた言っているから、違いがあるというようなものではないのかもしれないのだが、…。)
ここまですこし違うのではないかと述べた。それはいずれにという判断自体において異なる部分もあるのもしれないのだが、同じ判断をしても、別の言い方になっていること、しかし別の言い方の方が当てはまるのでないかということだ。
たいした差ではないようにも思う。ただ、私が言っているのは、その人を決めないというあり方であるが、それはその人が決める(作る)ということをそのまま意味するものではない。(→なお同じだと言われるかもしれない。ならばそれでよいと言おうか。ただ記述はすなおにそのようには読めない。)