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公共という設定・公私という構図

―どのように茫漠たる議論から抜けるか―
立岩 真也 20020907 関西公共政策研究会


  ◇コメンテーター:
   葛山泰央(京都大学人間・環境学研究科、社会学)
   矢野寿(京都大学総合人間学部、哲学)
  ◇場所:京都大学大学院人間・環境学研究科棟2階233演習室
  ◇日時:2002年9月7日(土)2時−6時

  *この文章の掲載開始:20020904 当日まで(できたら)毎日更新
   0904リンクミス修正 0906加筆

◆報告

◇自己紹介:書きものなどのリスト
 2003年4月〜立命館大学大学院先端総合学術研究科(予定)の「公共」!?の部門。

◇いま思いついて(9月6日・21時)
・2000/06/30「こうもあれることのりくつをいう――という社会学の計画」
 『理論と方法』27:101-116(日本数理社会学会、特集:変貌する社会学理論)
 を使おうかと思います。いちおう値段がついて販売されている雑誌に掲載されている文章なので、これまではホームページに掲載されていませんでした。今回も数日間だけの掲載とさせていただきます(かもしれません)。研究会会場ではコピーを配布いたします。

 

・状況について
 社会科学はこれからおもしろくなる。のだから、おもしろくやっていった方がよい。
◇2000/11/01「たぶんこれからおもしろくなる」
 『創文』426(2000-11):1-5
 さて「公共」という切り口は、おもしろいだろうか。もちろんそれは切り方による。またどんな言葉を使うかより、結局、どれだけ考えるか、なのだが。

・公共?

 このところの仕事の概要をただたんに短く紹介したもの(約30枚)として
◇2002/09/**「分配的正義論――要約と課題」
 『季刊社会保障研究』38-2(特集:福祉国家の規範理論)
 これを使って、立命館大学公共研究会で報告した。(2002/07/12)
 それが研究会の会報に掲載される。
◇2002/09/**「分配的正義について――問うことと残されるもの」
 『立命館大学公共研究会会報』

 まったく同じ話をというのもつまらないので少し違った話をしようと思うが、とりあえず、こんなことをしている人ですということで、上記に目を通しておいていただければありがたい。そこには、けしからことに、以下のような箇所もある。山口定先生の御質問への応答の一部。しどろもどろしているが、実際に喋ったときにはもっとしどろもどろしていた。

 「…「公共性」という言葉。新しい大学院の「公共」という分野のスタッフにもなるにもかかわらず、けしからんことに、私自身はこれまで書いた文章の中で「公共性」という言葉を一度も使ったことがないかもしれないですね。そしてさしあたり、これから積極的に使っていこうとも考えていません。
 それがなぜなのか、自分でもよくわからないところがあるのですが、一つには、公共性という言葉を使う人たちが、その言葉を使うことによって何を言いたいのか、何を主題にしたいのかということ自体、よくわからないところがあります。そして、漠然としていてよくわからないのと同時に、なんだか妙に単純であるような気もします。私的なものと公共的なものの分かれ方、分け方、そして関係が大切だと思うのです。私は、私的なものというものがどのようなものであるとされていて、それはどれだけの根拠があるのか、どんなものが私的なものであってはいけないのか、同時になにが私的なものであるしかないか、そんなことを考えるというスタイルで考えようとしていると思います。そして公共が私に固有に属さないものであるという言い方もおかしいかもしれません。私に属しながら公共、であるものがあるかもしれず、そういう思考、作業の結果として定義は出てくるものだと思います。世界を私的なものと公共のものとに分けて考えていこうという問いの立て方はできないと思います。今言ったような線で考えていくしかないと思います。
 それ以上は申し上げにくいのですが。いま公共という言葉がある種のタームとして浮上していますが、それはなぜなんでしょうね。「今の社会は、私は私で、エゴイズムの社会でよろしくない、そこで公共性が大切だ」という、当たっていなくはいないだろう感覚がある程度広くあるということでしょうかね。「公共哲学」という必ずしも立派な出来ではないシリーズが東大出版会から出ていますが、それが一定読まれているのだとすれば、一つにはそういう需要があるということなのかもしれません。ただあれを読んでも、あまり感心しないわけです。なぜだろう。問い始めないといけないものがするっと抜けている感じがします。エゴイズムばかりはよくない、しかし国家もよくない、だからそのまん中あたりに「公共」、みたいな。そんな筋になってしまうとすればつまらない。もっと具体的に、同時に理論的に、例えば国家にどこまでのことをなぜさせるのか、させないのかを考えた方がよいと思います。今までの「公私論」に関してもそういうところがあると思います。具体的なテーマに即して、公共事業とか具体的な問題を詰めて考えていく中から、私のもの、私のものでないものを考えていく問い方にしていかないと何も見えてこない。そうでないと漠然としてわかるようで、わからないことが続いているのではないかと思います。そういうことをやっていく中で公共、公共性にポジティブな意味付与や定義が出てくるのであればよいと思いますが、いまのところは公共という言葉を様々な領域に漠然と被せているというぐらいのところにとどまっているように思います。それで私は、公共という言葉を決まったタームとして使うことは、今のところ考えていないということです。」

 例えば(上記の報告でも言っていることだが)、『私的所有論』に次のように書いた。

 「政府の役割について論議される時に、経済学では「市場の失敗」が言われ、この中に「公共財」の供給があげられ、これにフリーライダーの問題等が絡められる。個別に料金を徴収できない、コストがかかりすぎる財、あるいは個別に料金の支払いを求めるべきでない財について、その供給とその供給に関わる財源の確保を政府が担当すべきだとされる。だが、具体的に何がそれにあたるのか。例えば「非−排除性」が技術的な理由による場合には、それを技術的に克服する方法があるかもしれない――有料道路を普遍化することは本当に不可能だろうか。例えば産業、特定の産業、科学技術、芸術・文化の振興、生産・成長の維持、景気浮揚のための政策、等々はどうか。国立大学、国立劇場、等々の設立と運営は正当化されうるのか。」(第8章 p.)

 基本的なことを一つ一つ考えていくこと、考え直していくこと。

・思想史?的に

 例えば、介入が批判され、代わりに(結局)自由が対置されるという具合になっていないか。例えばフーコーの読まれ方。
 「福祉国家」の批判のされ方にしてもそんなものにとどまってはいないか。あまり単純なのは(単純なのはかまわないが、間違っているのは)いけないと思って、
◇2001/03/05-「自由の平等」『思想』 *資料
 を書き始めて、書きかけで止まっている。

 あるいは、「大きなもの」に対して小さなものを対置するというあり方。

 「…徴収し分配する単位としては、むしろ大きくとるべきだとする。そしてその範域内で、どのような集まりが形成されていくのか、供給主体として何が適しているのか、それを一人一人の発意と意志にまかせ、それらがさまざまに重なることを認める。…述べたのは、「地域」や「コミュニティ」へという方向とは異なる。その「自由」をどこまでも許容するなら、例えば裕福な地域が「自治」を主張し、より貧困な層を抱える国あるいはより広域の地方自治体に税を払うことを拒むといったことが起こる。現に米国のいくつかの地域では起こっていることである。地域主義者たちは、自分たちが思い描いているのはそんな地域やコミュニティではないと言うだろうし、その思いはきっと本当であるに違いない。しかし、人は常によく行動するだろうという楽観主義に立てないなら、その思いが実現すると限らないこと、むしろ思いに反した結果になる可能性をみておかなくてはならない。よい共同体は適切な分配を行うだろう。そして来る者を拒まず去る者を追わないだろう。とすると、今述べたことが起こるのである。…例えば明らかに財政について構造的な格差がある場合に、財政面での独立も含めた「地方分権」がどのように好ましいのか、私にはわからない。」([2000a:下133-134,146]◇)
◇2000/03/05「選好・生産・国境――分配の制約について(下)」
 『思想』909(2000-03):122-149 関連資料

 「…贈与における「自発性」「直接性」をどう評価するか。もっとも単純な人たちは、それをただよいもの、うるわしいものとするのだが、そうとは限らないはずだ。
 この問いは何が強制されるべきなのか、義務であるのか、何がそうでないのかという問いであり、国家に何をさせるのか、何をさせないのかという問いと基本的な共通点をもっている。しかもこの問題は、国家か民間かといった単純な二分法でとらえるべきでなく、むしろどのような組み合わせを考えるのかという問題のはずである。
 「民間」の活動、「市民」の活動に、あるいは「地域」といった言葉に肯定的である人たちの相当部分は、それらがとりうるあり方の総体というよりは、あらかじめその活動やあり方の内容や姿勢に特定の肯定的なあり方を見込んでいる。しかし、この主題はもう少し広げて考えることができるし、考えた方がよいと思う。」([2000g:110]◇)
 「例えば「冷たいこと」によって福祉国家は批判される。だがそれは、必ず批判されねばならないことだろうか。非人格的な関係のもとで、配分が自動的になされ、いちいち気がねしなくてよいことはよいことではないか。個別の、その時々の善意によってしか発動しない贈与を受けることによって暮らさなければならないこと、その人の善意を発動させ、その人の善意に応答しながら暮らさなければならないことは――与える側、少なくとも受け取る側にいない人たちは時にそのことに気がつかないのだが――愉快なことではない。少なくともこの意味で、広いこと、遠いことがよく、冷たい方がよい。違うだろうか。そして、物質的な苦難が人を何かに出会わせるのだと思う必要はないのだとしたら、むしろ、分配自体は機械として作動する場、環境にこそ、偶然に起こることもあるとは考えられないだろうか。」([2000b→2000i:255-256]◇)
◇2000b 「遠離・遭遇――介助について」,『現代思想』28-4(2000-3):155-179,28-5(2000-4):28-38,28-6(2000-5):231-243,28-7(2000-6):252-277→[2000i:221-354]
◇2000g 「こうもあれることのりくつをいう――という社会学の計画」,『理論と方法』27:101-116(日本数理社会学会、特集:変貌する社会学理論)
◇2000i 『弱くある自由へ』,青土社
 以上は
◇2001/05/15「普通の道を行ってみる」,『地域社会学年報』13:77-95(地域社会学会),ハーベスト社 でも引用

 とりあえず今日は?ここまで。

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 リストをご覧の上、立岩TAE01303@nifty.ne.jpまでメイルをください。


UP:20020904 REV:05,06
関西公共政策研究会  ◇立岩 真也
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