家族論における愛情のこと
last update: 20161029
■家族論における愛情のこと 19970623
****様
★ こんどはメイルが着きました。ありがとうございました。以下,とりあえず。
★ 私がこれまでに書いた話はとっても単純なことです。
「愛情の存在」は「行為の義務」を指示しないこと。
(これがつなげられることを問題にすべきこと)。
◆「近代家族の境界」
◆「「愛の神話」について」
「誰が介助するか」というような話はこれを前提に,「では誰が…」という話
にもっていかれます。
◆「私が決め,社会が支える,のを当事者が支える」
『生の技法 増補・改訂版』第8章
◆「「ケア」をどこに位置させるか」『家族問題研究』22
(最近出ました。見てみようというのでしたらコピーをお送りします。)
「家族定義論」みたいなものとの関わりでは
「愛情」をもってきたとして
家族が何をすべき集団なのか規定しない
cf.◆「愛について」
当人達以外の人がそれを規定することにつながらない
にもかかわらず
(例えば法的に規定された)家族はこれこれをすべき(義務を負う)集団とし
て 他人達に(例えば法によって)規定されている。
このことの「変」に家族社会学は気づいてない
それは定義の曖昧さにも由来する(誰の視点において言われているか,等)。
(「近代家族の境界」)
★ こういう話とどこかで**さんの話が交差するのか,あるいはしないのか…。
私の場合,「主観的家族論」というのはそんなにおもしろいとは思えないところが
ある。それは,当の人(達)がどう思うかに関係なく,これこれをすべきであると
いう単位としても家族があるという側面をどう見るかということに私の関心(の一
部)があることに関係があるようです。
★ そう言えば,私もちょっと文章を書いた(「私が決めることの難しさ――空疎
でない自己決定論のために」)太田省一編『分析・現代社会』(最近出ました,八
千代出版,2700円+税)の中に,赤川学さんが「家族である,ということ――家族
らしさの構築主義的分析」という論文を,加藤まどかさんかが「家族要因説の広が
りを問う」という論文を書かれています。
★ 障害者と家族,という切り口だと…。何が言えるのだろう。調べてみないとわ
からないと言えばそれまでですけども。『生の技法』で岡原さんが書いたこと以上
のことが言えるか。(あと要田洋江さん等の論文もあります。)そして「家族定義
論」みたいなものとのつながりをどうつけるか。
★ 私が知ってる限りでは,「親がいつも一緒じゃ恋愛〜結婚できない」というの
があります。これって当然って気がします。普通だと(仮に同居してても)親(の
目)から離れる機会っていくらでもあるのだけれども,介助から何から親がかりじ
ゃ無理。別に親が憎いわけじゃないけれども,(いったんは)離れないと。みんな
(ある程度は)そうですよね。
★ それからこれはよく言われることでもありますが,障害者の場合(一種の罪責
感みたいなものも関係して)(親からの)関係が強い(強すぎる)こと。
★ 繰り返すと私の場合,当人達がどうなっているかのか(互いに好きなのか,嫌
いなのか…)はどうでもよくって(という冷たい人なので,私は),家族が第一次
的な責任を負う(私達が負わせている)というのが嫌いなのです。
ただつけ加えると,
「愛」があるなら「行う」のが当然
「行う」ことの中に「愛」がある
といった具合に都合よくつなげられるのだけれども,
しかし,「行わなければならない」ことが関係の実質,愛情を破壊するというこ
とはよくあることなわけで
(「私が決め,社会が…」にちょろっとこのことを書きましたけど,私が書くの
ことはいつもひどくあっさりしている――と人に言われるので――誰にも読まれ
てない可能性がある…。)
そういうことから言っても,つなげられるのは気にくわない。
例えば,結婚と一緒に義務がついてくることによって,障害のある人と結婚する
のが難しいとか…
★ だから,「愛情イデオロギー」「愛の神話」というのは,私の場合,「愛があ
るなら…すべき」というもののことで。まあこういうことと別に,(例えば子供を)
「愛しなさい」という「教え」があること――によって,「子供を愛せない私って
いけない人なのかしら」という具合に悩んでしまったりすることがあること――も
事実だと思いますけど。でもこういう場合でも,「あなた(だけ)がみんなしょい
こむことはないんだよ」となった時には…?。
★ 9月に出る『私的所有論』という無骨なタイトルの本の本文の末尾はこうなっ
ています(p.427)。 具体的には「出生前診断」というテーマ(他)に即して書か
れた,第9章の末尾でもあります。
「一人の私が、私による制御という観念を越えて、他者を生かそうとするのは、
この社会にあってそう容易なことではない。ただ、産み育てるという行為に関わる
当の者は、ある者を統御しようとしても、そのことの不可能性を知り、最もその存
在に近い者でありながら、むしろそれゆえに、他者が他者であることを知っている
存在ではないか。私達は、しばしばこうした事実を見る。このような事態を承認し
ようと思う時、周りにいる者ができることは、子が「私」に属するという思いをい
くらかは軽くし、その者達とその者達の関係を支えるためのいくつかの手立てを取
ることではないか。
個別の一人としても、集合的な決定の決定者の一人としても、私達は、選択肢が
与えられていることを必然として受け入れる他なく、それをどう扱うか、考えるこ
とを迫られている。といって、そう深刻にならなければならないわけではない。何
かとてつもなく不幸なこと、人の運命を決するようなことが起こるのだと思うこと
から脱すれば、人の未来に何かを与えなければならないという思い、その何かを設
定する私の思いが、それほどたいしたものではないのだと思うなら、つまりはこの
私から離れた何かが起こることを見守っていればよいのだとすれば、そう深刻にな
らなくてもよいはずなのだ。さらに、現実に生じるだろう様々な徒労を、何かがで
きなかった私への悔恨として屈曲させず、他者が他者として生きることの方へ指し
向けていければ、押し潰されずに、私も、その他者も生きていくことができるはず
だ。」
(中略)
★ 無用な長文になってしまいました。もしかして,なんかいいことを考えついた
らまた書きます。また,何か書いて送ってください。では。
立岩