『全障連』bV
◇『全障連』(全国機関誌)目次
全障連7(1979・6・25)
養護学校義務制実施以降の情勢と私達の任務・・・・・・・・・・全国事務局(pp1-3)
※1979年4月養護学校義務化実施
「義務制は形式的には実施されたものの実質的には極めて不完全であり,むしろより多くの新たな矛盾が生じてきてさえいるのである」(p1).
@障害児(者)やその親の権利意識の高まり
「これまで長い間,障害者とその家族はいわば国のなすがままにされ要求よりもあきらめを強制されてきた.しかし,この間の私たちの斗いの前進は多くの障害者や親に権利意識や差別と斗う姿勢をもつ必要性を痛感させるのに大きな役割を果たしたと言える」(p1)
Aみずから障害児教育に取り組む教員の増加
B「特殊教育100年の伝統」がもはや形骸化し,養護学校の内部からさえその内容が問われている事
「障害児を入れる器―養護学校の実態もその貧弱者が次々と暴露されている」(p2).
「七千を越える訪問教育対象児,六千二百の強制転校組これが義務制の内容なのである.しかも『就学猶免児は三千に減少』という文部省発表とはうらはらに,まだこの十倍もの障害児が教育権を不当に奪われ放置されているのである」(p2).
「しぶしぶ障害者の普通学校入学を認めた,いくつかの地教委もここ数年のうちに強制転校をねらってくる事は充分予想される.養護学校義務制とのたたかいは,これからが本番である」(p2).
※運動の課題
@より多くの障害者の結集
「日夜施設か在宅の生活を強いられ外に出るどころか,明日の生活にも不安を感じている障害者.養護学校すら知らずに育った障害者にいきなり養護学校義務化阻止斗争への結集をよびかけたところで結集するはずのない事は,容易に推測できよう.彼らとの日常的なつながりをつくり,生活要求のたたかいを共にすすめつつ義務化をはじめとするさまざまな問題を提起する」(p2).
「私たちの車の両輪の一つである地域闘争へのとりくみの弱さが,障害者や親の結集をさまたげる結果となったことを深く反省しなければならない」(p2).
A教育現場からのたたかいへの立ち遅れ
・能力主義教育そのものと対決する教師の必要性
「それと同時に私たちも含めて,障害児教育の内容に付いてももっと深めるこ事も要求される.この点に付いても私たちは運動に追われて十分な検討をしてこなかった事を率直に認めざるを得ない.とり分け発達のとらえ方,学習と医療保証の問題,障害者に最低限必要な整備の問題などはごく僅かしか解明されていない」(p2).
これからの方針
@文部省闘争(この年の秋に文部省を包囲する予定)
A地域闘争
寄稿@ 「東京・金井康治桙ヘ都・区教委の差別攻撃を許さず自主登校を継続している」・・・・・金井康治君の花畑東小学校転校を支援する会
1978年12月 花畑東小学校に警官導入→支援者に暴力や暴言
1979年1月 二度に渡る三者会談
「しかし『解決に向けて』と設定された三者会談も,『話し合いをしています』というポーズにりようされただけで,都教委は区教委に下駄をあずけ,区教委は以前からの見解に終始するのみでした」(p3).
1979年3月 3回の座り込み(三月二日〜三日,
十五日〜十七日,二十八日から三十一日)
3月15日の三者会談の前日に区教委は
@支援者を含めた話し合いはしない
A12月25日の警官導入の事実確認の話はしない
という条件を一方的に設ける.
結局,鎧戸をおろし「支援者がいるので話さない」として約束を破棄
17日は府庁内で座り込み→警官による排除→東京「54阻止共闘会議」の集会に合流
28日〜31日はハンスト→4月4日の三者会談を約束
4月4日 わずか10分で都教委が無断逃亡.「今後の話し合いは養護学校に戻ることを前提としなければ行わない」と通知.これに対し「転校まで断固斗い続ける」ことを通告.
寄稿A 金井君支援のハンスト闘争の報告・・・・・・・関東ブロック・足立障害者解放研究会 八柳 卓史
1979・3・28 都・区教委金井両親の間で三者懇談→教委の「養護学校へもどれ話はそれからだ」という主張により、平行線。
※3月29日からハンガーストライキを開始、3日間継続。
寄稿B 都教委の一方的交渉打ち切り、ガードマン導入による養護学校義務化実施を糾弾する・・・・・・・東京「五四年度養護学校義務化」阻止共闘会議
3月21日に都教委が阻止共闘との交渉打ち切り(それまでの交渉は9回)。ガードマンの導入。
※新学期を前に就学の可否が決まらない障害者が多数いる。
抗争中の障害者→金井康治さん、岩楯恵美子さん、村田実さん。数十人。
寄稿C 奈良・梅谷尚司君の就学闘争の経過と報告・・・・・・梅谷尚司君の富中入学を実現し、みんなで教育を考える会
梅谷さん 国立重症心身障害児施設「松籟荘」において投薬を続けられていた。
3月21日〜31日の交渉までは行政のペース。
全関西から結集し闘われた3月21日〜31日の連続闘争は、就学指導委員会の答申を受け、市教委が2月28日付で出してきた「尚司君は養護学校に就学させ・・・・」とする就学通知に対して、白紙撤回させるために取り組まれました。(p7)
3月21日に100名以上の「障害者」、「労働者」「学生」「部落大衆」が奈良県部落解放センターに集結→「奈良では初めての「障害者」を先頭とした大衆抗議行動が闘い抜かれました。」(p8)
→29日夕方からテントで徹夜の座り込み。「部落解放同盟奈良県連や社会党市議団を通じて藤井教育長の出席を強く求めた結果、交渉に教育長以下市教委幹部が11名が出席せざるを得なかったのです。」(p8)
→この交渉の結果学籍を富中に位置づけることになる。
しかし、その後確約の撤回が申し入れられる。「考える会」は申し入れの撤回を市教委に要求。しかしその要求が郵送で突き返され、その後、話し合いが拒否されている。
※「考える会」の成果と課題(p8より記録者要約)
@養護学校に行くか普通学校に行くか迷っている障害児の親に地域で生きていくためには、地域校区の普通学校に行かせるしかないということを確信させたこと
A従来の「親の会」的発送では結局障害児を施設や病院に行かせてしまうことをはっきりさせた。
B梅谷君の闘争において部落差別などと闘う人と結合していったこと。
課題
その一方で教員の結集がはかれていないこと。
寄稿D みんな友達だ―盲学校から「普通学校」へ・・・・水口達彦(岐阜・全国未熟児網膜症から子どもを守る会・会長)(p11-12、作成者要約)
年月日不明・・高山市教委との交渉の結果盲学校に在籍し、地域校区の小学校との週2回程度の交流を認めるという回答を得る。→当初の希望とはほど遠いが、一歩前進として受けることになる(母親が付き添うという条件付き)。
※県教委は学習上の不適応を招くとして一学期での打ち切りを通告
これに対して講義し再度交渉へ。→就学検討の再検討、「交流学習確認書」を確約
最終的には地域の学校に転校、「特殊学級」を設ける。
3.31〜4.1全国各地統一闘争の情況報告・・・・・・・全障連教育小委員会(p13、作成者要約)
1月26-31日文部省糾弾6日間連続すわり込み闘争
4月1日(養護学校義務化スタート)に向けて各地で抗議行動を行う
中国ブロック
広島・・・3月30日県教委との交渉
岡山・・・3月31日労働者向けにビラ配布
4月1日 市民に対しビラ配布
関西ブロック
奈良・・・(3月か?―作成者)29日、30日に奈良市庁座りこみ、デモ
3月30日学籍を勝ち取る
大阪・・・・市教委に対する抗議と情宣
兵庫・・・・県教委に抗議文
東海ブロック
岐阜・・・・4月1日「義務化を考える交流集会」
福島関東ブロック
東京・・・・3月20日の交渉物別れ
4月3日都教委への抗議
※金井氏の自主登校続く
東北ブロック
福島・・・交流会
4月12日県教委との交渉
地域での闘いの武器に・・・・・・・障害者が地域で生きる会 鈴木利子(p14-15)
※映画「養護学校はあかんねん!」の紹介
「映画の中で荒木氏の通訳をしているのは絶対許せない事だと思います。荒木氏の言葉はわかるのに通訳してしまっています。言語障害の人の言葉も地域へぶつけていかなくてはいけないのではないでしょうか。」(p15)
3.11全国闘争の総括と今後の課題・・・・全障連赤堀小委委員会・・・・(p16-17)
1978年11月26日赤堀中央斗争委員会を結成
1979年3月11日 再審棄却決定に対する糾弾
※病者との共闘を強調
6.10全国「精神障害者」第4回交流集会に参加し「精神病」者と障害者の団結を強化しよう・・・・全障連赤堀小委員会(p17)
※1979年6月10日全国「精神障害者」の第4回交流会への参加を呼びかけ
「しかし、私たちの闘いはまだまだ弱く、とりわけ「病者」差別の現状、苦悩の中から決起した「病者」自身の闘いの内実を理解し切れていないでしょう。」(p17)
全国青い芝の回総連合会の脱退に関する事実経過と基本的見解(p18-19、作成者要約)
1979年3月全障連全国幹事会において全国青い芝が脱退宣言文を提出し、わずかの討論の後退出した。
理由
@全障連に提起した行動綱領が認められなかったこと
A全障連が「健全者ペース」になっており「CP者の意見を無視した」こと。
青い芝の回の声明では第二回大会の前から行動綱領を提起したということであるが、全障連の認識では行動綱領が提起されたのは、第三回大会の数ヶ月前の全国幹事会。部分的には2回大会の前から関西を中心に「全障連としても障害者解放運動を進める上で、基本姿勢を打ち出す必要がある」との論義が出ており、第2 回大会直前の幹事会に「大会宣言(案)」が提出される。青い芝の会はこの案を強く支持した。
1978年3月正式に行動綱領が提起された際には青い芝の会の「直ちにつくるべきだ」という意見の他に、@必要性は認めつつ論議が必要とする意見、A全障連には行動綱領は不必要とする三つの意見が存在した。内容の討論を行うも時間不足であった事は事実。1978年6月の幹事会では行動綱領の必要性を確認。
「ところが、全国青い芝の会は、急に「第三回大会で絶対に行動綱領を打ち出すべきだ」といいだし「いちいち討論している時間はない」とか「CP者に理屈はいらない」、「説明の必要はない」等と極めて強硬な態度に出た。(p19)
第3回退化には間に合わず、綱領作製委員会を作り検討する(青い芝の会もしぶしぶ同意)
大会前日の幹事会・・・綱領が作れなかった事への抗議と会の内部事情から、全国代表幹事の辞任と各ブロック代表幹事も出さないこと、作製委員会には2名送ることを通告。
第1回作製会議では、青い芝の行動綱領をたたき台にして議論することを決定。
→青い芝の会は活動に参加しなくなる→3月の脱退宣言
「以上の経過でも明らかなように全障連の仲間は決して全国青い芝からの行動綱領の提起を無視しておらず、むしろ、かなりの時間をさいて論議と、作る方向で討論が進んでいたことにはまちがいない。ただ、全障連はある程度異なった歴史や性格、考え方をもった団体の連合体である以上、一つのことをそんなに容易には決定出きず、ましてや行動綱領のような、全障連の基本に関わるようなことがらの決定には、多くの時間を要する事が容易に予測されるであろう。(p19)・・・中略・・・(通訳に関して―作成者)もちろん、全障連の集会に来る全ての人たちに、この決定(通訳はつけない―作成者)が徹底しておらず、又、障害者運動に関わって間もない人はこのことを理解せず、謝った態度に出ることは充分にあり得ることである。だからといって、それを「全障連が悪い」と言われるなら、集会参加者を1人1人チェックして最初から全てを理解している人以外は、参加を認めないことにでもしない限り、どうすることもできない。(p19)」
資料 全障連に対する声明書・・・・・・・・・・・・・・・全国青い芝の会総連合会 会長代行 横田弘(p20)
「全国『青い芝の会』総連合会は第二回全障連大会の4ヵ月以前に全障連の性格、及び方向性を決定するための行動綱領作成の提起を行った。ところが、全障連は、表面的な運動の推移のみに終始し、基本的な方向性を軽視「時間的に余裕がない」という名目で第二回大会では、ついに行動綱領が作製できないままで終わった(p20)」
(中略)
「にもかかわらず、全障連はそうした青い芝の会の提起を受け止めようともせず、行動綱領の作製を引き延ばすばかりか現実の運動面においても、青い芝の会に参加するCP者の言葉を聞こうとしない健全者が増えてきたという現象まで起こったのである。(p20)」
「1979年2月を以って全国障害者解放運動連絡会議と決別することをここに表明する。(p20)」
*作成:廣野 俊輔