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『わが青春の国際学連――プラハ1959‐1968』
石井 保男 20100703 社会評論社,190p.
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石井 保男
20100703 『わが青春の国際学連――プラハ1959‐1968』,社会評論社,190p. ISBN-10: 4784514791 ISBN-13: 978-4784514793 2100
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内容(「BOOK」データベースより)
全世界を獲得せよ!安保全学連プラハへ。キューバ革命からチェコ民衆反乱にいたる激動の1960年代を疾走する。
■社会評論社HP
http://www.shahyo.com/mokuroku/consciousnes/shakaisyugi/ISBN978-4-7845-1479-3.php
■著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
石井 保男
1933年8月2日東京生まれ。1953年4月東大教養学部理科2類入学。1955年4月東大医学部進・入学。1959年3月~’67年国際学生連合(IUS)副委員長。~’68年9月まで引き続き日本全学連代表としてIUS本部書記局に常駐。1968年9月~’68年9月ベルリン自由大学東洋研究所講師。1969年10月帰国。1961年東大医学部依頼退学。1972年4月同学部復学。1973年3月同学部卒業。1973年~2008年医療法人一陽会陽和病院勤務。副院長、附属高等看護学校校長を歴任(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1933年8月2日 東京生まれ
1953年4月 東大教養学部理科2類入学
1955年4月 東大医学部進・入学
1959年2月25日 (3月31日卒業予定直前)
羽田空港よりプラハに向け出発
1959年3月’67年 国際学生連合(IUS)副委員長
’68年9月まで引き続き日本全学連代表としてIUS本部書記局に常駐
1968年9月’68年9月 ベルリン自由大学東洋研究所講師
1969年10月 帰国
1961年 東大医学部依頼退学
1972年4月 同学部復学
1973年3月 同学部卒業
1973年2008年 医療法人一陽会 陽和病院 勤務
副院長、附属高等看護学校校長を歴任
2004年4月’08年1月 老健「練馬ゆめの木」施設長
2008年2月現在 医療法人尚寿会 大生病院 勤務
■目次
まえがき 9
第I部
医学連
の活動、そしてプラハへ
一 そのころ、自分のおかれた座標 14
二 プラハへ出発(一九五九年二月) 18
尾崎秀実をかくまった吉田富三先生(医学部長)との面談 18
羽田空港で 22
香港から北京・モスクワを経てプラハへ 23
プラハでの生活 31
三 自己寸史「学生運動へのかかわり」――原水爆禁止のたたかい 36
死の灰――第五福竜丸と久保山愛吉さん 36
医学連の活動――そして全学連へ 41
四 1960年代――世界と日本 51
激動する世界の1960年代に 51
日本の1960年代――高度成長・繁栄する消費文化 56
五 「冷戦」時代にみる「東側体制」をどう把握するか 61
旧ソ連・東欧型の政治経済的分析――その「ことはじめ」 62
第II部
国際学連書記局(プラハ)を舞台に
一 国際学連(IUS)について 74
1939年11月17日 プラハ・9名処刑の反ナチ学生運動 74
国際学連の分裂(1956年 ハンガリー蜂起をめぐって)
――冷戦の「学生版」 77
国際学連の具体的な活動内容 80
二 1968年8月20日 チェコスロヴァキアの軍事制圧の現場 87
その日 87
「人間の顔をした社会主義」 93
市民の抵抗と困惑する若いソ連兵 96
三 国際学連内で日本全学連の占める確固たる位置 103
60年反安保闘争の全世界的名声「ゼンガクレン」 106
安保闘争後における国内全学連との連絡ルート選択 107
「新左翼全学連代表団」
国際学連4大会(60 067年)に連続公式参加 110
四 世界各国歴訪 117
キューバ 118
ポーランド――「アウシュヴィッツ強制収容所」 135
アルジェリア 142
キプロス 143
五 プラハからベルリンへ 145
英国公共放送(BBC)テレビ討論会
「反乱する学生層」に招待出席 145
ベルリン自由大学1?1?講師として1年間 152
加藤周一氏を教授に招請 154
六 国際活動で学んだこと 159
七 その後の「身のふり方」――14年遅れ四〇歳で医者に 164
八 21世紀の世界 170
変貌したノメンクラトゥラが牛耳るロシア資本主義 170
欧州連合に吸収され属国化する東欧諸国 173
制御不能に陥るグローバル金融資本主義の運命 175
当面のテーゼ(作業仮説):
【「金融資本主義」はその強力な推進力の
エンジンそのものの中に、
「自己破壊的な装置を構造的に内包している。】 177
「走資派」が操作展開する中国の未来像 183
書きおえて 189
■「60年代のプラハ回顧 元IUS副委員長、冷戦下の9年つづる2010年7月22日」
『朝日新聞』2010-07-22
http://book.asahi.com/clip/TKY201007220367.html
「60年安保から半世紀。記念の出版が相次ぐ中、少し異色の回想録が出た。『わが青春の国際学連』(社会評論社)。著者は元国際学生連合(IUS)副委員長の石井保男さん(76)。全学連を代表してプラハの事務局に派遣されたが、安保闘争の総括などをめぐり母体は分裂。後継者が来ないため9年にわたり職にとどまった。稀有(けう)な経験を通して見た冷戦下、60年代の世界と日本が描かれている。
「ずいぶんと遅くなりましたが、私を送り出した人と組織への報告書のつもりです」
プラハに向け旅立ったのは1959年2月。東京大医学部の卒業を翌月に控えていたが、卒業すると学生でなくなってしまうので、卒業試験を半分残しての出発だった。
運動に入るきっかけは医学部に進んだ55年の学園祭。米国の水爆実験の死の灰を浴び犠牲者が出た第五福竜丸事件があった翌年で、放射能の害毒を紹介する展示を企画。その時に知り合った仲間たちと学部自治会や全日本医学生連合の活動に参加し、58年には全学連の中央執行委員に選ばれた。医学生の国際セミナー開催が計画され、その交渉役という意味合いもあり、プラハ派遣が決まったという。
到着した国際学連には東側からの代表しかいなかった。反ナチ運動を引き継ぎ、英国などの主導で46年に設立されたが、56年のハンガリー蜂起の評価をめぐり対立し、日本をのぞく西側は脱退し別の組織を立ち上げていたのだ。
「私の立場はとても強かった。西側からはたった一人ですし、ゼンガクレンの活動は世界中に知られていた」
世界中を飛び回った。キューバは3回も訪問し、ゲバラとも会った。パレスチナのガザ地区やキプロスなど紛争の現地にも足を運んだ。
プラハで感じたのは国際情勢への人々の敏感さ。62年のキューバ危機では、「戦争は近い」と食料確保に走った。「日本では60年代は高度経済成長期とされますが、本来は朝鮮とベトナムという二つの戦争の恩恵を受けた発展だった。意識が島国のなかに閉じこもっていないでしょうか」
プラハを去るのも国際情勢のため。68年、ソ連軍がチェコスロバキア(当時)に侵攻し制圧。国際学連は幹部が逮捕され機能を停止した。ベルリンへ逃れた石井さんは69年に帰国。その後、復学が認められ、現在も埼玉県で精神科医として働いている。
いま痛感するのは「きちんと総括しない日本」だ。60年安保についても総括できていないが、一番できていないのは先の戦争だという。
「ドイツはヒトラーのしたことをきちんと反省しないと、欧州で歩いていけなかった。口先だけではだめで、心からの反省をしないと欧州人として仲間はずれになった。それに対して日本は中途半端ですね」(渡辺延志)
◆cf.
http://www.assert.jp/data/history/his/196701.html
19670327 IUS第九回大会〔ウラソバートル〕、全学連(民青同系)代表参加、日本への調査団派遣・書記局員石井保男の解任を決議、中国派三カ国ラテン・アメリカ十一カ国代表不参加
■言及
◆立岩 真也 2011/02/01
「二〇一〇年読書アンケート」
,『みすず』53-1(2011-1・2 no.):-
http://www.msz.co.jp
,
◆立岩 真也 2011/02/01 「社会派の行き先・4――連載 63」,『現代思想』39-2(2011-2):
資料
UP: 20101120 REV: 20110108
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石井 保男
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