『脱構築と公共性』
梅木 達郎 20020320 松籟社,244p.
■梅木 達郎 20020320 『脱構築と公共性』, ISBN-10:4879842192 ISBN-13:9784879842190 \2600 [amazon]/[kinokuniya] ※ pp
■内容
内容(「BOOK」データベースより)
公共空間の後退、そして解体の危機。この現在の状況に抗するために、未聞の新たな公共性、すなわち、まったき他者たちの公共性を開く。
内容(「MARC」データベースより)
デリダとアーレントの共闘。公共空間の後退、そして解体の危機。この現在の状況に抗するために、未聞の新たな「公共性」、すなわち、「まったき他者たちの公共性」を開く。
■目次
T 法と正義のあいだに―デリダ、ベンヤミン、アーレント (14)
脱構築の正義と正義の脱構築/正義と<最終的解決>/
正義、そのアウシュヴィッツ以後
U 公共領域における主体と他者―アーレント、カント、ハイデガー (86)
私的領域と公的領域/公共空間における主体の脱構築/行為者と注視者/没関心性、あるいはカントを読むハイデガー/公共性への転回のために
V 正義の表象と起源の暴力―ホークス、アーレント、デリダ (132)
暴力から創設へ/『独立宣言』テクスト分析/
西部の公共性、あるいは『リオ・ブラボー』
W カタストロフィーのなかの公共性―アンテルム、ブランショ、アーレント (180)
私的利害と公共性/私的利害切断の要件/二つの公共性/
まったき他者の公共性/破局と公共性のパラドックス
註 (217)
あとがき (241)
■引用
「かくして脱構築を一見特徴付けているのは、判断を下すことよりも、判断以前的なものへの問いかけであり、判断の停止ということになるだろう。(p.17)」
「重要なのは、判断や決定の問題に対する脱構築との緊張関係が、哲学と政治という大きな対立のなかに書きこまれている、ということだ。(p.19)」
「法や正義にとって「力」ないし「暴力」は、一方が他方を「利用する」といった外的な関係にあるのではないし、ただ力あるものが法を勝手に我がものにするといったシニカルな意味に限定されるべきでもない。むしろ両者は内的関係にある。すなわち法は力なしにはありえず、法が創設される時にはつねに起源の暴力が含まれている。この意味で法と力は不可分である。(p.27)」
「(a) 法の脱構築k脳性は脱構築を可能にする。
(b) 正義の脱構築可能性もまた脱構築を可能にし、さらには脱構築と一致する。
(c) 結論。脱構築は正義の脱構築不可能性と法の脱構築可能性を分かつ間際に生じる。
(p.32)」
「正義とは―そうしたものが存在するとすれば―正しい裁きをおこなう判断であり、絶対的に、つまり脱構築不可能なまでに正当なものでなければならす、その意味で、正当とも不当とも言えない根源的暴力にもとづく法からは区別されねばならない。だが、この正義と法との分割そのものが法創設の暴力的な挙 にほかならない以上、正義は法の「神秘的な根拠づけ」を超えてあることはできず、結局は「法」のこちら側に転落してしまう。(p.35)」
正義が、あるいは正義を正義たらしめる基準が不在であればあるほど、逆に正義が要請され、正義が肯定されねばならないとするものである。この言説は正義を肯定するが、それは事実確認敵なものではなく、正義を「言う」ことによって正義を「存在させる」パフォーマティヴな実践なのである。(p.40)
「カントは「公表される可能性を欠くといかなる正義も存在しない」とまで言うが、重要なのは、ここでいう「正義」が人びとの善意や意図の正しさ、目的の正当性などには依存しないということだ。完全なる公表性のなkでは、たとえ「悪魔の民族」ですら「よき市民」とならざるをえない。(p.77)」
「つまり、個人ないし一部の人間のみが共有する個別的利害の計算は破棄され、私的利害にもとづく自己中心性が還元されるのである、こうして公的領域は、人びとが特定の利害から離れて行動する領域である、と定義される。(p.90)」
「ここで重要なのは、まさにあらゆる人びとに開かれている人の「だれ」を、その当人だけは知ることができないという、アーレントの驚くべき記述である。(p.96)」
「そもそも人間は、自分自身に対する最大の利害関係者であり、必要・欲求・傾向性・傲慢といった「自己利害」から離れられないがゆえに、みずからに対して没利害的な関係を設定するのは困難である。・・・だからこそ、その人が「だれであるか」の暴露は、当人との利害関係のない他人たちによってよく行われるが、その正体は「本人に隠されたまま」なのである。(p.97)
■書評・紹介
■言及
*作成:松村 菜摘子