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『水俣病事件四十年』

宮澤 信雄 19971115 葦書房,506p.

last update:20100904

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■宮澤 信雄 19971115 『水俣病事件四十年』,葦書房,506p. ISBN-10: 4751206915 ISBN-13: 978-4751206911 \3675 [amazon][kinokuniya] ※ m34

■内容
(「BOOK」データベースより)
水俣で何があったのか。水俣病発見から政治決着までの40年を、膨大な資料群、日記、患者支援活動と裁判闘争の経験をもとにたどり直し、その実相を明らかにする。

(「MARC」データベースより)
97年7月、湾内の仕切網撤去によって水俣病事件は事実上終結したと「される」。しかしその歴史は最初から秘密とまやかしに満ちたものだった。膨大な資料群、日記、裁判闘争の記録などをもとにその実相を明らかにする。

■目次
まえがき

第一部 私と水俣病事件

第一章 水俣病事件との出会い
 NHKアナウンサーとして水俣へ
 政府見解、無策のままの経過を示す
 追い詰められる被害者たち
 裁判で立ちあがる被害者たち

第二章 「伝え手」と「支援者」とのはざまで
 患者を締め出す認定制度
 チッソの企業責任を問う
 水俣病の責任を問わない補償処理
 裁判勝利から始まった事件史研究

第二部 水俣病事件の実相を求めて

第一章 なぜ水俣で水俣病は起きたのか(一九〇六年〜一九五六年夏)
    ――水俣病の背景、ほしいままの漁場破壊
 日本窒素肥料株式会社立地と最初の漁場被害
 アセトアルデヒド製造とそれによる被害
 戦後の水俣工場と水俣市
 水俣の海に異変起きはじめる
 奇病発生とたれ流し容認契約
 水俣病公式発見される

第二章 なぜ水俣病は一年以内に止められなかったか(一九五六年秋〜一九五七年春)
    ――排水対策より原因究明を
 誰もが工場廃水が原因だと考えた
 水俣工場・西田らは原因排水に気づいていた
 奇病防止策、汚悪水停止と漁獲禁止提起される
 工場とは無関係ということにする――熊本県の姿勢きまる
 工場廃水と水俣湾魚介類の疑い強まる
 対策より原因の究明、事件史の流れきまる

第三章 とられなかった二つの防止策(一九五七年四月〜一二月)
    ――廃水処理工事中止と食品衛生法不適用
 原因廃水・精ドレーンの処理工事
 誰が食品衛生法適用をはばんだか
 なぜ廃水処理工事は中止されたか

第四章 生かされなかった厚生省見解(一九五八年)
    ――通産省・熊本県対策とらず 酢酸廃水、水俣川河口・八幡プールへ
 言われ始めた政治的対策
 厚生省、水俣工場の排水が原因と発表する
 原因排水八幡プールへ
 水俣漁民の補償要求始まる

第五章 被害拡大と有機水銀説(一九五九年一月〜一〇月)
    ――原因排水は判明したが、防止策はとられない
 水俣病事件クライマックスの背景
 被害地域拡大が意味するもの
 熊本県の不作為つづく
 有機水銀説好評と猫四〇〇号実験
 水俣漁民の漁業補償要求闘争
 有機水銀説に対するさまざまな反論
 行政は無策、被害さらに拡大する
 猫四〇〇号発症する

第六章 事件収拾へ(一九五九年一〇月〜一二月)
    ――すべてまやかしの排水対策・原因究明・補償処理
 不知火海漁民立ち上がる
 事件収拾策、動きはじめる
 根本策とたれず、漁民実力行使きめる
 国会調査団と不知火海漁民騒動
 まやかしの排水対策から原因のあいまい化へ
 補償問題処理され、事件収拾へ

第七章 水俣病終息に向けて(一九六〇年)
    ――手を結ぶチッソ・行政・医学
 漁民のその後
 アセトアルデヒド増産と廃水のゆくえ
 認定制度発足と患者「発生」の波紋
 サイクレーターのまやかしはこうして保たれた
 有機水銀説あいまい化めざす二つの組織
 熊大研究班の「水俣病」の問題点
 定着する「排水浄化、患者発生激減」
 原因廃水の流出続く
 水俣病の火消し着々と進む

第八章 水俣病終息と新潟水俣病発生(一九六一年〜一九六七年)
    ――水俣の「終り」が新潟の「始まり」だった
 水俣工場の合理化と地域支配
 変わっていく水俣病研究体制
 患者「発生」をとめた診査協議会
 原因物質はこうして抽出された
 水俣工場の奇病研究と安賃闘争
 潜在患者放置と胎児性患者の認定
 水俣病、闇のなかに沈む
 新潟水俣病発生と熊本水俣病とのかかわり

第三部 被害の実態と行政の責任を求めて

第一章 認定制度・水俣病医学の問い直し
 行政不服審査すすむ
 立ち現れた潜在患者
 汚染の証しを求めて
 認定審査会の壁くずれる
 環境庁採決を勝ちとる

第二章 第三水俣病事件と反動
    ――再度そして永久の切り捨て策へ
 第三水俣病事件
 判断条件改悪され、切り捨て路線へ

第三章 事件再度の収拾へ
    ――水俣病政治決着とはなにか
 認定制度以外の道を求めて
 大阪地裁判決を弾劾する
 水俣病政治決着とその問題点
 歴史への恐れ知らぬ首相談話
 水俣病最終解決以後

水俣病主要事項年表
あとがき

主要参考文献
主要人名索引

■引用

 国や県、そしてチッソは、水俣病患者を事実上放置し、工場も操業を続けた。1959年11月に水俣を訪れた国会調査団への陳情のあと、工場でデモ活動に向かった漁民たちはそのまま正門を破って構内に突入し、事務所などを打ち壊し、工員(工場長含む)と漁民の双方に負傷者を出した。この事件をきっかけにして、チッソの労働組合を中心として工場を守れという動きが高まり、市議会をはじめ諸団体が同調した(宮澤 1997:255‐257)。

「水俣市や市議会の動きは二つに集約できる。県議会で見え始めた、操業停止を命じる県条例制定の動きを牽制すること、食品衛生調査会の答申が操業停止につながらないように働きかけること、だった。あれほど原因究明を急げと言い続けていた水俣市が、百八十度姿勢をかえたのである。その動きに反対を表明したのは、被害者たち・水俣病患者家庭互助会だけだった。」(宮澤 1997:25)

1961年から水俣の調査を開始した宇井純と行動を共にした写真家の桑原史成が、後に写真集『水俣病』(三一書房)となる取材を1962年に行い(宮澤 1997:357)

■書評・紹介

■言及




*作成:岡田 清鷹 追加:森下直紀
UP:20081112 REV:20100904
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