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『吃音学を超えて――W.ジョンソンの黙示録』

相沢浩二 19800401 弓立社,322p.

last update:20210220

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■相沢浩二,1980,『吃音学を超えて――W・ジョンソンの黙示録』弓立社.[amazon][kinokuniya]

■内容紹介


■目次


■引用

p. 227
【吃音者宣言】「私たちは知っている。どもりを治すことに執着するあまり深みを深めている吃音者がいることを。その一方、どもりながら明るく前向きに生きている生きている吃音者も多くいる事実を。そして、言友会10年の活動の中からも、明るくよりよく生きる吃音者は育ってきた。全国の仲間たち、どもりだからと自分をさげすむことはやめよう。どもりが治ってからの人生を夢みるより、人としての責務を怠っている自分を恥じよう。そして、どもりだからと自分の可能性を閉ざしている堅い殻を破ろう。〔中略〕吃音者宣言、それは、どもりながらもたくましく生き、すべての人びとと連帯していこうという私たち吃音者の叫びであり、願いであり、自らへの決意である。私たちは今こそ、私たちが吃音者であることをここに宣言する。」(伊藤伸二編『吃音者宣言』2頁〜4頁 1976年)

p. 228
米国の動向にアンテナをはり、その上前をはね上げ、少しよさそうなのはマネをする――というのが、理論においても臨床面においても、横行してきたのではないのか。それゆえにか、<吃音者>は、そのような「理論」と「臨床家」の”指導”の下に、からめとられていたのである。その”指導”からおのれを解放せんとすること自体は、不当ではないし、非生産的でもない。だが、この宣言は、……かの「理論」を解体していく方向でその中に理論や思想として結実化させていく苦闘もなしに――あるいは中途で放棄して-――……「自由」に、意味論的思い込みによって、即自的に開花させただけのものにすぎないのではないか。

p. 231
「治すことにとらわれ、治そうと努力すればする程悩みを深めた経験を持つ私たちは、治す努力を否定した」(前掲書13頁)。……他方、実際問題として、”治療”を受けて<治癒>したり、受けずに自然に<治癒>したりしている人も、結構いる。

pp. 232-234
「どもりは治らないかも知れないと知らされたその後、吃音者の生き方と対処の仕方を、これまで接してきた多くの吃音者の生き方を通して整理すると、次の三つに大別できました。@どもりに負けて、どおりであることを嘆き人生を無為に過ごしてしまう人、A治らないかも知れないが、たとえ1パーセントの確率でも治る可能性があるのなら自分はその治る1パーセントにかけようとして、治す努力に歳月を費し、空しい人生を過ごしてしまう人、Bどもりを治すために使ってきたエネルギーを、かけがえのない自分の人生をより豊かにするために集中しようとする人……どの生き方を選ぶかは、その人自身の判断です。その道を選ぼうと、その人が納得して選んだ道であるなら、他人がとやかく言うことはできません。……三つのどの道を選ぶかはみなさまの自由ですが……。」(前掲書122〜125頁(p.232)。「みなさまの自由」と親切ぶりを示していただいているものの、内容にそれは実現されてはいない。〔中略〕そもそも、個々人の生き方・生きざまとは、本質的には、<恣意性>の領域に属しているものであり、何らかの理念や道徳によって価値の大小や序列を定められたりことに馴染むものではない。これは大前提である(p.233))。人は、はたからどのように立派にみえたり・バカバカしくみえたりしても、……それらは、伊藤らの考えと異なり、本質的にすべて<価値>として同等であり、また同等に<重い>ものである(p.234))。

p. 236
吃音は、コミュニケーションの機能に対して、中断的・阻止的な機能を果たすことが、よりクローズアップされるものであり、それを主要因もしくは規定要因として、吃音者が一般に<不適応>を起こしてしまうのは、自然なことである。その時、<吃音者のままでも立派に生きれる>ということを、臨床的に個々の具体的人間やその個々の問題に則してではなく、一般性として主張するのは、ピエロ、いや裸の王様的ふるまいに近いものである。

p. 238
『宣言』を全体としてみれば、やはり要するに”どもり(の人)を人間として認めよ”ということになるようである。だが、それを抽象的にくり返すだけでは、ほんとうのところ、何でもないことは、気付いているのであろう。そこを埋めるために、伊藤は、「栄光化」を次のような形で巧妙に押し出している。

p. 245-246
派手さはないが、かすかに、しっかりした手応えを感じさせてくれた、数少ない例外は、次のようなものである。河合茂という人は記しているーー「たとえ完全に吃りが治らなくても、相手に余り聞き苦しい思いをさせないような話し方にしていく努力は今後も怠らないようにしたいと思っています。そして社会の人々とのコミュニケーションをより充分で円滑なものにしていきたいと念じているのです。」(内須川洸・大橋佳子・伊藤伸二編『人間とコミュニケーション』197頁 1975年)(p.245)。河合は、「吃ることの優位性」を主張したりはしない。しかし、おのれの<どもり>をめぐるためらいに対して、人間‐世界(含む人間)の関係性およびその意識に眼を向けながら、その根拠をさぐり・与えようとしていることだけは、確実である(p.246)。

p. 248
私たちは、いつでも、歴史的−社会的に限定され、・特徴づけられた時−空に生きている。その限定性に気づかなかったり、異和をもたなかったりすれば、人はおのれの歴史的−社会的限定性を自然的普遍性と思う込んでしまうしかないであろう。……人種差別の著しい南アなどでは、「色が黒い」のは、完全に社会的差別の対象となり、「個性」などというカテゴリーには、入らない。これに対して、伊藤はどうこたえるのだろうか?

■書評・紹介

■言及



*更新:伊東香純
UP:20210220 REV:
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