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『精神病者自らの手で――今までの保健・医療・福祉に代わる試み』

Chamberlin, Judi 1977 On Our Own=19961225 大阪セルフヘルプ支援センター訳


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■Chamberlin, Judi 1977 On Our Own=19961225 大阪セルフヘルプ支援センター訳,『精神病者自らの手で――今までの保健・医療・福祉に代わる試み』,解放出版社,301p.  ISBN-10: 4759261052 ISBN-13: 978-4759261059 2730 [amazon][kinokuniya] ※ m.

第一章 患者から見た精神保健制度

p. 10
 R・D・レインが実証したように、反精神医学の考え方は患者に対して別の危険をもたらします。〔中略〕レインのいう治療共同体(キングスレー・ホールなど)にみられる自称急進派のまやかしは、そこに潜む大きな矛盾、つまり癒す人と癒される人との間に存在する隔絶と区別を認めずに無視していることです。レインの、そしてキングスレー・ホールの有名なメアリー・バーンズの事例によれば、このホールで職員に「良い」とみなされたメンバーとみなされなかったメンバーとは対等な扱いではないし、みなされなかったメンバーも対等だとは考えていません。

p. 11
 権力。病気や治療ではなく、これが精神保健システムのすべてです。患者は多くの場合、精神分裂病とラベリングされます。〔中略〕すべてはケアと思いやりという名の下になされるのですが、そこには本質的に強制が内在すると思います。

pp. 24-25
 【非科学的なことばとしての「精神病」】精神科医のトーマス・サズ(Thomas Szasz)、社会学者のトーマス・シェフ(Thomas Scheff),アーヴィング・ゴッフマン(Erving Gpffman),そして心理学者のセオドール・サルビン(Theodore Sarbin)は、精神病は存在しないという見解を発展させてきました(p.24)。精神科医のロナルド・ライファ(Ronald Leifer)は「医学の発展過程から考え、精神医学と内科学の関係は、論理的、科学的というより、むしろ歴史的、社会的なものである」と述べています。

p. 29
◇治療として使用されている向精神薬と副作用
 精神病院は以前よりも静かになりましたが、その静かさの代償として、ろれつの回らない患者や硬くなった姿勢の患者ばかりになりました。抗精神病薬という用語は、脳の特異的な機能不全の調整作用を意味しますが、脳の機能不全の証明もされていませんし、使用した薬によって元に戻す薬理作用も証明されていません。

p. 30
 人を拘束することよりも薬剤を注射する方がはるかに人道的なことのように思いますが、実際には同じことを行うための二つの違った方法にすぎません。

第二章 つくられる精神病者
◇私の「発病」
p. 43
 もし、処方された薬が私を幸福にしてくれるものと考えられていたのなら、それは誤りでした。我を忘れた無気力な状態のなかで、薬は病気を治すためのものと感じていただけでしたから。

◇「治療」への期待から裏切りへ
p. 54
 薬を飲む時間になって、あたショックを受けることになりました。私には薬がしょほうされていなかったのです。看護婦に薬を服用していたことを知らせましたが、「カルテには薬を服用する必要なしと書かれてある」という答えが返ってきただけでした。私は戸惑いました。飲んできた精神安定剤が私の気分をよくしたようには思えませんでしたが、半年間というもの、どの主治医からも薬を飲まないと症状が悪化すると言われていたため、そのことばを信じてきたのです。それが今になって薬なしで十分にやっていけるというのです。しかも眠剤も必要ないというではありませんか。精神安定剤とは違って眠剤には確かに効き目がありました。飲んでからまどろむまでの短い時間は、信じられないくらい気分がよくなるのです。毎朝目覚めると同時に、安らかな気分は去り厳しい現実が待っているだけでしたが、夜になると「眠る前の楽しい気分のままで目覚める朝がそのうちきっと訪れる」という思いが強くなるのでした。眠剤なしの夜を迎えることは、私にとって恐怖です。眠れないまま何時間もルームメイトのいびきを聞くことになりました。

p. 56
 ハリーから薬の種類を尋ねられたので、「薬は必要ないと言われた。しかし、それまでは薬を服用していた」と言うと、彼は合点がいった様子で、「禁断症状が出ているんですよ」と言いました。

p. 57
◇私は生きたかった
 再び最初の主治医を訪ねてみましたが、薬が出されただけでした。ヒルサイド病院で薬の禁断症状を克服した後でしたので、二度と薬をほしいとは思わなくなっていました。ただ眠剤だけは別でした。この薬にはつらい一日を数分で気分よく終わらせてくれる力がありました。

pp. 58-59
 モンテフィオーレ病院(こじんまりした病棟で患者は20名程、薬は処方されず、2人の付き添いはシスター)(p.58)。「TC」と呼ばれている治療共同体会議が週に2回開かれていました。この会議は総会で、みんなの前で自分の問題や考えを述べなければならず、苦痛でした。出席は強制的で、自ら進んで話をしないと、医師の鋭い質問に窮することになるのです。医師たちは、「私たちは治療共同体の仲間なのだ」とずいぶん強調していました。デイ・プログラムに参加している患者もいました。美術、工芸、料理、どれも分刻みで予定が立てられ、活動という活動はまるで日帰りキャンプに行って帰って来るかのようにハードな内容だったのです。嫌いだから休むというのでは理由になりませんでした。デイ・プログラムは病棟でテレビを見て過ごすよりも治療効果があると考えられていたのです。

p. 60
◇「保護室」の体験
 精神安定剤がもたらすけだるさや眠気が嫌でたまりませんでした。そのころには以前より自分はずっと元気になったと感じるていましたから、薬は飲みこまないで、トイレで吐き出すようにしました。

p. 61
 精神安定剤の服用量が増やされましたが、相変わらずできるだけ薬を吐き出すようにしました。過去に経験した副作用を思い起こしては、薬は気分を悪くするだけだと常に抗議を繰り返していました。

◇名ばかりの「開放病棟」
p. 79
 何カ月にもわたって服用してきた薬が私の身体のあらゆるところを蝕んでいました。視力がずいぶん落ちて、読書をしようと思っても字がぼやけていました。口が渇き舌は腫れ上がり私のことばは不明瞭になってしまいました。時々自分が何を言おうとしていたのか忘れることもありました。体は丸々と太っていました。何カ月も生理がなく、大量の下剤を飲んだ時だけ腸が動きました。気力は全くありませんでした。常にもうろうとした状態で歩くことが落着きとみなされるのでしたら、私は大変落ち着いた人間であるといえました。

p. 82
◇信頼できる医師との出会い
 医者に診てもらう気にはなれませんでした。私の調子がどうであろうと、病気ではないことに気づいていたからでした。退院後、何週間かかけて精神安定剤を断ち切りました。

第四章 オルタナティヴとは何か

pp. 96-97
 専門家ではなくてクライアントが運営管理するサービスは、「病人」と「健康な人」、「援助者」と「被援助者」とを分けません。時々頼る「専門家」などいないことに気づかなければなりません。こうしたオルタナティブを探し求める人々は、「専門家」とそのやり方によってもたらされる弊害をこれまでずっと味わってきたのです。精神病者は、精神保健システムと関係をもつことによって、自信を傷つけられる繰り返しでした。ですからオルタナティブを創り出す仕事は、この仕事に携わったすべての人が自信と自尊心を持つことが出来るための活動でもあるのです。そして、この意識覚醒(Consciusness Raising:自分が意識していない潜在意識を掘り起こして、よりよい自分に気づかせる方法)の過程は、精神保健領域に限らず、1960年代以来、欧米の女性解放運動の中にとりいれられ、自己解放の方法の一つに用いられ遂行されてきました(p.96)。リーダーを持たない女性たちのこうしたグループには専門家は存在しませんでした(p.97)。

pp. 126-127
 【オルタナティブの3つのモデル】 「パートナーシップモデル」は、サービスを提供するために専門家と非専門家が共同するモデルです。サービスを受け取る人もまた、サービス提供にかかわるパートナーであると知らされますが、、しかしながら援助を与える人と受ける人との区別ははっきりと定められたままです。思うに、この種のモデルに基づいたサービスは名目だけです。 次に、「支援モデル」は、相互支援のサービスを利用したいというすべての人がメンバーになれるモデルです。精神病者でない者と元患者が対等な関係として位置づけられます。誰でも時にはいろいろな問題に遭遇しますから、みんなが互いをお互いを手助けすることができます。この種のモデルでは、(支援を求める書類を書くことなど、対外的な役割を負う場合を除く)専門家は外されます。というのは、専門家は援助を与える人と受ける人とを分けたタイプの手助けを行うからです。 「独立モデル」は、元患者が手助けし合い、サービスを運営するモデルです。患者でない者や専門家はすべて外されます。というのは、彼らは意識覚醒を妨害し、精神病者差別の姿勢をとりがちだからです。支援モデルや独立モデルに基づくオルタナティブのサービスは、数こそ少ないのですが、今の米国における精神保健システムにおけるケア(世話)の非人間的なあり方にとって代わる、本当のオルタナティブのサービスを提供するものです。

p. 127
 【管理・運営は職員の手に】 精神保健の専門家は、ふつう支配する側の役割をとります。パートナーシップモデルに基づいたオルタナティブの中でも、支配する側の役割を続けるのです。パートナーシップモデルの業績の素晴らしい事例は、ニューヨークの有名な精神科リハビリテーションセンタ^「ファウンテンハウス」(Founten House)に見られますが、同時にコのファウンテンハウスの歴史を見ればこの種のモデルの限界が分かります。現在のファウンテンハウスは、1940年代後半に州立ロックランド精神病院に数名の精神病者によって形成された自助グループ「WANA」(We Are Not Alone)として始まりました。彼らは退院したあとも、関心をもったボランティアに会合場所を見つけてもらってニューヨーク市で会合を続けましたが、一方でこのボランティアはグループを自助的なものから新種の治療グループのようなものに変形させていきました。専門家の職員が雇われましたが、1950年代前半には、WANAの元患者たちのほとんどは、うんざりしてやめてしまいました。このボランティアが元患者に示した蔑みの一端が、最初の理事の一人であったオーガスト・リチャードのことばに見てとれます。英国国教の賛美歌を引用して、彼はこのボランティアを「悩める人々を救う、慈悲の天使・光の天使」と表現しています(Richard nd: 4)

p. 127
◇管理・運営は職員の手に――ファウンテンハウス
 かつてWANAのメンバーであったジョーダン・ヘスは、グループが専門職に支配されると事態がどのように変わるかを、次のように思い出しています。
 WANAには団結した親しい仲間意識がありましたが、専門家がかかわり始めた時、そういったものは崩壊しました。
 新しい人々がやって来た時、メンバーが参加者を決定するのではなく、職員がいわゆる「適合する人」を決定しました。WANAはユニークなものでした。精神病者が運営していましたから。しかし、ファウンテンハウスになってしまった時、そうではなくなったのです。

p. 128
 【管理・運営は職員の手に】 かつてWANAのメンバーであったジョーダン・ヘスは、グループが専門職に支配されると自体がどのように変わるかを、次のように思い出しています。「WANAには団結した親しい仲間意識がありましたが、専門家がかかわり始めた時、そういったものは崩壊しました。しばらくの間は、元患者が自分たちで(バザーなどを主催したりして)金銭を募り、その集まりを運営していました。新しいメンバーを受け入れるかどうかは投票によって決めました。しかし、最終的には、いわゆる管理者がそれらの権限をメンバーから取り上げる決定をしました。新しい人々がやってきた時、メンバーが参加者を決定するのではなく、職員がいわゆる「適合する人」を決定しました。WANAはユニークなものでした。精神病者が運営をしていましたから。しかし、ファウンテンハウスになってしまった時、そうではなくなったのです。」

pp. 133-134
 【意識覚醒は起こらない――パートナーシップモデル】 元患者へのサービスが専門家によって運営されているかぎり、意識覚醒は不可能です(p.133)。パートナーシップモデルに携わる職員は、メンバーの記録をつけ、メンバーのことについてほかの人と相談し、メンバーが従わなければならないさまざまな決定をします。一方、メンバーは、制限内での事柄に関する決定のみ参加できます。例えば、夜の遊びを水泳に使うかボウリングに使うかを投票で決めることはできますが、投票によって所長を解雇したり、ふるまいが「異常な」職員を指摘したりすることはできません。〔中略〕例えばファウンテンハウスでは、あっさりとメンバーによるコントロールをボランティアによるコントロールに置き換え、最終的には専門家のコントロールに置き換えています(p.134)

pp. 135-136
 【意識覚醒は起こらない――支援モデル】 支援モデルのサービスを実施する際に、何人かの専門家がかかわることもあるかもしれませんが、その参加のほどはメンバー共同体によって慎重に制限されています。バンクーバーでは、例えば、精神病者協会(MPA)は、特に助成金集めを目的にした支援の手紙を出すといった範囲内でたくさんの専門家からの援助を受けてきています。しかし、専門家が会合に来たり、日々の運営に参加したりすることはありません。支援モデルはメンバーの能力を信頼しています(p.135)。このように役割を限定されていても専門家は時折、メンバーが必要とし望んでいる援助を越えて指導しようとします。このため、グループが専門家に支配されることなくなんらかの援助を得ようとするなら、定期的に専門家無しの会合を持つことが不可欠です(p.135-136)。

p. 137
 【当事者の自信と能力を促進する独立モデル】 ニューヨーク市では、開放推進グループ(Project Release)が、精神病者がすべてを運営する週7日オープンのコミュニティセンターを営んでいます。このセンターの人たちは、自分たちをサービス提供者とは見ず、支援共同体として見ています。この違いは、大切です。なぜなら、サービスという概念は2つの役割を含んでいるからです。つまり、サービスする人とサービスされる人です。他方、共同体という概念は相互作用という意味合いを含んでいます。独立モデルはこれまでのオルタナティブの中で一番核心的なものですが、それは元患者の自信と能力を促進するタイプなのです。開放推進グループは、マンハッタンのアッパーウェストサイドのSROホテル(シングル専用)の建つ河口付近で生まれました。このホテルには、全く適応できない不安定な多くの生活保護の利用者(最近退院した多くの精神病者を含めて)が住んでいます。〔中略〕1976年、開放推進グループは1万ドルの助成金の認可をえました。そしてこの助成金で、スイートルーム(複数の部屋からなる)を借り、自分たちのコミュニティーセンターを開きました。コミュニティセンターはメンバーと今後メンバーになりそうな人たちのための集いの場であり、週7日、朝から晩遅くまで忙しく動いています。呼び物は夕食会です。だれにも「職員」の肩書はありません。メンバーがセンターにいるのは、自分たちがセンターを運営しているのではなく、そこが明らかに楽しい場所を過ごせる場所だからです。

p. 140
 【当事者の自信と能力を促進する独立モデル】 開放推進グループは、雇用に関心のあるメンバーに場を提供するために、非営利目的の印刷業を始める許可を得ようとしています。またつい最近、メンバーが働く中古品割引店をオープンしました。人びとが互いを気にかけ、互いに助け合うといった意味合いでの共同の概念は、これまでの治療法という概念とは思いもよらないほど違ったものです。開放推進グループの事例は、明らかに、共に働く元患者からなるグループとは、精神保健の専門家が用いるのとは全く違ったタイプのものであることを見せてくれています。独立モデルは、人々を病人と健康人といった固定した範疇に分割したりはしません。そこでは人々はお互いに助け合う対等な者とみなされます。

p. 149
 【当事者の自信と能力を促進する独立モデル】 精神病者によって管理運営されるオルタナティブの創造は、今の精神医療システムとは極めて対照的です。このオルタナティブは、援助をする能力のある人々とそれを必要とする弱い人々との間にスティグマを与えるような明確な区別をつくり出す代わりに、二者の間に対等な関係を築いて、新たな社会をつくり出しています。そしてまた、自分たちの不幸の主原因であると感じている疎外感や無力感を打ち砕いています。

弟五章 人が狂うとき

◇治療という名の拷問、虐待
p. 170
 今日、病院や外来診察でよく行われている精神科治療の方法は、向精神薬の投薬管理です。精神科医は、自分たちがそれらの薬を使って異常な脳の化学的現象を治していると考えてきましたが、その証明は何もありません。そして、どのようにして向精神薬が効くのかに関しても、実にさまざまな理論が、調査研究を行っている精神科医の数と同じくらいあるのです。
 精神薬学者たちは向精神薬をしばしばインシュリンと比較します。インシュリンは糖尿病を治しはしませんが、それをコントロールします。この比較は広く受け入れられていますが、弱点もあります。
 精神疾患に対するすべての薬物治療は、まだ証明されていない理論に基づいています。

p. 171
◇長期入院がもたらす害
 しかしながら、私を本当に支配したのは薬であった。
 薬は、人々をクラゲに変えてしまうために作られているのではない。にもかかわらず、薬の影響を受けている間、私は職員の手をわずらわせていたのだ。

pp. 176-179
 精神病院におけるもう一つの改革もイギリスから起こりました。R・Dレイン(RD Laing)は、精神分裂病だと診断された長期入院者で面会人のない12人の患者を選び、一緒に大部屋に連れて行きました(p.176)。大部屋では、患者たちは尊厳と尊敬をもって対応され、自分たちの好きなようにできました。夜には病棟に戻されました。2日目、12人の患者全員が、今までと違ったやり方で処遇された大部屋のドアの前に集まり、お互いに語りあったり、笑いあったりしていたのです。そして、その人たちの多くは何年も入院している人たちでしたが、18か月のうちに全員が退院できたのです。しかし、1年のうちに全員が病院に戻って来ました。そこでレインは、「精神分裂病」はその人の家族によって引き起こされるものである、という理論を考えました。まもなくレインは病院で仕事をするのをやめました(p.176)。〔中略〕レインと彼の同僚は、病院の中で実施できる意味ある変革に限界があることを実感し、患者と職員が共に暮らし働ける施設、すなわち有名なキングスレイ・ホールを設立しました(p.177-178)。キングスレイ・ホールは病院ではなく、ロンドンの貧困地区にある大きな古い家でした。人々はそこに来て暮らし、働き、刺激のある知的な雰囲気を体験し、自分自身の狂気(madness)を表現し、体験したのです。理論的には、職員と患者との間の区別はありませんでした。〔中略〕キングスレイ・ホールは、レインと彼の親しい人たちが運営していたフィラデルフィア協会およびアーバース協会によってロンドンに設立された、一種の施設のネットワークでした。アーバース協会のいくつかの施設で暮らしたことのあるデービッド・パーカー(David Pareker)は、これらの「オルタナティブ」がどのようなものであったかに関して、いくぶん違ったことを述べています。「アーバース協会は調査研究とトレーニングのためのグループであり、困難を抱えている人たち、つまり、元患者か病院に行く必要のある人たちのための居住施設でした。アーバース協会は精神科医が運営するコロニーでした。精神科医は自分たちだけで会合を行い、すべての決定を行っていました。」(p.178-179)

pp. 186-187
【危機のある人を支えるオルタナティブ――バンクーバーこころの救急センター】 1974年から1975年まで、ブリティッシュコロンビア州のバンクーバーに、危機に対応するユニークな施設「バンクーバーこころの救急センター」(Vancouver Emotional Energency Center:略称VEEC)がありました。私にとってこの施設を客観的に見ることは難しく、次に述べる説明は主観的な要素が含まれています。なぜなら、私は「1974年に数週間、そこの入居者でしたし、VEECにいたことが私の人生に深い影響を与えたからです(p.186)。VEECおよびエリザベス・ストーンハウスは、この章で述べられた数少ないオルタナティブであり、完全に精神医学的保護の枠外に設立されたものです。VEECは、激しい情緒的危機を経験している人たちが支援的なサービスを利用できないことに関心を持った非専門家のグループによって始められました。VEECは、斬新な地方サービスのプログラムに資金提供を行うカナダ連邦の機関「地方活動プロジェクト」(Local Initiation Project)から、最初の6か月間の助成金を得ました。そしてバンクーバーの中心街に家を借り、10人の職員を雇いました。VEECは5人の入居者を受け入れ、基本的な治療の方法とみなされている積極的な一対一の対面コンタクトをとることができました。最長2週間の入所と決められていたのですが、それは、VEECが激しい危機的状況にある人に的を絞っており、そして情緒的に苦しい時期を人生における思いきった変革の機会として人々が利用できるように援助するという方法を取っていたからです。長期の入所によって依存関係が生まれることを恐れたのです。VEECの創設者の中には「精神病者協会」(Mental Patients' Association 略称MPA)にかかわっていた人たちもいました。MPAは元患者の組織であり、メンバーに支援的なサービスを提供していましたが、危機にある個人を集中的に支援することはしていませんでした。VEECは病院とは違った状況を提供しており、監禁や薬よりも集中的な情緒的支援が強調されていました(p.187)。

◇危機にある人を支えるオルタナティヴ――バンクーバーこころの救急センター
p. 190
 薬物に関しては実際的な問題もありました。入所者の中に薬を過量に飲もうとする人たちが出てきてからは、職員は、薬を鍵のかかる箱の中に保管しましたが、薬を分けて与えるといった看護市のような役割を職員が果たすことに反対しました。その結果、薬物禁止の規則は、たび重なる職員会合の中から生まれたのです。
 薬物禁止という方針のためにVEECとMPAとの関係に緊張が生じました。なぜなら、多くのMPAのメンバーは向精神薬を絶えず使っていたのです。MPA はVEECを(そしてVEECはMPAを)支持続けてきましたが、この方針が確立してからは、VEECの入所者になるMPAのメンバーはほとんどいなくなりました。

p.194
 私が情緒的な破綻を克服する能力を持つことができた根本的な理由は、親切で理解のあるワーカーたちによって助けられ、励まされたという事実であった。私はどんな安定剤あるいは抗うつ剤にも邪魔されなかったし、それらの使用を避けるように勧められていた。

pp. 188-196
 【危機のある人を支えるオルタナティブ――バンクーバーこころの救急センター】 以前入所者だった人たちにはボランティア(有給の職員と一緒にハウスで仕事をする人たち)になるように勧め、後に職員になる人たちもいました。VEECは精神病院とは全く異なっていました。VEECの職員は、距離を置いて「客観性」を保つよりも、入所者との直接の対面接触を行っていたのです。VEECには次の4つの規則があるだけでした。一、薬物禁止 二、アルコール禁止 三、ことばによる、あるいは身体的な暴力禁止 四、職員と入所者との間のセックス禁止 薬物禁止の規則は最初、不法な薬物のみ適用されていました。しかし、施行して何か月か後に、処方された向精神薬も同様に対象とするように規則が変えられました(p.188-189)。薬物禁止という方針のためにVEECとMPAとの関係に緊張が生じました。なぜなら、多くのMPAメンバーは向精神薬を絶えず使っていたのです。MPAはVEECを(そしてVEECはMPAを)支持し続けてきましたが、この方針が確立してからは、VEECの入所者になるMPAメンバーはほとんどいなくなりました(p.190)。VEECは1976年の5月に閉鎖されました。新しい財源を見つけることができなかったからです。そこでは、26か月の間に約650人がサービスを受けました(p.196)。

第六章 内側から見た精神病者団体

pp. 203-205
 【今までのサービスの問題点】現在のシステムでは、援助の与え手は地位と報酬を得、それに対して援助の受け手は貧困者や病人と見なされ、援助の与え手と受け手は厳格に分離されます(p.203)。精神病といわれるものになった時には、患者は専門家の支配下に置かれ、専門家の保護と責任の下に生活することになります。現実の生活の問題を扱う場合においても、例えば仕事を見つけたり、生活する場所の確保などでさえ、精神医療の枠組みの中にいるソーシャルワーカーが対処します。〔中略〕専門家からの指導監督や支配などを受けずに、元患者が一緒になって働き活動すれば、誰もが対等であり、劣っているというみなされることはありません(p.204)。援助はクライアント同士が互いに提供し合います。援助を提供できる能力は人間の特性であり、教育によって得られるものではなく、ましてや専門家の資格によって得られるものでもありません。誰もが援助を提供できます(p.205)。

◇オルタナティヴの援助の特徴
p. 204
患者がお互いに不信の念を抱くなどの問題は、援助がいつも専門家側から一方的になされているからなのです。

◇MPAが運営するドロップイン・センター
p. 213
 ボブとエドが大声で論争を始めました。ボブは静かに新聞を読んでいたのですが、そこへエドがしつこく話しかけようとしたのです。

p. 214
 このことは、暴力事件になりそうな場合にグループはどのように対処するのか、そしてまた、こういった問題にかかわるメンバーのグループにおける責任論へと発展していきました。つまり、エドがことばによるいやがらせをした時、ボブは暴力沙汰になる前に会合を招集すればよかった、という結論になりました。

pp. 214-215
 デビーが「私を一人にしといて。もう私を悩ませないで」と悲鳴をあげました。「デビー、どうしたの?アンドリューが君を困らせるのかい?」とマイク。「私から手を離すように言って。これで<214<215>十回目よ」とデビー。マイクはアンドリューに近づいて「君がデビーを悩ましていることは規則に反している」と言いました。そして「会合を開いて話し合おう」と言いました。
 ジムはけんかをしたためにドロップイン・センターの利用を禁止されているのですが、ドロップイン・センターに入って来て、大きな声でマークに議論をふきかけました。マークは、ジムがドロップイン・センターをやめるべきだと主張したメンバーでした。
 ジムの方を振り向いて「あなたの利用禁止が変更になっているかどうか尋ねてみたいなら、次のドロップイン・センターの会合かビジネス会合に来てみてください。でも、それまではドロップイン・センターを利用できません」と言いました。

◇オルタナティヴとしてのMPAの特徴
pp. 226-227
例えば田園地帯に居住施設が一つありましたが、あるメンバーによれば「農村では地域からは、セルフヘルプグループをやっていくための支援がなかった。MPAの中心から離れているので、コーディネーターと住人が必要とする支援が展開できなかったのだ。私たちは、きれいな空気と田舎の生活がなんらかの不思議な治療効<226<227>果を上げるという考えをあきらめた」。

pp. 230-231
 MPAにおいて精神医学に対する姿勢が完全でないのは、組織の形成につながる、意識覚醒の過程を避けてしまったためだと私は思います。MPAは早い時期からサービスの提供にかかわっていたので、主要な関心は理論的(あるいは個人的)なことよりも実際的なことに対して向けられていたのです。
 精神医学にどのように取り組むかという問題は時間を要し、直截的、実際的な目的は役に立たず、しかも分裂を招くかもしれなかったのです。MPAの内部では、精神医療に対する意見が著しく異なっています。精神科医や病院を信頼しているメンバーもいれば、極度に困難なうつ状態の中でいやいや精神科医や病院に行く<230-231>メンバーもおり、さらに、それらとは関係を持ちたくない人たちもいます。
 理想をいえば、クライアントの運営するオルタナティヴにおいては、例えば現在行っている意識覚醒の会合を続けるなどして、MPAで行われてきたよりも一層の関心をセルフヘルプの発展に注ぐことが望まれるでしょう。

pp. 232-233
 MPAは当初から、だれでも参加したい人に対して開かれてきました。このやり方は大きな強みであると同時に弱さも持っています。
 メンバーの資格を限定しないというやり方は予想しなかった結果を招きました。つまり、患者でない人たちの大方が組織から給料をもらう人、つまりコーディネーターになるという事態になってしまったのです。それは患者でない人たちのMPAでの役割が援助を受けるのではなくて援助を他人に与えるものであるために、その人たちの方が能力があり、よりニーズの少な<232-233>い人々であるとみなされる状況を招きました。理想を言えば、メンバーの資格を限定しないということは、精神病者としてラべリングされてきた人たちだけではなく、すべての人がケアとこころのサポートを得られるという認識につながるべきなのですが、この理想に到達するためには、意識覚醒過程が進行していなければならないと思います。これがMPAでは起こらなかったのです。

p. 234
 元患者の利用に限定したオルタナティヴのサービスなら、MPAの場合よりも、はるかにうまくこれを成し遂げることができると思います。患者でない人たちがいることは、その人たちから精神病者だと思われるという恐れを持つために、自分たちの体験している困難について率直に話し合うことが難しくなります。たいていの人たちは「気が狂った」とラべリングされる体験をしたことがあるのですが、元患者に対する偏見は、人々がお互いに、違っているというよりも似ているんだということを理解できにくくするのです。これは精神病者差別の広がりのもう一つの例です。患者でない人たちがいることで、元患者たちは「妄想症」だと思われることなく精神病院での嫌な体験について打ち明けて話すのが難しくなるのです。

p. 239
◇MPAの問題点
 MPAでの一つの問題点は、組織が、これらの精神保健システムとの関係という非常に基本的な問題についてグループの立場を示さなかったことです。
 このように視点が欠けていると、危機を体験しているメンバーに対応するのが難しくなります。何をしたらよいのかだれもはっきりとしないのです。
 メンバーが危機を体験している時、MPAはしばしば限られた援助しか提供できないということは、一つの不幸な結果です。しかしながら、危機と、目の前の生活問題とが一緒に解決できるかどうか疑問です。危機にある人たちはふつう、個人的に留意しなければならないことが多く、目の前のプログラムに対しては破壊的になります。一方、危機を体験している人をプログラムから排除してしまうと、その人のうつ状態や疎外されているという思いが増大してしまいます。

p. 240
 もちろん、実際的な困難は生じます。初めて会合で話すメンバーは、見解を上手に話すことに馴れておらず、気に留められなかったり、真剣に耳を傾けてもらえなかったりするかもしれません。会合は経験を積んだメンバーによって主導権が握られる傾向があります(もちろん、このことはあらゆる種類のグループについていえることですし、元患者に特有の問題ではありません)。メンバーが管理するグループでは、小さな派閥だけにリーダーシップが集中しないように気をつけなければなりません。MPAでは、会合に参加しているメンバーは多いのですが、日々の組織運営には少数の人たちしか活発にかかわっていない、ということが実際には起こっています。

pp. 247-248
第七章 運営のひけつ
◇資金調達
 一番の問題は金銭です。
 二番目の問題は場所の選定です。
 手ごろな値段で適当な建物を見つけても、地元の反対に遭うこともあるでしょう。
 さらに、内部機構についても同様に、その原理をよく考えなければなりません。グループが大きくなり、分配するサービスが多くなると、グループで決定するという原則から外れる傾向は強くなるでしょう。集団で決定しようとする場合には、官僚制的傾向が滑り込んでいないか絶えず確かめる必要があります。
 前にも検討したことですが、グループが直面するさらにもう一つの問題は、精神病者は自分自身の事柄を自分<247<248>で管理、運営することができないという信じ込みが(部外者も元患者自身も)あることです。
 精神病者の仲間によるオルタナティヴがどういったものにしろ、グループはその運営資金を工面するという問題に直面します。刷新的なプログラムの資金源を工面するのは難しいものです。計画の段階を過ぎてもサービス機関の設置にまで至らなかったとすれば、金銭の工面ができなかったことが最大の要因でしょう。
◇助成金
 しかし、どの資金源にせよ、刷新的なオルタナティヴは多くの困難に直面します。助成金提供者にとっては、オルタナティヴなど全く未知のことだからです。セルフヘルプや共同体としての仕組み、参加民主主義などの概念は、急進的で非現実的なものとして見られるかもしれません。元患者が参加するというのは、専門的な方向付けがないという懸念のために、疑いの気持ちが持たれます。これらは、ないがしろにできない実際上の障壁なのです。

pp. 252-255
 成功をおさめた二つのオルタナティブ、MPAとバンクーバーこころの救急センターがバンクーバーに設けられた一つの理由は、カナダ政府の惜しみない助成金提供政策にあります。バンクーバーこころの救急センターもMPAも、地元の先駆的プロジェクト(地域に根ざした、刷新的な社会サービスプロジェクトに特に資金提供するための連邦政府のプログラム)から最初の助成金を得ました。助成金の提供者側が精神保健のケアだけに関心がある場合よりも社会サービス全体に関心を持っている場合の方が、オルタナティブのサービスへの助成金獲得は容易です(p.252)。MPAの歴史を見ると、助成金を誰が提供するかによってサービスの質が大いに影響されることが分かります。MPAの最初の助成金は、ブリティッシュ・コロンビア大学の卒業組からの千ドルでした。このお金はドロップイン・センター兼事務所になる家屋の賃借料として使われました。次に、地元の先駆的プロジェクトからの6か月分の金銭は、MPAコーディネーターの給料の支払いに当たられました。長期の助成金提供は「地元雇用援助プロジェクト」(失業者や雇用に適さない人々を労働市場に復帰させる連邦政府の)支所によって与えられました。ここから3年間助成を受けた後、MPAは地元の助成金に目を向けるように言われ、今は郡や州や市町村などから助成金を受けています。助成金提供者が、費用分担の方法を変更するように気まぐれともいえる指示を出してきたのはMPAの住居プログラムでした。MPAは、連邦政府の助成金から、住居コーディネーター10名の給料を払っていました。そのほか住居にかかる家賃、借財、設備使用料金、維持管理費、食費などの諸経費は、すべて住人の月決め料金によって賄われていました。ほとんどの住人は生活保護を利用し、生活保護切符で家賃や食費を払っていました。仕事に就いている住人は、生活保護の利用者と同額の経費を支払いました。仕事に就いている住人は、まだ仕事に出る準備のできていない住人にとって、重要な役割モデルでした。このようなやりくりに基づいて助成金を継続する要求を郡や州の政府に申し出たのですが、断られました。代わりに政府は、私立への精神科宿泊施設への助成金提供と同じスタイルでMPA住居に助成金を提供するといってきました。つまり、住居運営者が一人当たりにかかる費用の支払いを受けるのです。生活保護切符をそのまま受け取ることはなく、そのかわりに月25ドルの「こづかい程度の金額」を受け取るだけなのです。仕事に就いた住人は法外な月ぎめ料金を支払うか、でなければ出て行かなければなりません。住人は、月25ドルのいわゆる「こづかい程度の金額」を受け取るといった、人をないがしろにするようなシステムに不満を表明しました。それではまるで病院かほかの施設にいるような気にさせるものなのです。しかし、数か月経っても、ほかの資金源がみつからなかったので、住人は住居を閉鎖するよりは、この新たな助成金を受け入れる方をしぶしぶ選ぶしかありませんでした。3年間MPAの住人であったリンダがそのあたりの不満を次のように述べています。「この新たな住居助成金はひどいもです」「私たちはいつも、MPA住居は自分の家のようだといってきました。今では子守サービスのようです。四六時中、バンクーバー助成金委員会に報告しなければなりません。」(p.252-254) また、プログラム内での滞在期間を6カ月に限定している。MPAの住居プログラムのそもそもの始まりは、5つの共同家族を設け、家族の各メンバーが住居の運営費を分担し個人が自立し、経済面でも自足していることの強調にあった。コーディネーターの給料支払いのための助成金とプログラム運営費に対する少額の助成金を得て、さまざまな所得の人々を一緒に入居させることができた。障害年金を受ける者も致し、働く者も致し、福祉助成金を受ける者もいた。このようなさまざまな獣人がいることが、ほかのオルタナティブの生活モデルとなった(p.255)。

pp. 256-257
 【さまざまな資金源の運用】ニューヨークの開放推進グループは私的な助成金を獲得した一例です。〔中略〕もう一つの可能な資金源は地元の共同募金や「合同基金団体」(United Found)です。〔中略〕助成金獲得のためのさらにもう一つのアプローチは、グループのメンバーの雇用ばかりではなく、所得を意味だすビジネスやサービスを始めることです。ニューヨークの開放推進グループもクリーブランドのプロジェクト革命もこの種の助成金獲得を開拓しています。

p. 260
◇場所の選定
 また、地域の用途制限は、グループの存在そのものをほとんど不可能にすることが多いのです。家主もまた同様にグループに貸すのを恐れることがあります。

p. 263
◇専門家との関係
 グループが必ず直面するもう一つの実際上の問題は、精神保健の専門家との関係です。これは実際上の問題ばかりではなく原理上の問題でもあります。

p. 264
 もう一つの問題は、自分たちにとって一番厄介な望ましくない患者を最後の砦としてオルタナティヴな機関に送り込んでくる専門家がいる可能性があるということです。患者が管理、運営するオルタナティヴは、参加したいと思っているすべての人々をそのメンバーに含むべきですが、これは単に精神医療システムからはじき出されたすべての者という意味合いではありません。MPAで見たように、グループは、自分たちのプログラムの一部として対応困難な人々に対処する方法を発展させてゆかなければなりません。

第八章 強制ではなく支えあいへ

p. 267
◇治療を受ける権利・拒否する権利
 精神障害者が治療を受けるかどうか、またどういった治療を受け入れるかを選択できるようになれば、患者を薬でぼうっとさせたり、独房に閉じ込めることは、もはや治療としては通用しなくなります。

p. 299
 【監訳者あとがき】今までの精神保健システムでは、精神病がつくられたり患者が苦しめられたりすることがしばしばです。それをどう打開すればいいのでしょうか。その一つは、今までの精神保健システムに代わるオルタナティブを利用者自らが築いていくことでしょう。本書は、そのオルタナティブとはどのようなものかについて、専門家との関係のあり方から分類したモデルを明らかにしたり、専門家も含め誰もが生活上の困難をもつもであるという認識に立って、利用者自らが主体的に管理運営する本物のオルタナティブを論じています。そこには援助される者と援助する者との明確な区別はありません。オルタナティブによってエンパワーメントし、もう一度生きなおすことができた著者自身の熱い思いが伝わってきます。

■紹介・言及

◆立岩 真也 2013 『造反有理――身体の現代・1:精神医療改革/批判』(仮),青土社 ※

*更新:伊東香純

UP:20070701 REV:20210124
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