石田圭二氏・石田エリ子・和田幸子氏・岩橋誠治氏インタビュー
2017/06/22 聞き手:
立岩真也・三井さよ
石田圭二→石田圭/石田エリ子→石田エ/和田幸子/岩橋誠治/三井さよ
◇石田圭二 ◇島田療育園
◇文字起こし:ココペリ121 「20170622石田圭二.MP3」00:00:00〜02:44:28(164分)
□cf.
◇立岩 真也 2017/06/22 石田圭二さんたちに聞く,於:多摩市
◇立岩 真也 2017/09/05 「もらったものについて・17」,『そよ風のように街に出よう』91:60-67
◇荘田 智彦 19830420 『同行者たち――「重症児施設」島田療育園の二十年』,千書房,382p. 1600
立岩:ちょっとあいさつ代わりみたいなことを申し上げますと、この頃少し国立療養所の歴史のこととか、そんなことを調べたりもしていて※。島田療育園の話は、前から知らないこともなくて。ちょっと気にはなっていたんですけれども。そこから、私、今もう2017年ですから、もう27年前になりますけれども、『生の技法』という本を書きまして。そのときも、島田療育園の事件のことは少し注とかには入ってはいるんです。ただ、あれがどうなったのかなというようなことは気にはなっていたんですけれども。それから、それこそ27年経ってしまって。それで、また別途国立療養所であるとか、重心の施設のことなんかも調べ出して。これ、水上勉の「島田療育園を訪ねて」※っていう、63年とか64年とかのものですね。
※翌年本になった。
立岩 真也 2018/12/20 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社,512p.
※水上 勉 1963/08 「島田療育園」を尋ねて――重症心身障害の子らに灯を」(特別ルポ),『婦人倶楽部』1963-8:198-202→立岩編[2015]
石田圭:知ってる。これ有名なあれだ。
立岩:「背景池田総理大臣殿」っていう、同じ年に出したものなんですけれど、こういうのがあって。それで、去年事件が起こったわけじゃないですか。相模原で。そのときにいくつか思い出したことがあったんですけれど。この水上勉って、「背景池田総理大臣殿」っていうので、重心に対する公的な支援を訴えて、それで日本の福祉を前進させたっていうことになっているんですけれども。それはそれで間違いじゃないのですが、全く同じ年に、『婦人公論』の座談会があって。そのときに、石川達三っていう小説家なんかも一緒に、重度の障害児が生まれたら、生かすか殺すか、国で委員会をつくって決めて、場合によっては殺しちゃったほうがいい、みたいなことを言っている人でもあるんですよね。福祉福祉って言って施設をつくるということに貢献した人が、殺してもいいよっていうようなことを62年、63年に言っているようなこととかっていうのは、前から気になっていて。相模原の本の中にも少し書いたんですけれど、そんな伏線がちょっとあります。
それともう1つは、偶然みたいなことで、今、私、京都の立命館でいろんな資料を集めて、運動史の資料を蓄えたり、整理したりしているんですけれども、尾上浩二さんって、DPI日本会議の事務局長とかやった人ですけれども。彼が、東京に事務局長になって出てくるときに、東京じゃ物が置けないからっていって、ダンボールでいくつか資料をくださって。そこの中に、たまたまこれ※が出てきたのが、「島田療育園を告発する障害者七人委員会」っていう、82年の1月に起こった出来事ですけれども。そのあと、冬になって、障害者が島田療育園の前で会わせてくれって言うんだけれども、会わせてもらえないという、そのときのビラが出てきて、これが要請文で。これは、心身障害協会太宰に対する抗議書です。その抗議に加わってくれっていう要請文と。それから、この写真※は何回か使われたと思いますけれど、斎藤さんの写真とかビラが出てきて。
※ 「尾上浩二が私たちに寄贈してくれたものの中から出てきたのは八二年一二月一五日付けの「島田療育園を告発する障害者七人委員会」による社会福祉法人日本心身障害児協会太宰博邦(花田の著書等でも肯定的に紹介されている業界では有名な人だった)宛の抗議書であり、そしてこの抗議に加わることを要請するビラだ。そこには斉藤の文章も付されている。その全文はまたHP上に掲載するが、七人は井田博士(神奈川青い芝の会)、宇都宮辰範◇(中野区)、小林敏彦(障害者の地域生活を保障する会)、小山正義◇(神奈川青い芝の会)、千田好夫◇(千書房)、本間康二◇(『月刊障害者問題』)、三井絹子◇(府中療育センター闘争◇)」(立岩[2018])
※http://www008.upp.so-net.ne.jp/aiz/0000honma-top007_003.jpeg
石田エ:飯田さん?
石田圭:飯田さんだ。
立岩:あったなと思って。そんなことがきっかけといえばきっかけで。
石田圭:飯田、この間会ったよ。僕らの共通の島田の先輩が亡くなった、そのお葬式で。
立岩:率直に一番思うのは、この本が出て、この本は前から持ってはいたんですけれど、裁判やっている、そのあとはどうなったのかなっていうことは、一番単純に気にはなってはいたのだが、そのままっていう感じなんですよね。それは、1つ聞きたいことではあるんですけれども。でも、82年って僕は大学の3年生だから、何も覚えていないです。その年のことなんかは、私自身は。私は特別記憶力の悪いほうなんですけれども。とはいっても30年、そういうことって覚えてらっしゃらないことたくさんあると思いますけれども、覚えている範囲であったり、断片的にあったりでも、覚えていることをいくつか伺えればなと思って、今日まいりました。
石田圭:会えたところで終わっているんだよね。
立岩:そうですね。八代英太がなんやかんやっていって、間に入って。
石田圭:持ってるんだ(笑)。
立岩:これ、本間〔康二〕さんたちのやつですね。
石田圭:そうです。基本的に、障害者の告発団体は、本間さんが仕掛け人なんですよ。
立岩:本間さんにも今回連絡取ろうと思って、あわよくば東京で会おうと思ってメールは差し上げているんですが、まだ返事は来なくて※
※本間 康二 i2017 インタビュー 2017/09/15 聞き手:立岩真也 於:東京蔵前・本間氏宅
和田:お元気なんですか?
立岩:じゃないでしょうか。大丈夫かなと思って。実は、本間さんと僕は同郷なんですよ。私、佐渡島という島の出身なんですが、本間康二さんは僕より8つくらい上で、一度もお会いしたことはないのですが、『月刊障害者問題』というのは前から知ってはいて。
石田圭:この人も映画大好きなんだよ。ところがちょっと変な潔癖症みたいなところがあって、何かのきっかけでアメリカが大嫌いなの。あがついていたら、一切許さないみたいな世界にいっちゃって。ところが、俺はハリウッド映画大好きじゃない。そうすると、ハリウッド映画が好きなお前とも絶縁だ、みたいになっちゃって。だから連絡も来なくなったし、ちょっと映画の小さなパンフレットなんかを書いて送ったら、送り返されたりとか。だから、今絶縁関係になっちゃった。俺は全然絶縁じゃないんだけれど、ハリウッド映画なんかが好きなお前とは。
立岩:映画好きですよね。映画のことばかりブログとか書いていますからね。
石田圭:何かのことがきっかけでアメリカ大嫌いになっちゃって、アメリカ映画の好きなお前も駄目だっていう話になっちゃって、今全然お付き合いなくなっちゃったんだけれど。
立岩:この『記録』※っていうのは確かに出てくるのですが。これは何ですか?
※https://product.rakuten.co.jp/product/-/16e859e1623fdb4f8dd6d5c8117c6bcc/spec/
和田:これは、庄幸司郎さんって、もう亡くなったよね。その方がやっていた雑誌で、本間さんが書いているのね。
石田圭:建築家か何か。
和田:そうかもしれない。庄幸司郎さんって。もうけっこうこの頃年いっていたよね。スペースも持っていたよね。
石田圭:1回お会いしたことある。
和田:ある?
石田圭:1回お会いしたことある。すごく有名な建築家で、それの持ってる人間関係や資金を使って、これ出したんだよ。だから、個人雑誌みたいな。
和田:ヤスコさんがよく知っていると思う。庄さんは。
立岩:中野って書いてありますね。
和田:中野のスペースなんとかっていうの。これとも関係あるかな。これと関係あるかもしれない。私ももう忘れちゃった、昔は。
石田圭:そのへんの障害者の会っていうのは、基本的に本間さんが仕掛け人で。あと、荘田〔智彦〕さんって、書いた人が一応バックにして。本間さんがあちこち、当時の青い芝とか、そういういろんな障害者の運動体に全部声をかけていって、二日市〔安〕さんというのがいたんだよ。二日市さんもその人脈の中にいて。俺も、だから二日市さんのところに1回泊まったことがあって、仁木悦子さんにお会いしたことある。だから、そのへんがうまくバランスよく後ろにいたので、これだけのことができたんだと思うんだよね。本間さん1人じゃ、これの人これだけの人だしさ。でも、それをちゃんと裏でフォローするのがいたから。二日市さんって、すごいところまでいろんな人知っているから。
立岩:私も、80年代の、だからこの事件の数年後ですよね。国際障害者年というのは81年でしょ。ですから、障害者年が終わったあとに、『季刊福祉労働』の関係の人が二日市さんのところに集まって、月1とかくらいで研究会をやっていたんですよね。
石田圭:俺、『福祉労働』には、ちいろば取り上げてもらったことある。
立岩:北村小夜さんだとか、そういうので、僕も二日市さんのお宅にあがって、私も一晩泊まったことがあるんですけれどね。
石田圭:二日市さんの家で始めてウォシュレットを見た。なんだ、飛び出してくるなって(笑)。
立岩:立派なきれいなおうちでしたよね。もう亡くなられましたけれど。これがですか?
石田圭:そうだね。
立岩:これ〔写真に写っている人〕、石田さんでいいのかな。
和田:飯田さん。
立岩:これは飯田さんっていうんですか。
石田エ:この人の親友で、同じ島田療育センターの。
石田圭:4人組だったの。石田、飯田、鈴木さんと、高橋さん。
立岩:今の話は、問題が起こってから、年末に障害者が集まって、らちがあかなくて八代英太が出てくるとか、その頃のことじゃないですか。その元の、正月に起こった事件があって。言ってみれば、その前があるわけですよね。それっていうのは、何年かなって。
石田圭:前の話は、変な話だけれど、私、斎藤秀子さんがいた病棟の職員じゃないんですよ、私。実は、この人が同じ病棟にいた人なので。だから、私よりはデコのことは、こっちのほうが詳しい。
立岩:ちなみに、〔石田さんの〕奥さまお名前は?
和田:エリ子さん。
立岩:エリ子さんって、どういう字を書く?
石田エ:カタカナでエリで、子供の子。
石田圭:当時、島田って、病棟が違うと施設が違うくらいに全部単独だったんですよ。病棟間の交流なんて一切ないし。職員もね。あと、病棟自体で障害別に分かれちゃっているんです。だから、一番重い子の病棟、ある程度体の動く子の病棟とかって、障害別に分けちゃっていたので。だから、1つの施設に4つ施設があるみたいな感じだったんですよ。だから、私に2病棟、3病棟といて、斎藤秀子さんは3病棟になるんですけれど。中庭を挟んで向こう側が3病棟、こっち側が2病棟みたいな感じで。だから、ほぼ職員間の付き合いっていうのは、組合に入っているくらいしか、そういう垣根を超えた付き合いみたいなのはなかった。たまたま僕ら組合に入っていたので、そのメンバーは。それで、お互いの病棟の話とかができて。うちのが3病棟にいたので、秀子さんの話も聞けたしっていう中で。最初、映画サークルだったんだよ。
立岩:「あ・うら」ですか? 何か出てきますよね。
石田圭:そうそう。今思うと、高橋さんって第5病棟の職員の人間。彼がカリスマ的な雰囲気持っていて。だから、彼の影響を受けたメンバーが集まっていたという。オザワケイコはちょっと疎遠だったんだけれど、飯田なんかはけっこう一緒に暮らしていたしね。俺はちょっと距離を。
立岩:映画を上映する4人みたいなのが始まりだったという、荘田さんの本※にはそう書いてありますけれど。「あ・うら」って何か意味あるんですか?
※荘田 智彦 19830420 『同行者たち――「重症児施設」島田療育園の二十年』,千書房,382p. 1600
石田圭:それは、高橋さんがつけた。高橋さんは、そういう発想する人なんだよね。
和田:何だったっけね、聞いたけれど、忘れた。私も。
石田エ:なんか何語か。
立岩:何かの外国の言葉なんでしょうかね。
和田:最初の一歩とか、そんなような意味じゃなかったっけ。
石田圭:そんな感じだったね。最初は、だから島田の中で、障害者のドキュメンタリー映画。
和田:そうそう。映画つくった。
立岩:「養護学校はあかんねん!」とかね。
石田圭:そうそう。「さようならCP」とか。
和田:でも、自分たちでもつくったでしょ、映画。
石田圭:最終的には自分でつくるっていう。
立岩:それは、島田から出て別の施設に行った人のその後というか。
石田圭:それは、5病棟で高橋さんがすごくかわいがっていた園生だった。それを、新潟まで追いかけていって、8人全員が撮って、『名前よ立って歩け』って。上映会やって、どんどん高橋さんの思想が先鋭化していくんだよね。俺なんかは、***(00:19:05)としてただけなんだけれど。だんだん明確化して、思想が自分の中で出来上がってきて、最終的にそれとデコがくっつくという話につながっていくんだけれど。デコの話はちょっとあとからだったんだけれど、みんなで共同体みたいな。共同体【幻想(00:19:25)】みたいな、何とか村みたいな。
立岩:一緒に農業をやるみたいな。
石田圭:そうそう。それは、高橋さんのバックに、そういう集団の人たちがいたのよ。八百屋をやっているんだけれど、自然農法の八百屋をやっている。
和田:ホビット村とか?
石田圭:ホビットじゃないんだよ。俺、もう少し怪しいなと思っていたんだけれど。
和田:西荻なんかのグループじゃなくて?
石田圭:国立にあったんだよ。高橋さんも国立だった。
和田:あひるの家とか。
石田圭:ちょっとそこまでは。だから、とにかく無農薬の八百屋なんだけれど、俺は、絶対にこいつら運動崩れだなと思って見ていた。
石田エ:ヤマギシ会から離れた人たちがつくって、私たち1回行ったことあるんだけれど、埼玉の。
石田圭:そう、畑行ったことあるね。ただ、昔の運動崩れみたいな感じがあったんですよね。だから、要するに共同体とか。自分に忠実に生きるんだとか、そういうことばっかり言うわけ。俺はずっと眉唾でやっていたんだけど、高橋さんはすごくのめり込んでいて。あのとき、結局デコ連れて飛び出す事件起こすじゃない。あのとき、飛び出したあとどうするかっていうことを高橋さんちゃんと考えていたの。俺は何もしなかったよ。それの裏方の手伝いを、八百屋のグループがやっていた。一番初めに連れ出して行ったところが、八百屋たちのグループが使っている家だった。だから、段取りつけてたんだよ。だから、高橋さんはもう確信犯でやる気だから。俺は逆に、これどうなっちゃうの?みたいな立場で。俺、引くに引けないじゃん、みたいな。
岩橋:石田さん、どこに囲われてたの?
立岩:奥多摩って書いてありますよ。
石田圭:そうそう。だから、関わっていたんだけれど、上の作業を高橋さんがしていたの。俺たちに言わないで。八百屋のグループたちと。だから飛び出したとき、どこ行くんだろうと思ったの。そうした、ちゃんと隠れ家みたいなのがあって。
立岩:それは、農業か何かをやっているグループの?
石田圭:思想的に感化されたんだろうね。
立岩:高橋さんたちはそうだと。まず、自宅から連れてというか、一緒に奥多摩のでかい、本には書いてあるんですけれど、それがグループの持ち物というか、そういう家だった?
石田圭:そうそう。だから、高橋さん、結局最終的には奈良で八百屋やっている。
立岩:今でもというか。
石田圭:そうそう。
立岩:奈良ですか?
石田圭:奈良で。結局その路線でいっちゃった、彼は。俺は、別に自然のものも何も、別にそんなもの興味も何もなかったから、そっちのほうに行かなかったけれど。
岩橋:石田さんはどこに興味があったんですか?
石田圭:最初は映画だったから。あと、やっぱり高橋さんってちょっと競争的なところがあったから、面白いことは面白いんだよ。話していると。ちょっと俺の中にはないタイプの人だから。ただ、俺の中ではちょっと反感もあったんだけれどね。えらいこと言い過ぎるし、かっこよ過ぎるから。でも、飯田なんかはけっこうのめり込んで。
奥さま?:飯田さんのほうがのめり込んだ? どっちかっていうと。
石田圭:俺、意外とああいうのは、あまり好きなタイプじゃないから。
岩橋:それでも、エリ子さんを、当時。
石田圭:そうそう。それは、この人の後ろ盾があったから。デコの話はこの人から聞いていたから。
石田エ:本当にこの島田のあれのときは、長いけれど、私の人生といろんなことでリークしてしまうところがあったり、一つひとつの出来事の中で私を放っておいて進んでしまった出来事があったり。そういうことが一つひとつぎしぎししてきているから、今のちいろばの話になってきたり、斎藤秀子さんが「大樹の里」って施設に行ったり。そして、私がまだまだ島田に残っていたり、いろんなことが起こっていくんだけれど。でも、その中にあれの中では、私を放っておいて話が進んでしまったところが、一番最初のボタンのあれと。そして私が感じたのは、高橋さんが先頭に立っているんだけれど、みんなが一体何を考えているのか、ものすごく私に言ってくれなかった。じゃあどうしてっていうのが見えなかった。ただ、今本当に思うけれど、今の施設自体の話、私今でも島田と関係を持っているんですよ。一月に2回くらいは行っているのね。ボランティアに1回と。そうすると、キリスト教信仰しているの。その中のお祈り会をもっているので。
石田圭:だから、デコの家に帰っているときに、いよいよ行くって話、説得すると。親を。秀子さんが施設を出たがっているから、僕らは僕らで施設を辞めて、そういう共同体みたいな形でやろうと思っているので、ぜひ秀子さんも仲間として迎え入れたいんだっていうことを、デコは言葉がきついから、あの人は。きついというかわからない。1回会っただけじゃ、全然言葉が理解できないくらいだったから。じゃあ俺たちも行って、説得するみたいな話だったんだけれど。だから、俺は行くときに、大丈夫です、話してくるだけだからって言って、お母ちゃんを説得して、俺らが行ったの。ところが、高橋さんはもうやるつもりでいたんだ、あの人は。それのずれが、ふぁーっと出てきちゃったんだけれどね。
石田エ:そしたら、もうそれは警察が動きました。拉致されたっていうことになりました、みたいなことになったけれど。でも、私の人生の中で、警察の人と島田で会ったときの印象は、あのときから、うちの旦那たちはそんなに悪いことはしていないと思いました。だって、警察の人が、奥さん本当に居場所知らないんですかって言うから、知らないんですよ、私には全然連絡してもらっておりませんと言うと、警察の人が4人くらいいたかな。それで事情聴取を私にするんですけれど。でもこの話は、20歳過ぎている人が、自分が行きたいっていうとこに行きたいっていう話ですよねって。そのことについて、なかなか難しいですよね、これはって、警察の人が難しがっているの。
石田圭:最初はね。でも、そのあとすぐいわゆる精神年齢とか、そういうのになっちゃったけれど。
石田エ:て、言ったけれど。そうですよねって言って、私も警察の人のあれのほうが、そういうふうに捉えてくれるんだと思って。うちの旦那たちは、実は悪いことをして、警察に追われるっていうのはない。警察の人たちも、そういうふうにさらっと言ってくれるくらいだから。なんで今まで障害持っている子たちは、本当にみんな信じて疑わないくらい、その頃の重心の福祉は、この子たちは知能がどんなにあろうが、何しようが、赤ちゃん、本当に精神年齢がないくらいな感じに扱われる、それでもしょうがないくらいなのを、みんな施設の職員までもがそういうふうに思っていたから、そんなふうにしたときに、すごい悪者でした。施設の中では、なんてことをしているんだ、石田たちは。
石田圭:僕ら、すぐに懲戒解雇だけれど、この人関係ないからということで、ずっといたのよ。もう村八分。
和田:すごいよね、本当に。
立岩:事件の前、親しかったという関係があったとおっしゃったじゃないですか。それは、どういう。彼女とは。エリ子さん。
石田エ:それは、同じ病棟だから、同じ病棟の中でいました。今は、ときどき昔を懐かしんで思うんだけれど、映画の会に行けているじゃないですか。斎藤秀子さん。自分で自由に車椅子で行きたい病棟に行けているんですよ。この人たちに会えているんですね。施設が4つくらいあるっていうのに。今は全然駄目です。
石田圭:ある程度、今のうちの三橋準さんやデコとか、ある程度自分で動ける子は自由に動いていたんだよ。
石田エ:朝、おはようって言いに行きたいんだって利用者さんが言ったら、いいよ、いってらっしゃいって、みんな引き受けてくれる。昔、「茗荷村見聞記」という、障害もっている人たちのあれがあったけれど、本当にそういうことがここで行われているっていうくらいに、ものすごい私は、その頃の島田に感動したくらい自由だった、わりと。そんな中で、だけど、斎藤秀子さんとか何人かの、何を見たい、映画見たいよって言ったり、おはようってみんなに言いに行きたいっていう人たちだけには自由を与えられているんだけれど、中にいて、ずっとベッドにいるような人たちには、じゃあ同じことができていたかっていうと、ちょっとそれは。今思うと、思うけれどね。だけど、すごく島田の最初の頃は自由だったけれど。
立岩:斎藤さんという方は、車椅子に乗っておられた。自走できるタイプの脳性まひ?
石田圭:足で蹴飛ばして。手は駄目なので、足で床を蹴飛ばして。だから、逆向きで移動するの。
立岩:後ろ向きでね。
石田圭:最終的に島田に帰っちゃうんだよね、秀子さん帰って、俺たちは懲戒解雇になって。どうするかっていう話になったときに、また本間さんと荘田さんっていうのが出てくるんだけれど。本間さんと荘田さんと高橋さんの3人だけで会って話をしたらしい。そうしたら、高橋さんの態度がまたころって変わって、第2組合つくって戦うって言い始めた。高橋さんが。ところが、ほかの3人はもう辞めるつもりでいたから、え?っていう。なんで解雇撤回ということになる。最初からもう辞めるつもりでいたから戻る気ないのに、なんで解雇撤回闘争やらなきゃいけないんだって。
岩橋:なんか思い出した。話聞いたことある。
石田圭:て、なって。でも、高橋さんはやっぱりリーダーだったから、やるって言ったから、じゃあやるっていうことで、第2組合になったら、一番初めに高橋さんが降りるって言い出したんだよ、また。それは、本間さんたちと話したときは、第2組合をつくって解雇撤回闘争をやって頑張るんだって話だったんだけれど、例の八百屋のグループの連中と話したら、そんなのは無駄だっていう話になって、もっと自由に自分の生き方を、なんとかかんとかって言って、もう全てから降りると言い始めた。高橋さん。だから、第2組合も辞めちゃうし、解雇撤回闘争もやらないと。それで、ぼろぼろになっちゃうんです、4人の関係は。俺はお母ちゃんがいるから、しょうがないから俺だけ解雇撤回闘争に残って。あと、地域のみんなにも応援してもらっているのに、辞めましたなんて、とても言える雰囲気じゃないし(笑)。あと、ちょっと怪しげな左翼運動かぶれの連中が後ろに寄ってくるので、ああいうことやると。わけのわからない怪しいのが出入りするようになって、そいつらが変な裏の情報を入れてきたりとか。逆に俺の発言を曲解して周りに流したりとかいうことが随分起きたの。ただ最終的には政治問題なんですね。ここまでいっちゃったから。手打ちにしようっていう話になった。
立岩:それは八代英太が出てきて。
石田圭:そうそう。島田のほうが、要するに和解に応じるって言い始めた。そのとき、もう俺しか残っていなかったんだけれど、要するに懲戒解雇じゃなくて、普通退職。その代わり、普通退職だから退職金も出すと。俺だけじゃないよ。ほかの途中で辞めちゃった3人も含めて出すっていう話になって。それで、俺は和解したんだよね、もう。ほかの3人分も出すって言ったから。俺だけじゃなくて。まあいいやって。あとから、みんなに、お金出ることになったんだけれどって電話して、悪いけれどちゃんと受け取ってくれる?って言って。
石田エ:ちょっとだけれどね。
石田圭:でも、それで弁護士費用出してさ。
石田エ:1人50万だったかな、それくらいです。
立岩:公判が6回あったということになっているんですよね。本では。これは、6回までやったうえで和解?
石田圭:そうです。
立岩:それは、懲戒解雇じゃなくて、退職という形にする、退職金も出すっていうことと、斎藤さんのことに関しては、どういう。
石田圭:その条件は何もない。それだけ。解雇撤回闘争だから。
立岩:解雇撤回だから、解雇に関しては、それだけ。
石田圭:それだけ。
立岩:そういうことですね。そこで折り合ったというか、和解が成立したわけですね。
石田圭:ちょうど島田は、この事件をきっかけにして園長が変わって。変わってというか、その事件の前に変わっていたんだけれど、藤永一江さんっていう女性の園長がいて。その人がものすごいやり手で。たぶん国のほうでも問題になったんでしょ、厚生省あたりで。もう絶対に島田改革しろっていう話になって、この人が大改革を始めるんですよ。さっき言ったように、病棟が違うと施設が違うみたいなところだったのを、職員を全部入れ替えやって。
石田エ:それまで、入れ替えっていうのがなかった。
石田圭:絶対になかった。2病棟で勤務していたらずっと2病棟だったのが、渡り歩くようになっちゃった。
立岩:それが和解の前?
石田圭:それをやり始めたのは、全部この事件がみんな終わってから、藤永さんがそれを始めた。
立岩:藤永さん?
石田圭:藤永一江さん。もう亡くなりましたけれどね。職員を移動させたし、秀子問題で象徴されるように、本来重症児施設にいるべき人じゃない利用者が、社会的原因、家庭が原因という理由で入っていたのを、施設移動を始めた。要するに、軽度だったら軽度の施設にっていうような形で。何人か、島田って基本的に児童施設だったのが、いわゆる成人の知的障害の施設に移ったりできるようになった。その中で、秀子さんも、入間にある大樹の里に施設移動した。そこは、成人の重度の身体障害者施設なので、最初から本人の人権とか、そういうの認めてくれている施設に行っちゃったから、自由に面会に行けるようになる。逆に。島田のときは、全然駄目だったけれど。そこに行くと、親も通さずに、本人が会いたいと言えば会わせてくれるという。
立岩:身体障害者療護施設っていうタイプですよね。それですかね。
石田エ:そうです。
立岩:とにかく重心の施設って、特に60年の初めとかって、いわゆる知的と身体が重複しているっていうふうには言えない人たちがけっこう入っているんですよね。脳性まひもそうだし、サリドマイドの子供たちもけっこう入っているでしょ。
石田圭:だから、そこに行ってからは、けっこう自由に会えるようになって。
石田エ:三井さんなんかもそうだね。みんな、そうだね。
和田:そうそう。こんなのも出てきたの。府中の。
石田圭:三井さんの、府中さんのあれもそうだね。やっぱし重度系な扱いを受けているよね。お風呂なんかも、私、男の人の洗いたくないって言っても、聞いてくれないよね。
和田:最初、府中は、重度身体と重度知的と、あと重症心身とだったのよね。そこで、物言える人が内部告発したのが、新田兄弟でしょ。内部でハンストやったりして。そういうことが起こったので、重度の人たちは、もう切り放そうっていうのが移転問題だったわけよね。その移転問題で、都庁前の座り込みに反対してっていう。
石田圭:秀子さんそこに入ったら、本当にフリーに会える。だから、もともとこの状態で良かったんだけれど、島田じゃ、それは全く可能性もないことだったので。
立岩:それは、まずいつ頃移ったのかっていうことと、移ったときのプロセスというか。誰かが言いだしたとか、施設の側がどういう感じだったか記憶にありますか?
石田圭:たぶん藤永さんがリーダーシップとって。だって、デコだけじゃないから、ほかにも随分な利用者がほかの施設に移っていったので。
石田エ:すごいタイプを打っている人もいました。口こうやって押さえてくれる人もいたんですけれども、その人たちも率先して。私もあの日はすごく覚えているけれど、私は、タイプを打っている人たちと同じ病棟にいたんですよね。あなたもここにいる子じゃないわね、あなたもねって、藤永さんが何人も、これから施設の長になります、この人がそうですよっていうのが来たときに、その人がこの話を後ろでしていたのを聞いたから。話の流れの中で、私、島田の中ではこういう話を聞いたことがなかったんだけれど、これはトップレベルのところで、府中の問題も先に起きたものだから、島田よりもちょっとだけ先だったことはあるから。そうしたら、こういうことが今起きているから、このままにしておいたらやっぱりあれだから、こういう人たちは、こういう人たちの声を聞こうと、国のほうが動いたんだなっていうのは思った。
立岩:藤永さんという園長になった人が、園長になる前ですか? 今のお話っていうのは。いらしたときに。
石田圭:見学のときに。
石田エ:園長になる前です。
立岩:園長になる前に、もうそういうことをおっしゃっていた?
石田エ:言っていました。
立岩:それで、島田の場合は、そういう人たちっていうのは、藤永さんというのがそういうことをやった結果、いなくなったって理解して。僕は京都なんですけれど、滋賀だとびわこ学園があるじゃないですか。そこだと、60代くらいの脳性まひのおじさんみたいなのが、今でも2、3人いるらしいんですよ。この間、そこに勤めていた人から、その人の回顧録というか、書いたエッセイみたいなものをもらったんですけれども。だから、施設によっては、そういう形で40年、50年残っている人もいるようですね。島田じゃ、そういう改革というか。
石田エ:私は、これは2つの考えがあって。私はびわこに行ったこともありますし、びわこの本を読んだことがあるから、ああいう人たちのところに行ったら、利用者さんもいたいって。島田の場合も、行けって、お母さんたちに、この子はここにいる人じゃないから、出ろよみたいな感じがあるんだけれど。いたいんだけれど、みんな涙流して別れましたよ。だって、生まれすぐくらいにここへ来て、もう何十年島田で暮らしているのに、お前出ろって言われて、何が起きるかわからないし。
立岩:出た人は、必ずしも出たくてというか。
石田エ:出たくて出たわけじゃない。これは、行政側のあれだから。
立岩:重心という範疇に入らない人たちは別の施設に移そうっていう、行政の意向みたいなのがあって。
石田圭:要するに、僕たちのその事件があったので。それもかなりインパクト。
石田エ:もう1つは、お金の関係もあって。東京都はわりとお金持ちだからあれなんだけれど、費用がかなり、補助が大きいんだけれど、ほかの県はすごい少ないから。私たちは、新潟から来ている人もいれば、みんなその頃いっぱいいたんですけれど、北海道の人もいました。全国から来ていたんだけれど。みんなほかの県は、お金的に、島田は得にならないことをしているということになって。それで、さっき重心の話って言っていた、重心の国療にどんどん返しちゃったの。国療がその頃かなり重度を受け入れる体制になってきたので、その頃、80年くらいに、みんなその頃、斎藤さんの出来事があったときに、島田は全国の国療に返しちゃった。
立岩:国立療養所ですよね。今は独立行政法人なんていうのに変わっちゃったっていう。もともとは結核の人たちの療養所ですね。それが、いなくなって、だんだん結核の人が少なくなって、その代わりにいれたのが、筋ジストロフィーの人と重心の人っていう、そういう流れなんですよね。
岩橋:今、島田の最長年齢っていうのはいくつ?
石田エ:今、80とかいるんじゃないですかね。
石田圭:80いる? 長生きしているな。
立岩:不思議じゃないですよね。1960年代からだから、ありえますよね。
岩橋:小さい頃から入っているんだったら、一生ずっといたという。
石田エ:そうそう。
石田圭:もうだって死ぬまでいる施設で、死ぬまで出られないって、みんな思っていたもん。だから、こういう家出みたいなことでもやらない限り出られないっていうね。
立岩:それで、全体として移すという流れの中で、斎藤さんが入間のところに移るというときに、何かおっしゃっていたというような記憶はありますか?
石田エ:斎藤秀子さんは、とにかく島田が、その頃になると、わーって出来事が起きて、彼女は、みんな周りが腫れ物に触るような感じではあったんですけれども。私と同じで、いにくい、ここにいられない。なかなかね。それで、すごい腫れ物に触られるような状況もあり。でも、その前、ものすごく島田を嫌いになった出来事があるんですけれど。同じ同僚の職員の中に、彼女が高橋さんなんかと連絡取り合っていて、夢があるんだといって、言ったらしいんですよ。何なの?って言って、1人暮らして、人でアパートに住むのって言ったんだけれど、そのときに、私違うあれでご飯食べさせているから、なんとなくでしか覚えていないんだけれど。でも、あとでほかの職員の人に聞いたらわかったんだけれど、じゃあ、そこのランドリーにご飯があるやつを1人で取りに行って、取ってきて自分で食べなさいって、斎藤秀子に言ったのかな。そうしたら、これを一生懸命こうやってして、がっくんってなって落として、それでがーっとご飯がこぼれて。そんなのになっても、言った職員に対して腹立たしかったんでしょ。こうやって、時々ご飯を食べるようなしぐさもしたくらいに、泣きながらあれしていたっていうのを聞いて。その出来事があってからは、彼女は、出たいっていうか、ここにはいたないっていうのを、私のところへ来てはよく言っていた。
立岩:そのエピソード、本の中にも出てきますよね。その人が、組合の幹部だって言っていましたね。
石田エ:そのことがあって、とにかくここにはいたくないっていうのもすごくあって。
石田圭:ところが、行った入間の施設がいい施設なんだ、これが。きれいで(笑)。
立岩:ちなみに斎藤さんは、今でもそこにいらっしゃる?
石田圭:もう亡くなりました。
立岩:いつ頃亡くなった?
石田エ:今、一生懸命探しているんだけれど、どこかに書いてあるのも覚えているんだけれど。
石田圭:だから、同じ施設職員でいる僕らでさえ、こんなにフリーに会わせてくれるの?みたいに、ちょっとびっくりするような感じ。
石田エ:入ったのが、1986年。
和田:私なんか、ちいろばで石田さんに聞いたのよね。デコが亡くなったって。お葬式は、自分は行かれないけれど。
石田エ:行ったんじゃない?
石田圭:行かれたの。
和田:行かれたんだ。
石田圭:そこで親御さんたちにもう1回会ったんだけれど、そのときは、ただ、今日はよく来てくれました、くらいの会話で。親が創価学会なんだよ。
立岩:もともとは、どこのご出身だったんでしょうね。斎藤さん。
石田エ:国分寺なんだけれど。
立岩:お家は国分寺にあるって書いてあった。国分寺がもともとだったんですかね。
石田エ:ちょっとわからないけれど、このへんだったんじゃないかな。そんなに遠くないという感じだったな。あの人の感じでは。多摩近辺だったような気がします。
石田圭:亡くなるあたりのときにもちゃんと施設から連絡がきたし、亡くなってもちゃんと連絡が来て。でも葬式行ったのは、俺とお母ちゃんだけか。教えたんだけれどね。ほかのメンバーにも、教えたことは教えたんだけれど。行ったら、創価学会の葬式で変わっているんだよね。それ、すごく覚えている。
石田エ:にぎやかだったね(笑)。
石田圭:にぎやかなの。
立岩:音大きいですよね。
石田圭:音大きいし、普通だったら本人の遺影が一番真ん中にあるはずなのに、端っこにあるの。
奥さま?:そう?
石田圭:そうなの。真ん中に日蓮のそういうのが、どんっと立っているの。
立岩:いったら、82年のときは、親と激烈ぶつかったわけじゃないですか。それが、そのあと、親との関係というのは、どうか。そういう話は聞いたことありますか?
石田エ:すごくよくなったみたいですよ。だから、そのことは島田の中で、最後にあなたが島田にいてくれることが、私たちの平和につながり、家庭もこのままでいけるみたいなことを親御さんが言った、みたいなこともあるじゃない。なんだけれど、せめてその頃の親御さん、あの斎藤秀子さんのお母さんだけじゃなくて、みんなそういうふうに思っていたんじゃないかな。ただ、そのことがみんな入間の施設に行って、斎藤さんのお母さんが感じたことやなんかは、ほかのお母さんたちからも、ちょっと私、何人かからは聞いたけれど、すごい島田で縛られていた自分たちっていうのが親もあって。すごく信じられないっていうような。スミちゃんっていう子が、ほとんど自由にとことこできていて。実は、島田の3病棟の中で、職員の不注意で利用者さんをプールのときに亡くしたっていう出来事があるんですよ。そのときに、プールで溺れているのを、スミちゃんは、溺れているって言ってくれてたみたい。それで、急に亡くならないで、何日かは肺炎でなんとかあれして、そういうことがあったくらいの、スミちゃんっていうのはわかっている人なのに、島田の中で、ずっと重心の中で暮らしていて。そのお母さんから、いつか私、あとから会ったときに、スミちゃんのお母さんが、今度の施設に入ったら、小さなタンスを持っているのよって言うの。スミコがタンスを持って、上にはかけるところがあって、下に引き出しがある小さなタンスを持っているのよって。島田じゃ考えられないけれど、私はそのときに、ああ、よかったって思ったわっていうのを聞いたから、本当にすごく全て、職員もそうだけれど、親も、島田にいることだけが幸せなように幻想を抱いているんだけれど、でも行ってみると、斎藤秀子さんが、私たちが本当に一番初めに感激したのは、出てきたときに、車椅子で一生懸命きて、後ろにひもでつけているの、買い物袋を。その中にジュースがあるから、取ってくれって言うの。ジュースどうしたの?って言ったら、ジュースを私に飲んでいいって言うんだよ。私、すごい本当に涙が出てきちゃった、あのときって思ったくらいに。本当に斎藤秀子さんに、ジュースおごってもらうの、デコにって思って、言ったくらいに。その自由さが。だから、1週間に1回帰れるんだ、バスが来て、ジュースとかお菓子とか買っていいんだよ、自由に買っていいって、お財布をここに入れているんだよって言ったときに、本当に。これを感じたら、お母さんとお兄さんと何回も会ったもんね、あそこで。ばたっと会って。
石田圭:お葬式のときのお兄さんの態度は優しかったよね。
石田エ:優しかった。私たちが、あなたのせいですよ、みたいなことを言われて、ぐっとくるかなと思ったら、すごい優しかった。だから、本当に長い道のりだったけれど、よかったなって思う。
岩橋:それは、秀子さんのほうから、家族とかにそういう話をしていたということですか?
石田エ:そうかね。でも、私たちも行きやすかったけれど、あの施設は。でも、たぶんお父さん、お母さんにしても、島田とはえらい違う、行きやすかったんです。
石田圭:あの施設で、向こうの家族の方と出会ったことは1回もないんだけれど。
岩橋:でも秀子さんを通じて、双方の中にそういう。
立岩:国分寺と入間だから、ときどきは、そうやって行っていたって。ちなみに、家出事件のときの、国分寺に行って、高橋さんという方が連れ出したときの、相手方の家族っていうのは、誰がいたか覚えてらっしゃいますかね。
石田圭:お兄さん。
石田エ:弟さんだよ。
石田圭:弟さんだ。
立岩:彼女の弟さんとお母さん、2人ですか? お父さんという方は?
石田圭:弟さんのお嫁さんかな、あれ。もう何人かいた記憶があるな。
石田エ:妹さん。
立岩:お父さんという方はおられた?
石田圭:いない。
石田エ:お父さん亡くなられた。
立岩:亡くなられていたんですか。
石田圭:だから、一番激烈にやりあったのはそのときだったんだけれど、そのときの結論で、飛び出すきっかけになったせりふは、やっぱりさっき言った、要するに、島田でこの子が我慢してさえくれればうちの一家は幸せなんだっていう、あれがちょっと引き金になっちゃったんだけれど。
立岩:それをお母さんが言われた? 妹さんが言われた?
石田圭:それがどっちだったか。でも、主にしゃべっていたのは弟さんのほうだったから。だから、そのイメージがあったので、お葬式のときに弟さんにあいさつされたときに、あのときはよくも、みたいな話が出てくるのかなと思ったら。
立岩:そうでもなかった?
石田圭:もう、全然。今日は来てくれてありがとうございますっていう、普通だったんだよね。あ、と思って。なんで来たんだって怒られるかと思ったんだけれど。そうしたら、よく来てくれましたって言われたので。
石田エ:私たちが、ずっと面会に行ってあれしていたので、そういう事情もちょっとわかっているのかな。わからないね。すごく大事にしてくれた、施設の中のケースワーカーの男の人がいたんだけれど、その人から亡くなったときも連絡受けたんですけれど。
岩橋:連絡してくれたっていうことは、秀子さんと石田さんたちがつながっているという。
石田エ:そう思った。
石田圭:そういうところと含めて、全然島田と違うんだよ、対応が。
岩橋:だって、日野療護の島田さん亡くなったときに、連絡なかった。
和田:島田さん、ちいろばにいた。日野療護にいたでしょ。亡くなったときも、全然連絡ない。
岩橋:『たこの木通』信送っていたから、亡くなっているのでって。何カ月かしてから、もう止めてくださいって連絡来て、亡くなったの?って。
立岩:日野の、何ですか?
岩橋:日野療護。
立岩:日野療護はわかるんですけれど。
和田:島田さんっていう、ちいろばで働いていた方。
石田圭:すごいユニークなやつでね、ちょっとえっちなんだけれど(笑)。
岩橋:そこから思うと、秀子さんと石田さんたちがその後もつながっているからこそ、連絡来たのかなっていう。
和田:面会に行っていたからでしょうね。
石田エ:面会に行っていたからもあるんだろうね。
岩橋:ちいろばで働いていたり、面会にも行っているけれど、来なかったじゃん。
和田:日野療護はね。
岩橋:だから、やっぱりそれなりに。
石田エ:ただ、それ何年の話?
岩橋:去年、一昨年?
和田:割合最近よ。
石田エ:だからよ、だから。もう本当にこの頃、島田もそうだけれど、誰か亡くなりました、連絡しますっていうのも、本当にしなくなってる。あれからですよ。なんとか保護法。
立岩:個人情報保護法ってやつですか。
石田エ:個人情報保護法ってやつですよ。もう本当にお互いに、職員同士でもなかなかしないんだけれど、何かが起きたときに、その人とのつながりを探して電話するなんていうこと、施設の中ではもうありえないかもしれないな、これから。
石田圭:昔の関係者に連絡取るって。
立岩:そうね。個人情報の保護っていうふうにして、いろんな情報が、つながりがなくなっていますよね、今ね。
石田エ:それが、私、相模原に結局のところ。島田の場合も、何がこの事件の問題かっていうのを、ずっと本間さんや何かと話していたときや何かも、やっぱり島田っていうところは、囲いの中に入って、本当に中と外とが違って、風が通らない感じがするから。本間さんなんかはあれだけれど、書いたからって、じゃあ島田の職員がこんなことはひどいとかいうの、逆に触れたことがない。全てのことが、のれんに腕押しみたいなところがあるから。結局それだけ施設は守られ、風通しが悪くなっているからなんだろうなと思うけれど。相模原の出来事だって、私、施設はだんだんと風通しなくなって、介護福祉士が入るようになって、本当違うんだろうなと、少しいいふうに思っていたところもあったんだけれど。結局根本のところは、こうやっていろんなことを、保護法じゃないけれど、外に出さないほうをとっていくと、結局のところ、基本的に障害を持っている人たちはやっぱり特別。普通の命を持って生きている人とはちょっと違う、生活している人とは違うと思っているのかもしれない。
石田圭:実は、うちのが今日の設定を1週間先だと思い込んでいて、資料を全然作成してこなかった。それで、今日慌ててやったんだけれど、確か、デコの施設に、うち子供たちも連れて面会に行ったりしていたから、一緒に写っている写真が何枚かあるはずなの。そっちの施設の写真が。あと、お墓参り1回行ったよね。
■裁判のこと
立岩:いくつか聞きたいことがあるんですけれど。裁判で、最初に警察がっていうときに、20歳過ぎた子が自分で出たければって、警察の人も言ったとおっしゃったじゃないですか。そうだと思うんですけれど。そのあと、裁判、解雇撤回の、したときに、施設の側が、この子は3歳から5歳とか、そういう。
石田圭:そう、精神年齢が。
立岩:そういうことを言ってくるでしょ。それは、こんなこと言うんだ、っていうのもあり。彼女であれば、例えば施設の雑誌みたいなものに詩を書いたりしているわけじゃないですか。その雑誌、施設から出ているわけですよね。そういうときに、そういう理屈って何さっていうのと。それから、それが裁判の中でどういう取り扱い、受け取られた方をしたかっていうのを。
石田圭:デコが島田に戻っちゃって、何日かして、デコをどこかの病院に連れて行ったんだよね。そこで、知的障害の権威みたいな先生に見てもらって、本当に知的レベルがどのくらい高いのかっていうのを調べてもらったら、3歳児っていうのが出てきちゃったの。それがそのまま裁判で出てきちゃったっていう。ただ、1回の面談で何がわかるんだって、俺は思ったけれどね。
石田エ:でも、保育園の保母さんしている私もあれだけれど、3歳とか5歳とか、すごいわかっていますよね。
和田:すごいよ。社会性もあるよね。
石田エ:社会性もあります。
立岩:そうだよね。5歳っていうと子供だけれど、立派な子供っていう感じになるわね。
和田:10歳くらいになると、もう一人前みたいな感じするもん。
石田エ:選びますよね。お母さんかお父さんかって言ったときには、もう。
立岩:女の子とかね。男の子はあまりたいしたことなかったりするけれど。5歳児はけっこう。じゃあそれは、解雇撤回なので、裁判では、ご本人の意思っていうのがどうだったうんぬんっていうのは、そんなには、それ以降裁判で争われたりとか、そういうことはなかったんですか?
石田圭:なかったというか、私自身はもともとやる気がなかったから。もしてや、途中で3人いなくなっちゃったわけでしょ。俺、何やってんだろうと思った。ところが、みんな支援してくれているし、どうなるんだよっていう。戻る気なんか、もうさらさらないわけでしょ。あれで、どうやって結論つけたらいいのかなと思っているうちに、どんどん国会のほうが大騒ぎになって、島田のほうから逆に、もう和解しようよっていう話が出てきて、それにすぐ乗っちゃったんだけれどね。
石田エ:あれはびっくりしたね。私たちも知らないことでした。国会に行くの、島田が。
石田圭:承諾書。死んだら解剖してくれっていう。
石田エ:解剖承諾書。いろいろ調べているうちに、ああいうのがあったんだっていうのが出てきたんだけれど。
立岩:府中療育センターもそうだったしね。
和田:真っ裸で写真何枚も撮って、入所のときには、解剖するっていう書類を出させられる。
石田圭:だから、国会まで行ったときには、デコの事件よりも、むしろそっちのほうが大問題になっちゃって。
立岩:国会でやったということは、議事録調べれば出てくるということですね。その部分は。
石田圭:それは八代英太がやってくれたんだよね。
立岩:じゃあ、あのとき障害者のグループが動いて、八代さん出てきたって、それなりにインパクトというか、あったんですかね。
石田圭:島田にとっては強烈なインパクトだった。
石田エ:それまで長い間、組合が島田ってあって。そういうので叩かれるのは、島田自体は慣れているというか何というか、もうふんって思っているんだけれど、全然国会の偉い人に弱いんのね。
石田圭:八代英太が来たら、デコと会わせたんだもん。
石田エ:そうだったね。
石田圭:だから、テントで座り込みやってても会わさなかったのに、八代さんが来たら会わせた。
立岩:太宰〔博邦〕※さんっていうのが、そのとき国障年の代表みたいなので、勲章もらえるとか、ちょうどそういう時期でもあって。
※http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/dazai_h.html
石田圭:そんなことあったっけ。
立岩:太宰だっけ。
石田エ:太宰さん。
立岩:だよね、太宰さん。その協会の長で、それで叙勲の話があったらしい。それで、とにかく騒いでくれるなっていうのが、島田の側にあったみたいですね。
和田:じゃあ、火消しに走ったというか?
立岩:でも、それ以降ですよね。国会でそういう解剖承諾も取り上げられたりして。組合に言われても、またか、だけれども。
石田圭:だから、組合活動時代がもう嫌だったし、そういう思想もないし、解雇撤回やっていたときに、さっきも言っていたように、なんか運動崩れみたいなやつらが近寄ってくるの。全然知らないのが。そいつらが胡散臭くて、こういうことをやっていると、こういう連中が来るんだなと思って、本当に辞めたかったの、俺。
■
立岩:島田の組合っていうのが、この件に絡んで、黙ってろっていうか、なわけじゃないですか。その時期、前後でもいいんですけれども、島田の組合の感じっていうのかな。
石田圭:仲良しグループだったんだよね。ヨネさんは、あれは運動していたんだっけ。反対運動やってたんだっけな。
岩橋:そもそも組合活動みたいな、秀子さんの話の前にあったの?
石田圭:一番初めは、要するに職員がどんどん腰痛で倒れていっちゃうんだよ。あまりにもひどいので。補充しないし、使い捨てみたいなことをやっていたんです、前はね。秋田おばことかなんとか、きれいごと言いながらさ。それで、最終的に看護婦さんたちがストライキやっちゃったの。もう我慢できないっていって。それで大問題になって、それが組合のそもそもの最初になった。
岩橋:職場改善みたいなところが、一番の。
石田圭:そうそう。あのときは、本当に1年くらいで、みんなばたばたぶっ倒れて辞めていたような。俺がちょうど入った頃が、その境目みたいなときだったから。
立岩:ちなみに何年に就職なさった?
石田圭:俺らが20歳のときだ。
石田エ:75年。
立岩:両方同じ年ですか?
石田エ:同じ年なの。
石田圭:就職したのは同じ年。
石田エ:1975年。
立岩:75年に就職された。生年月日まで聞いていいですか?
石田圭:昭和29年11月7日。1954年。
石田エ:26年です。
立岩:51年?
石田エ:そうです。51年。5月27日。
石田圭:私が、サラリーマンだったの。私、だから全然畑違いなので。工業高校出て、ちょっとした放送機材の関係の会社に入って。
立岩:それ、つくる会社?
石田圭:放送機材の修理とか販売とか。NHKのすぐそばに今でも会社があるんだけれど。20歳のときに、ちょっと遅咲きの青春とは何だ?みたいな病気になっちゃって、風邪引いちゃって、すぱっと辞めて。教会に通うにようになった。うちのいとこに教会の牧師さんがいたので、その人を頼って、多摩川学園の教会に行くようになったら、その牧師さんが、実は島田の医者もやっていたの。そこに、島田の職員さんもけっこう何人か、若いお姉ちゃんたちがその教会に通っていたの。その先生すごい慕われていたから。したら、牧師先生の親戚の方? あ、そうですって言って。今なにしてらっしゃるの?って、いや、今プー太郎ですって言ったら、じゃあぜひ島田に来なさいよって誘われた。
立岩:辞めたときに、島田のことを知っていたわけではなくて、辞めて教会に行っていたら、島田の職員が来てっていう、そういう順番。
石田圭:しかも、みんなかわいいお姉ちゃんばっかりだから。
岩橋:エリ子さんとは、いつ付き合い始めたの?
石田圭:それで、就職して、人事で、婦長室にユニフォーム取りにきなさいっていったときに、一緒になったの。
岩橋:かわいいお姉ちゃんが。
石田圭:そのときは、全然(笑)。
岩橋:かわいいお姉ちゃんゲットしたわけだ、そこで。念願かなって(笑)。
石田圭:もともと軟弱だから、そんなに深く考えないで、いいなと思って。そういう経験もしておけばいいかなと思って、島田に行ったら、確かに島田の園生たちの姿には驚いたけれどね。ただ、サラリーマン2年間やっていたから、なんて自由なところなんだって。散歩に行って、子供にご飯食べさせて、それで給料もらえるんだっていう。我が家の春みたいになっちゃって。寮があるじゃない、毎晩酒盛りしているじゃない、みんな。今日はこっちのお姉ちゃんに、石田さんこっちに、女子寮今日みんなで飲むから、来なさい来なさいとか言われて、行ってさ。最初の1年くらいは、天国じゃないかって。こんなことしていて給料もらえるんだ、俺って(笑)。ところが、1年くらい経ったら、やっぱり疑問に思い始めたの。なんでこの子たち自由に外でられないの?とか。まだ俺の病棟のほうは、物を言う利用者がいなかったから、全面介護ばっかりだったから。こっちのほうは、物言う利用者の人たちがいっぱいいたから。
立岩:第3病棟がこちらで。
石田エ:そうです。
石田圭:第2病棟。
岩橋:どっちが重たいんですか?
石田圭:2のほうが重たい。うちのほうが重たい。
岩橋:準さんはどこにいたの?
石田圭:準さんは6にいた。
岩橋:一番軽いところにいたってことね。
石田圭:一番動き回る重症に。
石田エ:昔は「動く重症児」って言われていたから。嫌な動く重症児って。
立岩:6まであった?
石田圭:正確に言うと4つなんだけれど、2、3、5、6。
立岩:1、4がなくて、2、3、5、6?
石田圭:2、3、5、6。
立岩:何なんでしょうね、それ。
岩橋:1は管理棟で?
石田圭:4はつけないよね。
立岩:4は縁起でつけない。1は管理棟?
石田圭:たぶんそうだと思う。
立岩:それで、4つっていう。
石田圭:だから、20歳で入って、懲戒解雇になるまで6年間。でも、それなりにいろいろ疑問を持ち始めて。なんでいちいち散歩に行くのにも届け出さなければいけないんだとか、しかも散歩に行っていい距離まで決まっている。ここから先行っちゃいけませんよってなってる。ということとか、あと、職員の勤務に合わせて利用者の生活タイムもつけちゃってあるから、朝6時半に朝ごはん食べて、11時にお昼食べて、3時に夕飯を食べるっていう。今改善されてそんなことないんですけど。というようなシステム。職員の8時間労働の中に、全てをぎゅっと押し込んでっていう。
岩橋:交代制に合わせて。
石田圭:そうそう。あと、こっちのほうからいろいろ物言う利用者の人の話を聞いていると、やっぱりちょっと違うんじゃないのっていう。あまりにも自由がなさすぎるし、プライベートもないし。そのへんで、若者のちょっとした正義感みたいなのに火がついて、それが高橋さんをリーダーとして。最初は組合に入ったの、私。やっぱりこういうことは、ちゃんと組合でやらなきゃいけないと思って、最初は組合に誘われても入らなかったんだけれど、だんだんそういう疑問が出てきたら、やっぱり1人でわーわー言っても、病棟会議でわーわー言っても、多勢に無勢で、多数決やられていると負けちゃうほうだから。
岩橋:じゃあ就職したときは、組合がもうあったわけね。
石田圭:あった。でも俺は入らなかった。いろいろ疑問に思い始めて、入って。入ってやっていても、やっぱり組合でも駄目だな、変わらないってなっていたときに、高橋さんたちと1つのグループつくって、そういう活動をし始めちゃうと。
岩橋:グループ組合の中の。
石田圭:そうそう。組合の仲間だった。
立岩:組合っていうのは、特に例えば政党系とか、そういうのの傘下というか、例えば共産党が強いとか。
石田圭:社会党系。
石田エ:あるときは、びわこへ一緒に行ったり、そういう活動、ほかの施設に行って見学するとか。それも、島田からじゃなくて、みんなでお友達関係で行ったことありますよ。組合通じて。だから、向こう行ったら組合の人と話していて、こうだこうだっていう話をしたりとかいうあれもあるくらいに、そういう生活圏の問題や何かも話し合おうっていうのがあったんですけれど。結局長くやるとなってくると。だんだんと賃金闘争にしかいかないんだよね。ああいう大きいのになると、結局ね。
石田圭:賃金と人員ね。
石田エ:人員配置のね。
石田圭:人員配置の比率をもっと良くしろとかね。
石田エ:それだけが大きくなってきて、結局だんだんとあのことはどうなった?みたいな感じになっても、なかなかやりきれないでくるから、悶々と。
石田圭:組合に入れば、そういう利用者の問題の突破口になるかなと思ったんだけど、入ってみたら、意外とそうでもないっていう。組合っていうのは。
立岩:職員の労働条件のことでっていう話になってくる。
石田圭:むしろ、さっきのデコをいじめた職員なんかも組合員なわけじゃない。俺なんか、むしろそういう職員に対する怒りみたいなのもあったからね。組合が、そういうものに対して前向かないじゃない。はっきり言って、今から言ったら虐待だよね。そんな職員なんか即クビだよ、今の時代だったら。今の時代だったら、そんなことやったらもう逮捕だよ。でもあの当時、島田ってそんな職員けっこういっぱいいたから。それに対して組合は言わないじゃん。組合員だから。うちのお母ちゃんなんか優しいから、石田さんが甘やかすからそういうふうになるんだって言われて。そういうの見ていたから、だから組合にも幻滅感を感じていんただよね、あの4人は。組合でも駄目だって言って。
立岩:4人でしょ。4人のうち、1、2はなんとなくわかったんだけれど、ほかの方々のその後みたいなことは。
石田圭:高橋さんは、奈良で八百屋をやっています。そのときの彼のバックになっていたメンバーのつながりで。もう1人は、実感に帰ったんだな。鈴木さんは。鈴木さんは、実家で百姓やってる。鶏飼ってんだ。もともと実家が。
和田:どこなの? 実家。
石田エ:会ったじゃないですか、1回だけ。群馬です。
石田圭:もう1人の飯田くんっていうのは、彼は、高橋さんのほうの八百屋関係の人脈には頼らずに、自分で探して長野のほうで百姓やるって。それで4人ばらばらになった。
石田エ:行ったんですけれど、今は介護の仕事に。
石田圭:今、老人ホームにいる。
石田エ:老人ホームにいる、飯田さん。
石田圭:老人ホームで介護やっている。だって、俺もう63だよ。
立岩:2人の関係っていうのはなんとなくわかったんですけれど、最初一緒に4人やっていて、そんなに時間がたたない間にって分かれていくわけじゃないですか。そのへんのいきさつっていうんですかね。
石田圭:あれは、やっぱり1つのカリスマに、くっついちゃったんだよね。俺はちょっとよそよそしかったんだけれど。それって、信仰するものが実は中身が空っぽでしたっていうのがわかると、さーっと冷めるじゃない。そんな感じ。高橋さんの言うことだったら間違いないみたいに、変に思い込んでいたんだよね。でも、実は高橋さんの言っていることも中身空っぽだったんだっていうことがわかった瞬間に、さっと割れたっていうかね。俺は最初から、この人何を言っているかよくわからないと思って付き合っていたんだけれど。すごく宗教的な話に最終的に持って行く、みたいなところがあったから、なんだこいつはと思って。
岩橋:要するに、介護闘争から抜けた瞬間にばらばらになったっていう感じ? それとも、その前から。
石田圭:高橋さんをリーダーとして、高橋さんについて行けば間違いないと思っていたのが、その高橋さんが、このデコの事件のあとにぐらついたの。さっき言ったじゃん。本間さんのところに行って、じゃあ第2組合についてやるって言って、その舌の根の乾かぬうちに、俺一抜けたった言って抜けちゃったわけじゃん。そっちの八百屋の連中のほうに行っちゃったわけじゃん。だから、はしご掛けられて外されちゃった、みたいなのになっちゃって。
立岩:第2組合つくるって言ったのは高橋さんで、実際4人だけの組合できたわけですよね。
石田圭:だから、最初はすごく高橋さんが、本間さんたちと話して帰って来て、その何日か経って夜集まって、高橋が熱弁を振るったのよ。第2組合になって戦うんだって。え?っていう。俺なんか、あれだけ組合じゃもう駄目だって言っていた人が、何考えてんだと思って。
岩橋:それは、どれくらいの期間の話ですか?
石田圭:すごい短い期間。1週間くらい。それで第2組合つくって、わーっとやったら、そうしたら、その八百屋の連中とまた話したらしくて、ひっくり返って帰ってきて、こういうことはやっても無駄だとか何とか言い始めて、お前が言ったんだろっていう。
岩橋:1週間の間に、組合つくって解散したわけ?
石田圭:俺が一抜けたで抜けたの。
岩橋:第2組合。
石田圭:そのまま俺が残っちゃったの。
岩橋:その闘争自体は、それで続けて。
石田圭:あのとき、みんなに声かけて、助けてください、支援してくださいってやったじゃん。やったあとにつくった本人が抜けたから、なんだこいつはと思って。
岩橋:残り2人はどうしたの?
石田圭:同じ。
岩橋:抜けた?
石田圭:抜けた。だから、これ基本的に、残る気ないんだもん、みんな。
和田:飯田さんもそのとき一緒に抜けた?
石田圭:抜けた。ただ、俺はお母ちゃんいたから、抜けるわけにはいかない。俺だけ1人、お母ちゃん捨てて飯田と一緒に百姓やるわけにはいかないんだから、この人守るために残らないといけないわけだから。
岩橋:エリ子さんすごいと思うわ。
和田:私も。私、エリ子さん大変だったと思う。
立岩:エリ子さんはずっと残るでしょ。そのあと。
石田圭:裁判終わって、子供が3人いて、保育園に通っていたの。教会も通っていたし。その保育園もちょっと変わった保育園で、非常にユニークな保育園で、障害を持った子の受け入れなんかもやっていて。あと、俺が通っていたときは、島田療育園の園生が、かしのき保育園っていう保育園に遊びに来るっていう企画が通ったの。
立岩:それは何市の保育園?
石田圭:多摩市。
石田エ:今もやっている。
石田圭:すぐそこ。
和田:バオバブにもきたね。
三井:かしのき保育園。
岩橋:***(01:18:44)って何年生まれなの?
和田:79年。ハルカと一緒だから(笑)。
石田圭:そんなこともあって、交流していたの。だから、島田にとっては画期的な企画だったんだけれど、たまたまフクシマさんとか俺がいたから、話が通って。
和田:あのとき、オオタケさんっていたでしょ。オオタケさん、その頃特殊学級の先生やっていて、島田の訪問学級か何かに行っていたのよ。それで、かなりオオタケさんがつなげたっていうのもない? 多摩の運動は。
石田圭:あるある。
石田エ:すごいね。誰がいるかわからないね、ちょこちょこだね。いろんな人がいる。
石田圭:そこの保育園で、副園長さんなんかもちょっと地域の活動やっていたので、そのときもみんな一緒にいたので。実は、私のことも全部知っているわけよ、みんなね。今保育園にいるけど、実は石田さん今、職ないんでしょ?って。
岩橋:プー太郎していたもんね(笑)。
石田圭:そうしたら、その保育園の副園長が、朝子供預けに行って、今日はどこ行こうかなって言ったときに、石田さん、ちょっとちょっとって声かけられて。実は今度うちの法人で、新しく障害者の作業場をつくりたいと思ってるって。ついては、仲間にならないかって、一緒に加わらないかって言って。法人、その当時、作業所つくるって言っていたのは、法人の理事長とか、園長とか、副園長とか、職員が集まってやっていたから、具体的に動ける人間が1人もいなかった。みんなそこの保育園の職員だから。だから、石田さん仲間になって、うちらで最初の給料は面倒みるから、専従でやらないかっていう話になって、渡りに船で乗っかって、それで、今「ちいろばの家」っていう障害者のリサクルショップを、もう33年やっているんですけれども。
和田:それ、アサイ先生? 声かけてきたの。
石田圭:フクシマさん。
和田:フクシマさんが副園長だったか。
岩橋:終わったあと?
石田圭:全部終わったあと。
石田エ:アサイ先生が園長でね。
立岩:和解が83年って考えていいんですよね。
岩橋:全部終わったのが83年。
立岩:第6回の公判っていうのが、これだと83年の1月だっていうことになっているんですよ。
石田圭:じゃあそうですね。その年のうちには、もう和解をして。
立岩:その年のうえにもう和解して、退職したっていう。退職して、しばらく保育園に子供通わせながらぷーやっていたら、そういう声がかかって。
石田圭:その当時、この問題を起こす前から、多摩市教育研究会っていうので地域の仲間が集まって、障害児とともに生きるっていうテーマで、この多摩市の中でどういうことをやっていけばいいかっていうのを、みんなで話し合うサークルみたいなのをつくったんですね。
和田:就健を考える会があって。
石田圭:そうだ。「就学時健診を考える会」っていうのが。
和田:就健反対のチラシまきが、1975年か73年にバオバブも始まったのね。
立岩:けっこう早いですね。
岩橋:79?
和田:73年にバオバブが始まったでしょ。チラシまき始まったのが、たぶん75年だと思うのよ。
岩橋:義務化って79年?
和田:79年。だから義務化のずっと前。就健のチラシまきは。
石田圭:だから就健を考える会っていうのがあって。それに俺も入って、オオタケさんもいたし、かしのきの副園長のフクシマさんもいたし。だから、そこがもうほとんどこの関係の根っこみたいなのが。たねまきは、みんなそこで。
立岩:かしのきでいいんですか?
石田圭:かしのき。
立岩:かしって、あの木のかしでいいんですか?
石田圭:ひらがな。全部ひらがな。
岩橋:就健の会ってあとじゃない? 教育研究会と共生会とか何かがあって、就健の会が。
和田:違う違う。就健の会は、だから75年にたぶん1回目のチラシまきは75年だったと思うの。それで、チラシまきするときに就健の会っていう名前でチラシまきしたのよ。日常的には、教育研究会とか、子育ての会とか、共生会とかが、いろんな活動をしていて。秋になると、チラシまきを就健を考える会でやっていたので。それで、79年が義務化だったでしょ。だから、その前はすごく盛り上がって、***(01:23:15)交渉も何度もやって。そのときに、私は石田さんと初めて、島田の職員ですって言って出てきたのが、石田さんと最初かなって。
立岩:石田さんも、けっこう早めに、70年代の中盤。就職したのは、75ですよね。
和田:75年に就職でしょ。だから、70が義務化でしょ。そのあたりに、もう一緒にやっていた。
立岩:そういう活動に関わっておられたんですね。
和田:***(01:23:47)交渉のときに出てきた記憶はすごくある。石田さんと飯田さん。
岩橋:職員の間に、もうその会には関わっていた?
石田圭:そうそう。島田入って。
立岩:それで、東京のこのへんって、例えばどういうメンバー、教育を考える会っていう。
石田圭:あれ、「たまごの会」の流れじゃないの?
和田:多摩市は、保育園がけっこう母体になったんですね。石田さんが子供を預けていた、かしのき保育園で、副園長のフクシマさんとか、高橋カズヒコさんも。高橋カズヒコって、また別人なんだけれども。が、いたでしょ。バオバブ保育で。
石田圭:ヤマネさんとかね。
和田:就健反対のチラシまきは、最初バオバブの親だったのよね。ユアサさんとか、トウジンバラさんとかたちが、初めて。
石田圭:そのメンバーって、大体「たまごの会」のメンバーだったんでしょ。
和田:そうなの。
立岩:たまごの会って何ですか?
和田:たまごの会っていうのは、産直運動ですね、一種の。消費者運動。その頃は、自給農場っていうのを、茨城の八郷っていうところにもって、しょっちゅう東京のメンバーも通って。自分たちも養鶏やったり、畑、田んぼやったりして、つくるのにも関わって、運ぶのに関わって、消費者としては食べてっていう、そういう動きがあったんです。保育園の職員とか親たちでも、それに加わっている人もすごく多かったんですね。だから、就健とか、そういう教育の問題を考えるのが、すごく生活の部分でやっている人たちともつながって。だから、そこは多摩市の面白いところかなと思うんだけれども。チラシまきっていってもすごいよね、人数。各地区で、ニュータウンの貝取地区は誰それがやって、永山地区は誰それがやって、4万枚くらい毎年まいていたんです。ニュータウンって集合住宅ですからね。チラシまきっていっても入れていくんですけれども。
立岩:全部ポストにばーって入れていくと。
石田圭:そうそう。
和田:それが恒例行事みたいになっていて、20年は続いたね。
石田圭:20年やったっけ。
和田:途中で私たちは、石田さんはもうちいろばのほうで忙しかったし、たこの木とかやっていて。だんだん子供たちも大きくなって、そこから抜けていったじゃない。でも、イノクチさんとか、【ユアサロン(01:26:28)】さんたちとか。
岩橋:続けてやっていたの?
和田:続けてやって。最後の私の持っているチラシは、97年というチラシがある。
岩橋:うちの子供が就学するとき。そのときに、ケイマが下の子が入学するときに。
和田:97年だよね。
岩橋:そのときに、同一日に、拒否しても、拒否しなくても、同じ日に出すっていうことになって。うちの子が初めて、拒否しても一緒になったから、もう目的に達したから。
石田圭:就学通知と一緒に出すっていうことになった。
和田:就健の通知と就学通知っていうのが、73、74年の頃は、はがきの裏表か何かで一緒に来ていたんですよ。それが、79年前にして、別になったのね。
岩橋:義務化の年?
和田:もっと前。
岩橋:違う違う、多摩広報調べたら、義務化のときに別になった。通知と、就健受けた人。
和田:私の記憶ではもっと前かな。
岩橋:78年の広報を見ると、就学通知と就健と同じ日に、そのへんのあたりで届きます、みたいな話になっていて。
和田:いや、違う。就学通知は、だって、とにかく就健拒否すると就学通知が来ないっていうので、毎年いろいろ、うちにはまだ来ていないっていう問題があって。それで、***(01:27:56)交渉をずっとやっていたじゃない。
岩橋:それがいつからか調べたら、義務化の前後だよね。
和田:離れた?
岩橋:離れたのがね。
和田:私の記憶では、かなり義務化の何年か前から別々に来るようになったって、私の記憶ではね。それを、97年に一緒に来るようになったの?
岩橋:それが、うちのケイマが入学するときに、一緒にしろっていうことで。
和田:一緒になったの?
岩橋:うちの上の子のときに、1月末までに出すっていう話があって。1月末が出さなきゃいけない期限だけれど、そんなの受けた、受けないので差があるのはおかしいっていうので、12年後のケイマのときに、一緒に出すっていう約束をして。
立岩:すいません、難しくて。一緒に出すっていうのは? 素人にわかるところで解説していただけるとうれしいです。
和田:就学時健診っていうのは、いわば入学試験みたいなもので。ハンディ持っている人がそこではねられて、教育相談受けなさいっていうふうにやられる。だけど、前はそれが一緒に来たっていうことは、もう就健受けて何かあっても、就学はいいですよ、みたいな。就学通知と一緒だったらね。就学通知と就健が一緒って。
石田圭:通知一緒にもらっちゃうわけだから。前は就学時健診を受けないと、出しませんよっていう、脅しをかけてきたの。
和田:それが、義務化の前からそうなって、それはおかしいじゃないかと。
立岩:就学時健診やらないと、就学通知出せないよ、みたいな流れというか、そういうのがあった。それが、義務化の前。
石田圭:それは、私たちから言うと、障害をもった子供を普通学級から排除する一番最初の入り口になるじゃないかっていうので、反対ってやるんだよね。
岩橋:それを受けない拒否運動みたいなやつをね。
立岩:運動の中で就健自体を受けないっていうようなことをやって。それで、それはどういうあたりでどうなった?
岩橋:受けないっていうことになって、受けない人には出さないっていう話になって。
立岩:受けない人には出さないって向こうは言ってきた。
岩橋:言ってるんだけれど、結局は出さないといけないわけじゃないですか。
立岩:それはそうですよね。
岩橋:だから結局、4月越えた入学式の直前とかね。
和田:ひどいときはね。
岩橋:そういうところが、ひどいときは出ていて。それが、ある時期から、保育園とかそういうところに、受けない人の調査に入って。
和田:就健を受けないと。近所に聞きに回ったり、兄弟に聞いたりって、ひどいんですよ。
石田圭:保育園の人たちは、***(01:30:37)なわけじゃん。だって、保育園から学校行くんだから、子供が。だからすごく問題意識が高くて。広がりも早かったので、いろんな保育園の声をかけて。あのときは、最初はバオバブあたりが一番あつかったから、そこに引き寄せるような感じで、これは絶対に問題だよねっていう話になっていって。
岩橋:結局向こうの目的は障害児を見つけたいだけだから、障害児でないやつは早くに出すとか、日追って就学相談なんか受けると、それを理由にどんどんあとに。
石田圭:あなたやっぱり養護学校がいいんじゃないですか?みたいなね。
岩橋:説得されたりとか。そういうことをやりながら積み重ねてきたところで、私の上の子が行ったときに、***(01:31:21)こういうことはしないよね***(01:31:23)先手打って、交渉の中で。結局出すっていう約束をしたんだけれど、1月末というぎりぎりのところになって。その次に、2年後に弟のほうが受けるときに話をして。積み重ねの中で、要するに差をつけるということが、そもそもおかしいっていうことを【支部長(01:31:47)】認めて、それ以降出すようになったんだよね。
石田圭:変な人なんでしょ?
岩橋:ところが、そこから10年経って、誰も拒否しないで、拒否するやつしているけれど、別に問題にならずにいたんだけれど、10年経ったときに『たこの木通信』見て、私も拒否するって言って、した人が遅れたんだよね。
石田圭:また始めたんだ。
岩橋:それで、そのときに『たこの木通信』教育委員会に持って行って、こういう約束しましたよねって言ったら、その日のうちに出て。
石田圭:やっぱり行政って、油断していたらまたすぐ同じこと繰り返すんだ。
立岩:下の子のっていうのは、何年だかわかります?
和田:97年でしょ?
立岩:それは97年?
和田:だから、そのときのチラシはあるの。だから、やってた。
岩橋:そうでしょ。だから、そのときはまだ。
和田:やっていたんだよ、そのとき。イノクチさん、ユアサさんと。でも、私だいぶヒサヨさんに、就健のチラシや何か、みんな渡しちゃって。かすかに残っていたのが(笑)。
岩橋:それで目的を達成したから、ビラ配りはもういいかって。
立岩:それが、97年まで?
和田:というか、もうやる人も、担う人がいなくなっちゃって。
石田圭:子供もでかくなって、テーマが違う方向にどんどん移っていっちゃったから。あと、具体的な場をみんな持ち始めちゃったんだよね。背負わなきゃいけないものを背負い始めちゃったので。それで、現在に至るんだよね。
■
岩橋:島田の話に戻りたいんだけれど、解雇の理由は、要するに。
石田圭:誘拐だよ。
岩橋:要するに、秀子さんに意思がないと。それを、ないにも関わらず、職員が連れ出して、誘拐的に。
石田圭:決定の意思、決定能力って、なんていったかな。要するに3歳児と一緒に意思はあるんだけれど、それは成人の意思じゃないから、どんなに本人が出たいって言って、連れていってくれって言っても、それは誘拐なんだっていう、そういう理屈をつくったの、向こうは。
岩橋:結局和解するときには、その意思があるかないかとか、全然うやむやに、とにかく一般退職っていう形で和解しましたっていう。
石田圭:そうそう。解雇撤回闘争だったからさ。
岩橋:だから、そのへんの意思みたいなのは。
石田エ:きちっとしたものはないよね。
石田圭:ないない。ただ、そのあとデコは入間の施設に移ることで、ある意味自分の願望はそこで。俺たちとの縁は切れちゃったけれど。
立岩:本当の誘拐だったら刑事事件じゃないですか。それは、施設の側が、そういうふうに、裁判のときに言い張ったということで。
石田圭:警察が、1回、私、黄金で、任意でやったんだけれど、結局そのあと警察は手を出さなかったね。動かなかった。
岩橋:民事に任せたかったんでしょ。
石田圭:動かなかった。
立岩:じゃあ、警察のほうがどうこうっていう話はなかったという。
石田圭:1回黄金行っただけで、そのあと一切何の音沙汰もなくなっちゃった。
立岩:事情聴取に1回、任意のに応じただけだったってことですね。
石田圭:だけ。それで終わった。
岩橋:それは4人? みんなそれぞれ。
石田圭:そうね。来てくれたよね、あのとき確か。
和田:いろいろ行ったと思うけれど。八王子には何回か行ったね。
立岩:成人の意思がどういう形でっていうのは、気にはなっていたんですけれど。だから、そういう意味では、当初行ったけれども、それは言ったら曖昧になったというか、不問にというか、そうなって、そうならなかったってことですよね。さっきの話ですけれど、国立療養所が多く重心の施設になっていくじゃないですか。さっき言ったように、重心の人と筋ジスの人なんですよ。僕は、今金沢のほうで関わっている筋ジスの人で、45なんですけれど、輪島の出身の人で。発症って小学校入る前ぐらいのころですよね。デュシェンヌ型の筋ジスの人って。それで、今45ですけれど、40年くらいずっといるんですけれど、その人の退院というか、退所というか、のことに関わっていて。彼は、普通に意思能力があるし、そう言い張っているので、そのこと自体は問題性ないんだけれど。けっこう出るときに、あるいはいろんな場面で、親の代理決定っていうか、そのへんで親が駄目だって言っているから駄目だ、みたいな話は聞くんですよね。
岩橋:いまだに。
立岩:いまだいね。おかしいんですよ。だって成人で、本人がっていった場合に、誰も止められないはずなんですよ。はずなんだけれどっていうところが、ちょっと不思議で、今そういったことも調べているんですけれど。例えば、ちょうど同じ頃、80年代に、高野岳高志っていう筋ジスの人が千葉の下志津っていう療養所から出るんですけれど。それもやっぱり親が駄目だって言って、似ているんですけれどね。そのときは、親が告訴するっていう話があった。要するに、支援者たちが扇動しているんだと。
石田圭:洗脳しているんだよね。
立岩:扇動、洗脳しているんだっていう話にして。子供のためを思ったら、出させるわけにはいかないと。お前は、そうやって子供をだまして出させようとしているんだからっていって、支援者、加藤さんっていうんですけれど、その人を裁判にかけよう、告訴しそうになるんですよ。結局ならないんですけれど。みたいなことが、やっぱり80年代になっても、けっこうあって。
石田圭:まだ続いているんだ。
立岩:その類の話。それからあとは、お金絡みなんですよね。年金を、この本を見ても、結局年金は親のところにいくっていう話じゃないですか。それも、やっぱりまだあって。国療にいる筋ジスの人(古込和宏)も、もう45ですけれど、親に年金がいっていて。それも悲しい話っちゃ悲しい話ですよね。月7万、8万円くらいの障害年金であっても、家計の足しになっているっていうので、親がなかなか手放さないっていうことがあって。実は、筋ジスなのでけっこう進行していく。出るなら今出ないと本当に死んじゃうよ、みたいな話なんだけれども、そういうことが2、3年続いていて。もうらち明かないからっていって、ある意味親とは切って。通帳も紛失したことにして、その本人の通帳のところにっていうふうにするみたいなことが、今年ですよ。去年から今年まで起こっていますから。というようなこともあって、80年代の島田ってどうなっているのかなっていうのが。
石田エ:変わらないんだね。
石田圭:変わらないんだな。
岩橋:秀子さん自身は、言語障害がきつかったでしょ。
石田エ:きつかったでしょ。
岩橋:1回石田さん家いって、電話とったら秀子さんからの電話で、一生懸命何か言っているんだけれど、なんですか?って俺聞いていて。エリ子さんどこか行っていて、帰ってきてかわったら、かわってって言っているのにとかって言って、大笑いしてこっちに言ってくれたんだけれど、全然わからないのね。
立岩:電話だと、もう慣れないと全然わからない。
岩橋:わからなくて。でも、エリ子さんにかわったら、けらけらと笑って、岩橋さんかわってって言っているのにわからなかったの?みたいに言われて。
石田圭:あれは付き合いがないとわからないね。あの言語障害のきつさはね。
岩橋:要するに、言葉が伝わらないだけで、考えていることがあるのと、考えていることも、例えば準さんみたいに、いろいろ自分たちと違う世界の中にいるってことで言えば、秀子さんって、言語障害がきつかっただけなのか。それとも、考え的に。
石田エ:言語障害が強かっただけだね。彼女はすごいわかった。
石田圭:ちいろばでも、まだ準さんとか付き合っているけれど、本人の能力って、本人ことばっかり責めるけれど、やっぱり周りの人がどうその人と付き合っているかが問われるのよ。だから、周りの人が、うちの母ちゃんみたいにわかって、ちゃんと対等な人として付き合っていれば、ちゃんとした対等な態度が出てくるのに。周りは、こいつら何言っているかわからないとか、これは赤ちゃんと同じだ、みたいなことで付き合っていたら、もう赤ちゃんとしか見られないんです。だから、大樹の里行ったときに、職員さんはみんなそういう対応をしてくれたわけじゃん。
岩橋:ということは、当時その言語障害がきついだけで、意思能力がないみたいな判断をされるっていうかね。
立岩:どこのお医者さんって言いましたっけ。診断、3歳から4歳だって言ったのが。
石田圭:あれは、どこ連れて行かれたんだっけな。
立岩:言語障害がきついから、短時間で調べようと思ったって、無理ですよね。
石田圭:そう。私もそう思った。いくら専門家だっていっても、お前ら無理だろうっていう。
石田エ:それと、本当にあのグループには、1人似たようなタイプの人が、斎藤秀子さんと同じくらいの歳の女の子がいたんだけれど。みんな職員が、ものすごく差別的に言っていたけれど、あの子はひらがなが読めるの。秀子さんじゃない人。斎藤さんには、ひらがなを教えても全然覚える気がないのか、覚えないというか、全然やる気もなく駄目だって。
石田圭:ここに書いてあるけれど、名前は書いてないな。ある権威ある小児科に見せて精神鑑定を受けた。その結果、秀子さんの精神能力は、これまで4、5歳程度であるとされていたが、今回の鑑定では、実は3歳程度であることが改めてわかった。と、ワタナベ事務局長が、こう白状したって書いてある。
■手術
和田:あと、これだったかな。秀子さんが、ロボトミーを島田で受けたって。
石田圭:それはものすごい古い話なので、ちょっと確証がないんだよね。
立岩:書いてありますよね。
石田圭:これについては、荘田さんのほうがよく調べているから。
立岩:ここにも出てきます。
石田エ:ここに、すごいぴっときた、あれがあったの。あとが。だけど、そのことを、私たちも何も知るわけじゃない。子供のときにやられた。
石田圭:そういう意味では、荘田さんがよく。オサムが書いた文章か何かで入っていたの、その話が。オサムって、同じAグループの。
石田エ:そうだね。オサムくんのは止められないもんね、誰も(笑)。
石田圭:オサムくんっていうのがいて、その子は言葉がはっきりしているの。頭もすごくいい。彼が書いた文章の中に、確か小さいときに、自分のせいでデコがロボットになるって。
石田エ:自分が行くはずだったのに、自分がなんかだったから。
石田圭:自分の代わりにデコがそれを受けたって。
立岩:それがオサムさん?
石田圭:そうそう。それの担当だった。
立岩:オサムさんという方は、今ご存命?
石田エ:もう亡くなったんです。
立岩:定位視床破壊術っていうらしいんですよ。そういうのがあって。64年って書いてあるんですけれどね。1964年に、精神障害でいえばロボトミーですよね。
石田圭:それは、僕らも全然知らなかった話で、荘田さんに教わったの。
立岩:就職の前ですもんね。たぶん今はやられていないというか、効果がないというか。
石田エ:効果がないのがわかったんですか?
立岩:と、思いますね。ただ、脳性まひで脳の手術っていうのはあまり聞かない話ではあるんですが、たぶんほかでもやったはずなんですよね。なんかそういうのがあったそうで。誰か調べてくれたらいいかなと思いますけれどね。※
※小井戸恵子「脳性麻痺の直しと直りを考える――1960年代の手術に着目して」
石田エ:荘田さんが、どこのルートなのかわからないけれど、そういうことを誰かが言ってくれる人を探して、聞いたりとかしていた中で、ロボトミーっていうのが、小林提樹先生が、結局医療的にはわからないから、調べる、そういう生体実験みたいなものじゃないかっていうところにいったから、怖いっていうようなことを私聞いたことがあるから。島田には、小林先生の初期の、そういう頃にしたやつを、医療のほうの本がだーっとあるんですけれどね。図書館に。わからないから、みんなして手をつけないけれど。だから最初の頃は、良きに思うと、小林先生はこの子たちを治したいと思っていじってみたのかもしれないけれど、そのいじってみるっていうのが、ちょっと信じられないね。絶対治りますよみたいなのもないのに。
石田圭:医者って、ちょっと人知を超えているところがあるじゃない。ちょっと珍しい障害を持つと、これちょっと解剖してみたいな、みたいなせりふをぽろっと言っちゃうみたいなね。
立岩:小林提樹は、知っている?
石田エ:一応、ちょっとだけ。
石田圭:本当にちょっとだけ。もう私が入ったときは園長辞めていたので。
立岩:あの人は、わりと長く続かなくて、早く辞めたけれど、でも障害児のことは死ぬまでやっていて。養護っていうようなところで調査研究続けていて、本も書いて、亡くなるみたいな、そういう人生だったと思いますけれど。そのときに、園長辞めていたけれど、島田にはいらっしゃっていた?
石田圭:名誉園長だった。
立岩:名誉園長として何しにきた?
石田エ:ときどきね。
石田圭:本当に子供たちの。
立岩:子供の様子というか、観察というか、見に行って。
石田エ:私は、図書館の本やら何かを片付けたりとかしているっていうのを聞いたことがある。ヒダカさんそう言って。
石田圭:晩年そうだったろうね。晩年もう病棟来なかったもんね。
和田:私、ちいろばにいた頃、石田さんに話聞いたのが、小林提樹が病棟を回っていて、その園生の耳が変わった耳の子がいたら、それを小林提樹がこういうふうに触って、これはどうなっているのか解剖したいなって言ったっていう話を聞いて、私は、えーって。
石田圭:これは、たぶん今思えば、医者ってそういうところがある人たちだから、そういう意味で素直に出したのかなと思ったけれど、俺も最初聞いたときには、鳥肌が立つようなせりふだったから。
和田:府中のことでまたちょっと今回調べていたら、全く同じで。三井絹子さんが書いているんだけれど、ちょっと頭の形が変わった子がいたら、それに医者が関心もっちゃってね(笑)。
石田エ:ときどきいるんだね。
和田:これは見てみたいって漏らしたっていうから、それで、私すごく思い出したの。小林提樹の話を。本当に、いわば一種のモルモット的な扱いをされている。
立岩:お子さんが3人? 3人いらして。
石田圭:もうそれぞれに子供がいる。
立岩:3人の孫がそれぞれいて。
岩橋:一番上も?
石田圭:一番上、今度結婚するの。
岩橋:今度結婚するの?
石田圭:たぶん。
岩橋:孫いるの、もう?
石田圭:向こうに3人いるのよ。要するにバツイチと結婚するの。
岩橋:向こうに3人いるの。じゃあ、一気に増えて(笑)。
立岩:近くにおられるんですか? 3人のお子さんたち。
石田圭:うち、下の娘がすぐそこに2人いる。孫がいるので。だから、いつも幼稚園と学校終わると、うちでお風呂食べて、夕飯食べて帰ってくるっていう。
石田エ:悪い子だね(笑)。
石田圭:悪い子(笑)。
<雑談>(01:48:24〜01:48:50)
石田エ:そのあと、もう1つ心に残った島田の出来事を言っていいですか。そのあと、もう1つ裁判があったんですよ。島田の中で。レントゲン技師の人が、障害持っている人の、島田は外来もやっているので来たんですけれど、その人をわいせつ行為したんですよ。そのときの、ケースワーカーと私がお友達なんですけれど、そのケースワーカーさんのところへ、私はこんなにいたずらされたっていうのを言って、あれしたから、かわりに告発して。
立岩:ケースワーカーはどこに属している人?
石田エ:島田です。
立岩:島田のケースワーカーの人?
石田エ:だったんです。それで、でも島田を告訴する準備して、自分と一緒にやろうっていうことになって、したんです。
立岩:いつ頃?
石田エ:何年だったかな、たぶん15年くらい前の話だと思いますね。調べればわかるんだろうけれど。彼女に聞けば何年っていうのはわかるんだけれど。そのときに、もちろんそれは勝ちましたというか、障害もっている側の人が島田を告訴して。私、2回くらい傍聴に行ったんですけれど。
立岩:レントゲン技師個人ではなくて、島田を告訴した?
石田エ:島田を告訴したんです。それと、その人と一緒じゃないですか。そういう人を雇っていた島田と、その人。それで、島田とやり合ったりするんですよね。本当ひどい人で。その人だけじゃなくて、ほかにもいたっていうことがあって、職員もレントゲン撮るときに、いやらしいことをされたり、言われたりとかしたっていうのも、いろいろあった。
石田圭:職員の被害者だね。
石田エ:そうそう。ちょっとあったから、だから余計これは勝つのが早かったんだけれど、2回くらいしたら結審して、裁判あれしたんだけれど。そのときに、裁判長が、私どこかに、あまりにも感激したからこの裁判長の名前は忘れないでおこうとかいって書いたと思うんだけれど。その裁判長が、島田の事務局長の人が、どうしても最後に言いたいことありますかって言うから、これは、ケースワーカーの職員さんに、どうしても自分も同じ職場の中なのに、こんなふうに自分のあれじゃないけれど言うのか、みたいなことを言われたときに、裁判長の人が、ヤマカワさんのほうを向いて、それは違うと思いますよ、この人が、この障害をもっている人と一緒に戦って、このことを訴えてくれたことは、何の島田のあれになることではなくて、島田にこういう職員がいたということでもあるっていうふうに言ったの。告発した人が。だから、そんなに告発する人を悪いっていうことに思わないように。それが、ひいては島田のそういうことだっていうふうに言われたときに、私、それまで長くうちの旦那の出来事もあり、半分、ときどきみんなに迷惑かけたね、みたいな感じも、【親(01:52:59)】の人なんかにも思うときがあったけれど、違った、私の考えは間違っていたなと思って。デコはたいしたことしてくれたんだと思ってね。あのときから、改革みたいなのを島田の中でするときに、新しいことをするときに、職員がわりとそういうことを、受け入れ体制みたいな変な言い方はないけれど、そういうのがちょっとあった。
岩橋:聞く耳を持つ。
石田エ:ちょっとだけね。ちょっとだけだけれど。そんな気がしたから、あのときに、ほかの人たちの力もいっぱいあったし、あれだったよ。
石田圭:面白いのは、俺たち第2組合つくったじゃん。辞めて、もう第2組合なくなったんだけれど、その事件が起きたときに第2組合つくったんだよ(笑)。
石田エ:それもふざけているよね、スマップっていう。組合の名前なんでもいいんだよね、スマップってしよって(笑)。まだスマップがそれほどひどく、受け入れるか、受け入れないかくらいのときだったのね、スマップの4人組が。そのとき、私たちもスマップつくりました。
和田:ということは、組合はそのことではちゃんと全然動かなかったっていうこと?
石田エ:そう。駄目だよね。
石田圭:そのとき、第1組合はもう組合としての装いが全然。たぶん2、3人しか組合人、そんな状態になっていたから。
立岩:第1組合のほうが?
石田エ:昔80パーセントくらいは組織率があったのに。
立岩:なんでそんなに小さくなっちゃったの?
石田エ:みんなが辞めたりしたのもいっぱいあったけれども。
石田圭:主要メンバーが辞めたし、俺たちが4人組で秀子さんを。
石田エ:4人組の出来事が大きかったよね、きっとね。
石田圭:大きかったでしょ。そのとき第1組合は支援しなかったから。
立岩:それはそうだと思うんですけれど、そのことによって、ある種支持が減ったみたいなことはあったんですかね。駄目じゃん、みたいな。
石田圭:もう組合としての体をなしてなかったから。それと、組合内部のスキャンダルみたいなのもあってね。男と女の話みたいなのがあったりして、どんどんみんなしらけて抜けていっちゃったし。あと、新しく入ってくる職員たちの中で、組合?何それ?みたいな、そういう世代がどんどん入ってきちゃったから、学生運動?何?みたいな。
立岩:そうすると、強力な第1組合がそれ以外をつぶしたっていう感じでもあまりないというか、第1組合自体弱まっていったというか。
石田圭:どんどん。
立岩:そんな感じだったといいますかね。
石田圭:最後ヨネちゃんも亡くなっちゃったしね。
立岩:スマップはその当時あった? スマップのまねをしたんですか(笑)?
石田エ:名前だけ借りたんです。だから、本当にこの人たちや何かの問題もあって、一緒にやっていた組合をどういうふうに思うかっていうのは、組合は嫌いで、今回だけのためにつくるのかもしれない、結局は、と思ったりしたのもあったから。
石田圭:基本的にケースワーカーさんを孤立させないために、スマップって第2組合つくって。
立岩:語呂合わせでもあったんですか? スマップのSは島田とかさ。
石田圭:ないよね(笑)。
石田エ:ないかもしれない。
立岩:それは、テンポラリーというか、その場限りの組合みたいなものだったんですか?
石田圭:そう。そのケースワーカーさんを支えるために。
立岩:その事件が終わったあとなくなったんですか?
石田エ:意外に、でもしばらく、私が辞めるまでだから、十何年も。今ひょっとしたらまだあるかもしれない。なんでかっていうと、そのあとも一応形だけつくっておいたほうが、経営者のほうも楽なんだよね、あれ。窓口になるし、来年の給与これでいいですか、みたいな感じで、はんこ押さなきゃいけないしね。それもあるから、ひょっとしたら置いているのかもしれないな。
立岩:びわこっていうのは、なんだかんだいってびわこの直系の職員たちがいて、経営者たちも、ある種の気合の入っている人が歴代続いているのに対して、島田って、園長さん自体が派遣というか、そういう印象があるんですよね。そんな感じなんですかね。
石田圭:小林提樹さんのあとは本当にそうですよ。ころころ変わった。
立岩:重症なんとか協会っていう、全国組織が持っている、みたいな形になっているんですよね、あれ。
石田エ:全国まではいかないよね。
立岩:全国じゃないね。そうですよね。
石田圭:要するに、重症児協会? 太宰の。
石田エ:そうです。
石田圭:だからさっき言った、大改造した藤永さん※っていうのが、小林さんのあととしては長いんだよね。
立岩:それは長い?
石田圭:長い。この人は長くいた。
石田エ:私、島田に就職するまでに高松の施設とかにいまして、そのときは愛護関係だったので、びわこに研修に行ったりしたので、西の感じの、3年くらいだったから、感じてきたんだけれど。それから島田に来たときに、本当ここは言いたいことを職員も言わない。これ、西のほうだったら許されないようなこと、みたいなものも、意外に職員は言うこと聞くのは、やっぱり厚生省が近いからかなって、自分の心の中で思って、しょうがないかな、みたいに思っていたの。
立岩:なんかそんな感じがしますね。
石田エ:びわこは、私滋賀の「止揚学園」にも行ったことがあるんですよ、うちの旦那と。キリスト教関係のことで。本当そういうのもあってあれだけれど、人として、すごい一人ひとりを尊敬するとか、尊重するっていうことが、もともと基本的なところで、お前好きやねん、園長先生がそういうふうな言葉を言ってみたりとかするのね。これが、こっちの東のほうに来ると、お前好きやねんは言えない雰囲気が、もうぱたっと。上と下とに。
岩橋:する側とされる側とね。
石田エ:される側とする側になってね、なんかすごい嫌だった。私が、うちの旦那によく、ここのところの基本的人権はどうよって思うのは、斎藤秀子さんと、私たちがいた3病棟という病棟の中は、みんな利用者さんよくわかる人たちなのに、職員がおにぎりとか自分のぶんを、すぐ見えるところで食べて、今日はおいしいの食べてるだろ、わかるか、においだけ、みたいな感じにやる職員もいたんですよ。だから、心の低いね、人間。
石田圭:基本的にすごい人手不足だったから、来ないじゃない。
石田エ:いろんな人がいる。
石田圭:給料だって安いし、体壊すしさ。ましてや、重症児なんですよ。人来ないの。だから、変な言い方だけれど、どんな馬の骨でも来るんだったら雇っちゃう。どうせ来たって1年で辞めるんだからっていって、そんなにその人がどういう人格者なのかとか調べないで、それで俺も紛れて入っちゃったんだけれど(笑)。だから、本当に変な人いっぱいいたもん。
石田エ:福井達雨※さんの本なんか読んで、冷たい紙でおしりを拭いたら、バケツのあれをばーんっと、冷たい水かけたって。
※https://ja.wikipedia.org/wiki/福井達雨
石田圭:あ・うらやっていたときに、福井達雨さん呼んだの、島田に。講演会やったの。
立岩:今でも、京都でカンパ、正月やっていますね。
石田圭:止揚学園にも行きましたよ。
岩橋:うちにも来たけれど。
立岩:厚生省と協会、太宰さんのやった。それと、島田、3者の関係っていうのは、どうなったんですかね。何かつながっていると思うんですよ。藤永さんという人が、言ったら、事態を解決するために派遣されたっていう。厚生省の。
石田圭:だって、建物まで変えたからね、あの人。
岩橋:石田さんが務めたときって、多摩センターまで電車が来てたんだっけ。
石田圭:ぎりちょんね。まだ俺、確か小田急線くっついていたけれど、京王線はまだ工事していた、そのくらいのときだった。
岩橋:今は、駅から通える通所施設みたいな売りで、地域にオープンでって言っているけれど、昔はみんな調布からバスで来ていたんでしょ、園に。
石田圭:だから、寮がないと、とてもじゃないけれど職員。
石田エ:桜丘からしか、あれがなかった。
岩橋:今の島田を見に行くと、駅の近くで開けたところにある、みたいな。
石田圭:もう外来もやっているしね。
岩橋:すごい外来人気あるもんね。あの頃はなかったんでしょ、外来ってなかったもんね。
石田圭:俺が入ったとき、さっき言ったように本当に人手不足だったから、働きたいって言えば、じゃあ明日からねって、みたいな。どうせ1年経ったら辞めるんだろ、みたいな形でいたから、どんどん入ってきた。わけのわからないのがね。元運動崩れとか、そんなのが入ってきて。とにかく現場で働いてくれればいいから、一切教育なんかもしないわけ。普通だったら、研修期間があったりとか、やるじゃない。何もないで、即現場入れて、すぐオムツ変えて、お風呂入れて、ご飯食べさせてって、それだけだったから。上からの指導なんて何もない。だから、ある意味無法地帯みたいな、職員は。だから、逆にそれですごく自由な発想が生まれたりはしたんだけれど。俺なんかよく看護師さんと、病棟会議っていう会議で、園生の指導をどうしましょうかっていう話をしたときに、よく看護婦とけんかばっかりしていたから。
石田エ:本当にびわこはうらやましかった。
石田圭:オムツ交換が、1日勤務帯で4回しかないんだけれど、それをわーわー言って、食事の前には必ずオムツ交換をしましょうってやっていたの。若い女子職員たちと結託して、多数決だったら勝つぞとか言って、多数決ってやって勝ってさ、そうしたら、しばらく看護婦さんたちに嫌われて。石田さんのおかげでオムツ交換の回数増えたって言ってさ。あのときは、若気の至りでどんどんやっていたけれど。
立岩:島田とびわこって、けっこう並び称されるけれど、全然性格違いますよね。
石田エ:全然違う。どうして違いますかって本当に言いたいくらい。
立岩:去年は、私、びわこの何とかっていうのに呼ばれて、講演したんですよ※
。そうしたら、やっぱりその理事とか園長とかやっている、その人たちがやっているんだけれど。医者なんだけれど、やっぱり医者の中にはぐれ者みたいな人たちがやっているので、あまり自分を偉いと思っていないんですよ。それでだいぶ違いますよね。
※2016/12/03 「一つのための幾つか」,第36回びわこ学園実践研究発表会全体講演 於:立命館大学草津キャンパス
石田エ:全然違う。
岩橋:そのあと、準さんなんかが島田から出てきて、島田療育園にいた人が出てきて、1人暮らし始めて。
立岩:準さん?
岩橋:三橋さん。
立岩:光る橋でいいんですか?
石田圭:三つ橋。
岩橋:たぶん彼なんかが、全国で一番初めに1人暮らししてね。
石田圭:彼のあれは、『福祉労働』に1回特集で※。
立岩:三橋何さん?
石田圭:ジュン。準備の準。
岩橋:あれは、島田とはあまり関係なかった。アカツカさんの担当。
石田圭:そうそう。あれは個人のパフォーマンスで入れちゃったから。俺なんか、だって全然かわいがってないもん。
立岩:でも、もとはといえば島田にいらした方?
石田エ:いたんです。
石田圭:俺たちの話とは一切別に、島田で働いていたアカツカさんっていう職員が、すごくかわいがっていた利用者がいて。2人いたの。島田ってすごい閉鎖的な状況だったから、それじゃかわいそうだからっていうので自分が辞めて、仕事を立ち上げて、そこでその2人を島田から出して、一緒に仕事をするような、そういうふうな形をとろうとして、スタンドプレーで動いたの。全く個人で。親説得して。そうしたら、あとからいろんな話が出てきて、この話はぐちゃぐちゃになっていくんだけれど。最終的には、それがうまくいかなかった。出るところまではいったんだけれど。スケガワくんは駄目だったんだけれど、三橋さんは親がいいですよって言ったので、出たんだよ。
岩橋:2人いたわけだ。
石田圭:本当は2人いたの。だから、スケガワさんのほうは駄目だったの。
岩橋:出られなかったんだ。
石田圭:そうそう。準さんの親はいいですよってはんこ押したの。このはんこの裏には、もっとすごい汚い話がいっぱいあったのがあとでばれるんだけれど。要するに金が動いていたっていう話なんだけれどね。
立岩:うまくいかなかったっていうのは、そのあとどうなったっていうことですかね。
石田圭:養子縁組しちゃったの。三橋さんと。そうしたら、奥さんとあまりうまく話をつめていなかったみたいで、奥さんが猛反発を起こすの。要するに変な話だけれど、自分の血縁が汚れるっていう意味でね。自分と同じ子供になっちゃうわけですよ。私、障害児なんか産んでないって。それで奥さんが猛反発して、旦那が孤立して、仕事もうまくできなくなっちゃって、準さんの行き場がどこにもなくなっちゃうと。
立岩:どうなったんですか?
石田圭:しょうがない。このへんの関係で支えた。一戸建ての借家借りて、そこに住まわせて。
岩橋:借りたのは、アカツカさんが借りたんだよね。
石田圭:それで、しょうがないから24時間でお泊まりで面倒みて。
石田エ:でも、あの中で、お母さんが、養子縁組するときにお金を持たせた感じにしたでしょう。何百万か。あれが、私やっぱりちょっと許せなかったな。
石田圭:基本的に裏でお金が動いていた。要するに、アカツカさんという職員に自分の息子を金で売っちゃったのよ、親が。それの契約書みたいなものが出てきちゃって。
立岩:誰がお金を払った?
石田圭:親が、アカツカさんがこれからは自分の子供の新しい親になって、死ぬまで面倒みるっていう誓約書が出てきちゃった。
立岩:見るっていうから、私がお金を払う、みたいな話?
石田圭:そう。要するに、新しく新規の事業を起こす最初の資金を、その親が出したの。それは、一生準さんの面倒をみますっていう、誓約書を書いた。
立岩:お金の代わりにというか。でも、奥さん反対で。
石田圭:反対。いきなり仕事もうまくいかない。
立岩:どうもならなくなって。
石田圭:今度は、向こうの親が金を返せってなって。泥試合になって、俺たちは、それには一切ノータッチにして、とりあえず準さんだけ守ろうっていうことで、ここの関係で、みんなでボランティアで。
石田エ:もう島田を出ていたからね。
立岩:その方は、今?
石田圭:うちで働いている。
岩橋:グループホームに入っているし。
石田圭:グループホームに入って、ちいろばで仕事をしています。
岩橋:『良い支援』※の中で、私が書いた一番初めの人★。
※寺本 晃久・岡部 耕典・末永 弘・岩橋 誠治 20081110 『良い支援?――知的障害/自閉の人たちの自立生活と支援』,生活書院,298p.
立岩:じゃあ『良い支援』読みます。そうだと思って読みます。なるほど、この話かと思って。
石田圭:あれは、アカツカさんの完璧なスタンド。
立岩:その方自身も脳性まひ?
岩橋:重度の知的障害。
立岩:「ちいろば」っていうのは、多摩初心者にわかりやすく説明すると。
石田圭:ネットにあげているので。お店の宣伝で載っていますから※。
※http://www.chiiroba.tokyo/shop.html
立岩:多摩来たことなかった、意外と。僕は、大学に80年代の終わりくらいですけれど、立川、国分寺、八王子あたりだったんですよね。実際僕は三鷹に住んでいたので、中央線楽じゃないですか。20分くらい乗っていれば、立川だの国立だの行けたので。そっちはだいぶ足繁く通っていたんですけれど。いろいろ、多摩なり何なりいろいろあるっていうのは知ってはいたけれども、そこまで足が運べなかった。
岩橋:多摩って、***(02:11:05)のガラパゴスだからね。
和田:そうね。中央線とはすごくつながり悪いよね、多摩はね。
岩橋:小田急線ともつながり悪いよね。町田とか、あのへんの。
和田:そうね。あまりあっちともつながってないわね。
岩橋:多摩だけ、こうやって入っていって、ニュータウンの中でガラパゴスみたいに、独自のいろんな。障害者運動だけじゃなくて、環境とか、いろいろ。なかなかここでパックされているよね。面白いっちゃ面白いけれど。三多摩っていったって、中外れるよね、いつも。
石田圭:そうだね(笑)。
岩橋:初めだけ一緒なんだけれど、通えないから、やっぱりこっちで、みたいな話になっちゃう。
立岩:東京の西は、確かに南北の交通が難しい。立川は、あれできましたよね。モノレール。
岩橋:そういう意味じゃ、就学運動で。私なんか、石田さんが最後の和解でいいですね、みたいなところの裁判には1回行っているんですよね。もう終わり頃の話で。そのあとのところで入ってきて、就学運動っていう、保育園から始まる運動のところでやってきて、話は聞く機会は何度かあって、あれなんだけれど。就学運動の流れで、自立生活っていう、重度の知的の人たちの実生活につながっているんだけれども。実は、今日私もすごく興味をもっていたのは、やっぱり秀子さんの意思決定みたいな。今、意思決定支援とかいろいろ言っているんだけれど、実はその時代にあるじゃんって、本人はっていうことに付き合って、それが認められないところを撤回させる。結果はうやむやになったんだろうけれど、それを支えた人が、秀子さんなり、みんなが、それを当然にして歩んでいた、もう1個の多摩の今をつくっている根っこなり、スタートラインをつくっているのかなっていうのは、今やっていると、聞いていてすごく思いました。
立岩:そこのところ、もうちょっと詳しく聞きたいというか。それが82年とかでしょ。75年とかっていうのが、もう就健の。
和田:就健の始まった頃。
立岩:そうすると、石田さんのときの出来事を、74、75年、そのあたりからやっていた人たちが、石田さんたちの出来事に関わったっていう、そういう形なんですかね。
和田:でも、ちょっと割れたね。
立岩:どんな感じ?
石田圭:最初、大事件だったから。何があったの?っていうことで、みんな来てくれるわけよ。話を聞きにね。
立岩:なんだなんだってね。
石田圭:何やっての?あんた、みたいな話で。それまでつながりがあったから。話をして、中にはやっぱり批判的な、いたけれど。最終的には、ここで暮らして、ここで一緒にやっていた人は、みんな残ってくれたの。ほぼ残ってくれた。
立岩:批判的っていうのは、何を批判したんですか?
石田圭:要するに、さっきも言ったけれど、俺が解雇撤回闘争で、秀子さんの問題をこれでやります、みたいなのを言っていたときに、運動として俺が立ち上げるのかなと思って来た人たちが、みんなしらけて帰っていっちゃう、みたいなね。
立岩:運動としてっていうのは、何を目指す運動的な見込みだったの?
岩橋:不当解雇、みたいな。
石田圭:不当解雇撤回とかいうと、なんか全然知らない人が、集会なんかやると、来てくれる人がいるのよ。島田のことで報告会やると、今まで顔も見たこともないようなのが来てくれるの。どこから、どういうふうに関わってくるのか知らないけれど。そうすると、近寄ってくる人間が何人かいるわけよね。その人たちがいろんなことをよく知っているから、いろいろ聞くでしょ。でも、俺その通り動かないわけ。戻りたいとは思ってないんだから。要するに、自分たちが思っている運動体に対して、俺がやっている運動が、利用できるんじゃないかと思って来ていたらしいのよ。ところが、俺と話しているうちに、こいつ使えないわっていうふうになって、だからその筋の連中はすぐに引いていった。
立岩:その筋っていうのは、規制の政党的な組合的なものなのか。
石田圭:いや、はぐれ者。
立岩:党派は入っていたという記憶がありますか?
石田圭:いや、完璧なはぐれ者だと思うな。要するに、学生運動とか、そういうのの。
立岩:中核派とか解放派とか、そのへんは入っていた感じでした?
石田圭:それは思った。
岩橋:多摩ニュータウンって、そういう党派のいろいろが個別に入居してきて、ぱらぱらいるんだよね。でも、党派として組んで何かやるっていうわけでもないので、そういうことがあると、結集するみたいな。環境で、例えば原発の問題だったら、そういう人たちが集まってくるというか。そういう歴史がずっとあるよね。天皇制の問題だったら、天皇制でばーっと。
石田圭:最終的には、石田さんがやったことは、どうのこうのあるかもしれないけれど、とにかく仲間の石田さんで、地域一緒に付き合っている石田さんが困っているんだから助けようよっていう人が残ってくれた。
和田:でも、あれだけのことを起こして、全然見通しもなくやって何なの?みたいなのは、市民運動の中でもちょっとあったね。
立岩:あんたたち何するつもり?みたいな、そんな感じですか?
和田:そうそう。
石田圭:さっきも言ったけれど、俺の中で戻る気なんかないのに、解雇撤回って言わなきゃいけないという矛盾の中で立っていたから。
和田:だって、秀子さんに対しても、やっぱり結果的に島田に戻っちゃって、次の生活っていうのが見通しも準備も何もない中で行動を起こしちゃって、結果的に秀子さんが島田に戻ったっていうのに対しての批判っていうのもあったのは確かね。
石田圭:3人すぐにいなくなっちゃったしね。
和田:そうそう。だからさっき言ったみたいに、私たち、共生会や何かをやっていた人たちは、石田さんが本当に窮地だし、そこはなんとか応援しなきゃっていうのはすごくあって。ただ、そこはずっとつながってきたよね。
立岩:確かに社会運動って考えたときに、何を目指してどこへ行こうとしているのかわからない動きではあるよね。始まっちゃったので。
石田圭:そうそう。だから、流れに乗っかっちゃったから、降りられなくなっちゃって、あたふたしていたっていうのは。
和田:結果的に秀子さんは島田に戻って、それに対して何もできないっていう、周りが。何かやろうっていう動きもなかったよね。運動が解雇撤回って、健常者側のそこに集約されちゃったっていうことに対しての、それは障害をもっている人たちの側の批判っていうのもあったし。そこに対して何なんだろうっていうのも、あったと思うわね。
立岩:斎藤さんって何年生まれなんだろうね。
石田エ:斎藤秀子さんは、私より1つ上なので25年生まれ。
立岩:1950年生まれってことですかね。
和田:そうすると、あのときに30?
立岩:32とかだったんですよね。
和田:じゃあ、ほぼ私と同じくらいだったんだ。
石田エ:そうそう、同じくらいだった。
立岩:和解が83年とかですか? もう1回ですけれど、入間のところに移られるまでの期間って、どのくらいあったんですか?
石田エ:それはすぐだったと思う。
石田圭:すぐだった。
石田エ:1年くらいで園長が来て、どどっと入間のほうに移るようになったから。
立岩:和解があって、次の年、1年くらいの感じで新しい園長が来て。その人は、最初から人を移すつもりで来て。その政権下で、最初の1年くらいの間に、ぱぱっと。だから、全部あわせて2年くらいとか。その間の斎藤さんの心の動きというか、それは、なんとなくそういうことを起こしてしまって、島田にいづらいというのはさっきおっしゃっていた。プラス、代わりにどこに行きたいみたいなことっていうのは何かおっしゃっていたとか、そういうのはありますかね。短い2年とか1年の間に。
石田エ:彼女と私も、そこらへんの、今後どうなるんだろうねっていうようなあれで、それを話してしまうと辛くなるところもあるから、そこのところにはあれしなかったけれど。いいところに、きっとあれを持っていれば大丈夫だよ、みたいな感じで、日々あれしていたような気がするな。
立岩:ここにはいたくない、いづらいけれども、具体的にどこっていう当てがあるわけではないけれど、そのうちなんとか、今よりいいところがあったらいいよねって、そんな感じのやり取りをしていたっていう感じですか?
石田エ:そうですね。
立岩:その間に、園の側がどんどん動いて。
石田エ:意外に私、思い出すんだけれど、あのときに思ったんだけれど、彼女は強い人だって思ったのは、意外に暗い顔していなかった。今思うと。1年くらいの島田の生活の中で、辛いよねって私たち顔を見合わせると、ちょっと、んっと、こんな顔して、こんな感じでするんだけれど。でも、1人で、ときどきまた車椅子を蹴っていたのを思い出すし、彼女は強かったなって思う。
和田:裁判闘争の一方で、ハンディもっている人たち、ミツイさんとか、みんなが集まって、島田の周りでテント張ったり、声かけたりしていて。
石田エ:そうだ。それ強かったんだ。
和田:そういうときがすごくあったじゃない。
石田エ:あれがあったから力になったんだ。
和田:それは、その後つながりは続いていたのかしら。
石田エ:ミツイさんは、大樹の里に移動したときに1回くらい来てくれたんじゃないかな。そんなことを、あれのような気が。
立岩:ミツイさん今年引っ越しした。50年ぶりとか言っていましたよ。
和田:どこに?
立岩:はがきが来て、具体的にどこっていうのは、地名はわからない。家へ帰らないとはがきがないんですけれど。
和田:国立じゃなくて?
立岩:国立は国立じゃないですかね。トシアキさんと、娘さんも一緒の写真。
岩橋:都営住宅で建て替えかもしれない。
立岩:そうかもしれないですね。
石田圭:あれも古いもんね。
立岩:すごい古いところですもんね。とにかく引っ越した。その7人だかなんとかが関わったとき、さっきおっしゃっていたように、本間さんがけっこう回したっていう話ですよね。
石田圭:そうそう。
立岩:聞きつけて、荘田さんと本間さんも知り合いで、話を聞きつけて、本間さんたちがほかの人にも声をかけて。
石田圭:さっき言った二日市さんなんかにも声をかけて、二日市さんのルートで、また声かけて、みたいな。
立岩:神奈川青い芝も関わっているって書いてある。小山正義とか。
和田:小山さん出てきるね。
立岩:出てきていますよね。でも、7人のなんとかの中にも、神奈川青い芝入っていますよね。その人たちはしばらく、それは一時、その事件に際して関わった人たちっていうことで、さっきの話と関係ありますけれど、それから継続的にっていうことは特になかったんですか?
石田圭:なかった。個人的につながっているのは、三井さんとか、あと本間さんとか。あとの人たちは、そのときにがっと来て、わっとやって、さっと引いたから。
立岩:ミツイさんは、なんだかんだいって近間みたいなところもあるじゃないですか。本間さんは、今度同郷のよしみもあるので、今度話を聞くことになっているんですけれど、そのあとも関わりがあったんですか?
石田圭:よく本間さんと3人で映画を見に行っていたの。
立岩:アメリカ問題で仲たがいするまでは、3人で映画を見に行っていた?
石田圭:よく見に行っていた。映画見て、酒飲んで、帰ってくる、みたいな付き合いをしていた。
石田エ:本間さんは、なんでゆうむの人たちと仲良しなの?
和田:カザマさんとか?
石田エ:花火があるたびに逃げてきていたじゃん。
石田圭:あれ、ゆうむじゃないよ。
石田エ:ゆうむじゃない?
石田圭:ゆうむじゃなかったと思った。花火のたびにこっちに逃げてきたけれど、あれは違うグループ。【かんてん(02:25:05)】じゃない。
立岩:本間さんって下町のほうですよね。
石田圭:そう。花火がうるさくて嫌いだからって。
立岩:隅田川の花火ってこと?
石田圭:そうそう。隅田川の花火があると、多摩に酒飲みに来ていた。
石田エ:誰のところだったの? 私ぜったいにゆうむの人たちだと思って。
石田圭:俺も、今ここまできているんだけれど、違うまた別の、本間さんとくっついているおばさんがいるんだよ。そこが、どこかの商店街のお店やっていて。
和田:ゆめやのエンドウさん?
石田圭:エンドウさん。
和田:ゆめやもうなくなっちゃったの、3月に確か。
石田圭:エンドウさんと本間さんって、個人的につながっているの。エンドウさんを頼りに花火大会のときに、多摩に遊びに来ていた。ゆめやで一緒に酒飲んだの覚えてる。
立岩:本間さんって、ホームページとか見ていても、ちょっと偏屈な感じがある気がします。
石田圭:**変態ですよ、あの人。上野のアパート行ったら、その角のところに、女のマネキンの足がぶら下がっていて、それに赤いあみあみのストッキング履かせて、下からライト当てて、石田、これいいだろうって。
立岩:そういうサイトやっているって書いてありますもんね。
石田圭:それで押し入れあげたら、エロ雑誌がばーっとあって。自分でつくったエロ雑誌だから、顔が全部女優の顔になっているの。あの人、ああいうの、すごくパソコンがうまいから。
立岩:DTPで仕事してるって書いてありますよね。
石田圭:だから全部顔が、誰だっけな、忘れたけれど。そんなのがこれだけ置いてあったりして。本当に面白い人。けっこううまかったんだけれどね(笑)。
立岩:同郷の偉人かもしれないですね。連絡つかないので、今晩くらいもう1回メールしてみよ。
石田エ:みんな、少しは胸の中に、斉藤秀子の出来事はいまだにある。
岩橋:なんか十分、不十分いっぱいあって、今多摩ができているみたいな、そういうのを、今日聞いていてすごく。
石田圭:だって、考えてみたら、懲戒解雇になったのが26か。だから、たった6年なんだよ、俺。でも、ものすごい濃厚な6年間だった。
立岩:それから、それより長い人生生きているんですもんね。
和田:でも、私、エリ子さんがよく島田に残って、そのあと何十年。
岩橋:結局、何年勤めたことになる?
石田圭:33年勤めた。
石田エ:でも私、前の施設、高松の施設を辞めるときに、ちょっとみんなですごい、20人くらいしかいない職場で、ちょっと反乱を起こしてね。みんなで反乱を起こしたんだけれど、6人くらいだったかな、一緒に辞めた出来事があったの。そのときに、あまりにも辛くて、あの子たちと別れるのなんか絶対にしたくないのに、これをなんで止めてくれないんだろう、私たちを、みたいに。今度からそんなことはしないって、園長はなんで言わないんだろうって思うくらいに、そういう出来事があって。それで、そのことを引きずっている私が、いつか最後に、高橋さんや4人の人たちのときに、ごめんね、何も聞いていないから、こんなふうになった私もごめんなさいみたいなところがあるんだけれど。準備不足は否めなくて、いろんなことあれなのに、その中で、たぶん私がそんなトラウマを抱えているとは全然つゆ知らず、皆さん4人は。ただ、でも、私は社会福祉を心の掲げたときに、あの日最後に、1回人と人との関わり合いをつくったら、今度切るときは、何かない限りは、しばらくは自分の中で、特にこんな出来事で切るのは嫌だって言ったら、そうしたら、きっとそういうことも含めて、みんなばらばらになるのが早かったのが私のせいかもしれない、ごめんねって言って。
立岩:高松のその施設っていうのは、なんていう施設だったか覚えていますか?
石田エ:高松の、昔で言うと、知恵遅れの施設。「龍雲学院」。
立岩:流れる雲じゃなく?
石田圭:お寺さんがやっている施設。
石田エ:龍の雲。今、すごい大きく。
立岩:大きい施設になった?
石田エ:なっています。いろんなことをやっています。
立岩:そこをしばらくやって、出てきて。
石田エ:はい。
立岩:これが、本間さんのやつですね。84年くらいで終刊になるんですよね、確か。終わりになるんですよね。そのバックナンバーをどうかしたいなと思っていて。これが障害者問題でしょ。これが、その記録っていうものですよね。これは、僕コピーとったかもしれない。
石田エ:この前、捨てられなくて、私も整理していて置いて。障害者のここの友達の【いきざし(02:31:23)】っていうのを、かしの木の保母さんが書いてくれた。山梨のほうにお嫁に行った人で、いたでしょ。
和田:私、会ったの彼女に、数年前、山梨で。名前、クロ?
石田エ:クロがつく。この人も、本当に私も忘れられない。
和田:ばったり会ったの。
石田圭:本当?
和田:彼女は私のこと気が付かなくて、私はわかった。かしのき保育園にいらしたでしょっていう話をして。山梨で私の友人がギャラリーみたいなのをやっていたのね。今ないんだけれど、コスモスっていう山梨市駅のそばなんだけれども。そこで、けっこうハンディもっている人たちの、いわゆるテーブルアートみたいなのの作品展やったりしていて。そこで、会ったのよ。
石田エ:あの人いい感性持っていたね。本当に忘れられない。
和田:いつも、石田さん、イトウさんたち、高橋さんのことを心配して、私はあの人たちのことが心配だって言っていたのを、私思い出して(笑)。もうお子さんもいて。
石田エ:よかった。幸せそうに暮らしているんだったら、よかった。なんで【いきざし(02:32:52)】っていうんだろうって、彼女が書いてあるのを読んでいると、息がかかるところの範囲の中で、人とさしになるようなところにいる関係っていうのを【いきざし(02:33:07)】って書いて、それを書いてくれているんだけれど。この近辺の、障害もっている子とか、もっていない子とか。
和田:すてきな人だった。
立岩:それがなんていう人だった?
石田エ:名前忘れちゃった(笑)。
和田:クロがついたでしょう。
石田圭:クロまでわかった、顔もわかった。
和田:かしのき保育園っていうのに勤めていた人で、島田のことにもすごくシンパシー持って。でも、まもなく辞めて、山梨に。
立岩:山梨に行って、たまたま会って。
和田:ばったり、何年か前に。
立岩:これは、この2つは、これもそうです? これもそうです?
和田:そうです。
立岩:これ、コピーして現物お返しすればよろしいですか?
和田:どうぞ。
立岩:これは?
和田:それも私。これは当時の新聞。読むと面白い、石田さんも出てて。石田さんが語っているよ。
立岩:新聞にはそこそこ出ているというと、国会か。国会の議事録は今Webで見れると思うので、見たら出てきますね、たぶんそれ。
石田エ:古いDVDだったらあるかもしれない。送りましょうか?
立岩:もし、あれば。なんでも。この頃そういうのを集めていて。『そよ風のように街に出よう』っていう雑誌があるじゃないですか。あれが、今度終刊になるんですよ。91号で終わりになるんですよ。この間、そこにある未整理の書籍が200冊くらいあると。それを、我々もらいうけることになって。今度、7月か8月に伺うんですけれど、この頃そういうことがときどきあって。
石田圭:創刊号、何号か島田で売ったことある。
和田:私、あしたやっていう店をやっているんですけれど、古本も扱っていまして、けっこういろんな古本が出るんですよ。こういうのはもう売れないかなっていうのを古本屋に持っていって、古本屋でも引き取らないかなと思いながら処分しちゃうのもあるんだけれど、そういうのをとっておくといいわね。
立岩:そういうって、どういうのかわからないけれど、そういうのが。
和田:ときどき、どさっと入ったりするんだけれど、置く場所がなくてね。でもちょっとあしたやにとっておこうかなと思って、いくつかは残すんだけれどね。貴重だもんね、とっておきますね。
立岩:貴重なものですよね。
和田:ですよね。消えちゃうものね。
立岩:こんなの、世の中にどれだけある、何個あるかわからないですよ。(02:36:20)