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立岩真也著『造反有理』を読む
――「ここはどうなっているのかわからない」と書く勇気――
三脇 康生
20140419 『図書新聞』3155(2014-4-19):5
http://toshoshimbun.jp/
◆立岩 真也 2013/12/10
『造反有理――精神医療現代史へ』
,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+
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※ m.
本書の目的は、日本の精神医学の歴史に存在した主流派への対抗勢力として存在されたとされる「造反派」の総体を描こうとすることである。いままで日本の精神医療がどのような「造反派」をつくってきたか、聞き取りではなく記録に基づき丁寧に記したものである。医者の書いたものからの引用もあれば、当事者の書いたものからの引用もある。15年ほど前に評者が行った文献プラス聞き取り調査「精神医療の再政治化のために」(『精神の管理者会をどう超えるか?』所収、松籟社、2000年)では、各派閥の一部の意見が表に出てしまい、その比重が正確さに欠けるから、立岩氏の我慢強い雑誌『現代思想』への連載がまとまることを、評者は待望していた。本書ではこれ以上「わからない」と表現されている箇所に読者は着目されると、著者の粘りのポイントが掴みやすいと思われる。その理由は後に述べる。
さて、立岩氏の結論から述べるならば、以下のようになる。
「「反精神医学」は精神病が社会に貼ったたんなるラベルであるとして病の存在自体を認めなかった立場である。あるいはその病の原因として生理的な水準を否定してその原因として社会だけを名指しした立場である、あるいはその病の原因として生理的な水準を否定してその原因として社会だけを名指した立場である、そして医療をすべて拒否した立場であるということにされることがある。だが、もう幾度となく言ってきたが、そんなことはない。というよりも、この国にそのような主張が実際に存在したと言えない。たしかに「反」の勢力はあった。ただそれは、おおむねごく具体的な課題に取り組み、それで力を消尽もしたし、そんな中でそうすっきりはっきりしたことを言えた人たちでもない。むしろ、その人たちから批判された、より穏当でもっともと思える人たちが、批判に応じる時に、その相手をまとめ。それが「極端」であることを言い、そのことを言う時に、貼り付けた札のようなものだ」(p313)。その通りであり、一様な「反」など存在しない。
「造反派の言ったことは要するに、問題は「社会」にあるということだ。「社会」が変わらなければならない。それは困難であるとともに、できないことではない」(p350)、つまり一気に変化をもたらせない以上は、精神医療は「いくらかましになった部分とそうでない部分が両方あったと言うしかない」(p351)のである。
そのうちに現在では、「「がんばらない」といった類いの本がだされ、そこそこに読まれている」(p351)そのとき、社会は変わらないものとして昔の社会が持ち出され(p352)今や、在宅の病人は発達障害カテゴリーにカテゴリー化され、精神病院へ入院している患者はその高齢化に伴い「認知症」へとカテゴリー化されている。この意味で昔と今とは大きく異なっているのだ。
「そして社会的防衛批判はまだあるが、それはある人たちからは――「正直」であることがよい人たちからは――正面から誹謗されるか、聞き流される。そして精神医療・疾患に関わる無難な言説の流行はその主題を回避したところで起ったし、私も本書で回避した。だからこれをこれらも継続し、残っている」(p354)。これからはなぜ無難に精神医学がなったのか立岩氏は解明するだろう。
「反」を声高な逃げにしないためにこの本は書かれた。その技法は、言わば、真面目さにおいてなお真面目さを競うという内ゲバ的に成ってしまう「反」の人たちの雰囲気を、逆にゆったりとしたリズムで記述したということに尽きるだろう。それでも「わからない」ことがたくさんあるという空隙が、無理矢理なストリー作りを避けて誠意を示し、後に研究する自分や他者や読者への倫理的さそいかけになるだろうと思えた。
さて、評者の私見を、立岩氏がこれだけ我慢して「わからない」と書いた箇所に書き付けることをお許し願いたい。精神医療の内部にいて、偏りがあろうがなかろうが、働く中で性急だろうが関西の現場で評者が感じ一々確かめた感触で、「わからない」を書き埋めることを許されるのならば、以下のようになる。
細かな差を巡って「反」を唱えるグループAとBがある。それぞれが統一体として暴力的対立を行うのではなく、それぞれのグループには意見の違いも存在している。したがってやがて内ゲバも起きて潰れて行くグループもある。しかし取りあえず、第三項排除のために、取りあえずグループ内の意見の差異はないことにして、AはBとぶつかり合う。ゲバルトがふるわれる。その後を襲うのは、当然、高揚感とともに虚脱感である。そこまでやる必要性があったのか?いやあの差異はやはり許すわけにはいかない。これで30年やってきたのだ。しかし、後続の私から見て、その差異は、殴り合うほどのものとは思えなかった。しかし「反」は誰が一番に「反」であるのかという競争も生んでしまった。たとえ一部の者たちにとってであろうと。
ところで、AとBの精神医学への意見の差異が、このぐらい大きなスパンで眺められるようになった時、闘士達は好好爺になっている。だから、はしたないことはもう話さないし書かない。内輪の後輩にそっと冗談めかして語るだけである。今は完全にそうなってしまった。いい意味でも悪い意味でも。時間は空気を換えてしまった。少しのトラウマは残るだろう。
しかし、このような下世話な結論を読者は期待してはいないだろう。本書は、精神医学の内部に「反」という芽が存在したことを、丹念に追うリズムを刻み続けた例外的な書物であろう。性急に精神医学と制度の関係を断罪する他書より本書のリズムが、各所で議論のリズムとして採用されることを願う。リベラルの凋落を防ぐ意味でも。このような題材においてこそ男性=人間から見下す描写は、まさに「反」を一様に描いてしまうものだから。それを避ける闘いを起こすこと、これが本書のリズムにあるのである。
UP:20140516
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『造反有理――精神医療現代史へ』
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三脇 康生
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立岩 真也
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Shin'ya Tateiwa
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