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川口有美子氏に聞く『逝かない身体』

「殺させないために何ができるか」/病人の「生」が軽んじられる社会であってはならない

川口 有美子・鎗田 淳(聞き手) 2010/03/27
『図書新聞』2010-3-27(2959):1-2
http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/


――12年という年月、お母さまの介護をして過ごされました。在宅介護は11年。ALSは原因不明の難病とされています。お母さまがALSと診断されたときに、川口さんが開いた家庭用の医学の本に書かれていたことが、印象的というか衝撃的です。「発症したら即廃人」というようにその本に書かれていた。

  30代はほとんど介護をして過ごしました。振り返ると辛かったですけど、修行期間だったのかなと思います。母はその前に乳がんも患っていたので、その介護から通算して12年ですね。もちろん初めは寝たきりではありませんでしたが。ALSは原因不明なんですが、抗がん剤とか、麻酔の影響もあるんじゃないかと当初は思いました。。患者家族はやはり考えるんですよね、何が悪かったのかと。原因不明なんて、納得できないですから。病気の説明については実際そう言われている病気ですし、知り合いから「廃人になっちゃう病気だよ」と言われて。今思えばひどい偏見だけど、びっくりしました。

――ALS患者へのサポートが当時も今も全くの欠乏状態であるとのことですが、具体的にどういうサポートが求められるのでしょうか。

  いわゆるピアサポートです。ALSになってしまった患者、家族に対して先輩の患者、家族が自分たちの経験のいいところを伝授していくということでしょうか。一般的には廃人だとか絶望死だとか言われていますけど、違う側面があるんです。発症しても工夫次第で結構楽しく生きていけるっていうことが、だんだんわかってくるんです。病気に慣れちゃうんですよ、どんな病気でも。いい意味でも悪い意味でも慣れちゃうんです。ALSの場合、進行性神経疾患なので、どんどん悪化して動けなくなる。決して治らないし、戻らないし、良くなるってことはないんですが。それでも毎日を生きていく方法をALSの患者家族は身につけていき、10年とか20年、長い人は30年も生きています。

――タイトルの『逝かない身体』ということがそれを物語っていますね。

  「逝かない」ですよ本当に。でも苦痛を伴う命も肯定できることがだんだんわかってきました。この本にも書きましたけど「(母は)それでも感謝して生きていけるようになる」と最初に主治医に言われました。そのときは何でそんなこと言うんだろうと思いましたよ。呼吸器を付けて、動けなくなって、それからどうなるのかわからないですから。マゾ的な感じがしません?(笑)でも介護が終わった時点で何となく真理が見えたというか、振り返って「悪くなかったな」と思えたんです。例えば病気を知らない以前の私にぱっと戻れて、もう一回全部無しにして、人生やりなおせるという選択肢があったとしても選ばないだろうと思います。ということは、12年もの介護人生が悪かったとは思ってないということですよねえ。

――今回のご本もそのサポートの一環で執筆された面もあるのでしょうか。

  そう。ピアカウンセリングの一環です。今どこかに辛くて辛くて仕方ない家族がいます。人工呼吸器を付けてしまって「私のせいで患者にこんなに辛い思いをさせて、生き続けさせてしまっている」という悔悟を抱きながら介護をしている家族は少なくないはずなんです。ALSだけではなく植物状態、脳血管性の病気などでコミュニケーションがとれなくなって生きている場合なども含めて、「あの時に救わずに死なせればよかった」と家族は結構思っていたりしますが、それについて「これでいいんだ」と呼吸器の選択や患者の生を肯定する本で、家族の視点から書かれた本って今まであまりありませんでした。

――医者が言うことがすべて、というような状況だった?

  そうですね。医者はどちらかというと呼吸器治療することに躊躇します。呼吸器治療しても、動かなくなっていく体で長く生きていくことになるけどいいんですかと訊かれます。

――「苦痛を患者に強いることになりますよ」というニュアンスですね。

  呼吸器つける前に、そういう説明が必ずあります。でも、呼吸器つけた家族はそれでも選んじゃったわけ。「じゃあ治療しないでください」って言ったら目前で死んじゃうんですから。なんでもいいから助けて下さいって言っちゃう。でもね、それであとで後悔するのは良くないと思うんです。救われた体は辛そうに見えますけど、苦痛を緩和する方法はちゃんと確立されてきています。人間てのは、どんなになっても生きていたいところがあるんですよ、特に「からだ」が。体の要求っていうのはかゆければかきたいし、痛ければ痛くないようにしてほしいっていうように、単純な要求が繰り返し続いていくので、それに対処療法的にケアしていけば死なせることもないし、生きていける、それを母のからだから学びました。医療って特に看護って心理的なアプローチから入ることが、けっこうあるんですが。でも、それは逆さかなと思って。ただ無言で体をケアすることで、気分も良くなってくる患者さんたちを見てきたんで。

――呼吸器を付けるのは患者の3割ということですが、その選択を家族にさせるのは酷ですよね。

  人工呼吸器を付けないとこうなる、人工呼吸器を付けるとこうなる、どっちがいいですか? とALSの告知の時から言われます。どっちも嫌なんですけどね。選べないでしょ?でもどっちか選ばなきゃいけない。患者がまだ歩けて食べられるときに、そう言われるんですよ。だからびっくりしますよ。本人のショックは測り知れないですよね。そこで家族が言われるのは、もし呼吸器を付けたら24時間付きっきりになりますよ、です。介護以外に何にも出来なくなりますよってこと。それで、患者と家族は呼吸器を付けるか付けないかぎりぎりまで悩むんです。決められないまま呼吸はどんどん苦しくなっていく、でも我慢して我慢して。咽は切開したくないけど呼吸のための筋肉は麻痺していきますから、最終的には呼吸困難で病院に運ばれて、今呼吸器付けないと死んじゃうけどどうするかとなれば、後先考えずに呼吸器付けるということになります。最近は前もってモルヒネを使いますから、患者は朦朧とさせられてしまって、迷う間もなく死んでしまうということもありますけど。生きるか死ぬかのところで、「生きたい」っていう本音が出たときに呼吸器を付けると、そこからまた生まれ変わったかのようになって「じゃあ、がんばる最後まで」というようになっていくので、そこからが本番という感じです。

――がんばる、といっても筋力の衰えということもあり、ポジティブにがんばらなくなると言いますか、できないことは諦めていくということも書かれています。

  だんだん楽な方法を選べるようになり、がんばらず負けることを覚えていくように患者さんから変わっていきます。長く生きてきた患者さんというのは、そのプロセスを通過してきた人たちです。難病は長期戦なので。でも、負けるはいいことじゃないかなと思います。リハビリとか高齢者のケアだと逆ですよね、訓練をしてでもできるようにする、残存能力を保つためにがんばる。それで保たれるのならやった方がいいんだけれど、ALSのように止めようもなく悪化していくものや、先天性の脳性麻痺などだと、どうしてもできないことを強制することになって無理させてしまう。ALSの人から一番学んだことがこれなんです。どうしてもできない人に目標を与えたらかわいそうですよ。生き甲斐とか、生きる意味とか、そんな問いは要らない。人間ただ生きていればいいんです。何もできなくても無駄な命などひとつもないってことです。

――呼吸器をつけた後も介護は続いていきます。介護の過程で「安楽死法賛成」とホームページに書いたというエピソードが書かれていますね。後にこの考えは変わっていったということですが。

  救えないし、かわいそうなので殺してあげなきゃいけないって思ったんです。いくら介護しても良くはならずどんどん悪くなっていくし。一種のバーンアウトです。そうするとこういう人は安楽死ができれば生きているよりも楽だと思ってしまったんです。だから何とか安楽死を法制化できないかなと思って。自分のホームページにも当時のまま書き込みを残してあります。証拠だから。でも私は読書が好きだったのでその時に本を読みまくりました。生命倫理の入門書から入っていって、障害関係の本だとか、哲学書を読むようになりました。その頃たまたま入った喫茶店に小泉義之さんの本があったんですよ。変わった喫茶店ですよね(笑)その本を手にとって、パッと開いたら「人工呼吸器良し」みたいなことが書いてあって、人工呼吸器を付けている人の命を肯定していたの。それで喫茶店の中で泣きながら読んで。こんなことを言ってくれる哲学者がいるんだと思った。本との運命の出会いです。私はそのような人の命を否定していたんですが、180度考え方が変っていくきっかけになりました。

――病気の進行に伴って、言語的なコミュニケーションがとれなくなるということが問題になってきます。その段階から「身体的な会話がはじまった」という表現をなさっています。

  よく考えたら、普段から誰もがやっていることですよ。言葉でやり取りをすると逆に複雑化して理解しえあえないこともありますから。言葉が通じなくなってくると気持ちが行き詰まってしまうんだけど、丁寧に身体に集中して介護していると、そこから気持ちが解けていくというか、あきらかに良くなるんですよ。床ずれが治る、動悸が安定するとか。ドキドキしているからどうしたのかな、どこが痛いのかな?と探す、体を拭く。いろいろやっていくとドキドキが治まっていくんです。それでもだめなときは添い寝してあげるとか。そうすると、すうっと落ち着いたり、とかね。赤ちゃんもそうでしょう? だから相手が何を求めているかってことは、体や皮膚で感じ合うだけで充分に伝わる。男女の間だってそうでしょ?言葉は時に薄っぺらいでしょ?

――受信が中心になって成り立つコミュニケーション、という感じですね。

  お互いが感受性を高めていくんです。こういうコミュニケーションにも、互いにだんだん慣れていく。言語的コミュニケーション以外の方法を鍛え続けていると、自然と患者の体に手がいくようになるんですよ。付き添いでも、ただ見ているだけっていうのはありえなくて、手足をマッサージをするとか、体が汗ばんでいるから背中に手を入れて空気の通りをよくしてあげようとか、いろいろとすることがある。無意識に身体に触っているうちに、身体から言葉を感じることが出来るようになってくるんです。

――櫻場さんというALS患者の男性のことが本に出てきます。印象的なのは「櫻場さんが言いそうな冗談」をヘルパーの方が言って、場が盛り上がったというエピソードです。櫻場さんはこのときもう自分では話せないところまで病状は進行していたんですよね。

  あれ、笑えるエピソードでしょ(笑)。全く意思伝達ができなくなっているALS人の社交ってのがあるんです。そういうの見られるのって、もしかして日本だけかもしれない。櫻場さんはTLSといって眼球も動かなくなってしまっているんです。そういうALSの患者さん,少ないけど何人かいます。その状態で病院にいると、誰も話しかけもしないから、死ぬのを待つだけというようになってしまうんです。話しかけられないと、患者は早く死んでしまったりしますが、櫻場さんの場合は、TLSになっても自宅の居間のベッドにいますから、病気の前と全く変わらず一家の「大黒柱」です。子供たちが「うちの大黒柱は働いているお母さんじゃなくてお父さん(櫻場さん)だ」って。それに櫻場さんは日本ALS協会東京都支部の副支部長です。意思伝達ができなくなった人がそういう役職をやっているなんて、他国のALS業界では考えられない。

――日本の状況は世界でも非常に珍しい?

  まずは社会的な慣習だとか、政治の違いでしょうね。自己決定、自己責任でなければ生きていけない世の中ですよね、西洋社会って。でもあちらの患者家族の話を聞くと、日本と似たところもかなりありますよ。「日本は自宅で呼吸器できていいね」ってイギリス人の家族に言われたんです。どうしてかと訊くと、イギリスなんか自宅で呼吸器治療はありえないんだそうです。だから呼吸器を付けることは選べなかったらしいんです。海外では呼吸器付けた当事者の意見は全く表に出てきていません。出てくるのは論文を書いている医者の見解だけですから。その医者が患者の死の自己決定も認めてしまいます。日本でもそうしたいみたいです。現在の日本では呼吸器をつけたら生きている限り外せないんですけど、外国では合法的に外せる国もあります。でも、生きている人から呼吸器をぱっと取って死なせることができるなんて、病人の「生」ってすごく軽くなっていきますよね。呼吸器を付けたり外したりできる患者の命ってとても軽い。そういう国では、呼吸器は最初から付けない方向に向かっていくんです。ALSでよく言われるのは、呼吸器外せるようになれば、安心して呼吸器を付ける人が増えるということですけど、それは嘘。この嘘はロジカルに批判していかなきゃいけない。それこそ倫理学者や社会学者の仕事なんじゃないかと思っているんです。

―― 一般的には海外の方が医療事情は進んでいると言われますよね? 日本も西洋的にしていきたい、「生き死に」については自己決定させたいといいますか。

  そうですね。あっち(欧米)を真似しろみたいにね。死もシステム化すると医者が楽だからでしょ? でもALSのケアに限って言えば、日本が世界で一番で進んでいると私は思います。植物状態に近いような患者にも「社会性」があるわけですから。当然のようにケアしている周りの、これは社会の、と言ってもいいかもしれないですけど、包容力があります。

――意外に大らかですね。

  そうですよ、大らかに介護するのが当たり前です。進行性の患者に「あなたは今日から私たちの仲間じゃありません」って言えないでしょう? 生存の限界を定めず、ただ生きることを周りが認めていれば、末期も明るく過ごすことが出来るんです。「繋がり」が大事です。言語的なコミュ二ケーションがままならなくなってしまったときに、患者から発信ができなくなったときに、介護する側が諦めないで身体から意思を拾う。植物状態でも脳死でも、以前と変わりなく人として対処をする。ヘルパーがそうやって接しているのを見ると、その周りの人も尊厳のある人間として患者と付き合うようになります。反対に医者や看護師が手荒に扱っていたら、大事な人でさえ、人間に見えなくなると思うんですよ。動かない人も大事に大事にされているから、人間らしく見えている。櫻場さんやうちの母も、そうして大切にされていたから人間らしく生きられた。

――この本を読んで、「金銭的に困っていない、生活に困窮していないからここまでの介護ができたんじゃないか」という批判的な声もあるかと思います。患者のために改装できる自宅がある、家族内に専任で介護できる人間がいる、だからできるんじゃないかというような見方もされてしまうんではないですか?

  私もそれはあると思います。本には書いていないけれど私も生活に困窮したんですよ。でもそれを書くと様々な制度の話、患者運動の話を盛り込まなければいけなくなってしまって。担当編集者と相談をして、それはこの本ではやめておこうとなりました。内容が難しくなっちゃうんで。例えば、うちはヘルパーを長時間使えるようになりましたが、それには区との交渉過程があったんです。それはまた別の本に書かなきゃいけないんですけれどね。今、私が一番に取り組んでいるのは、単身者のALS患者が独居で呼吸器をつけて生きていくということについてなんです。配偶者のいない単身者、一人暮らしでも生活保護を受けて、呼吸器を付けて単身独居できなければ、生きる権利は平等じゃないと思うんです。この本は介護の側面からだけ書いたんですが。だから制度とか運動のことは次の本ですかね。

――ここまでいろいろとお話をうかがってきましたが、ALS患者の介護に求められるものは、つまるところどういうことなんでしょうか。

  やっぱりそれは、一つは皆が同じ気持ちで支援するということでしょうか。家族以外にも専門職とかヘルパー、地域の人とか、いろいろな人が介護に関わりますが、そのときに皆同じ気持ちで支援する。患者の生存にネガティブな人が入っているとそこから崩れていってしまう。簡単に言えば、チームワーク。本人を交えてよく話し合うことも挙げられます。

――患者と家族の関係がうまく機能していない場合というのもあるかと思います。そういった場合はどうなんでしょう。

  患者と家族の仲が悪いことはけっこうありますよ。仲が悪いのがフツウですよ(笑)。だから家族を介護に参加させないほうがいい。私たちが進めているのは独居です。家族関係はできるだけ保ちつつも独居する。そうじゃないといろんな人が家に出入りするから、プライバシーがなくなって家族が余計に疲れてしまう。家では家族もくつろぎたいじゃないですか。それだったら患者さんは別の場所で24時間他人の介護を受ける。他人だから遠慮なく自分のしたいことも頼めるんです。家族には遠慮して我慢してしまいますから、結果的に負のスパイラルになっていきますよね。そうすると最終的には疲れた家族が病人を殺してしまうとか、病人が遠慮して治療を断るとかになりかねない。私も疲れ切ったときに母の安楽死ということが頭をよぎりましたけど、あのときはまだうちにヘルパーが入っていなかったんです。そして、橋本みさおさんというALS患者さんや立岩さんに出会って、ヘルパーを使って介護をしていくやり方を教わって、母とは気持ちで繋がっていればいい、実際の介護は他の人に任せた方がいい、ということがわかってきたんです。母の介護を自分でしたいっていう気持ちはあったんですけど、それを抑えて実際の介護からは少し離れました。そうしたら余裕が出てきて、療養もうまくいきだしたんです。妹も父も深夜の介護から解放されて楽になったし。

―― 一般的な介護の方法として言われていることは、患者や患者家族は自分たちで問題を「がんばって」解決しろということですよね。自分たちでがんばれと。

  医療職は家族介護が絶対と言います。家族にがんばれと言います。それで家族が疲れてしまったら病院に入れればいいっていうふうに。でも神経疾患の患者は病院に行きたくないんですよ。動けないからほったらかされて天井を見ているだけの一日になりますから。家にいるから、動けなくてもあれがしたいこれがしたいと思えるし言えるわけです。だから、家にいても家族以外の人に介護されるのが理想です。
 ただし、生死に関する問題だけは患者家族では解決できない。患者は悲しくなると「死にたい」と言います。患者は弱音吐いてもいいんですが、心にもないのに「病院に行きたい」、「死にたい」と言うんです。本音と違うことを言うんです。でも、それを家族が本気にしてしまうようになると非常に危ない。医者が本気にしたら、もっと危ない。

――先ほども出てきましたが、余裕という意味でも立岩さんとの出会いは大きかったんですね。

  そうですね。立岩さんは障がい者から学ぶことを淡々と教えてくれました。あとはこの本、このホームページを読みなさいと。私も今、ALS患者の家族にそれと同じことをしています。とはいえ、本の中にも書きましたけど、初めは立岩さんを信用していなかったですよ(笑)。「予めCDを1000枚くらい選んでおいて、自分がTLSになったら順番にかけて聴かせてもらおうかな」とか暢気なことを言っていて、学者って嫌だなあって。でもだんだん分かってきたんですが、状況をのほほんと捉えてあげて、「大丈夫、大丈夫」と言っておかないと危ないからだと。家族は精神的に追いつめられていることが多いですから。大変だ、辛い、に人びとが共感してしまうと、「じゃあ楽にしてあげよう」という安楽死の方向に向かってしまうんです。「殺してあげよう」になっちゃう。社会全体がそうなります。

――社会は「殺す理由」を探している?

  そうそう。家族も含めてね。ALS患者は「死にたい」なんて弱音吐いたとたんに、もっとよく介護してあげようではなくて、楽にしてあげようってことで物騒な言い方をすれば、殺されちゃう。実際は病人には、大変な苦労があることはわかりつつも、「ALSなんて大したことない。」と強がりでも言っていないと、病人を守れません。病人が大変なのは当然なんです。でも、呼吸器の話でさっき出ましたが、本人が否定しても、私たちはその「生」を軽んじてはいけないんです。最重度のALSでも、植物状態でも、脳死の人でもその生を肯定し、その身体の面倒をよくみる。それがてきてもっと手前の軽症の人が大事にされる社会になる。逆にALS患者のような人の命が軽んじられてしまう社会だと、高齢者が肺炎になったら、もう抗生物質の治療をしないとか、どんどん病人弱者の淘汰が始まってしまう。役立たずは治る病も治療しないで自然に死なせる方向へと社会を向かわせてしまう。本当に死んでしまうまでは大事にしましょう、いろいろな医療とケアの方法があるのだから、とこの本で言いたいんです。

――ご本の内容、今日うかがったお話しを振り返ってみると、「生きる」って何だ? と問われているような気がします。

  解答はないです。問いを投げかけているだけの本です。この本を読んでも、やっぱり安楽死、尊厳死がいいという人もいると思います。ALSのことをリアルに書いたので、こんなになってまで生きていたくない、怖い、と思う人もいるでしょうね。今まではここまで書くとどう受け止められるか分からないから、ALS関係者も書いてなかったというか。介護の内容もショッキングですよね。でも、これまでALSの家族が、患者の苦痛をどういうふうに受け止めているか書いたものはなかったし、呼吸器つけて終末期と呼ばれる人びとのふつうの療養生活も知られていなかった。だから書いておかないといけないと思って書いたのがこの本なんです。(了)

『逝かない身体――ALS的日常を生きる』表紙

◆川口 有美子 2009/12/15 『逝かない身体――ALS的日常を生きる』,医学書院,270p. ISBN-10: 4260010034 ISBN-13: 978-4260010030 2100 [amazon][kinokuniya] ※


UP:20100402 REV:
『逝かない身体――ALS的日常を生きる』  ◇筋萎縮性側索硬化症(ALS)  ◇川口 有美子  ◇Archive
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