「〈進路問題〉をめぐる教育経験のリアリティ――盲学校教師のライフヒストリーを手がかりに」
佐藤 貴宣 2010 『解放社会学研究』23: 31-48.
last update: 20130430
1 はじめに
『平成一九年度特別支援教育資料』によると、現在日本には七一校(国立一、公立六八、私立二校)の盲学校があり★1、三五九一人の児童・生徒が在籍している。現在の盲学校高等部には、普通高校の課程を準用し教科教育を実践する普通科の上に専攻科が設置されており、そこでは理療教育(三療=按摩・鍼・灸に関する教育)を中心とする職業技術教育が行われる★2。三療は視覚障害者にとっての伝統的職業分野であり、かつては盲学校生徒のほとんど全てが職業教育課程へと進学し、三療に関する教育を受け、理療士として「職業自立」を果たしてきた。ところが、一九七〇年代の後半以降、こうした職業教育課程への進学を自明とする進路状況は徐々に変化し、生徒の進む進路は多様化していくことになる。
一九七〇年代になると発達保障の理念と結びついた「権利としての障害児教育論」が展開され、それまで「教育不可能」と見なされ、学校教育の外部へと放擲されてきた重度障害児や「盲精薄」「聾精薄」と呼ばれた重複障害児が教育へのアクセスを求めて盲学校等の特殊教育諸学校への就学を希望するようになる[荒川、二〇〇三]。また、その一方で、一九七三年度の盲学校高等部学習指導要領改訂により、理療科中心の学校形態からの脱却を目的として盲学校高等部に普通科が設置されたのである[谷合、一九八九]。こうした情勢を背景として、職業教育を受けることの困難な生徒の進路保障という課題が新たに浮上し、それと同時に単一視覚障害生徒(障害が視覚障害のみの生徒)の希望する進路も多様化する[佐藤、二〇〇九]。すなわち、一九七〇年代後半の盲学校において、「理療の資格取得が困難な盲重複障害児への進路対策」及び「理療以外の職種の職域・職場の開拓」[平田・久松、二〇〇四]、ならびに「高等教育へのアクセス権保証」[東、二〇〇二]というトピックが「進路問題」★3として顕在化したということである。こうした事態は理療科への進学を自明とする従来の単線的な進路指導のあり方に対して大きな転換を要請し、盲学校関係者に「進路開拓」という困難な課題を突きつけることとなった。確かに、今なお三療は多くの視覚障害者の従事する標準的な職業分野であり、盲学校における職業移行もまた、その多くが理療科を経由して行われている。しかしながら、近年の盲学校において、教師たちの耳目を集め「問題」として語られもするのは、このように多様化・複雑化する進路問題であり、そうした状況のなか盲学校の教師達は今なお手探りでの対応を続けている★4。
それでは、現実に個別具体的な盲学校の日常において、進路の選定や決定をめぐって関係を営為する教師達は、自らが直面する「進路問題」をどのように定義し解釈してきたのであろうか。そもそも盲学校の日常を生きる教師達は日々の実践を通じてどのような出来事に遭遇し、それらの出来事をどのような現実として意味づけ認識しているのであろう。盲学校を対象とする既存の研究は、その多くが質問紙を用いた数量調査により、マクロな分析視角から、学部別の生徒数や生徒の障害特性、進路状況などの全体的把握を目的としてなされてきた[新谷、一九九四 金森、二〇〇四]。それゆえ、従来の研究からは個別の学校現場に固有の現実は見えてこない。盲学校の日常場面における個人の主観的経験のリアリティをとらえようとする研究はこれまでほとんど行われてこなかった。こうした状況に鑑み、本稿では教師たちの主観的経験に注目し、盲学校における進路形成のプロセスと進路選択を規定する条件について、行為者の視点から状況内在的に考察していきたい。その際、特に高等学校に準ずる課程である高等部普通科の教師に焦点化し、分析を行う。本稿が高等部普通科に着目する理由は、一般的に普通科卒業時点で、生徒達は高等部に専攻科として設置される職業教育課程に進学するか、あるいは他の進路を模索するかという選択を迫られることになり、ここに進路の決定が現実的な問題として立ち現れうるものと考えられるためである。
まず、先行研究との関連において本研究の立地点を明示し、本研究の意義を明らかにしておこう。
2 先行研究の整理
既述のように、盲学校等の特殊教育諸学校高等部普通科に対応する教育制度は公立高校である。公立高校については、学校社会学の領域を中心として、これまでおびただしい数の調査が実施されてきた。進路の問題についても、学校間格差によるトラッキングや学校システムの選抜/配分の機能、あるいは階層の再生産問題との関連において広く論じられてきており、研究の蓄積は豊富である。すなわち、偏差値に基づく高校間の格差構造と入学者の出身階層とが密接に関連しているということや、トラッキングの作用により生徒達の進路志望と実際の進路が所属する高校の「ランク」によって規定される現実、あるいは生徒達の進路選択の過程への彼等自身のサブカルチャーの影響などが統計的手法を用いた実証研究を通じて繰り返し示されてきたのである[岩木・耳塚、一九八二 苅谷、一九九一 竹内、一九九七]。これらの研究により、公立高校をめぐる進路問題の全体的構図は概ね明らかになったと言ってもよいだろう。ところが、学校社会学の文脈で行われてきたこれら一連の実証研究において分析の対象とされた計量的データは、もっぱら普通校をサンプルとする質問紙調査により収集されたものであった。その意味で、従来の学校社会学的研究において提出されてきた種々の知見は、必ずしも特殊教育諸学校の直面する進路問題を十全に反映するものとは言い難い。また、学校社会学の文脈において、質問紙調査や統計的手法を用いて特殊教育諸学校を対象とし、それ固有の進路問題の内実に迫ろうとするような研究もこれまで蓄積されてこなかったように思われる。
一九八〇年代にはいると、いわゆる「新しい教育社会学」(new sociology of education)に触発されるかたちで、日本の学校社会学においても解釈的アプローチを志向するクラスルーム・相互作用研究やカリキュラム研究が散見されるようになる[耳塚、一九九三]。「かくれたカリキュラム」の伝達様式を描き出した先駆的な実証研究[柴野、一九八一]をはじめとし、中学校での進路指導とそれに伴う生徒の主観的経験の解明を志向した山村や志水らの研究[山村、一九八三 志水・徳田、一九九一]などのように、学校現場のローカルな日常世界に焦点を据えた研究が精力的に行われたのである。
翻って、障害児教育学の分野に目を転じてみると、この領域においても、様々な角度から広範な研究が実施され、数多くの知識や情報が生み出されてきた。制度研究やカリキュラム研究をはじめ、歴史研究や心理学的研究、教師による実践研究にいたるまで、その内容は多岐にわたる。しかしながら、既存の障害児教育学においても、個別の学校の内的過程や学校成員の主観的経験に対する関心は極めて希薄である。広い意味でのリハビリテーション学[杉野、二〇〇七]の下位領域として存立する障害児教育学は治療教育的パースペクティブから、「個々の心身の故障あるいは欠損」としての「障害」の特性把握やその軽減・克服のための研究を志向するという性格を有するがゆえに[堀、一九九七]、リハビリテーション的な問題の解決にあたって、直接的な貢献の見込めない(と障害児教育研究者によって感得されるところの)解釈主義的な理論や参与観察といった方法論はほとんど注目されてこなかったということである。特殊教育諸学校における進路問題を対象とする研究においても、質問紙調査を通じて進路状況に関する全体的な動向を明らかにすることに重点がおかれ、進路分化の生じる学校の内部過程を直接探究の対象とするような研究が行われることはなかった。
とはいえ、社会学的な観点に立脚し、障害児に関わる教育現象にアプローチしようとする研究もまた、特殊教育の構造変容の原因とその方向性を見定めようとした清永賢二の研究[清永、一九七三]を先駆とし、徐々に蓄積されつつある。九〇年代後半以降に興隆するそれらの研究は、解釈的アプローチに依拠しながら、学校現場の日常世界の解明を指向するという性格を共通に有していた。例えば、鶴田真紀は映像データに基づきながら養護学校における障害児と教師との実際の相互行為をエスノメソドロジーの視点から詳細に分析しているし[鶴田、二〇〇七]、金澤貴之は聾教育の文脈で、「口話法」が教育手段として優先的に用いられることにより、「ろう」であることが「障害」として意味づけられていく過程を構築主義の立場から具体的に論じている[金澤、一九九九]。また、盲学校におけるフィールドワークを通じて、杉野昭博は「盲人文化」が「健常者文化」との関係を基軸とし、「従属文化」・「対抗文化」・「固有文化」という三つの位相から構造化されていることを明らかにした[杉野、一九九七]。さらに、小学校でのエスノグラフィーをもとに、普通学級に在籍する肢体不自由児の学校経験について考察し、「統合教育実践」の可能性とその課題について検討しようとする研究[堀家、二〇〇二]や、通常学級における子どもの「問題行動」を「発達障害」へと読み替えていく教師の解釈実践を相互行為分析の視角から解読する作業[木村、二〇〇六]もなされてきた。これらの研究は、「特殊教育学」ないしは「障害児教育学」と呼ばれる学問分野の独占的認識対象と見なされ、外部者の目にはブラックボックスのように映じてきた障害児教育の内部過程を社会学的なパースペクティヴにおいて把握しようとする希有な試みであり、障害児をめぐる教育現実を社会学的なアプローチによって分析する際に可能となる方法的手続きを提示してきたと言えるだろう。
しかしながら、これらの先行諸研究においては、現場の状況や行為過程が強調される一方で、障害児に関与する教師の主観的な意味世界や彼らの日常的経験に対する関心は幾分希薄であるように思われる。教師達の語りの内容それ自体に着目し、それを丹念に分析・解釈することにより、「彼らの認識する実践の意味を多元的に把握すること」[古賀、二〇〇二、二四頁]こそが障害児をめぐる教育現象の理解において決定的に重要な意味をもつのではないだろうか。個人の主観的経験をとらえる視角を援用し、従来論じられることのなかった盲学校実践の内的過程や盲学校内部の関係性を記述することにより、学校成員の認識や実践と、それを取り巻く社会的世界とが、盲学校における進路形成のプロセスにいかなる影響を与えているのかを分析することが可能となる。こうした問題意識から、本稿では、解釈主義的なアプローチを念頭に、教師たちが生活者として把握してきた盲学校のリアリティに定位しながら、彼らの学校経験について、とりわけ進路問題を中心に考察していきたい。
3 分析手法と調査対象者の概要
教師たちの主観的経験を把握するための手法として、本稿では、ライフヒストリー法を採用する。ライフヒストリー法とは、「個人というフィールドに降り立ち、個人のパースペクティブから社会を考察しようという研究方法のひとつ」[蘭、二〇〇四、五二頁]であり、特定の個人が、人生を歩むなかで、みずからの経験や、みずからが所属する世界をどのように解釈し、自己の行為や認識をいかに(再)構成してきたのかを考察するための有力な研究手法である。教師研究の文脈でもライフヒストリー法は、学校の方針や教育政策が教師によって受容され、実施される過程を検討するためのツールとして、あるいは、学校生活のミクロな政治力学や社会的現実が、教師の生活や教育活動をいかに規定し、変化させてきたのかを明らかにするための手法として広く用いられてきた[Goodson and Sikes, 2001=2006:1-20]。教師たちの経験・解釈に準拠しつつ、盲学校における進路問題という事象を(あくまでも「部分的真実」としてではあるが)分析・記述しようとする本稿においても、ライフヒストリー法は有効な方法論となるだろう。
本稿が分析の対象とするのは、盲学校高等部普通科での教育経験を有するAとBという二人の教師へのインタビュー調査から得られたライフヒストリーである。二人は同一のコーホートに所属し、共に東北地方のD県で出生しており、九〇年代前半をD県に所在するV盲学校高等部普通科の教師として過ごしている。両者とも聞き取りをおこなった二〇〇五年四月現在で、満四〇歳である。
まず、Aの専科は音楽で、東北地方の大学を卒業後、すぐV盲学校に着任している。高等学校の教員採用試験を受験したAは、「まあその辺の高校にもし受かれば行くんだな」と思っており、盲学校での勤務については当初「全然頭になかった」と語っている。だが、盲学校長からの打診を受け、Aは「全然右も左も分かんないけども、とにかく就職しなきゃっていう思い」から、盲学校に着任したのだった。V盲学校には通算六年間勤務した。前半の三年間は、重複障害者を対象とする重複部を担当し、後半の三年間は、高等部普通科の担当となった。両者の間には「同じ盲学校の中で全く違う世界を二つ見た」と思えるほどの隔たりがあり、Aにとって、重複部から高等部普通科への異動は別の学校への転勤に等しい経験であったという。その後、県立の普通高校に転出し、三年ほど勤務しており、インタビュー当時は結婚し教職を退いている。
一方、Bは県内の教育大学を卒業後、公立高校の数学教員として教職に就いた。初任地は県北部の農業高校で、そこで四年間勤務した後、V盲学校の高等部普通科に赴任する。V盲学校はBの実家からほどちかい小学校区の中にありながら、「なんか近寄りにくいイメージがあった」ため、赴任以前にBがV盲学校に足を踏み入れることはなかった。その意味で、BにとってV盲学校は「身近で遠い学校」であったという。Bによると、盲学校への異動は自ら希望したものではなく、「単なる人事異動だった」。異動先についての説明の折りに、在任校の校長が、眼を示しながら、「ここが悪いんだ、盲学校だぞ」と語っていたことをBは印象深く記憶している。V盲学校の高等部普通科で五年間勤務した後、BはAと同様、県立の普通高校に転出し、インタビュー当時も当該高校の教員として勤務している。
二〇〇五年の五月一二日と一三日にJ市(V盲学校の所在地)内の音楽スタジオにおいて、三時間の面接時間を原則として、広範な内容にわたる自由回答方式の半構造化面接法による、それぞれへの個別面接を実施した。ここでの目的は以下の点にある。すなわち、教師たちは、盲学校という現実をいかなる状況として定義し、そこに形成される生徒集団の価値志向や行動様式をどのような視点からいかに評価してきたのか、そして、彼らにとって盲学校における教育実践とはどのような経験であり、それはどのような意味を自身にもたらしたのか、これらについての主観的な意味解釈の様態を明らかにすることである。盲学校での印象的なエピソードや自身の障害者観の変遷、職務上の悩みなどについて語ってもらった。本稿はこの面接調査によって得られたナラティブを参照することにより成立している。
4 V盲学校における進路問題の諸相
ここではいよいよ、二人の教師のライフヒストリーに即して、なにがどのように九〇年代前半のV盲学校高等部普通科において進路問題として経験されていたのかを、具体的な現場を支配する論理や認識構造に従いながら読み解いていく。その際、特に一九九五年度の状況に焦点化し、考察していこうと思う。というのも、この年にAとBは多様な進路志向を有する三年生の担任として、進路の選択や決定をめぐる様々な問題に直面しており、その意味で、V盲学校における進路問題がこの学年に関わる二人の経験において、最も典型的な形で示されていると考えられるためである。
4―1 進路の多様化による自明性の切断
従来、V盲学校においては、どの学部からであっても一度入学したものは自動的に上位の学部に進学するものと見なされてきた。実際、ほとんどの生徒が学校内部の構造化された学部階梯をただ受動的に上昇してきたのである。高等部においても普通科卒業後、専攻科へと進学することが慣例とされており、ほとんどの生徒が、理療科へと進学し、「職業自立」を果たしてきた。つまり、従来のV盲学校においては、通常進路分化の規定要因と見なされる両親の所得水準や学歴、出身階層の規定力はごく限られたものであり、むしろ、親の教育達成や地位達成とは断絶した学校の論理によるトラッキングの影響がより強く表れていたということである。そして、V盲学校もまた、「『自立』を奨励しながらもその道筋を『三療』以外に示せない」まま、三療を「もっとも安定した自立への手段として生徒たちに提示し続け」[杉野、前掲、二六二頁]てきたのであり、生徒達もまた、それを「現実的な選択肢」として消極的に受容してきたのである。こうして、高等部普通科から専攻科への進学はV盲学校成員にとって選択や懐疑の余地のない、いわば自明で自然な進路として認識されてきたのだった。さらに、こうした慣行は生徒の進路に関する常識的知識として、教師集団に共有され、新転任者にも周知されてきた。
筆者:普通科を出た生徒は専攻科に行くものだっていう説明が実際にあったんですか?
B:言われたと思う。「専攻科に進みます」って言われたと思う。「普通科を出た子達はそちらのほうに進みます」って。たぶん、来てすぐんときだよ、四月最初に、なんかそういうこといわれたの覚えてるな。それで、盲学校の子どもたちはそういう道にいくもんだって思った。
このように、高等部普通科から専攻科への進学が自明視されていた当時のV盲学校において、一九九五年度に二人が担任する三年生(聴覚障害を併せ持つ二名の生徒を含めて総勢一二名)の多くが三年生の一学期には外部の進路を選択する旨の意思表示を行っていた。一部の生徒は専攻科への進学を希望していたものの、その多くが大学や短大、専門学校への進学希望者、あるいは公務員や民間企業への就職を目標とするものであり、生徒たちの志望する進路はまさに多様であった。だが、当時のV盲学校において、普通科の生徒が専攻科以外の進路を選択するという事態は前例のない未曾有の出来事に他ならない。その意味で、この学年はV盲学校の歴史において初めて「進路形成」という「問題」を先鋭的な形で提起することになる。Aは「人数も多いと考え方もいろいろなんだなって思ったし、そういう気持ちがあるんだったら、門戸を広げることはいいことだと思った」と進路希望の多様化という現実に賛意を示しながらも、そのときのとまどいを以下のように回想している。
A:私が普通科を担任するようになる前までっていうのは、ほとんどが当たり前のように理療科か保理科だよね。ところが私が担任した学年から、人数も多いっていうこともあって、突然バラエティに開けてきたわけで。大学に行きたいっていうのも出てきて、公務員になりたいとか。ある意味当たり前ではあるんだよね、そういういろんな道があるっていうのは。私も盲学校の高校3年生っていうのは初めての担任だったし、そして、前例もないって言うさ。その時はほんと前例がないっていうのが一番大変だったよね、私にしては。聞いても誰もわかんないし、「やあ、今までそういうことないし」みたいな感じで。当時にしてみればさ、ほんとに私にとってもその時のその高校3年生の連中にとっても、進路って言うものはほんとに大変っていうのかな、初の試みっていうのかな、そういうことの連続だったよね。
ここではまず、Aが「普通科を担任するように」なる以前の常識、すなわち、「当たり前のように」行われてきた専攻科理療科や専攻科保健理療科への進学慣行の存在が指摘される。それとの対比においてAは進路の多様化という、「前例」のない自体を、「いろんな道がある」ことは「ある意味当たり前」であると述べ、積極的に肯定している。しかしながら、初めて「盲学校の高校3年生」の担任を経験するAにとって、外部指向的進路選択の「前例」が不在であるという事実は参照可能で依拠するに足る進路形成のための指針を得られないという意味において、「一番大変」なことに他ならなかった。それまで普通科卒業後、専攻科以外の進路を選択した生徒が存在しないという端的な事実によって、かつてない事態に直面したAは周囲のベテラン教師にアドバイスを求めた。ところが彼(女)等からは「やあ、今までそういうことないし」という冷ややかな応答が得られるにすぎなかったのである。
4―2 社会化機能の不在という認識
確かに、これほど生徒の進路が多様化することは前例もなく、「初の試み」の連続に二人は困惑していた。だが、それと同時に外部志向的に生徒の進路選択が多様化する傾向を望ましいことであるとも考えていた。特にBは「あのとき受け持った子たち」に対して、かねてからしばしば「大学に行け、専攻科なんかに進まなくていいから、他に出て行けよ」と語りかけていた。その理由をBは以下のように述べている。
筆者:なんで「専攻科に行かなくていい」ってあえて言ってたんですか?
B:世間が狭かったのさ。要するに幼い。それがあったから「出て行けよ」って。確かにさ、高校出てすぐ鍼灸師になって働くのもいいけど、大学行ってとかすれば、社会を知るわけでしょ。それからそっちに戻ってもいいんだなって思うよ、やっぱり。確かに回り道はしてるけど、視野は広がるだろうし。
学力に関する限り、当時の生徒達の水準は総じて見れば決して低くなかったとBは語る。Bは生徒の学力について、前任校の生徒のそれと比較しつつ、「当時はね、学力高かったよ、数学だってまともな授業できてたし、英語だって普通にやってたと思う、能力は決して低くないと思うよ」と評価している。だがその一方で、Bの目には盲学校の生徒たちは、普通校の生徒に比して、「世間が狭」く「幼い」ものに映じていた。特に先天的な全盲生について「はじめっから目の見えない子は幼かった」という印象を述べている。盲学校の生徒たちに対して「言葉の中でしか世界観っていうのを持っていないようなイメージ」があったのだという。また、概して「安全志向」で、「自分たちから外に出て行こうとか、そういう意識は薄い」ようにBには思われた。だからこそ、生徒たちに向かって外に出て行くようにと積極的に誘いかけていたのである。すなわち、Bの認識において当時の教師が取り組むべき第一義的な課題は、生徒達の「視野」を広げることであり、そのためには例え「回り道」であったとしても、生徒達にとって「外に出て」「社会を知る」ことが決定的に重要であるに違いなかった。だが、このように、「高校出てすぐ鍼灸師になる」ことよりもむしろ「社会」を知り、「視野」を広げることが生徒たちにとっての緊要な課題であると考えていたのはBだけではない。Bは他の教師たちと生徒たちについて「もっと〔盲学校の〕外に出て行けばいいのに」と語り合っていたことを記憶している。三年生の担任のみならず、普通科の教師たちの多くが生徒たちについて「知ってる世界が狭い」という印象を共有していたというのである。
ここでのBの語りが示唆しているのは、当時の高等部普通科に所属していた教師の多くが、V盲学校における社会化機能の不在を感得していたという事実である。一般的に、学校の社会的役割とは「社会的選抜・配分」と「子どもの教育・社会化」の二つであるとされる[天野、一九八二]。つまり、学校システムにはカリキュラムや試験制度を通じて、生徒をさまざまな社会的・経済的地位へと振り分けると同時に、社会的に望ましい行動様式や価値規範を伝達し、生徒を当該文化に適合的な個人へと社会化していくことが期待されているということである。その意味からすると、盲学校もまた、主に職業教育を媒介として、各個人を特定の社会経済的地位へと配分するための選抜装置として十全に機能してきたといえるだろう。しかしながら、その一方で、普通科の教師の多くが生徒たちについて「知ってる世界が狭い」という認識を共有し、「もっと〔盲学校の〕外に出て行けばいいのに」という期待を生徒へと差し向けていた。つまり、普通科教師の主観的リアリティにおいて、V盲学校という空間は生徒の社会化を志向する上で必ずしも適切な条件を備えてはいなかったのである。したがって、当時の普通科教師たちの外部社会に対する指向性は、まずもって、生徒の社会性の伸長を目的とする教育の論理を基底として成立していたのであり、地位配分を目的として通常行われているような進路指導の文脈に照準したものではなかったと考えることができるだろう。
4―3 状況の定義をめぐる相克
しかしながら、普通科の教師集団に共有されていたこうした状況の定義やそれに基づく価値判断は、必ずしも高等部を校正する教師集団全体のコンセンサスを得られていたわけではない。理療科教師の多くが普通科生徒の外部志向的な進路選択に対して否定的な態度を保持していた。そして、ときにそれは生徒の進路形成に対する実質的な責任主体である担任を宛先とする批判的見解として表明されることになる★5。
B:その当時ね、理療科の先生たちには睨まれたよ。最初の頃はねずいぶん言われたっていうのは覚えてるな。「そういうとこ〔大学や企業〕に行ったって最後がないよ」って言われたの覚えてる。「結局は鍼灸とかマッサージとか、そういうことしかできなくなるよ」っていうようなことをね、なんか言われたの覚えてるな。でも、「そういうことを言ってたらいつまでも一緒でしょ」って思った。だから俺は外に出したかったんだな。無責任かも知れないけどね。「無駄したって出したい」って俺は言ったのは覚えてる。
A:どっちかって言うとさ、専攻科の先生たちは「専攻科がいいんじゃないの」みたいな気持ちがあったんじゃないのかな。「専攻科に行ったほうがいんだよ」っていうさ、暗黙の了解とか暗黙のプレッシャーとか、普通科の先生たちに対して、そういう先生もいた。国家試験受けて、就職してっていうさ。そういうスタンダードな盲学校出身者のスタンダードな道。だから、やっぱり「大学に行くだの公務員になるだのって、なに現実離れなこと言ってんの」みたいなところもちょっとあったね。
ここにおいて「状況の定義」の妥当性をめぐる対立の構図が顕在化する。まず、理療科の教師達は一般職種における視覚障害者の就業困難性という常識的知識に準拠した上で、三療業こそが視覚障害者にとって最も現実的で安定した自立への手段であるという主張を展開する。それを通じて、生徒の意思を随伴しながら普通科の教師集団によって企図された「大学に行くだの公務員になるだの」という外部指向的実践を、「現実離れなこと」であると定義し、「結局は鍼灸とかマッサージとか、そういうことしかできなくなる」だろうとする推論を実効あるものとしていたのである。
このような推論活動を実践する理療科教師についてBは「すごい保守的だよ」と述べ、「なんかね、違うんだな、教育者じゃねえのかもしんない、理療科の先生たちっていうのは」と言及していた。Aもまた「普通科の先生とさ、理療科の先生は違うんだよね。なんかこう、理療科だけ別世界っていうかさ」と語っている。このように、二人は理療科を構成する教師集団のいわば制度化された思考に対してあからさまな不満と違和感を表明した★6。ここで二人が図らずも感受する彼ら普通科教師と専攻科教師たちとの距離感は、それぞれの教育機関で展開される教育活動とその背後にある教育の論理の違いに由来する感覚として理解することができるだろう。
まず持って、専攻科とは純粋に職業教育を行うための機関であり、そこに所属する教師たちの目標はもっぱら三療の国家試験に生徒を合格させることを通じて、彼等の職業的・経済的自立を助長することにおかれている。つまり、理療科教師たちの関心は生徒への社会的地位の効率的配分へと向けられているのであり、そうした視座に準拠する限りにおいて、理療科以外の進路選択は明らかに「現実離れなこと」であるに他ならない。一方、普通科を構成する教師たちはその多くが普通高校からの転任者である。彼(女)らは、自らの教師としてのキャリアにおいて内面化してきた高校教師としての思考パターンや信念体型に依拠しながら、社会性の伸張や生活力の育成を目標とする教育実践を行おうとする。こうした事情から、普通科教師と理療科教師との間に生徒への働きかけの方向性をめぐって齟齬や葛藤、不一致が生じていたと考えることができるだろう。しかしながら、理療科と普通科とは緩やかに繋がりながらも基本的には相互に自立的な組織として存立していたがゆえに、普通科教師の活動に対して理療科の教師たちが直接的な干渉を行うということはなかった。
4―4 社会環境的障壁
とはいえ、当時は普通科から理療科への進学が自明の進路として想定されていたがために、V盲学校では理療関係以外の進路に関する情報の収集や蓄積はほとんど行われていなかった。そのため、彼等は独自に生徒の志望する進路に関して情報を集積し、それらを手がかりとして新たな進路を〈開拓〉せざるを得なかった。
B:〔進路の〕希望がみんなバラバラに、出て行きたいっていう、あれをいわれて、正直、「さて困ったな」っていうのはあったよ。ただ、いわれたからにはやらなきゃなっていうのがあったじゃん。それで、「大学いきたい」っていうやつがいれば、大学には問い合わせ、ずいぶんしたしさ。
A:それこそ大学探すところから始まって、どんな試験があるかとか、どこで受けられるのかとか。ただ専攻科に行くんだったら、とにかく「勉強しろよ」でいいんだけど、こっちが動かなきゃいけないことが山ほどあった。いろいろ電話をしたり資料を取り寄せたりとか。
だが、実際のところ、視覚障害者の雇用に前向きな事業所や視覚障害のある学生の受け入れに積極的な高等教育機関を見つけ出すことは容易ではなく、就職先や進学先の選定・決定は難航を極めた。
例えば大学の場合でも、当時は視覚障害者に対して門戸を開いている大学は全国的にもそれほど多くなく、特に全盲の生徒に対して受験を認めている大学は少なかった[菊島、二〇〇〇]。彼らもまた生徒の学力や希望を勘案し、多くの大学に対して受験の可否について問い合わせを繰り返すことになる。だが、結局のところ視覚に障害のある生徒の受け入れに前向きな姿勢を見せる大学にたどり着くことはできなかったのである。Aはある福祉系の大学によって行われた点字使用生徒の受験拒否の事案を鮮明に記憶している。
A:で××福祉大を受験しようとした全盲の生徒がいたんだけど、「福祉大だから受け入れるだろう」と思ってたらいきなり、「受け入れない」だったからね。そっから始まって、どうしようって感じだったしさ。
当時、V盲学校では学校長名で当該大学に対して全盲生徒の受け入れに関する申し入れを行っている。それは入学試験に関する受験上の合理的配慮、つまり、点字による出題と回答・別室受験・試験時間の延長などを求める趣旨の要望であった。「福祉大だから」障害者への理解もあり、視角障害者の受験についても柔軟な対応が得られるだろうとAは心密かに期待していた。しかしながら、全盲の学生が安全に勉強するための施設や設備が整っていないこと、それに加え、福祉大学は障害者や高齢者のケアを行う人材を養成する機関であり、障害者を教育する場ではないという理由により大学当局はこの要請を退けた。この報告を耳にした普通科の教師達は一様に落胆し憤慨したとAは語った。結局、当該大学への進学を希望していた生徒のうち、全盲の生徒は受験を断念せざるを得なかったという。
このように、彼らは生徒の進学意思を実現すべく奔走したにもかかわらず、大学側のかたくなな拒否的態度を前にして厳しい状況を甘受せざるを得なかった。ここには西田が「低階層の集住地域」の子供達の経験として描出してみせたのと同型の問題的構図が存在する[西田、二〇〇五、一一三頁]。すなわち、当時のV盲学校の生徒たちが経験していたのもまた、学歴の獲得をめぐって展開される「競争による疎外」ではなく、むしろ「十分な機会と条件」が保証されないことによる競争それ自体からの「疎外」に他ならなかったということである。
そればかりではなく、彼らはまた、民間企業への就職も思うように進めることができずにいた。Bは生徒と接する中で「見えなくて不便って、あんまり、俺らが思うほどないんじゃないかなって思うようになった」と語っていた。だが、全盲生徒の一般就労の道を模索し始めたとき、彼は「目が見えないってこと」が「すごいハンディ」であることを否応なく確認・再認することになる。
B:で、ある生徒がらみだけど、その子に「就職したい」って言われた時に、「じゃあ、何か仕事先探してみようか、全盲でできる仕事を探してみようか」って思った時に、そん時だけだね、「目が見えないってことがどれほどすごい障害なのか」って思った。民間で就ける仕事が、その当時、ないと思ったな。目が悪いっていうのは、そんときに、就職するっていうことを考えた時にはすごいハンディだと思った。「じゃあ、何をさせたらいいんだ?」ってなったときに、なかったよな。そんときに視覚障害の人ってハンディあるなって思った。
生徒の障害を考慮した形で組織される盲学校の日常においては、障害ゆえに発生するニーズはある程度充足され、障害に伴う不利や困難が顕在化する場面はそれほど多くない。そのように配慮の常態化した状況に関与し続けることにより、Bは「見えなくて不便って、あんまり、俺らが思うほどないんじゃないかな」と感じるようになっていた。そして、全盲の生徒からの「就職したい」という訴えを契機として、「じゃあ、何か仕事先探してみようか」と思い、一般就労の道を模索しはじめる。だが、実際に「全盲でできる仕事」を探し出すことは容易ではなかった。通常であれば、企業と高校との間には「実績関係」と呼ばれる社会的なネットワークが存在し、それが継続的な就職・採用関係を保証している[苅谷、一九九一、六三頁]。ところが、これまで民間企業に生徒を送り出した実績のないV盲学校高等部に、そのような職業斡旋の仕組みは用意されておらず、それを形成するためのノウハウやコネクションも彼等は持ち合わせていなかった。それゆえ生徒への職業紹介の見通しを立てることもままならず、民間企業への就労もまた挫折を余儀なくされたのである。こうして彼等は一般就労への方途を模索する過程において、初めて視覚障害者が健常者中心主義的労働市場に参入することの難しさを理解したのであり、労働市場からの疎外状態を視覚障害者の被る不利益を象徴する社会的現実として了解したのである。
4―5 理療科へのバイアス
そして、視覚障害者に対する教育の場や雇用の機会からのこうした構造的排除の構図を背景として、盲学校内部に理療科を頂点とするヒエラルキー的な学部関係が醸成されていく。下位教育課程の教師達は理療科との間に顕現するこうした非対象的な関係性を免れ得ない現実として感受していた。
B:結局さ、普通科出た人たちを、俺たちは「専攻科にどうぞ入れてください」って頼む立場じゃん、最終的には。そこが弱いんだと思う。俺たちから見れば理療科に最後はなんとかお願いしますっていうのが行き着くところにはあるからね。外に出してやりたいけど、もし出られなかったら最後はこっちにお願いしますからっていうのが俺たちの中にあるからさ。
この語りによって照射されているのは、進路選択の機会と範囲を限定し、教育達成を構造的に制約する社会環境的障壁を背景として、盲学校内部に理療科へと続く単線的な進路が描き出されていく機制である。すなわち、高等教育へのアクセスの困難性、並びに一般就労に基づく「職業自立」の機会の限定性は理療科への進学を自明化・固定化し、三療による職業的自立を一つの到達点とする画一的な進路指導へと結実しうるということである。そして、理療科進学をメインストリームとする進路の構図は理療科を現実的な進学先として承認し、その存在論的地位を正当化することにより、理療科への権威的地位の優先的配分を帰結することとなるのである。
5 結語
以上、九〇年代前半にV盲学校高等部普通科に勤務していた二人の教師の語りを参照しながら、当時のV盲学校における進路問題の様相を教師達の主観的な意味解釈に即して記述してきた。生徒の進路希望の多様化という現象を端緒とする二人の進路問題に関わる経験から浮かび上がってきたのは、進路問題が単に学校組織に外在する社会環境的障壁にのみ起因するのでなく、組織内的な現実からも生じていたという事実である。確かに、彼らの経験においても、就労先や進学先の決定は困難を極め、大いに難航した。その原因を制度的・環境的障壁ないしは偏見や差別といった社会的態度に帰属させることは可能であるし、おそらくそれも間違いではない★7。実のところ、これまでの進路問題をめぐる言説の多くが組織内的な要因を等閑視し、その原因を社会にのみ帰責させてきたのである。
だが、本稿が対象とした二人の教師が進路の開拓に着手するに当って、まずはじめに直面したのは、組織に外在する社会的な障壁ではない。そもそも、盲学校内部に理療科以外の進路を開拓し確保するための手段や資源は圧倒的に不足していたのであり、そうした基本的水準における制約こそが彼らが行う進路開拓を規定し、困難なものとしていたのである。
さらに、生徒にとっての妥当な進路とは何かという点をめぐって、理療科教師との間に顕在化する見解の相違は、普通科の教師集団にとって理療科からの「暗黙のプレッシャー」として感覚されていた。前者が職業的・経済的自立の達成を重視し、三療業こそが視覚障害者にとって最も現実的で安定した自立への手段であると主張するのに対して、後者は生徒の人間形成を優先し、外部社会での他者との相互作用を通じて生徒の社会化を達成しようとしていたのである。そして、教育の場や雇用の機会からの排除を背景として、盲学校の内部に、理療科への進学を自明とし、三療による職業的自立を一つの到達点とする画一的な進路が描き出されていく。そのことが結果として専攻科と普通科との間に非対称的な関係を惹起し、そうした関係構造が理療科の意思を普通科にとっての「暗黙のプレッシャー」へと変換させていた。
これらの事象との関連に置いてここで決定的に重要な点は、当時のV盲学校の高等部普通科では教師の側から積極的・計画的に進路指導実践を展開し、進路先の決定を促すような活動はなされていなかったという事実である。前節でも確認したように、先行する生徒の進路希望を認識することで、初めて何らかの援助実践がアドホックに手探りの状態で行われていたに過ぎなかった。これについてAは「ホームルームの時間に一応進路の話はちょこっとしたかも知れないけど、カリキュラム的に進路のための時間みたいなのはなかったんじゃないかな」と回顧している。すなわち、当時のV盲学校高等部普通科では教育課程に「進路指導」の位置づけはなく、体系的・組織的な進路指導は行われていなかったということである。
ここでの進路指導の不在という現実の背後には、視覚障害者が一般職種で就業することは困難であるがゆえに、三療業こそが現実的で安定した自立への手段であり、理療士として生計を立てていくことこそが現在の視覚障害者における最良のライフコースに他ならないとする主に理療科教師達によって担われてきたマスターナラティブの存在がある。盲学校の教師達はこうした知識に捕縛されることにより、これまで外部への進路指導に関するノウハウや情報、コネクションや知識を蓄積・形成する機会を十分に持ち得なかった。その結果、生徒に対して専攻科以外の進路を積極的に提示することができずにいたのである。そのことが既存の社会環境的障壁を益々巨大で堅固なものとし、外部の進路を志向することを益々困難にさせてきたのだった。
とはいえ、このようなマスターナラティブへの抵抗の契機は至る所に偏在しているに違いない。今後は本論が対象とすることのなかった生徒や理療科教師たちの学校経験に注目することにより盲学校の日常を支配するマスターナラティブの壁を突破するための手段を探究していきたい。
【注】
★1:特別支援教育が制度化されることにより、盲学校・聾学校・養護学校に区分されていた障害児教育諸学校は二〇〇七年四月一日より「特別支援学校」という名称の下に一元化されている。だが、本論の記述では従来通り盲学校・聾学校・養護学校という学校名称を用い、それらの総称である「特殊教育諸学校」という語句についてもそのまま使用する。
★2:ここで、本論の既述の理解において必要な範囲で盲学校に関する基本的な情報を整理しておく。一般的に盲学校には幼稚部、小学部、中学部、高等部が設置され、そのほかに視覚障害と他の障害を併せ持つ重複障害児童・生徒を対象とする重複部が置かれている。そして、高等部には本科普通科と本科保健理療科が設置され、さらにその上に専攻科理療科と専攻科保健理療科が設置される。本科普通科では普通高校に準ずる教育が、その他の課程では職業教育が行われる。盲学校における職業教育の中心は理療教育である。理療科は高等部を有するすべての盲学校に設置される課程であり、そこでは三療による職業自立を目標とした職業技術教育が行われている。なお、本科保健理療科は、盲学校中学部または、中学校卒業者を対象とし、高等学校普通教育及び按摩に関する職業教育を行う課程であり、専攻科は、盲学校高等部または、高等学校卒業者を対象とし、按摩・鍼・灸に関する専門教育を行う課程である。その他、学校により、職業教育課程として理学療法科、音楽科、情報処理学科などを併せ持つところもあるがその数はごく限られたものである。このうち、本稿が対象とするのは普通高校に対応する高等部本科普通科である。なお、本文では高等部本科普通科は「高等部普通科」あるいは単に「普通科」と略記する。
★3:本稿では、進路の探索・開拓・選択・形成・決定に関わる制度的諸問題、ならびにそれらに関わる主観的な問題経験を意味するものとしてこの語を用いる。
★4:二〇〇六年度の『特別支援教育資料』によると、盲学校高等部本科卒業者数は二九九名で、それぞれの進路の割合は、大学等進学者九%、専攻科進学者三一%、就職者一四.四%、教育訓練機関等入学者二.七%、社会福祉施設・医療機関入所者二六.一%、その他一六.七%となっている。近年、画面読み上げソフトや音声ブラウザをはじめとする支援技術の進展と普及はめざましい。また、事業所への各種助成や法定雇用率制度の拡充など、就労支援制度の整備・充実も一定程度成されてきた。それでもなお、ここに示されているように、盲学校から一般企業に就職する生徒の割合は専攻科進学者の半分にも満たない。こうした現実自体が重要な論点ではあるが、それは本稿の射程を超える問題であるため、これについては別途論じたい。それ以外は僅かな大学進学者を除いて、障害の重度重複化の傾向を反映し、社会福祉施設や医療機関、教育訓練機関への入所者、あるいは在宅の状態にあるものであり、その割合は顕著な伸びを見せている。
★5:Aによると、当時のV盲学校にも分掌組織として「進路指導部」が設けられていた。それは小・中・高それぞれの学部から選任された教師によって構成されていた。そのため、学部独自の進路指導を行いにくい仕組みであったという。ここでは重複障害を持つ子供達の進路先に関する情報が交換されるに過ぎず、個々の生徒の具体的な進路の問題については実質的に担任が責任を持って対応するという方針であったという。
★6:それに加え、当事者性をめぐる理療科教師と普通科教師との非対象性もまた理療科教師に対する不満や違和感の遠因となっていた。Bは「理療科の先生方って、俺たち普通の教員に対して「お前らは視覚障害のことがわかるのか」っていうような雰囲気で俺たちに接してくるところがあるような気がして、だから俺たちのほうが言えなくなる」と語った。一般的に盲学校の理療科教師はほとんどが視覚障害当事者、普通科の教師はほとんどが健常者である。つまり、視覚障害当事者である理療科教師の声の前に非当事者としての普通科教師は沈黙を強いられるというわけだ。ここでは、当事者のことについては当事者が優先的な発言権を有するというルールの共有を互いに想定し合っていることが前提されている。
★7:ちなみに、全国盲学校普通科教育連絡協議会の調査によると、全国盲学校六一校の一九九五年度普通科卒業生の進路先は以下のような分布となっている。卒業生二九二人のうち、専攻科進学一二四人、大学・短大進学二八人、浪人七人、本科保健理療科進学六人、就職者二六人、訓練校入学者七人、作業所・授産所入所者六四人、在宅者一〇人、その他の者二〇人である。
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*作成:青木 千帆子