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「ノーマライゼーションに求められるもの−多元主義の思想−」

横須賀 俊司

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last update: 20151221


ノーマライゼーションに求められるもの−多元主義の思想−

横須賀俊司

『社会福祉学』第37−1号、日本社会福祉学会、1996年

1 はじめに
 1950年代にデンマークで生まれたノーマライゼーションという考えがわが国に伝
わってきてすでに久しい。これまでにさまざまな変遷をへて、その内容を深化しきて
いる(1)。ノーマライゼーションはその普遍的価値をもつがゆえに、「知的障害者」
から「障害者」全般、そして社会福祉一般にわたる共通理念として広がっていった。
今やノーマライゼーションは現代社会における社会福祉のあり方を展望していくうえ
で、非常に重要な位置を占めているといっても過言ではないのである。
 ノーマライゼーションについては多くの論者が言及しているが、本稿ではその代表
的論者の1人であるヴォルフェンスベルガーのノーマライゼーション論を取り上げて
概観してみる。彼は自らの理論を形成するにあたって、逸脱社会学の枠組みを導入す
るなど意欲的な展開をしている。しかし、彼の理論に対しては比較的多くの批判が行
われている。その理由として考えられるのは、端的にいって、彼が同化主義に基づい
た発想をしているからであるといえる。同化主義とは「障害者」が適応してくことで
しか社会が受け入れないとする思想である。まず、この点について考察をしたい。
 次に同化主義を乗り越える思想として考えられる多元主義について検討する。多元
主義とは「障害者」が社会に適応するのではなく、社会が「障害者」をありのままで
受け入れるという思想である。多元主義の思想については、どのような系譜のもとに
生まれてきたか、そしてどのような点で有効とされるのかとういう点を中心にして考
察したい。そして、最後にノーマライゼーションにおいてこの多元主義を内在化させ
ていく必要性を提起してみたい。

2 ノーマライゼーションと同化主義
(1)ヴォルフェンスベルガーをめぐる状況
 周知のとおり、ヴォルフェンスベルガーはバンク=ミッケルセンとニルジェの定義
を再構成して、ノーマライゼーション原理を「可能なかぎり文化的に通常である身体
的な行動や特徴を確立したり、維持するために、可能なかぎり文化的に通常となって
いる手段を利用すること」と定義している。そして、この定義に対する補足説明とし
て ノーマライゼーション原理は文化−特定的で、対人処遇の手段はできるだけ各国
独自の文化を代表すべきである、 「ノーマル」とは、道徳的というよりは統計的な
意味をもち、「標準的」とか「慣例的」という言葉と同じ意味である、 何が、どれ
だけで「可能なかぎり」とされるかは経験のプロセスによって決まる、 どのような
個人、集団がノーマリゼーションの対象になるかについては中立的な立場にたってお
り、その判断は別に存在する基準や価値に基づくべきである、といった点をあげてい
る(2)。
 しかし、このようなノーマライゼーション原理に対しては、当初から社会的標準か
ら「逸脱した者」に対して、社会における「通常」や「標準」への同調を過度に要求
するものではないかといった批判がなされてきた。例えば、リップマン(L.Lippman)
はヴォルフェンスベルガーのいう「通常」が統計的意味だとする点について、「多数
の方が誤っている場合がしばしばあるというのが歴史的事実」(3)などと指摘してい
る。
 こうした批判を意識して、ヴォルフェンスベルガーは1983年には「ノーマライゼー
ション」の代わりに「ソーシャルロールバロリゼーション(social role
valorization)価値ある社会的役割の付与」という言葉を使用するよう提案してい
る。この用語変更に際して、彼はまずそれまでの批判の多くが彼の理論の《誤解》に
基づくものだと主張する(4)。そこで「ノーマライゼーション」の本来の意味として
「価値ある社会的役割の付与」を強調する。すなわち、社会的に価値がないとされて
いる人々に対して、社会的に価値ある役割をつくりだしたり、それを維持できるよう
援助していくことが「ノーマライゼーション」の本質とされる。彼らの社会的役割が
価値あるものとなれば、少なくとも社会の許す範囲で、個人の望むことはほとんど自
動的に与えられることになり、社会から否定的に考えられている個人の属性は肯定的
にとらえられることになるであろうとヴォルフェンスベルガーは考えるのである
(5)。このように用語の変更を行うことで彼への批判に反論しようとしたのである。
 それにもかかわらず、彼への批判はなおをも続く。エマーソンは、ノーマライゼー
ション理論の戦略をもちいると、少数集団の成員が支配者集団の役割、文化、期待を
取り入れることになり、その結果としてマイノリティー文化を破壊に導いてしまうと
主張する(6)。また、ホワイトヘッドは、逸脱を矯正するには多くの人々が受け入れ
ている価値観を身につけるべきことを奨励するという含みがまさにノーマライゼー
ションの限界になっているという。そして、ノーマライゼーション理論には文化的多
様性と選択を受け入れる余地が欠けているために、異なる人種的背景の人々や巨大な
被抑圧者集団にこの理論が適用される時、限界が明白になるとする(7)。さらに、ス
ジボウはノーマライゼーションが差異を否定したり、あるいは否定的にみる場合があ
ることをあげている(8)。
 このような批判がある中、わが国では中園康夫が「ヴォルフェンスベルガーの理論
は適応理論だという批判もあるが、彼の理論は巨大であるため、全体像を正確に理解
することは難しい。そのため彼の理論を十分に熟読したうえでの批判といいがたいと
ころがあり、単に適応理論とするのは短絡的誤解といえる」(9)としてヴォルフェン
スベルガーを擁護している。事実、ヴォルフェンスベルガーは当初から「我々は身だ
しなみ、服装、話し方、肌の色、人種、宗教、国籍、容貌、年齢、性、知能、教育と
いった違いをもっと受け入れるよう努力すべきである。また、身体障害者、感覚障害
者、てんかんの人、情緒障害者、性倒錯者をもっと受け入れるよう奨励するべきであ
る」(10)とも述べている。ここでは「障害者」をはじめとした「逸脱者」が社会に適
応することを強調するのではなく、周囲の者の認識が変容されるべきことを認めてい
るのである。それにもかかわらず、適応理論ではないかという批判が絶えないのはど
のような理由によるのであろうか。
 筆者はその理由として、彼が「障害者」に対する社会の認識の変化を意識しながら
も、結局のところ社会の側よりも「障害者」の変容を重視しているからであると考え
る。彼はノーマライゼーション戦略として、 社会的に価値がないとされる人たちの
社会への適応力を増進させることと、 そのような人たちに対する社会的イメージを
向上させることをあげている(11)。このことを「障害者」の立場にたって考えてみれ
ば、その限界は明らかである。
(2)ヴォルフェンスベルガーによるノーマライゼーションの限界
 まず、1つ目の戦略を検討してみよう。「障害者」の適応力を増進させることがど
こまでできるであろうか。適応力の増進には「障害者」が「健常者」になること、あ
るいはそれに近づくことが前提になる。そのためには、身体的精神的機能障害を克服
して失われた機能を取り戻すか、それが困難な場合には「健常者」の生活様式に適応
できるようになるかが求められる。これらの目的を達成するための手段として用いら
れるのがリハビリテーションである。
 病気や事故などによって身体的精神的損傷を負うと、多くの場合は病院でリハビリ
テーションをうける。例えば、上部の頸椎を損傷すると、四肢マヒをともなう。これ
を少しでも軽減するためにリハビリテーションがなされることになるが、受傷以前の
まったく完全な状態に回復することはない。それは受傷した本人の努力が足りなかっ
たためでもなく、医師やPTが治療や訓練を怠ったためでもない。現代医学によっ
て、すべてを治療することは不可能だからである。リハビリテーションによって治る
障害もあれば、治らない障害もある。むしろ、完全には治らない障害の方が多いと考
える方が妥当である。障害が完全に治らないということは、「障害者」は「健常者」
にはなれないことを意味する。
 それでは「障害者」は「健常者」に近づくことができるであろうか。障害が完全に
回復しない以上、「健常者」の生活様式に適応することは困難である。障害の程度が
「重度」になればなるほどそれが顕著になることはいうまでもない。その困難にもか
かわらず無理をして適応していけば、それが身体的精神的負担となりやがては二次障
害を引き起こすことになりかねない。二次障害を併発すれば、身体的精神的障害は悪
化することになり、以前よりも重度化して生活様式への適応どころではなくなってし
まう。あるいは補助具などを用いて生活様式に適応することも考えられるが障害の種
類、程度はさまざまである。すべての「障害者」にとって実用的な補助具があるわけ
ではない。障害が重くなればなるほど、それだけ利用可能な補助具が少なくなってい
くのは事実である。また、補助具があるからといって完全に適応できるわけでもな
い。このように考えると、「健常者」に近づくことができるのは一部の「障害者」し
かいないことになる。
 このように「障害者」の適応力に限界があることはヴォルフェンスベルガー自身も
承知していることであろう。この限界を補うものとして2つ目の戦略である「イメー
ジ向上」が用意される。ヴォルフェンスベルガーによれば、この2つの戦略は非常に
強力なフィードバック・ループを形成するとされる。つまり、適応力が増加すればイ
メージも肯定的なものに改善される。また、イメージが好転すれば肯定的な期待やモ
デル、技能改善の機会などが提供されやすくなるので、より高い適応力を獲得するこ
とができる。その結果、価値ある社会的役割が付与されるというのである(12)。この
ように2つの戦略には正の相関関係があり、価値ある社会的役割付与の手段として相
互補完的な存在となっている。したがって、両者は対等の関係にあるかのようにみえ
る。しかし、「障害者」の現実の中で適応力の増加なしにイメージ向上は可能であろ
うか。
 彼はヒューマンサービスの「受け手」に対する社会的イメージが形成される要因と
して次の7つをあげている。すなわち、 サービスが提供される場、 「受け手」の
人間関係、 生活のリズム、 「受け手」に対して用いられる呼称、 サービスの呼
称、 「受け手」の外見、 サービス機関の資金収集方法である。これらの要因を改
善することでイメージが向上するという(13)。確かにこの方法を用いることでイメー
ジが変化し、価値のある社会的役割が付与される可能性は高くなるであろう(14)。し
かし、これは表面的な措置にすぎない。イメージが向上しても適応力が増加しなけれ
ば、再びイメージが悪化してしまう。せっかく付与された役割をこなすことができな
いからである。それでもなおイメージ改善の手立てが継続されると社会の側からの不
平や不満が噴出することになる。
 例えば、社会的役割の価値が高い人とともに価値の高い場で価値の高い活動に参加
することで「障害者」のイメージが向上すると彼はいう。そうであるならば、福祉的
就労をするよりも一般企業で働く方が「障害者」のイメージが上向くことは間違いな
い。それにより世間からは「普通」に扱われ、社会的役割も「価値ある」ものとなっ
ていくであろう。しかし、企業の中で求められる適応力、すなわち職務遂行能力が乏
しければ、やがて「障害者」は邪魔者扱いされることは明らかである。仕事もできな
いくせに何故企業の中にいるのかといった不満が出てくる。これが「一流」企業とも
なれば周囲のやっかみも倍増する。働けもしないのに、何故自分よりも「上」の企業
で「障害者」が働いているのかといった不満があらわれるのは容易に予測できる。そ
の時点で良好であったイメージは転落し、ネガティブなイメージしか残らないのであ
る。
 これとは逆にイメージが悪くても、適応力が増加すればイメージが好転することは
容易に想像できる。例えば、外見が奇異にみえる「障害者」はイメージが悪いが、世
界的な賞を受賞でもすれば、とたんに社会的評価が高まる。奇異であった特徴も個性
として認められるものとなるのである。これらのことから適応力とイメージは対等な
関係ではなく、イメージが適応力に従属する関係であることがわかる。
 こう考えると「障害者」に価値ある社会的役割を付与するには「障害者」の適応力
を向上させることが主たる手段となり、「イメージ向上」などの社会の側の努力は補
助的手段にすぎないといえる。ここに「障害者」からみたヴォルフェンスベルガーの
ノーマライゼーション(ソーシャルロールバロリゼ―ション)理論の限界がある。それ
は「障害者」に適応を要求する思想すなわち同化主義に重点をおいているからであ
る。したがって、これと対置される「障害者」をありのままに受け入れていく思想こ
そがノーマライゼーションに求められる。その意味で多元主義が重要となってくるの
である。

3 多元主義とは何か
(1)多元主義の系譜−文化多元主義を中心に−
 本稿における多元主義とは、社会福祉の文脈でいうところの福祉多元主義ではな
い。福祉多元主義は一元的な福祉サービスの供給主体を多元化するという意味で用い
られているが(15)、ここでいう多元主義とは文化多元主義の意味合いである(16)。そ
こで、まず文化多元主義について概観することにしたい。それにはアメリカ社会の変
遷を考察するのが適している。何故なら、アメリカ社会は文化多元主義を現実的なも
のにしてきた代表例とされるからである。しかし、アメリカ社会もすぐさま文化多元
主義という思想を実現できたわけではない。当初は同化主義から始まり、それが徐々
に変容していったのである。同化とは「特定の文化やアイデンティティをもつ集団・
個人が、普遍的な文化をもつ、比較的大きい別の集団に完全に併合されること」(17)
とされる。このような同化とはどのようなものであったであろうか。そして、それが
どのように変遷していったのかをたどってみることにしよう。
 アメリカ社会の歴史はイギリス系移民によってつくられてきたために、イギリス的
(アングロ・サクソン的)な生活様式や制度を取り入れ、適応することが求められた。
そのため、すべての移民はそれまでに有していた民族的国家的文化を放棄すべきであ
るとされたのである。これをアングロ・コンフォーミティ(イギリス文化優位論)とい
う。この理論は同化のプロセスをあらわした理論として中立的性格をもつものであ
り、イギリス文化の優位性を説いたものではなかった。しかし、やがては同化の目標
を描いたものとなり、アングロ・アメリカン文化に順応できない者を排斥するための
ものへと転化していったのである。これにより、20世紀に入ったころには理念的現実
的に維持が困難になり、これに代わる理論が要請されたのである。(18)
 そのような時に現れたのが「るつぼ理論」である。この言葉は20世紀初頭にイギリ
ス系ユダヤ人作家イスラエル・ザングウィルの戯曲「るつぼ」が演じられて以来広く
用いられるようになったとされる。この理論のねらいは、宗教や国家起源にかかわり
なく、すべての白人系アメリカ人を生物学的に融合し、あるいは民族的に統合するこ
とにある。しかし、民族的な差異や文化をある程度容認したたために、白人の間で序
列化された階層を出現させることになった。その頂点に位置づけられているのがWA
SP(White,Anglo-Saxon,Protestant。すなわち白人でアングロ・サクソン系のプロ
テスタント)である。同様に白人種に融合できない有色人種においても階層性が持ち
込まれ、白人多数民族と少数民族の「二つのるつぼ」が存在することとなったのであ
る。(19)
 これらの同化理論では、ある個人・集団の不適応は個人自身に問題があるとされて
しまう。つまり、問題の原因が個人へと還元されることになるのである。したがっ
て、この個人還元主義には次のような問題性が含まれている。すなわち、多数を基準
にした普遍主義を強調し、全面的な統合を目指すことになる。統合にあたっては、共
通の文化イデオロギーが求められるが、結局は多数派のイデオロギーに収斂されてし
まうのである。そうなると、多数派の文化にうまく適応できない少数派の個人・集団
は文化的に劣っているとか、病理的であるとされてしまう(20)。そのため、各人種・
民族のアイデンティティーや生活様式がそのままで認められる理論が要請されること
になったのである。
 同化を乗り越えるべく登場してきたのがサラダ・ボウル理論である。この立場は、
アメリカ社会を構成する各人種・民族集団は生物学的にも文化的にも融合する必要は
なく、それぞれのアイデンティティーや生活様式を維持していてもかまわないとす
る。すべての文化はそれぞれに一個の統一体であって各文化に優劣はなく、等しい位
置にあるという思想がその底流にある。このようなネーミングの由来は、個々の野菜
を原型のまま残しているという点が各人種・民族のアイデンティティーや民族性の保
持を表し、サラダを盛っている容器のボウルが多様な文化などを受け入れているアメ
リカ社会全体にたとえられたところからきている。(21)。このサラダ・ボウル理論に
おける思想こそが文化多元主義である。文化多元主義とは、各文化の間には価値の優
劣などなく、それぞれの文化が等しく認められ、文化の独自性が尊重される思想なの
である。
(2)多元主義の意義
 文化多元主義は社会における各文化を一つにまとめてしまおうとするものではな
い。それぞれの文化の存在を等しく認め、その多様性を容認するものである。多様性
は差異の存在を前提にしている。差異があるから多様性が保障される。差異がなけれ
ば同質化、一元化、同化した(された)ものになってしまい多様ではなくなってしまう
のである。したがって、文化多元主義の本質とは多様性を容認する思想、あるいは差
異を尊重する思想ということができる(22)。本稿ではこれを多元主義と呼ぼう。
 筆者は多元主義が社会に対して2つの意義をもっていると考える。1つは差別への
対抗思想として有効である点であり、いま1つは社会に活力をもたらす点である。こ
の2点について考察してみよう。
 反差別としての多元主義
 今村仁司は社会の状況を次のように説明している。すなわち、社会の中で生きるに
あたっては、複数の他者が存在していることを前提とする。複数の人間的現存在には
相互に排除しあう関係が潜在している。したがって、社会は相互敵対状態あるいは
「戦争状態」にあるといえる。この状態を解消するには二つの道がある。一つは共倒
れに終わる場合である。もう一つは、敵対状態をつくっている排除の力を別のところ
に向けて共倒れを防ぐことである。通常は、後者が選択されることになるが、これを
第三項排除とよぶ。そして、排除の対象とされるのが異者(=差異のある者)である。
このように排除のメカニズムを不断に発動し続けることで、社会関係を維持していく
のである。(23)
 排除と差別は同じ事態の別の表現にすぎないのであるが(24)、何故異者が排除=差
別されるのであろうか。この点について、アルベール・メンミ(Albert Memmi)は次の
ように説明している。すなわち、「差別主義とは、現実上の、あるいは架空の差異に
普遍的、決定的な価値づけをすることであり、この価値づけは、告発者が己れの特権
や攻撃を正当化するために、被害者の犠牲をも顧みず己れの利益を目的として行うも
のである」(25)と。つまり、現実上であれ空想上であれ、とにかく他者との差異があ
るということが主たる引金となっているのである。しかし、差異が差別を必ず引き起
こすというわけではなく、差別主義を標榜する者が差異を利用するということを忘れ
てはならない(26)。このように差異を口実にして、排除=差別が繰り返されていくの
である。
 これに対して、多元主義は差異に価値づけすることなく差異を差異のまま受け入れ
ていく。差異それ自体には否定的な要素も肯定的な要素もない。価値があるとすれ
ば、それぞれが等しいものとして措定されるだけである。そこには差異を利用して差
別へと転化させていく余地は一切含まれていない。このように多元主義は差別に対抗
できる思想といえる。多元主義を推し進めていくことで差別解消への道がひらけるの
である。
 多元主義にしたがえば、「障害者」が適応力を増進させること、すなわち「障害
者」が「健常者」に近づくことや「健常者」になることは求められない。もちろん、
社会的イメージを向上させる必要などまったくない。手足が動かない、目が見えな
い、耳が聞こえないといった「健常者」との違いは違いのままで認められ、それを変
化させる必要がないからである。障害は否定的な要素としてとらえられることはなく
なり、その結果、「障害者」は「障害者」のままで社会に受け入れられるのである。
 社会における活力源としての多元主義
 多元主義は「複数の原理・思想・文化などの面で、それぞれ独立した思考・行動様
式の同時存在を積極的に評価し、国家・社会発展の活力源をそこに発見する立場」
(27)とされる。多元主義がどのようにして社会の活力源となるのであろうか。この点
を考察していくには「自己組織性(自己組織化)」という考えが参考になる。
 自己組織性とはモダンサイエンスを脱構築しようとする認識活動と考えられ、シス
テム論の系譜に位置づけられる。これまでシステムは環境とのインプット・アウト
プットによりはじめて作動するとされた。そのため、システムが自己の組織状態を変
化させるにはその原因を理論的にはつねに外部環境に求めるしかなかった。この点を
突破する認識として生まれてきたのが自己組織性である。したがって、自己組織性は
システムが環境との相互作用を行いながら、自らによって自らの構造をつくり変えて
いく性質を表す概念である(28)。これを社会に当てはめてみると、社会は外部からの
力によって構造を変動させるのではなく、その構成要素によって自らの構造を変動さ
せるということがいえる。
 富永健一は社会が構造変動を引き起こす要素の1つとして「逸脱」を例としてい
る。「逸脱」は善悪の基準が明確な犯罪や非行のようなものだけではない。制度化さ
れた支配的価値に対抗する文化的「逸脱」といったものも存在している。このような
「逸脱」が発生すると社会のサブシステムである価値体系などに「ゆらぎ」が生じる
ことになる。その際、2つの結果のうちのいずれかが導かれる。1つは対抗的な力に
より「逸脱」が処理される。つまり、「逸脱」が矯正されて「通常」に戻るのであ
る。そのために価値体系は変動を起こさず、したがってその上位システムである社会
は再び均衡した状態、すなわちもとの状態に戻るのである。いま1つは「逸脱」に
よって引き起こされた「ゆらぎ」が社会システムの恒常性維持のメカニズムを越える
場合である。そのために「逸脱」が価値体系に変動を引き起こし、さらに社会システ
ムへと構造変動を引き起こす原動力になるのである(29)。
 これを「障害者」に当てはめてみると次のようなことになる。現行の社会の仕組み
は「障害者」を除外して成立してきたので、「障害者」は「逸脱」とされる。そのよ
うな社会に「障害者」が進出していこうとすると社会の対抗的な力が働く。そのた
め、「障害者」は「通常」=「健常者」になるか、それに近づいたかたちで社会に吸
収されていくことになる。その結果、社会はゆらぐことがなく、以前の状態のままで
落ち着きを取り戻す。しかし、「障害者」をそのままの存在で社会が受け入れる場
合、恒常性維持のメカニズムを越えていかざるを得ない。「障害者」を除外して成立
していた社会は、「障害者」をそのまま受け入れることで、以前のメカニズムでは対
応しきれなくなってしまうからである。そのため、社会は構造変動を起こしていく。
構造が変動することで社会には活力が生まれてくるのである。このように「逸脱」の
存在を容認することが活力を呼び起こす。「逸脱」とは差異である。いうまでもな
く、多元主義は差異の存在を正当化し、それを積極的に認めるのである。多元主義が
社会に活力をもたらすのは、その本質からして当然の帰結なのである。
4 おわりに−多元主義とノーマライゼーション−
 これまでみたきたように、「障害者」にとって同化主義を基本思想にしたノーマラ
イゼーションでは大きな問題性が含まれていることは明らかである。それは「障害
者」が完全には同化できない、あるいは同化できてもごく一部の「障害者」にしかそ
の可能性がないからである。このようなノーマライゼーション理念による社会が追求
され実現されたとしても、「障害者」にとってはかえって生活しにくい社会しか訪れ
ることはない。したがって、同化主義を脱却した思想をうちに含んだノーマライゼー
ションが求められ、それに基づいた社会が実現されなくてはならない。
 同化主義を凌駕するもの、それが多元主義である。多元主義は差異を尊重する思想
である。したがって、「障害者」はそのまま、ありのままで存在が認められる。「障
害者」は「健常者」になることも、近づくことも求められないのである。このことは
「障害者」のもつ「健常者」との差異を利用することで生みだされる差別に対抗でき
ることを意味する。多元主義は反差別の有力な認識論なのである。また、差異が容認
されるので社会には多様性があふれることになる。多様性の存在は既存のものを変革
する契機となる。変革のエネルギーにより社会は活気を帯びてくるのである。同質性
が高すぎると社会に動きが生じる可能性が乏しくなってしまうこととは対照的であ
る。
 このように多元主義に基づいたノーマライゼーションが現代社会に求められている
のである。このノーマライゼーションであれば差別がなく、活気のある社会をもたら
してくれる(30)。したがって、我々はどのようにすれば多元主義によるノーマライ
ゼーションが定着していくかを追求する必要がある(31)。そして、多元主義による
ノーマライゼーションがいかにすれば実践していけるのかを探求していかなくてはな
らないのである。
付記
 本論文作成に当たって編集委員会の先生方からは適切なコメントをいただき、高田
真治先生(関西学院大学教授)、杉野昭博先生(関西大学助教授)、倉本智明氏(大阪府
立大学大学院生)からは貴重なご助言・ご指導をいただいた。特に杉野先生には洋文
献の提供をはじめとして多大なお世話になった。末筆ながら先生方に感謝の意を記し
たい。

1)ノーマライゼーションの変遷については以下の文献を参照のこと。清水貞夫
「ノーマリゼーション概念の展開−ウォルフェンスベルガーの論考を中心として
−」『宮城教育大学紀要』第22巻(第2分冊 自然科学・教育科学)、1987年。杉野昭博
「『ノーマライゼーション』の初期概念とその変容」『社会福祉学』第33巻-2号、
1992年など。
2)Wolf Wolfensberger,The Principle of Normalization in Human Services,
Tronto:National Institute on Mental Retardation,1972,pp.28-29.邦訳はヴォ
ルフェンスベルガー著(中園康夫・清水貞夫編訳)『ノーマリゼーション−社会福祉
サービスの本質−』学苑社、1982年、48-50頁。
3)Leopold Lippman,“Normalization and Related Concepts:Words and
Ambiguities",Child Welfare,Vol.L ,No.5,1977,p.302.
4)70年代の批判に対する反論として次のものがある。Wolf Wolfensberger,“The
Definition of Normalization:Update,Problems,Disagreements,and
Misunderstandings" in R.Flynn & K.Nitsh(ed),Normalization,Social
Integration,and Community Services,Austine(TX):PRO-ED Inc,1980.
5)Wolf Wolfensberger,“Social Role Valorization:A Proposed New Term for
the Principle of Normalization",Mental Retardation,Vol.21,No.6,1983.
6)エリック・エマーソン「ノーマリゼーションとは何か?」ヘレン・スミス/ヒラ
リー・ブラウン編(中園康夫/小田兼三監訳)『ノーマリゼーションの展開 英国にお
ける理論と実際』所収、学苑社、1994年、38頁。
7)シモン・ホワイトヘッド「ノーマリゼーションの社会的起源」『同上書』所収、
93頁。8)スー・スジボウ「統合の限界」『同上書』所収、171頁。
9)中園康夫「W.ヴォルフェンスベルガーのノーマリゼーション原理」『四国学院
大学論集』第85号、1994年、228-229頁。
10)W.Wolfensberger,op.cit.,1972,p.41.邦訳、67頁。
11)W.Wolfensberger,op.cit.,1983,p.236.
12)W.ウルフェンスバーガー著(冨安芳和訳)『ソーシャルロールバロリゼーション
入門 ノーマリゼーションの心髄』学苑社、1995年、80-87頁。なお、関西学院大学図
書館の検索システムによりわが国の大学図書館に原典のないことが判明したので訳書
のみを参照した。
13)『同上書』、88-95頁。
14)これらの方法にしても社会の側の認識を変化させるという視点がなく、適応的な
手段になっているにすぎない。
 )本稿を校正する段階で文化多元主義の系譜について検討した文献が出版されたの
で、そちらも参照願いたい。今田克司「米国における文化多元主義」初瀬龍平編著
『エスニシティと多文化主義』所収、同文館、1996年、151-178頁。
15)福祉多元主義以外に政治(的)多元主義、宗教(的)多元主義などがある。福祉多元
主義については以下の文献を参照のこと。Norman Johnson,The Welfare State in
Transition:The Theory and Practice of Welfare Pluralism,Wheat Sheaf
Books,1987.(青木郁夫ほか訳『福祉国家のゆくえ』法律文化社、1993年);小田兼
三「英国における『福祉の混合経済』論−民営化と福祉多元主義をめぐって−」
『ソーシャルワーク研究』Vol.17 No.3、1991年;吉原雅昭「Welfare Pluralism と
福祉ミックス論−英国と日本における社会福祉改革『論』についての一考察−」『社
会問題研究』第40巻第1・2合併号、1991年など。
16)エスニシティの文脈では文化多元主義の同義語として多文化主義、多元文化主
義、多様文化主義、複合文化主義などがあるが、それらの内容についての違いは必ず
しも明確ではないように思われる。なお、文化人類学の文脈では文化相対主義が同義
語としてあげられる。
17)濱口惠俊「同化」見田宗介ほか編『社会学事典』所収、弘文堂、1988年、639
頁。
18)明石紀雄・飯野正子・田中真砂子『エスニック・アメリカ 多民族国家における
同化の現実』有斐閣、1984年、17-20頁。
19)金子邦秀「現代アメリカ社会化の研究(3)−少数民族の社会化と多元主義−」
『人文学』第144号、1987年、4-5頁。
20)関根政美『エスニシティの政治社会学-民族紛争の制度化のために-』名古屋大学
出版会、1994年、59-61頁。
21)越智道雄『エスニック・アメリカ 民族のサラダ・ボウル、文化多元主義の国から』
明石書店、1995年、4-5頁。
22)牧口一二は「違うことそばんざい」として、差異の尊重を平易に説いている。牧
口『雨あがりのギンヤンマたち』明石書店、1988年、89-116頁。
23) 今村仁司『近代性の構造 「企て」から「試み」へ』講談社、1994年、209-219頁。
24)同上書、221頁。
25) アルベール・メンミ(白井成雄・菊地昌実訳)『差別の構造』合同出版、1971年、
226頁。「告発者」という言葉は差別されている当事者を表す場合が多いように思われ
るが、訳書には「告発者」と表記されているのでそのまま引用した。なお、訳書では
引用文すべてに傍点が付されているが削除した。
26) 同上書、228頁。
27)内山秀夫「多元主義」見田宗介ほか編『前掲書』所収、弘文堂、585頁。
28) 今田高俊『モダンの脱構築 産業社会のゆくえ』中公新書、1987年、53-64頁。自
己組織性について詳しくは今田高俊『自己組織性−社会理論の復活−』創文社、1986
年を参照のこと。また、自己組織性に関連する最近の文献として今田高俊『混沌の
力』講談社、1994年などもある。
29)富永健一『行為と社会システムの理論』東京大学出版会、1995年、182頁。
30)岡村重夫は地域福祉の観点から多元主義社会の実現を求めている。岡村「地域福
祉の思想」『大阪市社会福祉研究』第16号、1993年、8-9頁。
31)北野誠一は自立生活をサポートするためにノーマライゼーション原理がさまざま
な原理により重層化されることを提起している。北野「自立生活をささえる地域サ
ポートシステム」定藤丈弘・岡本栄一・北野誠一編『自立生活の思想と展望』所収、
ミネルヴァ書房、1993年、250-255頁。


REV: 20151221
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